詩人・小熊秀雄が書いた旭川(前編)
はじめに
独自の足跡を残した詩人、小熊秀雄は、大正末から昭和初めにかけての北海道旭川時代、地元新聞社の記者でした。
記者としての小熊は、文芸欄の担当とともに社会部系の取材も精力的に行っていました。
その社会部系の取材では、サツ回り=事件取材などとともに、いわゆる街ネタ=地域の話題を集めることが欠かせません。
小熊もそうした街ネタを数多く誌面に掲載しています。
この稿では、前後編2回に渡り、そうした小熊の記事を通して当時の旭川の様子を見ていきたいと思います。
1回目の今回は、当時のメインストリートだった駅前師団道路の姿です。
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小熊秀雄とは

まず小熊秀雄について、簡単に押さえておきましょう。
小熊は、明治34年、小樽市生まれ。
3歳で母親と死別し、その後、東北、北海道、樺太を渡り歩きました。
このうち樺太では、高等小学校を卒業後、漁師の下働き、農夫、職工、伐採人夫などの職を転々とします。
この過酷な経験が、常に虐げられた民衆の側に立つ後の創作姿勢を養います。
旭川に来たのは、大正10年、20歳の時です。
小熊は中央で詩人として名をなすという思いが強く、昭和3年には、旭川で結婚した妻つね子、そして一人息子の焔(ほのお)を伴って3度目の上京を企て、ついに池袋周辺に定着します。
その後、新鋭詩人としての地位を確立しますが、戦時色が強まって発表の場が狭まる中、39歳の若さで病死します。
このように東京進出後の小熊の境遇は熾烈なものでしたが、旭川では新聞記者としての仕事が経済的な安定を支え、文芸はもとより、演劇や美術などさまざまな分野で多くの人々と交わり、生き生きと地域の文化活動を牽引しました。

そんな小熊が記事の中で描いた当時の旭川。ちょうど小熊が旭川新聞で働き始めた大正11年は、旭川に市政が施行された年です。この時期の様子について、小熊はある文章の中で、「旭川という土地が持つ特殊な情熱的な青年的な雰囲気・・・」(「北海道時代の今野大力―弱い子よ、書けずにいた子よー」より)と書いています。
北海道中央部の上川地方に後の旭川市の礎となる旭川、神居、永山の3村が設置されてから30年余り。
足元もおぼつかなかった開拓期をとは違い、いわば青年期に入った旭川は、小熊が書いたように、土地自体が若々しいエネルギーに満ち溢れていたのでしょう。
それではそんな旭川を象徴するマチのメインストリート、師団道路の様子から見ていきましょう。
なお小熊の記事については、句読点や漢字の使い方など読みにくいところがありますが、そのままの形で引用します。
師団道路の近代化

師団道路は、旭川駅前と第七師団司令部を結ぶ戦前のメインロードです。
大正に入ると、師団通という呼び方も始まり、銀ブラ=東京銀座でブラブラ、にあやかって、師団道路(師団通)でブラブラ=団ブラという言葉も生まれました。
昭和2年11月、小熊は「伝兵衛」という名前(記者=伝える人、という意味でしょうか、他に「黒珊瑚」、「縞馬太郎」などの名の署名記事もあります)で、「近代化された師団道路」という連載記事を掲載しています。
「アスファルト舗道は、旭川が先鞭の自慢のひとつ、あの工事は冬場は保(も)つまいといふ心配も、流石に毛唐人の新技術でパンパンだ。函館、札幌、その他の都市が垂涎ものの一つである、高層建築はどんどん殖(ふ)へるし、赤い屋根の家も多くなったし、誠に結構な近代化で御座る。
四条師団道路の床屋の屋根には構成派の画看板があがるというモダーンぶり。『あなた、大変りつぱアル私クニロシアの都にソックリある』とは北海ホテルに投宿したソビエートロシアの老船長さんが記者に語った言葉で、満ざらお愛そ許りでもないらしい。」(「近代化された師団道路・其の四」より・昭和2年)
ロシア人のはずなのに、何故かかつてよく使われた〝中国人なまり〟で表現されているところがご愛敬。
小熊がここでルポしている師団道路の舗装化は、大正14年に宮下〜2
条間で始まり、次いで4条までが大正15年に完了しています。
また6条までの舗装化が行われたのは、昭和2年とされています。
では舗装化の前と後では、通りの様子はどのように変わったでしょうか。

