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琥珀の共鳴 (レゾナンス) 3

第三章 甘い街


「ねえ、“幸福死”って知ってる?」
その言葉がSNSへ投稿され始めたのは、三日前からだった。匿名アカウントでフォロワーは十数人。添付画像も動画もない。そんな誰かの、なんとも不気味な一文が書かれたことがきっかけだった。

> 『死んでるのに、めちゃくちゃ幸せそうな顔だったって』

投稿は、その後、大量の投稿に紛れてすぐに流れていった。だが翌日、二件目の琥珀化事件が発生した。そして三件目。四件目。五件目。いつしか都市の片隅では、こんな噂が囁かれるようになっていた。

幸福死。
死ぬほど幸せになれる病気。

そんなものがあるはずもないのに。


 ◆◆◆


特殊心理対策課 第三会議室。
大型モニターには複数の資料が表示されていた。現在確認されている琥珀化被害者は九名。死亡者五名。生存者四名。詩乃は資料をめくる。そこには、生存者から聴取された証言が並んでいた。

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【Case-03 男性 24歳】
発症三日前より同一の夢を反復。
「最初は夢でした。誰かがピアノを弾いていたんです。顔は見えなかったけど、ずっと笑ってるようでした」
「怖くはなかったです。むしろ安心しました」

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【Case-05 女性 32歳】
軽度幸福汚染。
「たしか、夕方のような感じでした。古い音楽室みたいな場所で。知らない曲なのに、なんか懐かしかったな」
「目が覚めた時、すごく幸せだったんです。何年も抱えてた悩みが全部どうでもよくなった感じがして」

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【Case-06 男性 18歳】
中度汚染。
「夢の中で音楽が聴こえてきて。そうしたら、誰かに言われたんです。『もう頑張らなくていい』って。その声を聞いた瞬間、涙が出ました。ずっと欲しかった言葉だったから」

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【Case-07 女性 41歳】
重度汚染。
「夢だと思います。音楽が聞こえていました。誰かがピアノを弾いているような。でも途中から、自分も口ずさんでいました。それから先は覚えていません」


会議室は静かで、誰も軽口を叩かない。詩乃は資料から目を上げた。
「共通点がありますね」
分析官が頷く。
「夢、ですね」
「ええ」
モニターに、被害者たちの脳波データが映し出される。
「全員、REM睡眠中に異常な情動反応を示しています」
「夢の中で感染しているってことですか?」
若い職員が呟いた。詩乃は即答しなかった。
可能性は高いだろう。幸福旋律は従来の感情災害とは違う。怒りも嫉妬も不安も基本的には覚醒時に増幅する。だが、幸福だけは違う。夢という形で、無防備な心へ入り込めるようだ。
「旋律が無意識へ侵入しているようです」
詩乃は言った。
「そして目覚めた後も残り続けている」
会議室に重い沈黙が落ちる。
感情汚染は通常、発生源が存在する。だが今回の事件は、夢がきっかけで感染者が生みだされているように見える。まるで、音そのものが勝手に繁殖しているようだった。


