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神社ウォーク――答えをもらうのではなく、自分と話せる状態をつくる



受かると思っていた試験に落ちた

資格試験の結果を知ったとき、最初にあったのは、悔しさよりも消化不良に近い感覚だった。

まったく歯が立たなかったのなら、まだ諦めもついたのかもしれない。けれど、かなり惜しいところで一次試験に落ちた。私はそれなりに手応えを感じていて、正直に言えば、受かるつもりでいた。

この資格は、私にとって単なる自己啓発ではない。今の仕事や環境から、次のキャリアへ進むための出口の一つでもあった。

その出口が、目の前で一度閉じた。

「また一年、この環境にいるのか」

時間は無限ではないと感じる年代になっていた。仮に次の試験に合格しても、翌日から独立できるわけではない。経験を積み、準備をし、自分の仕事として形にするまでには、さらに時間がかかる。

一年どころか、その先までまとめて遠のいたように感じた。一時は、天に見放されたのではないか、とさえ思った。

冷静に考えれば、一度試験に落ちただけで天がそこまで私個人を気にかけているとも思えない。けれど、落ちた直後の人間は、あまり冷静ではない。


自分は、なぜ今の場所にいるのか

以前の私は、商社などで営業の仕事をしていた。今よりも大きな収入を得ていた時期もある。

けれど、そこで目にしたものに強い違和感があった。

人を蹴落とそうとする人。仕事やお金への過度な執着。周囲に漂う苛立ちや愚痴。競争のなかで、少しずつ余裕をなくしていく人たち。

もちろん、それがすべてではなかった。誠実な人もいたし、仕事から得たものも多い。それでも私は、いつしかこう考えるようになっていた。

収入が多少低くても、もっと自分の価値観に沿って働く人たちの世界が、どこかにあるのではないか。

そうして独立を試みた時期などを経て、今の環境までやってきた。

ところが、場所を変えた先で、少し困る事実に気づいた。

収入の高い環境にも、不満を抱える人はいる。収入の低い環境にも、不満を抱える人はいる。愚痴を言う人は、だいたいどこへ行っても言う。そして私自身も、周囲のネガティブさに引っ張られ、いつの間にか似たような顔をしていることがある。

理想の環境へ移れば、自分は救われる。

私は長いあいだ、心のどこかでそう信じていたのだと思う。

もちろん、環境選びは重要だ。心や身体を壊すような場所からは離れたほうがいい。耐えることを美徳にするつもりもない。

ただ、「環境さえ変われば自分の問題はすべて終わる」と考えることにも、危うさがある。

必要なのは、環境を変える力だけではない。どんな環境に置かれても、周囲の闇やネガティブさに必要以上に飲み込まれず、自分がどういう人間でいるかを選び直せる力なのではないか。

問題は、理解しただけでは人間はあまり変わらない、ということだった。

とりあえず、歩くことにした

試験に落ち、目標を一時的に見失いかけた私は、とりあえず歩くことにした。

「人生の方角が分からないので、まず近所を歩きます」というのは、ずいぶん縮尺のおかしな話にも見える。でも、動けないときには、そのくらいでいいのかもしれない。

ただ歩くだけでもよかったが、私には意味のある目的地が欲しかった。そこで朝の散歩の行き先として、近くの神社を選ぶようになった。

私はもともと、おみくじや、そこに書かれた和歌を読むのが好きだった。それが未来を正確に言い当てるからというより、「この言葉は、今の自分にとって何を意味するのだろう」と考える時間が好きだったのだと思う。

それなら、自分に今必要なことを、自分自身へ問いかけてみればいいのではないか。


「少し高いところにいる自分」と話す

スピリチュアルの世界には、「ハイヤーセルフ」という言葉がある。

私はそれを、超自然的な存在として断定するつもりはない。私にとっては、「今の自分より、少し高いところから自分を俯瞰できる自分」くらいの意味だ。

仮に、悩みのただ中にいる現在の自分の意識を「3」とする。

そこから突然、すべてを見通す「100」の存在になるわけではない。私が呼び出そうとしているのは、せいぜい「6くらいの自分」だ。

3の自分が、6の自分に相談する。

6の自分も、人生の正解を知っているわけではない。見当違いなことを言う日もあれば、自分に都合のいい意味を作っているだけの日もあるだろう。

それでも構わないと思っている。目的は、正しい未来を予言することではない。今の自分を、ほんの一歩だけ前に進めることだからだ。

神社で答えをもらうのではなく、答えを受け取れる状態の自分を、神社まで連れていく。

今のところ、神社ウォークをいちばん正確に表すなら、そういう言い方になる。

私なりの「制約と誓約」

自宅で瞑想したり、ノートに考えを書いたりしても、自分との対話はできる。

ただ、家ではスマートフォンも鳴るし、椅子は快適だし、考えごとをするつもりが、気づけば別のものを見ている。自由とは、なかなか手ごわい。

そこで私は、あえて条件を決めた。

朝の時間に、身体を使って歩く。三十分ほどかけて、決まった神社へ向かう。境内に入り、本殿の近くに立ち、手を合わせ、問いを一つ置く。

同じ条件を重ねることで、「ここへ来たら、普段より少し高い視点で考える」という状態を、自分の中に結びつけていく。

漫画『HUNTER×HUNTER』の「制約と誓約」を、私は少し連想している。何でも自由にできる状態より、条件を限定することで、特定の力を引き出しやすくする。もちろん私は念能力を身につけたいわけではない。朝からそこまで大きな話ではない。