画像4は舗装化の前、明治末の師団道路です。
右端の大きな看板を掲げているのは、明治34年創業の秋野薬局(3条通8丁目)です。
師団道路を走っているのは、明治39年に運行が始まった馬車鉄道=馬鉄です。
雨上がりなのでしょうか、軌道の脇は道路の土が泥状になっていて、馬車などの轍ができているのがわかります。
軌道の中には水たまりもできています。

画像5は、少し4条側に寄った場所を写した手彩色の絵葉書です。
大正も後期ですが、道路の色は茶色!
まだ舗装はされていません。
前の絵葉書との違いは、馬鉄の軌道が撤去され、初期のフォード型の自動車が走っていることです。
ただ通りには軌道のあった痕跡がはっきり残っています。
なので、軌道が撤去された大正8年の撮影と思われます。

そしていよいよ舗装化の後の画像です。
3条から4条にかけての師団道路を写した絵葉書です。
白黒で分かりづらいのですが、歩道と車道(と言ってもまだ車が少ないので、通りの真ん中を歩いている人もたくさんいます)の間に段差が設けられ、縁石も置かれています!
凹凸があって水たまりもできているようですが、道の中央から歩道側に傾斜がつけられていて、それに沿って雨水が流れた跡があります。
自転車や大八車などの走行もかなり楽になったのではないでしょうか。
小熊は同じ連載でこう書いています。
「こないだ師団道路を人力(=人力車のこと)を走らせながら車上から車屋さんに声をかけてみる『かう道路は平坦になっては車屋さんも足溜りがなくて引ぱりにくいだらうね』と同情するとそれは考へすぎた素人考へであつた。矢張りアスファルトになつてからは労力半減。スベスベした舗道を駆る楽(たのし)さはないといふ、ところで一方あの舗道ができてから妙な病気がチョイチョイ流行る、最も東京では丸ビル病といふ近代病が流行つたことがあつた、あれは丸ビルのモガ、モボ連が脚が奇妙にダルクなつて来る病気で脚気の一種だらうと騒いだものだが昇降機であがつたりをりたり終日勤務にコンクリートの中に住み土も踏むことが少いのだからそんな病気にも罹るだらう。ところが旭川のモダーン病は師団道路を歩くと嘔吐気(はきけ)を催すといふ、そこで記者はお医者気取で親しく患者の症状を聴き研究するに、旭川も急に舗道が新装されてはこんな患者が出るのも少しも不思議はない、病気の原因はやはりアスファルト舗道で嘔吐気をするのは眩暈(めまい)がするからで、舗道面が白いのと前方を見れば斜面をのぼって行くやうな錯覚を生ずるからで、そんな田舎臭い病気を卒業しなければ近代人の資格がない。」(「近代化された師団道路・其の一」より・昭和2年)
アスファルト舗装のせいで吐き気を催すということも驚きですが、記者が勝手に原因を決めてつけてしまうことにもびっくりです。
舗装に関してはもう一枚、工事の様子がわかる写真がありますので紹介します。

これは、画像6で中央やや左に見えていた旭ビルディング百貨店から北方向を写した画像です。
通りの中央部と歩道だけ舗装され、その間は土が剥き出しになっているように見えます。
ということで、おそらくは舗装工事の最中なのでしょう。
7条付近では、作業員らしき人影も見えます。
この後、昭和4年からは通りの名物となる「すずらん街灯」も設置され、師団道路は急速に生まれ変わっていきます。
さらに小熊の記事を続けましょう。
師団道路は、舗装化で便利になった反面、危険も増したようです。
「このあひだのこと、旭川でも都会なみのラッシュアワーから、危ふくお婆さんが煎餅になるところであつたのを、記者が目撃した。場所は四条師団通で凄かった、あとから自転車に突つ掛けられて、前へのめつた所を円太郎で轢かれたのだから、今流行の用語をつかへば『三角関係』といふのだろうがずいぶん痛い三角関係もあつたものだ。」(「近代化された師団道路・其の二」より・昭和2年)
「円太郎」という言葉が出ていますが、これは大正13年に運行が始まった乗合自動車のことです。
市が買い入れた10台の車を民間に貸し出す形でスタートし、多くの市民に利用されました。
「円太郎」については、小熊が同乗記を残していますが、これは次回紹介したいと思います。
なおこれより前、旭川では、大正5年に実業家の槇荘次郎がフォード型の自動車を2台購入、「弁慶号」、「義経号」と名付けて旭川初の乗合自動車の営業を始めています。

