作曲家と時代を旅する〜第2回「バッハは、なぜ300年後も“音楽の父”なの?」
なぜ、300年以上も前のドイツ人が書いた楽譜を、2026年の私たちが今も弾いているのでしょう。
ピアノを習ったことのある人なら、一度は「バッハ」という名前に出会ったことがあると思います。
《インヴェンション》《シンフォニア》《平均律クラヴィーア曲集》
少し進めば、《フランス組曲》や《イギリス組曲》
音楽大学では、今でもバッハの作品が実技試験や入学試験で取り上げられることがあります。
けれど、考えてみると少し不思議です。バッハが生まれたのは1685年。
モーツァルトより71年前、ベートーヴェンより85年前です。
日本では、徳川綱吉の時代。
そんな遠い時代に書かれた音楽を、私たちは今も楽譜を開き、練習し、演奏し、研究しています。
なぜなのでしょう。
そして、なぜバッハは、「音楽の父」とまで呼ばれるのでしょうか。
今回は、その理由を少しずつたどってみたいと思います。
そもそも「音楽の父」って、本当?
まず最初に、大切なことがあります。
「バッハ=音楽の父」という言い方は、日本ではとてもよく知られています。
けれどこれは、「バッハが音楽を最初に作った」という意味ではありません。
もちろん、バッハよりはるか昔から音楽は存在していました。
グレゴリオ聖歌もありました。ルネサンス時代の多声音楽もありました。
教会の音楽も、宮廷の舞曲も、町の人々が歌う歌もありました。
そして世界全体を見れば、西洋音楽とはまったく違う歴史を持つ音楽文化が、アジア、中東、アフリカ、南北アメリカなどで育まれてきました。
ですから、「世界のすべての音楽はバッハから始まった」と考えるのは正確ではありません。
それなのに、西洋音楽の歴史をたどっていくと、不思議なほど何度もバッハに戻ってきます。
モーツァルトも、ベートーヴェンも、メンデルスゾーンも。
そしてショスタコーヴィチも。
後の作曲家たちは、何度もバッハを学び直しています。
どうやら「父」という言葉の意味は、最初の人というより
後の時代の音楽家たちが何度も戻ってくる、大きな源流
と考えた方が近そうです。
バッハは、突然現れた天才ではなかった
バッハという名前を聞くと、
「一人の天才が突然現れて、ものすごい音楽を書いた」
というイメージを持つかもしれません。
でも実際には、その反対です。
バッハは、何世代にもわたる音楽家一族の中に生まれました。
父親も音楽家。親戚にも、オルガニスト、宮廷音楽家、作曲家が大勢いました。
今では「バッハ」といえばヨハン・セバスティアン・バッハですが、当時「バッハ家」といえば、それ自体が音楽家一族として知られていたほどです。
つまり、バッハは何もないところから音楽を作ったわけではありません。
音楽の中に生まれた人だったのです。
そして、幼い頃から驚くほど多くの音楽を学びました。
楽譜を写す、弾く、聴く、研究する、ほかの作曲家の音楽から学ぶ。
後年の資料からは、若い頃のバッハが当時非常に高度だった北ドイツのオルガン音楽を熱心に研究していたことも分かっています。
ここには、私たちが学ぶうえでも大切なヒントがあります。
天才だから学ばなかったのではありません。
むしろ、あれほどの才能がありながら、驚くほど学んだ。
それがバッハでした。
400キロ近くを歩いてでも、聴きたかった音楽
若いバッハには、有名なエピソードがあります。
1705年。
20歳だったバッハは、北ドイツのリューベックへ向かいました。
目的は、当時最高峰のオルガニストの一人だったディートリヒ・ブクステフーデの音楽を聴くためです。
アルンシュタットからリューベックまでは、非常に長い距離があります。
バッハはその旅の少なくとも往路を徒歩で移動したと記録されています。
しかも、当初許可されていた休暇よりも長く滞在してしまい、帰ってから雇い主に叱られています。
それほどまでに、聴きたかった。学びたかった。自分の知らない音楽に触れたかったのでしょう。
私たちはつい、「バッハは天才だったから何でもできた」と考えてしまいます。
でも、その人生をたどると見えてくるのは、
天才である前に、ものすごい学習者だったという姿なのです。
教会では、毎週のように新しい音楽が必要だった
1723年。
38歳のバッハは、ライプツィヒのトーマス・カントルという重要な職に就きます。
ここから亡くなるまで、約27年間ライプツィヒで過ごします。
