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【連載小説】声を聞かせて#31 pas seul「美しい人」他


美しい人

 オートロック前でインターホンを押して伝えた。
「小城です」
「はぁい」
 元気な声が返り、自動ドアが開いたので、入った。それだけ。
 大学で会ったりLINEしたり少し車で出かけたりするのとはわけが違うのに、ただ機械越しに声を聞いて自動ドアをくぐった。それだけ——。
 こじんまりしたエレベーターで愛勇理の住む階に向かうあいだ、真行は何度も息をついた。

 ——こうも現実はドラマと違う。

 高校生のころ、リビングのこたつで姉えい子が言った。

「はぁ、こげな展開ありえんっちゃろぉ? だいたい現実はぁ、タイミングよくかっこよか音楽ち流れてこんも~ん! 萎える……」

 そうして晩酌用に父が茹でた枝豆をどんどん食べながら、

「な? 真行」

 と同意を求めてきたので思わず父を見た。ビールを注ぎつつ父は言った。

「そいじゃな」
「父さんには聞いちょらん!」

 今なら姉の言っていたことがわかる。本当にその通りだし、現実はドラマのようではない。真行はエレベーターを降りて短い廊下を進んだ。部屋番号を確かめてドア前のインターホンを押すと、ガチャガチャとチェーンが外れる音がした。そして、

「どうぞ」

 と、美しい人は微笑んだ。かっこいい音楽はもちろん流れてこない。

愛勇理の部屋

 玄関ドアの内側に入った真行は、黒のダウンジャケットを脱いで丸め、たたきの脇に置いた。

「あ、貸して貸して! かけとくから……」

 愛勇理は手を差し出したが、真行は固辞した。

「いえ、だいぶ居酒屋の匂いがついているので……」
「えっ、こまか!」少し後ずさって、
「まぁいいや、上がって」と愛勇理は言った。

「お邪魔します」

 真行が会釈して靴を脱ぎ、玄関のたたきで振り返り、かがんで靴の向きを直して立ち上がり振り返ると、愛勇理はさっきと同じ場所に立って見ていた。一瞬、何か言いたそうにしたが、

「どうぞ」とだけ言って廊下の奥へ歩いていった。

 暖色系の明かりに包まれたリビングルームはほどよく散らかっている。日高先生らしい、と真行は思った。ベランダに面した窓はカーテンが開いていて、大学あたりの夜景が見える。
「眺めがいいですね」と言うと、
「ね」と微笑んで、愛勇理は対面式のキッチンに入った。

「私、田舎者だから。こういう風景に憧れてたんだぁ」

 コンロをかちかちと点火しながら愛勇理は言った。

「ご地元は、どちらですか?」
「鹿屋市だよ、でも、うんと山のほう」
「鹿屋なら、僕の家とそう変わらないですよ」
「郡元なんて都会だよ! 市電走ってるじゃない……あ、そこ座って」

 愛勇理はカウンターわきの丸テーブルを指したが、気まずい顔になった。二つある椅子のうちひとつに、黒いリュックがひっかけてある。愛勇理はカウンターから出てきてそれを取り、

「ごめん、ずぼらで」と言った。
「いえ」真行は椅子にかけ、姿勢よく座ってテーブルの上を見た。白い植木鉢のようなものが置いてある。中身はカラだ。

「それね、枯らしちゃって」真行の視線に気付いたのか愛勇理は言った。「よせばいいのに買っちゃうの。そして枯らす……」
「いや、きれいにしてらっしゃるじゃないですか、すごく」
「それは……あたりまえ……」

 コンロの上で鍋がことことと音を立て始め、急に鼻が利いてきた。ずっと良い匂いがしていたはずなのに、どうして気付かなかったのだろう。
 真行は思った。ああ、感覚の遮断だ。
 とても緊張していたのだ。

「できた」

 キッチンで振り返り、愛勇理は嬉しそうに真行を見た。が、

「ねぇ小城君」と、急に真顔で言った。「私さ、へんよね?」
「え?」
「正直に言ってね?」

 愛勇理は豚汁の椀をふたつ、木のお盆に乗せて運んできた。そして真行の前にひとつ、反対側にひとつ置いて、

「いやあの、おかしいよね?」と、同じことを言った。

豚汁

「あ、お箸」

 愛勇理はキッチンに走り、がたがたと引き出しを開けて箸を取って戻ってきたが、真行の横まで来るとまた、「ごめん」と言った。
「箸置き」
「いや、もうあの、すぐいただきますので」
「はぁ……」

 愛勇理は真行に箸を渡して自分も椅子にすわり、うなだれた。

「すごいへこむ」
「どうしてですか?」
「え、どうしてって……あ、食べて」
「はい。いただきます」

 会釈して椀を取り、真行は豚汁をひとくち飲んだ。味噌の風味が鼻から入ってきた。温度もちょうど良く、とても美味しかった。愛勇理はなんともいえない表情で真行をちらちら見ている。
 真行は思った。
 ——こういうふうなことは、どこにも載っていないし、誰にも聞けない。いや正解なんて誰にもわからないのだ。一発勝負の面接試験だが、正誤の基準も……存在していない。いやどこかにあるはずだ。誰か言ってなかったか? どこかで誰か……。