ただ翌年6月、このうちの「弁慶号」が師団道路で死亡事故を起こしてしまい、廃業を余儀なくされます。
この事故、旭川で初めての車による死亡事故で、犠牲者は自転車の男性でした。
大正7年に馬鉄が廃止されてから、旭川では乗合の馬車や馬そり、それに人力車が今でいう公共交通機関でした。
そこに現れた近代化の象徴、乗合自動車。
しかし昭和4年から相次いだ各電車路線の開通で、自動車の利用は個人や会社単位のものに急速に変わっていきます。
賑わう師団道路
続いては、賑やかさを増した師団道路界隈の商売についてです。
まずは、往来の様子を小熊が生き生きと描写しています。
「旭川の盛り場師団道路の師走気分は慌ただしく押迫つて大道香具師のかな切り声でなかなか賑やかだ、口髭で威厳を見せた法律屋さんやら蟇口(がまぐち)屋さんにメリヤス屋さんに何時も元気のあるのは瀬戸物屋の糴売(せりうり)、十七八の子が傍の石油箱をパッチンバッチン叩きつけてガラガラと小丼(こどんぶり)を一組前にならべるサアこのこの小丼がこれだけで一円二十銭だ、一円にまけてやる、八十銭から六十銭だ、これでも買ひくさらないか(中略)
こんな良い茶碗でも揃へて置いてをけいちいち外国のチリメンに包んである。これは金縁の金かけ金にも色々ある、メッキ、陰キン、借金、疝キンそんな金と金が違ふ金は純金だ、之はいちいち筆でもつて書いたのだ書いたのだ書いた書いたにも色々ある皮癬(せん)かいた、梅毒(かさ)かいた、恥かいた、そんな書いたと違ふ誰が書いたと言ふたら狩野法眼に吃の又平左甚五郎に瀬戸物屋さんと四人相談づくて製(こしら)へたのだ、団子や牡丹餅は手掴みでも喰へるが、お茶椀許りは手掴みで喰へない、こんな奴の一揃へでも揃へて置け(中略)
今日はこつちの方にお客さんがあつて、こつちの方にないこつちの方は貧乏人許りの集合だろ、そう言はれて口惜しかつたら買つてみろ。
いやそのしゃべるのに早いのと言ったら眼が廻りさう、うつかり田舎から出てきた人なら卒倒しそうな皮肉と諧謔をまぢへた大雄弁のこの瀬戸物屋さんは毎日少い日で十五円多い日で二十五六円の売揚げがあるさうだ兎に角歳晩の師団道路気忙しい気分に満たされてゐる。」(「浮世さまざま歳晩漫語・九」より・大正12年)
香具師は、小熊が書き取っているように、巧みな口上で往来の客の注意を寄せて物を売る商売人のことです。
当時の師団道路では見かけることが珍しくなかったようで、話術に引きつけられた人々が数え切れないほど群がっているのが写った絵葉書もあります。

ちなみに人々が集まっている奥の建物、サッポロビールの看板が出ているのは旭川のカフェーの名店の一つ、カフェーヤマニ。
4条本通りを挟んで向かいに見えているのは辻薬局です。