 ◆◆◆


その日の午後、詩乃は駅前広場を歩いていた。
調査というより確認のためだった。幸福汚染がどこまで広がっているのか、自分の感覚で確かめたい気持ちでいた。
平日の昼下がりの駅前は、普段通り賑わっている。学生。会社員。買い物帰りの主婦。どこにでもある光景だが、何かがおかしい。ここにいる人たちは、笑顔が多い。多すぎるのだ。誰もが幸福そうだった。
詩乃は立ち止まると、鼻先を掠める甘い香りを感じた。
蜂蜜。熟れた果実。焦がした砂糖。幸福感情の残滓。薄いが確実に存在する。視線を巡らせると、ベンチに座っている一人の女性に目が止まった。スーツ姿の女性で、年齢は二十代後半だろうか。その女性は、表情が妙だった。スマートフォンを見ているわけでもなければ、誰かと話しているわけでもない。ただ微笑んでいた。
詩乃は近づいた。
「少しだけ、お話いいですか」
女性が顔を上げる。警戒心が薄い。それも症状の一つだ。
「あ、はい」
「最近、眠れていますか」
「二時間くらいです」
女性は笑顔のまま答えたが、目の下には隈ができている。
「お食事は」
「ほとんどしてません」
「疲れませんか」
女性は不思議そうに首を傾げた。
「でも幸せなんです」
詩乃は黙る。予想通りだった。
「最近、変な夢を見ませんでしたか」
女性の目が少し揺れる。
「あっ……見ました」
「どんな夢ですか」
「誰かが…ピアノを弾いてました」
詩乃は、自分の心臓が小さく脈打つのを感じた。
「顔は見ましたか?」
「見えませんでした」
女性は遠くを見ながら、夢を思い出しているようだった。
「でも、すごく優しい曲で」
「他には」
「頑張らなくていいって」
女性の声は震えていた。
「もう大丈夫だって言われました」
女性の目からは涙が零れたが、それでも表情は笑っている。幸福と涙。本来ならば矛盾するはずのこの反応は、突発的に幸福が増幅された場合にたびたび起こる。だが、汚染者は違う。悲しみも不安も飲み込んだまま、幸福だけが常に増幅されている状態にいるから起こる。詩乃はポケットから青い錠剤を取り出した。
「舌の下へ入れてください」
女性は素直に口を開けて従った。数十秒後。表情が変わっていく。笑顔が消え、代わりに不安が戻る。
「……あれ」
女性は周囲を見回した。
「私、こんなところで何してたんだろう」
詩乃は答えなかった。
これで、完全に幸福を取り除いたわけではない。ただ濃度を下げただけだ。それでも女性は、自分自身を少し取り戻したようで、「失礼します」と頭を下げ雑踏に消えていった。


 ◆◆◆


夕方。詩乃は自宅へ戻った。白い壁と最低限の家具だけが備わった無機質な部屋。感情を刺激するものは、ここには何もない。写真や花や思い出など、幸福を連想させるものは何もない。詩乃はテーブルの上へ琥珀片を置いた。特殊保存容器の中で、相変わらず黄金色の結晶が静かに光っていた。

キィィィィン……

高音。
まただ。この数日、頻度が増している。
詩乃は目を閉じた。
聞きたくないが、耳を塞いでも旋律は頭の中へ直接流れ込んでくる。
夕暮れ。
研究室。
ピアノ。
窓から差し込むオレンジ色の光。
そして、久瀬伊織。

『幸せってさ』

懐かしい声だ。

『もっと自由でいいと思うんだ』

それは、胸の奥が痛むような幸せの記憶だった。だから怖い。幸福はいつか失う。幸福はいつか壊れる。幸福はいつか終わる。詩乃はそう信じて生きてきた。だから幸福感情を拒絶してきた。それなのに――

キィィィィン……

共鳴音が強くなる。容器の中の琥珀が淡く脈を打つ。そして、今までは旋律だけだったが、今回は声が聞こえてきた。微かに。本当に微かに。

『……し……の……』

詩乃の呼吸が止まる。

『……し……の……』

伊織の声だ。これは記憶ではない。録音でもない。琥珀の中から聞こえてくる。耳を澄まして聞いてしまえば、意識が朦朧としてしまいそうだった。
しかし、その瞬間スマートフォンが震え、意識が現実に戻ってくる。
三崎からの着信だ。嫌な予感しかしない。
「何でしょう」
『今すぐ来い』
三崎の声が硬い。
「何があったの」
数秒の沈黙。そして、
『駅前広場で二十七人倒れた』
詩乃の目が見開かれる。
『全員、まだ生きてる。ただな』
遠くでサイレンが鳴っている。
『全員、同じ曲を口ずさんでんだよ』

キィィィィン……

容器の中の琥珀が共鳴した。まるで、それを歓迎するように。



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