でも、この仕事は「好きなときに好きな曲を書く作曲家」とは少し違いました。

礼拝がある。音楽が必要になる。作曲する。歌手や楽器奏者のために楽譜を準備する。リハーサルする。本番で演奏する。
そして終わったと思ったらまた次の日曜日がやってくる。
ライプツィヒ時代の初期、バッハは非常に速いペースで教会カンタータを書いていました。
教会暦に従うと、日曜日や祝祭日は年間約60回に及びます。
毎週のように新しい音楽を準備する。現代に置き換えると、とてつもない仕事量です。
しかも、バッハはただ音を書けば終わりではありません。
演奏家を指導し、教育し、楽譜を整え、実際の礼拝で音楽を成立させる必要がありました。
ここから分かるのは、
バッハの音楽が「生活の中で必要とされた音楽」だったということです。
300年後の名曲として書いていたわけではありません。
その日、その場所、その礼拝に集まった人々のために書いていた。
それが今、私たちのコンサートホールで演奏されているのです。
音楽は、教会を飾るためだけのものではなかった
バッハの教会音楽を理解するうえで欠かせないのが、ルター派の信仰です。
宗教改革を進めたマルティン・ルターは、音楽をとても重視していました。そして、人々自身が歌うことを大切にしました。
教会にいる人々が一緒に歌う讃美歌、これを「コラール」と呼びます。
バッハは、このコラールを作品の中で何度も使っています。
なぜでしょう。
当時の人にとってコラールは、「どこかで聞いたことのある曲」どころではありません。
自分たちが日常的に歌っていた音楽でした。
私たちで言えば、誰もが知っている歌が突然作品の中に現れるようなものです。
だから、その旋律が聞こえた瞬間、聴いている人には歌詞や意味、信仰の記憶までよみがえったでしょう。
バッハは、そこへ新しい旋律や和声を加えます。
悲しみ、喜び、祈り、絶望、救い。
言葉だけではなく、音そのものによって意味を深めていく。
バッハにとって音楽は、教会を華やかにする装飾だけではありませんでした。言葉を、人の心の深いところまで届けるものだったのです。
「対位法」って、そんなに難しいもの?
さて、ここから少し音楽の中に入りましょう。
バッハといえば、対位法という言葉がよく出てきます。
なんだか急に難しく感じますね。
でも、まずは会話だと思ってください。
一人だけがずっと話して、ほかの人は相づちを打つ。
これは「主役+伴奏」に少し似ています。
ところが対位法では、何人もの人が、それぞれ自分の言葉を持っています。
一人が話す。別の人が答える。さらに別の人がその話を受け取る。
それぞれ違うことを言っているのに、全体では一つの会話になっている。
これが、対位法のおもしろさです。
ピアノで考えると、右手だけが主役ではありません。左手も歌っています。
三声なら、もう一つの声もあります。四声なら四人が同時に話しています。そして、その全員を一人の演奏者が担当します。
だからバッハは難しいのです。指だけでは弾けません。
耳が必要になります。
バッハを弾くと「耳」が育つ理由
たとえば《インヴェンション》。
右手の旋律だけをきれいに弾けばよいわけではありません。
右手が話す。すると左手がそれを受け取る。
今度は左手が前へ出る。右手は別の役割に回る。
それが絶えず入れ替わります。
右手を弾きながら左手を聴く。
左手を弾きながら右手を聴く。
つまり、
「自分が弾いている音」ではなく、「音楽全体」を聴かなければならない。
これが、バッハを学ぶ大きな意味の一つです。
そして実は、バッハ自身も《インヴェンションとシンフォニア》の序文で、二声を明瞭に演奏すること。
三つの独立した声部を正しく扱うこと。
よい音楽的アイデアを得ること。
それを発展させること。
そして何より、「歌うような奏法」を身につけることを目的として挙げています。
つまりバッハは「指の練習をしなさい」と言っているのではありません。
聴きなさい。歌いなさい。考えなさい。
音楽がどうできているのか理解しなさい。
そして、自分でも音楽を生み出せるようになりなさい。
そう言っているのです。
300年前に書かれた教材なのに、考えていることは驚くほど現代的ではないでしょうか。
フーガは「追いかけっこ」では終わらない
もう一つ、バッハといえばフーガです。
フーガでは、最初に一つの主題が現れます。