それにしてもすごい人だかり!
何を売っていたか、知りたくなりますね。
もう一枚、同じ場所で、様子がわかりやすい絵葉書もあったので紹介しておきましょう。

ヤマニの奥に、大正9年5月開業の北海屋ホテル旭川支店の建物が見えていますので、それ以降の撮影なのは確かです。
そのホテルとヤマニの間の路上に、画像8ほどではありませんが人だかりが出来ています。
おそらく香具師が商売をしていると思われます。
また師団道路を挟んでヤマニの向かい、7丁目にあるのは呉服店ですが、その脇では植木を売っているようです。
このように当時は香具師だけでなく、多くの人が路上で物を売っていました。

画像12は、3条師団道路から東方向を写しています。
左端の薬局は画像4で紹介した秋野薬局、その向かい右の建物は旭屋書店(のちの富貴堂書店)です(奥には画像2で紹介した旭川新聞社も見えています)。
その2店の前あたりに露店が出ています。
売っているのは野菜でしょうか(大きいのはスイカ?)。
しかも場所は車道!交通量がまだ少なかった時代ならではの光景です。
一方、師団道路に軒を並べる各店舗も、それ以前とは様変わりしていたようです。
「師団道路の近来のモダーン化は素晴らしいもの、どんどんと家並みが改築され、出来上つたその商家をみるとどこかしら新時代の建築様式を取り入れてゐる、飾窓や商品のならべかたも垢ぬけがしてきたし、だい一お店の小僧さんの服装からして時代が違ふといふ感じだ。小僧さんといへば昔から小倉帯に紺前垂とタイプがきまってゐた。角火鉢にしがみついて両腕をアメマスの腹のやうな斑点の火形をこしらへて手なぐさみにソロバンを縦にもつて指でパチパチならして客を待つてゐたのが、近頃はどうだらう、俳優竹内良一の扮するモダーンボーイが公爵令嬢にオッ惚てゴルフ場に出かけてゆくといつた格好例の大柄の華美なシャツを着てズボン履き、お客も店員も世の中が自由主義になつてきてゐるので「いいのがあつたらお買いなさい」といつたツンとすましやうだ。」(「近代化された師団道路・其の一」より・昭和2年)

飾窓はショーウィンドーのことです。
さらにこの時代、小売業で先端を走っていた店について、小熊は次のように書いています(彼が関わった演劇公演についてもさりげなく触れています)。
「夫婦連れの団ブラは今では珍しいものではない、しかしこれも僅か数年この方めっきり殖(ふ)へたのでさう眼だたなくなつたが、ご夫婦連の走りは、鈴木弁護士のご夫婦だといふ噂もあるがどうか・・・鈴木の奥様は頬ペタにトカゲを画いたり素足に靴下の模様を書いたりする軽薄極まるモガではなく、所謂真実聡明なモガだといふ噂もっぱら、錦座で新劇『人形の家』の大舞台に立つた経験もあり、さてこそ夫婦連れ散歩の型を創始したといふ、また錦座の芝居でモダンガール劇『人形の家』の主役ノラに扮した井合歯科医院夫人が洋装の魁(さきがけ)といふ噂もある、近来激増した夫婦連れをねらつてゐるのが丸井呉服店楼上の食堂、ここでは泥酔禁止で汁粉や飯物ばかりより出さない、天丼を喰つて酔つぱらふ者もなからうから子供連れのご夫婦には安全、また飾窓の新柄に動かぬワイフをここに引ずり込んで汁粉一杯で亭主がごまかせるといふもの、みなこれ近代的商法のひとつなり。」(「近代化された師団道路・其の四」より・昭和2年)
団ブラ!
使われていますねー。
この時代までは、夫婦連れで通りを歩く人はあまりいなかったんですね。
そのような近代的な〝行い〟の先導者として紹介されているのが、小熊も参加した演劇公演の参加者3人です。
この公演、大正12年7月、市民有志が集まり、3条通15丁目にあった劇場「錦座」で「人形の家」など3作品を上演したという、いわば市民劇の走りです。
小熊に紹介されている鈴木夫妻とは、旭川に判事として赴任したのち、退職して弁護士として開業した鈴木重一と妻の嘉代子。
井合夫人とはアメリカの大学で学んだ経験もある歯科医師、井合関三の妻、萩子です。
小熊の書いた通り、「人形の家」(イプセン作)では、井合萩子が主人公のノラを、ノラの友人リンデ夫人を鈴木嘉代子が演じました。
ちなみ、同時に上演された「ヴェニスの商人」(シェークスピア作)では、高利貸しのシャイロックに金を借りる貿易商、アントーニオを小熊が、美貌の貴婦人ポーシャを井合萩子が演じています。


