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最後の、

金曜日、ジムを休みにして石川町に出向きました。


横浜駅で乗り換えて、関内の次と思います。
何年ぶりでしょうか、初めて富士山を目指して走った時に
横浜経由で走りました。
2014年だったと記憶しています。


船橋からまず横浜を目指して走り、でも、関内のネットカフェで
2時間ほど仮眠して深夜、藤沢目指してまた走りました。
深夜の横浜球場の外観、覚えています。


電車で向かいながらその時の心境になりました。


時折、亡き友人を思い出したりもして。


幾度か記していますが、14年前に友人が亡くなりました。
その数日前、婦人から電話をもらい出向きました。
病院近くの喫茶店だかで事情を伺い、もう数日持たないという現実を
知らされました。
説明を受けても頭が真っ白なまま、ICUの彼と対面しました。



説明にもあった通り、危篤状態でした。
「もう、何云っても聞こえないの。」
婦人は云いました。



「立嶋だよ。着たよ。」


手を握って耳元で話しかけました。
すると、1滴の涙が友人の頬を伝いました。
心中を想像します。
意識不明、散散耳にしてきましたが、でもそれは、患者を感じ
取れていないこちら側がそう決めつけているだけの症状なのでは
ないかと前前から思ってはいましたが、この時に確信を持ちました。



意識不明というのは、こちらから確認しようがないというだけで、
でも、実は不明などではなく病床の向こう側に伝える術がない状態だった
というだけのことなのではないかと幼少期から思っていたのです。


涙を見て、心中を察します。
医師のいう通り、もしかしたら実際、もう何も聞こえていないのかも
しれません。
でも、その言葉を知った幼少期の頃から僕の妄想は尽きません
でした。

意識不明が自分の、そんな主観的な妄想の一部です。
意識不明側の自分の夢を幼少期から何度も見てきました。
「意識不明ですね。」
寝たきりの僕の脇の医師が親族に説明します。
「いや、聞こえてるよ。」
冷静な僕、でも、それを伝える術がありません。

幾つか形を変えて、そういった夢を何度も見てきました。
妄想ではなかったのだと確信をした瞬間でした。

あの涙一雫が精一杯のメッセージだとしたら、そう思うと
思い出す度、いたたまれない気持ちになります。

なのでもし、目の前にいる友人があの頃の想像の中の自分の様
だったら、そう思うと堪らない気持ちになりました。
なので、とにかく話しかけたのを覚えています。

明け方、友人は音も立てずいなくなりました。

数日後、葬儀の日に見えた坊さんが、前夜に友人が出てきて、
彼から位牌を僕の思う海に流して欲しいと夢枕で言伝を受けたと
聞かされます。
その年の夏、婦人と娘2人と息子と僕とでその海に足を運びます。


人の少ない穴場です。
海の家なんてなくたっていいのです。
景色を目で楽しみたい側です。
夕方まで遊んで、陽が暮れる頃、海を眺めている妹の方の
背中を切ない気持ちで黙って見ていました。

十数年後、姉は少し前に学習院を卒業し、妹の彼女は藝大に
入学しました。
大学院まで進み、土曜日に修士課程修了制作展で発表すると
いうので、最後に足を運びました。
石川町駅を目指して快速で横浜駅に向かいます。
初めて富士山まで走った2014年を思い出します。


2014年夏、自宅から富士山まで走ることにしました。
でも、初めてだったので山頂までではなく富士山という
名のつく富士吉田口麓の富士山駅を目指します。
初日、翌年以降全て使う246号ではなく、横浜方面を
目指しました。
大間違いです。
陸ばかりだと景色に飽きてしまう気がして、海が見える道を
選択しました。
ええ、失敗しました。
船橋に住んでいる癖に、そんなことも忘れていたのです。
羽田を過ぎて、川崎市に入ってずっと何もありません。
コンビニは勿論、自販機すら全然ありません。
砕石置き場や資材置き場等等が多く見受けられ、人通りもありません。
ちょっと考えれば分かるのに、海沿いを選んでしまったのです。

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629字
特にお得なことはないかもですが、でも、僕が 思うこと、感じたことなどを日日綴ります。

100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。