しばらくすると、別の声部から同じ主題が現れる。
さらに次の声部へ。追いかける。重なる。離れる。また出会う。
学校では「フーガ=追いかけっこ」と説明されることもあります。
入口としては分かりやすいのですが、実際にはもっと奥深いものです。
一つの主題を上下反転させたり、音を長くしたり、短くしたり。別の主題と組み合わせたり。
限られた材料から、驚くほど大きな世界を作っていきます。
ここがバッハのすごいところです。
材料がたくさんあるから豊かなのではありません。
少ない材料から、ものすごく豊かな世界を作る。
料理に例えるなら材料を100種類使うのではなく、ほんの数種類の素材の性格を知り尽くして、何十通りもの料理を生み出していくようなものです。
バッハの音楽は、本当に「数学」なの?
バッハの音楽について、「数学的」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
確かに反転、拡大、縮小、対称、カノン、複雑な声部の組み合わせ。
作品を分析すると、非常に論理的で精密です。
《フーガの技法》では、一つの主題から驚くほど多くの可能性が引き出されています。
だから「バッハ=数学」というイメージが生まれるのも理解できます。
ただし、ここは少し慎重になりたいところです。
「バッハはすべての小節数に秘密の数字を入れた」
「作品全体に暗号が隠されている」
という話まで行くと、研究者の間でも意見が分かれるものがあります。
数字の象徴性については多くの研究がありますが、どこからどこまでを数えるのか、どの稿を使うのか、どの構造を一単位とみなすのか、
それによって結果が変わることもあります。
確実に言えるのは、バッハの音楽が極めて精密に構築されているということです。
でも、ここがおもしろい。精密なのに冷たくないのです。
悲しい、嬉しい、祈っている、苦しんでいる、安らいでいる。
数学のような秩序の中から、とても人間的な感情が聞こえてきます。
私は、そこにバッハの魅力があると思います。
《平均律クラヴィーア曲集》には、実は誤解がある
ピアノを勉強していると、必ずと言っていいほど登場するのが、
《平均律クラヴィーア曲集》です。
第1巻は1722年。第2巻は約20年後。
それぞれ24の長調・短調に対して、前奏曲とフーガが一組ずつ収められています。二巻合わせると、48組。
前奏曲とフーガを別々に数えると96曲。
ここで、よくある誤解があります。
「バッハが十二平均律を発明した」
「《平均律クラヴィーア曲集》によって現在の平均律が完成した」
という説明です。
これは、正確ではありません。
原題の「wohltemperiert」は、現代の「十二平均律」と完全に同じ意味ではありません。
当時、さまざまな調を使えるようにする調律法が研究されていました。
しかし、バッハが具体的にどの調律を想定していたのかは、現在も確定していません。
歴史を学ぶとき、こういう部分はとても大切だと思います。
昔習った説明が、研究によって少しずつ更新される。
「実は分かっていない」ということも、一つの大切な知識なのです。
では、《平均律クラヴィーア曲集》の何がすごいのか
調律だけに注目すると、この作品の本当のおもしろさを見失ってしまいます。
ハ長調、ハ短調、嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調、ニ短調……。
24すべての長調・短調を巡っていきます。
しかも、同じような曲が48組並んでいるわけではありません。
歌うような前奏曲、舞曲のような前奏曲、即興的な曲、厳格なフーガ、軽やかなフーガ、重厚なフーガ。
(ex:
《前奏曲》第1巻 第8番 変ホ短調 BWV 853と第1巻 第13番 嬰ヘ長調 BWV 858
《フーガ》第1巻 第4番 嬰ハ短調 BWV 849と第1巻 第5番 ニ長調 BWV 850と第1巻 第8番 嬰ニ短調 BWV 853)
調が変われば音楽の表情も変わります。
つまりこれは、「鍵盤で表現できる世界」を一冊の中で旅していく作品とも言えるのです。
さらにバッハ自身、第1巻の表紙に学びたい若い音楽家のため。そしてすでに熟達した人の楽しみのため。という趣旨を書いています。
学習教材なのに、300年後も世界最高峰のピアニストたちが演奏している。これも考えてみれば、とても不思議なことです。
バッハは死後、忘れられた?