画像15 の集合写真の上段左から3番目の女性(胸に十字架が見える)が井合萩子、1人おいて和服の女性が鈴木嘉代子、さらに1人おいてやはり胸に十字架が見える男性が小熊です。
公演では重要な役を担った2人の女性、どんな人なのかと思っていましたが、時代の先端をゆくモガの代表格だったのですね、納得が行きました。
師団道路に話を戻しましょう。
小熊が食堂について紹介している1条通7丁目の丸井今井。
呉服店と書いてありますが、大正11年には3階建てに改装、旭川初のデパート、丸井今井百貨店旭川支店として新装開店しています。

さて食堂といえば、師団道路には3〜4条を中心に人気の食堂がありました。
先に紹介した4条8丁目角のカフェーヤマニも前身はヤマニ食堂という料理屋でしたし、その斜め向かいの7丁目角には食堂三日月、3条7丁目角には金子寿(かねこことぶき)という、やはり当時の旭川を代表する食堂がありました。

右端の建物が三日月です。
看板に「電気鍋」とあるのは、すき焼き用の電気コンロを指しています。

こちらは3条本通りを東方向に向かって撮影しています。
画面下3分の1位のところを横切っているのが師団道路です(舗装されているので3条通りより白っぽく見えます)。
左端の大ぶりな看板のあるのが、金子寿です。
「寿司」「うなぎ」「小町茶屋」などの文字が確認できます。
さて最後は、再び小熊による大正12年師走の師団道路の描写です。
「からりと腫れ渡つた冬の日の午後・・・からからと乾からびた太陽の光が頬ぺたを自暴(やけ)に冷たく撫で廻す寒さの中に慌ただしい歳末の気分に追はれて師団道路を歩む人達の足取りも最大急行だ(中略)
ずらりと並んだ各商店ではお隣りに負けまいと万国旗を張る蓄音器の鳴り物入りで囃し立てる『何々大売出し』『何々大廉売』と目立つやうに引き立つやうに死物狂ひで大競争の態である師団の兵隊さんが通る。左り褄(つま)をちいと持ちあげて赤い蹴出(けだ)しをチラつかせた年増芸者がこんなに明るいのにお座敷と見えて梅林の方に小走りにゆく『チェッ忌々しいや』ととんだところで憤慨してゆきすぎる。(中略)
各書店前の立看板のトランプ、カルタ、花札、百人一首などの文字や愛嬌者(もの)の鼠の絵葉書も妙に歳晩気分をそそつてゐる。丸九の洋品店の化粧部に素的(すてき)な別嬪さんが四人専念に品定めの真最中だ。『これの方が乗りが可いワ』『それよりこつちの方を妾(わたし)使つてるワ』となかなかよく饒舌(しゃべ)る。何分にも売り物の娘さん達のこと飾り物の奥様のこと精々おめかしをやるべし。やるべしと。御励奨申し上げてハクションとひとつ咳をして歩きだす。兎に角あますところ今年も二週間の歳晩の師団道路に賑やかな事だ。」(「浮世さまざま歳晩漫語・十三」より・大正12年)
ネズミの絵葉書云々というのは、この記事が出た翌年が子年(ねずみどし)だからと思われます。
梅林は、4条通8丁目にあった料亭です。
後半の化粧品売り場の女性たちの記述は、今なら〝炎上〟間違いなしといったところでしょうか。
ただ様々な人が繰り出し、活気を見せる通りの様子はよく伝わってきます。
小熊といえば、普段はやはり彼の生み出した「詩」に接する機会が多いのですが、こうしたくだけた散文には、独特のユーモアを感じさせる一面を見ることができ、興味が尽きません。
「小熊秀雄が書いた旭川」、次回は乗合自動車「円太郎」の同乗記や、活動写真館巡りなどの記事を紹介します。

