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自我、エゴを尊ぶ【現実創造】


こんにちは。


今日は、とある投稿を見て深く頷いたこともあり、そのことについて書いてみたいと思います。


エゴを否定するエゴって何?



私が目を引いた投稿。それは「エゴを否定するエゴでマウントをとられた」

というちょっとフックの強い発信でした。


その入り方に、なんだなんだ?と引きつけられたのもありましたが、エゴに対する捉え方について、自分自身を振り返ってみるいい機会にもなりました。


ーーーーーー


スピリチュアルな世界を見ていると、時々面白いことが起こります。

エゴを超える
エゴを手放す
エゴは幻だ


そういう言葉に触れているうちに、いつの間にか、

私という存在はエゴではない

という場所に立っていることがあると思います。

それは良いと思うのですが


あの人はまだ自我にのまれている
あの人は感情に振り回されている
あの人は本質が見えていない


と、世界を見るようになることも。


もちろん、本人にそのつもりはないのかもしれない。


むしろ、


相手を否定しているわけではない
ただ、本質を見ているだけ


なのかもしれません。


でも・・そこで、ちょっとだけ立ち止まってみたのね。


私は本質を知っている


という場所に立った瞬間、そこに新しい自我という私が生まれていないだろうか?と。



冒頭に書いた、とある投稿。



エゴを否定するエゴ、という言葉に共感したのもそこで、

例えばエゴをないものとしたり、否定したり、エゴは幻だと見抜いたその瞬間に、

幻だと見抜いている私

が、思いっきり立ち上がっているように感じられた。


しかも「この私」だけは、幻にならない。

「自我は幻だ」と言うなら、そう見ている私が、幻の外に立っていないといけない・・はずだけれど

全部を無いことにするために、無いと分かっている私だけは、実在として残される。


しかも、その私は本人からは見えない。

そして、見えないものが、外側に現れてくるように感じることもある。

・・分離してる誰かや何かとして。

自分が消せなかったものが、自分の外側に分離という姿をとって、立ち上がってくる。


そこで、今起きている現象、目の前に見ているものは、自分が分けたもの、かもしれないな、と感じたのです。

無いことにしたはずのものが、「無いと分かっている私」として、そこにしっかり残っている。

・・これは消すよりもしかしたら手強いかもしれない。笑




エゴは幻なのか



そこで私は思う。エゴは果たして幻なのだろうか?

スピリチュアル界隈でよく語られるエゴについて、私の意見として書いてみます。





そもそもエゴって、何のことだろう。

日本語で言えば、自我

自分本位な、我欲のこと?
それとも、感じたり、考えたり、悩んだりする、「私」という感覚そのもの?


そういう語りを聞いていると、そこは入り混じっているように感じています。


でもこのような主張も多い。

悲しんでいる私。
揺れている私。
体験している私。

そういう「私」は自我であり、幻だと。
本当のあなたは、それを見ている者なのだ、と。


見ている私は、対象じゃない。自我じゃなく、本質、光そのものだ、と。


そういう主張もあるのかもしれない。


でもその光が、何かを否定したり本質じゃないとするのなら、それはもう、ただの光じゃなくて、選り分けている誰かの目なんじゃないかな。



そして、その目を「これは幻だ」と見ているのも、また、私。

悲しむ私を「幻」と判定している、その私。
それも、結局「私」だよね??? ・・・笑

幻だと見抜くために、見抜いている私を、使っている。

消したい私で、消そうとしている。

・・・だから、消えない。


エゴは

私がすごい
私が正しい
私のほうが上


という形だけで現れるものじゃないと感じています。

もっとなんというか、無意識にというか・・

私はもう分かっている
私は目覚めている
私は本質の側にいる


という形でも、現れる。

だから私は、冒頭の発信のように、

エゴを否定するエゴ

というものがあってもおかしくないと思っている。




私自身もそうなのだ



そして、これは誰かの話だけじゃない。

私自身もそう。


例えば誰かを見て、

「うわ、この人、嫌な感じ・・」

と思った瞬間、


「嫌な感じを見抜いている私」


が生まれる。


あれ?これもまた、同じ構造じゃない?・・と笑


そう思うと、ちょっとおかしくなるのです。
(どこまでも禅問答的な笑)