よく「バッハは死後忘れられ、メンデルスゾーンによって発見された」と言われます。
でも、これも少し単純化されています。
1750年にバッハが亡くなる頃には、音楽の流行が変わり始めていました。
複雑な対位法より、もっと明快で軽やかな音楽が好まれるようになります。
そのため、《マタイ受難曲》のような大規模な作品は、広い聴衆の前で演奏されなくなっていきました。
しかし、バッハの音楽が完全に消えたわけではありません。
《平均律クラヴィーア曲集》などの鍵盤作品は、音楽家の間で受け継がれていました。
モーツァルトもバッハを学んでいます。ベートーヴェンも若い頃から《平均律クラヴィーア曲集》を学びました。
つまり、一般のお客さんから遠ざかった作品はあっても、
音楽家の世界では、バッハはずっと生きていた。
ここはとても重要です。
そして1829年、20歳のメンデルスゾーン
1829年3月11日、ベルリン。
20歳のフェリックス・メンデルスゾーンが、バッハの《マタイ受難曲》を指揮しました。バッハが亡くなってから約80年後です。
この演奏は大きな話題となり、バッハの大規模な声楽作品が、再び広い聴衆に知られる重要なきっかけになりました。
ただし、メンデルスゾーンが「誰も知らなかったバッハを発見した」わけではありません。彼の師やベルリンの音楽家たちは、以前からバッハ作品を研究し、演奏していました。

ですから、メンデルスゾーンはバッハを発見したのではなく、音楽家の間で受け継がれていたバッハを、もう一度大きな舞台へ連れ戻した。と考えた方が正確です。
そしてその後、バッハはますます研究され、「過去の作曲家」から、西洋音楽史そのものを考えるうえで欠かせない存在になっていきました。
モーツァルトも、ベートーヴェンも、その先も
ここまで来ると「なぜバッハなのか?」という問いの答えが少し見えてきます。
後の作曲家たちが、何度もバッハに戻っているのです。
モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン。そして20世紀にはショスタコーヴィチ。
1950年、ショスタコーヴィチはバッハ没後200年を記念する催しでライプツィヒを訪れます。
その後に書いたのが、《24の前奏曲とフーガ》作品87。
明らかにバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を意識した作品です。
約200年後のロシアの作曲家が再びバッハの問いを受け取ったわけです。
旋律とは何か。和声とは何か。複数の声をどう共存させるのか。
限られた材料をどこまで発展させられるのか。
感情と構造は両立できるのか。
バッハは「これが答えです」とは言いません。
むしろ、後の音楽家に問いを残した。
だからこそ、何世代にもわたって作曲家たちは彼の楽譜を開き続けたのかもしれません。
そして、バッハの音楽は地球を離れた
少し時代を飛びましょう。
1977年。NASAは、宇宙探査機ボイジャー1号と2号を打ち上げました。
そこには、「ゴールデンレコード」というレコードが搭載されています。
もし、いつか地球外の知的生命に出会ったら、、「地球には、こんな世界があります」と伝えるための記録です。

波の音、雷、鳥の声、世界各地の言葉。
そして音楽。
日本の尺八、インドの音楽、インドネシアのガムラン、ブルース、ロックンロール。
その中に、バッハの作品が3曲も選ばれました。
《ブランデンブルク協奏曲》第2番。
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番。
そして《平均律クラヴィーア曲集》第2巻から、ハ長調の前奏曲とフーガ。
300年前、ドイツの教会や宮廷で鳴っていた音楽が今では地球を離れています。
そう考えると、不思議ではないでしょうか。
