人工の海を泳ぐ人

     


    シロクマ文芸部|熱帯夜

午前0時。
僕のアパートのクーラーは、まるで老齢のパイプオルガンのように「ヒュー……」と掠れた吐息を吐き出したきり、二度と動かなくなった。


室内の空気はぬるま湯のように淀み、僕はベッドの上で、まるで打ち上げられたフナのようにひっくり返っていた。

カタ、バシャ。
隣の302号室から、不揃いな水の音が聞こえた。
その部屋には、マダム・ルブランが住んでいる。
--いや、本名は佐藤さんというのだが、僕の頭の中では彼女はルブランだ。


昼間は決して姿を見せず、夜の十二時を過ぎると、どこからか手に入れたのか分からないくらい、ド派手なエメラルドグリーンのシルクドレスを着て出ていくような女性だった。


僕は湿気で肌に貼りつくTシャツを引きはがしながら、壁に耳を当てた。
バシャ……ゆらり。

間違いなく、水の音だ。
それも、かなりの水量。
好奇心と熱に浮かされた脳みそに背中を押され、僕は廊下へ出た。

302号室のドアノブに手をかける。
奇妙なことに、鍵は開いていた。
そっとドアを二センチだけ開ける。
部屋の中は、深い青に染まっていた。


エアコンの効いていないその部屋の中央に、巨大なビニールプールがデンと鎮座していた。
部屋の床の八割を占めるほどの代物だ。

その中に張られたぬるい水の中で、エメラルドグリーンのドレスを着た佐藤さんが、優雅に背泳ぎをしていた。


天井でゆらゆらと回るシーリングファンが、水面に怪しい影を落としている。
「あら、アンリ」
彼女は僕を見ると、足ひれ(そう、彼女は足に真っ赤なフィンをつけていた)をパタパタさせながら言った。

僕の名前はアンリではないが、この際どうでもよかった。
「こんばんは、マダム。浸水事故ですか?」


「いいえ。避暑よ」
彼女は水面に浮かんだまま、細い筒の先から紫煙をくゆらせた。
煙はぬるい部屋の空気に溶けていく。

「クーラーが壊れたの。修理屋は来週まで来ないんですって。だから、部屋を海にしたのよ」
「……ここは木造アパートの三階ですけど、床が抜けるのでは?」
「下の階の人は先週、夜逃げしたわ。だから大丈夫」


まったく大丈夫ではない理由だったが、なぜか僕は納得してしまった。
佐藤さんはドレスの裾を水に漂わせながら、まるで深海を泳ぐ熱帯魚のように滑らかに旋回した。

白い肌の上でエメラルドグリーンの布地が、水中でゆらゆらと光を反射する。
その姿は、呆れるほど美しく、そして徹底的に狂っていた。

「あなたも入る? 水は少しぬるいけれど、陸の上にいるよりはマシよ」
彼女はプールの中に浮かべていた氷バケツから、冷えた白ワインのグラスをすくい上げて僕に差し出した。


僕は自分のダサいTシャツとトランクスを見下ろし、それから目の前の可笑しな「人工の海」を見た。
熱帯夜の熱気は、僕の正気を少しずつ削りとっていく。

「……お邪魔します」
足首を水に浸すと、ぬるい水が肌を包み込んだ。
外では蝉が夜泣きをし、遠くで暴走族のバイクの音が聞こえる。


けれど、この六畳のプールの中だけは、何処か遠い国の、黄昏時のような、優雅で少しイカれた時間が流れていた。

「熱帯夜には、一匹の魚になるのがいちばんよ」
ルブランはそう言うと、真っ赤なフィンで静かに水をかき、青い暗闇の奥へと消えていくように、ゆったりと泳ぎ続けた。

        あとがき

このお話は、先日我が家のクーラーが突如壊れ、部屋が「天然のサウナ」と化した実体験から生まれました。
ぬるい湿気に包まれながら、「六畳くらいあれば背泳ぎはできるだろうか?」
「いや、腕を回した瞬間に壁に激突するな」
なんて真剣に計算しているうちに、マダム・ルブランという可笑しな女性が頭の中に泳ぎ込んできたのです。
ちなみに、計算上、六畳のプールでまともに背泳ぎをするのは不可能です(多分)
けれど、人生には時々、論理や計算を飛び越えた「ぬるくて優雅な逃避行」が必要なのかもしれません。
みなさまの部屋のクーラーが、この夏無事でありますように。

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