「スピマウント」ってたまに聞くようになりましたが、以上のように考えてみると、必ずしも露骨な優越感ではないのかもしれない。

「私のほうが上」と言わなくても、

私は分かっている
あなたはまだ気づいていない


という認識の差だけで、いつの間にか上下は生まれる。


そして、

これは本質
これは幻想


と世界を分けていけば、
当然、その世界が目の前に現れてくる。

自分が採用している世界観は、自分の見ている世界をつくる大きな一部だから(これはあくまでも私の思う世界観ですが)



だから私は、何が真実なのかを、これだーーーーー!!って握るより、余白を感じていたい。笑


本質ではないと切り分けるのではなく、海の中の波としてみる。

どの波に乗るかという感じ・・


荒波、さざ波、凪。


そこに正しさを見つけるのではなく、等しく海。


コントラストを楽しみたいのです。


エゴを連れたまま創造する




そしてね、人間だもの、嫌なことも悲しいこともありますよね。


そしてもちろん、嫌なものを嫌だと感じてもいい。
そう感じるのは自然なことだと思う。


むしろ、そう感じたなら堰き止めず、幻だとせず感じて身体に流したほうがいい、と私は思っています。


腹が立ってもいいし、
違和感を覚えてもいい。


そしてそれを無理に愛に変えなくてもいい。


ただ、

ああ、今の私はそう感じているんだな

と、そのまま見てみる。

ただ、そこに留まり続ける必要はないと思う。
(留まり続けたいならそれもよし笑)



でもやっぱり、私は創造という視点を常に持っていたいから、

感情があるがままに流れていったら、心地よいほうへ。

自分が生きたいほうへ。

少しずつ、意識も身体も、一緒にスライドさせていく。




それが創造だと思うのです。


本当にシンプルに、私がそのまま外側に現れている、そんな感覚です。


ここまで書いて、やはり私は創造に目がいくんだな、と思いました。

自我を引き連れてね。笑


だから私は、「目覚めている人」と「目覚めていない人」に分かれた世界より、

怒っている私も、迷っている私も、
静かな私も、よく分からない私も・・・

全部ひっくるめて、「ああ、これも私なんだな」と、見られる世界のほうが好きなのです。



以前、私は、地球全体をひとつの意識体のように感じる、不思議な感覚になったことがあります。

人も、動物も、自然も、そこに存在するもの全部・・万物がどうしようもなく愛おしく感じられて、涙が出た。


そのとき、

「これが神の意識なのかな」

・・・なんて思いました。



でもそれは「その意識だけが尊い」という感じではなかった。

存在しているもの全部が、そのままで尊かった。

本質と現れが、別々にあるようには感じなかったのだ。


だから

現れているものそのものが、
本質の現れなのかもしれない。


・・・そう思うと、

エゴをなくさなきゃ、とも思わない。

感情を超えなきゃ、とも思わない。


昔は生きづらさから、地球は生きにくい・・と感じることもあったけれど
今は、人間であることを卒業して、どこか別の場所へ行こうとも思わない。


この身体
この感情
この自分


ここから創っていきたい。



愛、生命、欲、感情、創造。


これら全て、醍醐味じゃない?人間として生まれてきたことの。


そう思えるようになったのです。



だから私はエゴを尊ぶ


・・話は戻りますが、

エゴを否定するエゴ。
それを見抜いたエゴ。
さらに、それを見抜いたエゴ。


どこまでいっても自我である私は現れる。

だったらもう、そのを幻にしなくてもよくない?・・と。笑


私は分けない。というだけです。ただ、選ぶ。

何でも受け入れて動けなくなるわけでもない。

感じる。
気づく。
選ぶ。

そして、

自分が生きたい世界を、自分の在り方から創っていく。


それが自由なこの世界でも創造主としての在り方。
本質に気づいて終わりじゃない。
受動的な創造では私は物足りない。笑

壮大な海で、好きな波を選んで乗り換えたり、乗りこなしたりするのだ。


エゴをなくすのではなくて、エゴを尊ぶ。
エゴさえも愛おしむ。


私は、そんなふうに生きてみたいし今、そうやって生きています。



今日も心地よくありますように🤍

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