バッハ本人は自分の音楽が宇宙へ向かうことなど、想像もしなかったはずです。
そして今も、バッハは「完成していない」
さらに興味深いのは、バッハ研究が今も終わっていないことです。
300年以上経った今でも、楽譜、筆跡、紙、写譜した人物、歴史資料、作品の様式。
そうしたものを世界中の研究者が調べています。
2025年には、ベルギー王立図書館に保存されていた二つのオルガン作品が、長年の研究を経て、若いバッハの作品と確認されました。
つまり、バッハは「もうすべて分かっている歴史上の人物」ではありません。
今も研究が進み、新しい事実が見つかっている作曲家なのです。
300年も経ったのにまだ知らない扉がある。これもまた、バッハのおもしろさではないでしょうか。
バッハが“父”なのは、最初だったからではない
では、最初の問いに戻りましょう。
なぜバッハは「音楽の父」と呼ばれるのでしょう。
音楽を最初に作ったからではありません。
対位法を発明したからでもありません。
フーガを発明したからでもありません。
十二平均律を発明したからでもありません。
バッハ以前には、何百年という音楽の歴史がありました。
教会音楽、コラール、多声音楽、オルガン、舞曲、対位法。
さらにバッハはドイツだけではなく、
イタリアの協奏曲、フランスの舞曲、ヨーロッパ各地の音楽を学びました。
ヴィヴァルディの協奏曲を編曲したこともあります。
つまりバッハは、過去の音楽を受け取った人でした。
でも、そのまま保存したのではありません。
学び、組み合わせ、深め、演奏できる形にし、教育できる形にした。
そして未来の音楽家が、そこからまた新しい音楽を作れる形にして残した。
だから後の作曲家たちは何度もバッハへ戻りました。
300年前の楽譜を開くということ
そして私たちも今、同じ楽譜を開いています。
右手を弾きながら、左手を聴く。
一つの主題が、別の声部へ渡る瞬間を感じる。
一つ一つの声部を歌わせながら全体の流れを聴く。
これは、300年前の作品をただ再現しているだけではありません。
300年前の人が考えた「音楽の仕組み」を、自分の耳と指でもう一度体験している。
そう考えると、バッハを弾く意味が少し変わって見えませんか。
古いから勉強するのではありません。有名だから弾くのでもありません。
そこには今でも、音楽を学ぶための問いが残されている。
どうすれば、旋律は歌うのか。どうすれば、二つの声を同時に聴けるのか。
どうすれば、少ない材料から豊かな音楽を作れるのか。
どうすれば、秩序の中に感情を生み出せるのか。
バッハは、その答えを一つに決めません。
だから子どもが弾いても、学生が弾いても、世界的な演奏家が弾いても、
まだ考えることがある。
もしバッハが「父」なのだとしたら、
それは
音楽を一人で生み出した父ではなく、長い音楽の歴史を受け取り、それを未来へ手渡せる形にした父
なのかもしれません。
1685年に生まれた人の楽譜を、2026年の私たちが今も開いている。
そして、おそらくこれから先の音楽家たちも、同じようにその楽譜を開くでしょう。
バッハの音楽は過去の遺産でありながら、まだ終わっていません。
だから私たちは、300年後もバッハを弾いているのです。
次回予告
第3回「ヴィヴァルディ《四季》は、なぜ300年後も“景色”が見える?」
《春》では鳥が鳴き、《夏》では嵐がやってきて、
《秋》では人々が収穫を祝い、《冬》では寒さに震える。
音には、色も形もありません。
それなのに、ヴィヴァルディの《四季》を聴くと、なぜ私たちは「景色」を感じるのでしょう。
しかも、その音楽が書かれたのは約300年前。
次回は、ヴィヴァルディの音楽だけではなく水の都ヴェネツィア、ピエタ慈善院で音楽を学んだ少女たち、18世紀の人々が音楽の中に見ていた「物語」、そして《四季》の楽譜に書き込まれた、驚くほど具体的な情景描写まで、一緒に旅してみたいと思います。