神社で私が問うのは、「未来を教えてください」ということではない。

今の自分に必要な考え方は何か。今日、どんな態度を選べばいいか。

歩く途中で見たもの、最近読んだ本、ラジオで聞いた言葉、ふと浮かんだイメージ。そうしたものを材料に、連想ゲームのように意味を組み立てていく。

大切なのは、「それは今の自分にとって何を意味するのか」と、少し高いところから解釈してみることだ。

蛇に見えた木の根

ある朝、散歩の途中で、地面から少しだけ出ている小さな木の根を見た。

一瞬、蛇に見えた。

「蛇? なんだか不吉だな」

そのまま神社まで歩き、本殿の前で問いを置いた。あれは、今の自分にとって何を意味するのだろう。

そこで浮かんだのが、蛇と龍のイメージだった。

蛇のように感じる煩わしい出来事や人に遭遇しても、自分まで蛇の視点に降りる必要はない。一段高い、龍のような視点から捉えればいい。

もちろん、これは蛇や龍にまつわる宗教的な意味を語っているのではない。木の根を見た私が、その朝の自分に必要な物語を勝手に組み立てただけだ。


その日の夕方、仕事で関わる一人が、新しい方針への不満をかなり感情的な形でぶつけてくる出来事があった。

普段の私なら、「なんなんだよ」と反応していたかもしれない。あるいは、相手の姿勢にがっかりして、その感情をしばらく引きずっていたと思う。

けれど、その瞬間に、朝の蛇と龍のイメージを思い出した。

ああ、朝考えていたのは、こういうことだったのかもしれない。

そう思うと、相手の感情の高さに自分の感情を合わせずに済んだ。少し引いた位置から状況を見て、必要な話へ戻すことができた。


朝に見た木の根が、夕方の出来事を予言していたのだろうか。

分からない。おそらく偶然だった可能性は十分にある。

でも、朝につくった意味が、夕方の私の態度を変えた。それは事実だった。

出来事の因果関係を証明できなくても、自分の反応を選び直すために使えたのなら、その意味には実際的な価値がある。

また「輪」と「光」か

神社で問いかけを続けていると、何度か同じようなテーマが浮かんでくる。その一つが、「輪」と「光」だ。

輪の中で、自分自身の光を放っていく。

そんなイメージが、形を変えながら繰り返し現れる。

私は、人とのつながりをどんどん広げていくことが得意なタイプではない。だからこそ、これは今後の自分が向き合うテーマなのだろうとは思う。

一方で、同じことを何度も示されると、「……またこのテーマか」とも思う。

もし本当に少し高い自分からの助言だとしたら、ずいぶん粘り強い。受け取る側がなかなか実行しないので、同じ議題が継続審議になっているのかもしれない。

メッセージを受け取ったからといって、翌日から人付き合いが得意になるわけではない。自分の光とやらも、四六時中きれいに輝いてはいない。曇る日もあれば、そもそもスイッチがどこにあるのか分からない日もある。


光を見る癖を、身体に覚えさせる

人生が思い通りにならないとき、暗い部分だけを見ることは簡単だ。

試験に落ちた。出口が遠のいた。今の仕事への閉塞感がある。収入にも、将来にも、人間関係にも、解決していない問題がある。

どれも、考えすぎだと片づけられるほど軽いものではない。だから私は、何でも前向きに解釈すればいいとは思っていない。暗いものを無理に光と呼び替えるのは、ポジティブ思考というより、少し乱暴だ。

ただ、一つの出来事の中に暗さしかない、と決め切る必要もない。

試験に落ちたからこそ、自分が資格に何を託していたのかが見えた。環境への不満があるからこそ、環境を変えることと、自分の立ち方を作ることは別の課題だと気づいた。

そこにある小さな光を探す。その癖を、頭で理解するだけではなく、身体に覚えさせたい。

朝、実際に歩く。息が少し上がる。街の音を聞く。空の明るさが変わっていく。神社という限定された場所に立ち、問いを置く。そして、日常へ戻ってから、その朝につくった意味を使ってみる。

神社ウォークは、私にとって「光を見る癖を、頭ではなく身体に覚えさせる練習」でもある。

まだ出口は見えていない

神社まで歩くようになったからといって、人生が急に好転したわけではない。

資格はまだ取れていない。キャリアの出口も、独立の道筋も、収入の問題も、人間関係も、自分自身の在り方も、きれいには片づいていない。

私はまだ、回復と再構築の途中にいる。

以前の私は、自分を救ってくれる環境を探していた。

今も、よりよい環境へ移ることを諦めたわけではない。変えるべきものは変えたいし、進むべき場所には進みたい。

ただ、それと同時に、どんな場所にいても自分を失わないための軸を、自分の中に作る必要があると思うようになった。

まだ出口がどこにあるのかは分からない。

それでも、立ち止まりそうになった朝に、自分より少し高いところにいる自分と話す方法を、一つ持てるようになった。

高いところへ一気に飛ぼうとしなくていい。

今日の自分より、少し高い自分を積み重ねていく。

神社までの道は、そのためのプロセスの一つなのだと思う。

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