「美味しいです」

 ようやく言うと、

「ほんと」

 愛勇理はほっとした顔で自分も椀に口をつけた。

「自分じゃわからなくて……いつもの味だから。小城君のお母さんて、お料理上手?」
「それは、よそと比較する機会がなくて……」
「そっか。まぁお口に合ったならよかった……」
「いえあの、ほんとに美味しいです。母が言ってました。豚汁はいっぱい作ったほうが美味しいって」
「そうかもね……」
「はい。姉が進学で離れて、僕も何年か外に出ていたので。父と二人だと汁物は味噌汁しか作らなくなった、て言ってました」
「そうか……今は?」
「それでも、頻度は少ないですよ。なので豚汁は久しぶりです」
「じゃあよかった!」

 愛勇理はようやく、いつもらしい笑顔を見せた。

「おかわりいる?」
「はい」

 嬉しそうにキッチンに戻ってコンロに火を入れる姿に、真行は思った。
 ——そうか。日高先生も奥さんをしていたころがあった。こんな人が、こんなふうに台所に立って。でも……。

「日高先生」
「ん~?」

 コンロのほうを向いたまま愛勇理が相槌を打つ。

「ありがとうございました。今日」

 驚いたように振り返った愛勇理に、真行は言った。

「お誘いいただいて……」
「いやいや!」愛勇理はコンロに向き直った。
「さっき、そのね? いや真面目に……ごめん。自分でも……なんで小城君に連絡しちゃったかわからなくて」

 表情は見えないままだ。

「何かあったんですか?」

 尋ねてから、はっとした。アイボリーのリブセーターを着た細い肩が、わずかに震えている。

「日高先生」
「あの……ごめん」

 真行は椅子を立ち、キッチンに入った。コンロに向かったままの愛勇理の頬に、幾筋も涙がつたっていた。

「先生」

 愛勇理は真行を見た。真行は言った。

「もう、ごめんは無しですよ」

 口をつぐんだ愛勇理を真行は見た。

「言ってください、何があったのか」

 愛勇理はコンロのつまみに指をかけて火を止めた。かたわらからキッチンペーパーを取ると顔をふき、真行の胸に身体をぶつけてきた。

「……先生」

 指を上げて腕に触れた。思ったよりずっと細い腕。愛勇理は、真行の杢グレーのセーターに頭を預けたまま黙っていた。が、

「謝っちゃだめって言われたらなにも言えないの、おかしいね」

 と言った。そして、

「謝ればいいと思ってんだ、私」と続けた。

pas seul<ひとりじゃない>[pasœl]

 真行は愛勇理の腕に手を添えてうながし、ソファに座らせた。
 そして横に座り、小さく息を吸った。

「無理にお話しいただかなくて大丈夫ですから、ね」

 結んだままの形の良い唇に、力が入る。真行は目をそらし、テレビボードのわきで部屋を照らすランプシェードを見た。

 ——先生が選んだのかな。それとも。いや……。

 真行はその考えを振り払った。余計なことを思ってる。余計なことだ。
 なんだろう。やかましい、頭の中が。
 すべて聞けばいい。聞けよ。ずっと気になってたことを聞いたらいい。
 かっこつけてる。
 そうじゃない。配慮。配慮? なんのための。ここはカウンセリングルームではない。

「先生」

 泣きそうになっている。今度は自分のほうが、よほど。

「とても強い人なんです、僕の姉って。でも先生には似ていない。初めてお会いしたときから日高先生は僕にとって」

 ——なに言ってんだ……なにを言ってるの。
 わからない。でもいい。口から出てきた言葉のほうが、ずっと俺のほんとうなんだ。

「僕にとってほんとうに……美しい人で。だから困ってほしくない。謝らないでほしい。棚橋教授からご主人についてのお話を聞いたとき、聞いたときからずっと思ってました。先生のせいじゃないですよ。先生のせいじゃない」

 涙がこぼれたが、鼻をすすりあげて真行は続けた。

「僕の姉は決して謝らない。僕の姉は、間違ったことは決してしないと信じてるから。そして父も母も僕もそれを信じてた。とても頼ってました。当たり前みたいに。だから姉が進学で家を出てから……すごく困りました。頼れすぎる人って、周りをそうしてしまう。その人のせいじゃなくてそういうふうに作ってしまう。僕はそのころずっとそのことを考えていたんです。そうして気が付いたら心理を目指してました。こういうふうに気持ちが迷子になったとき、それを助けてくれる学びだと思って。でも実際に臨床に入るとまるで違った。助けられない。誰も助けられない。神は自ら助くるものを助くという聖書の言葉がある。何度も何度もあの言葉がよぎるので、頭がおかしくなりそうでした。触れずに寄り添う、答えを言わない、目をそらさない。でもそれがあの日、駐車場の車の中で先生が僕にしてくれたことです。あのまなざしがすべてだ。先生は強い、正しい。それがご主人に伝わらなかったのは先生のせいじゃありません。その人はひどい……誰がなんと言おうと僕はそう思う。信じてください。少なくとも僕はそう思う。何も知らないけどそう思います。先生は間違ってない」

 こぼれおちる涙はそのままに、真行は鼻だけこすった。
 換気扇の回る音だけがしていた。

「小城君」

 とても小さく唇を動かして、愛勇理は言った。

「夫とは大学で知り合った……初対面から自信満々で口説いてきてね。正面きって誘ってくる人あまりいなくて、周りの反応のほうがずっと目に入ってきた。みんな、すごい人を見るように彼を見たの。それで私も、そう思っちゃった。こんな自信あるんだから、すごい人なんだって。浴びるように贈り物くれて、素晴らしい部屋を私にくれた。一緒に住もうって。学生の分際で今ならおかしいとわかる。でもあの頃は私、何にもわからなくなってたの。小さい頃から、しっかりしてる、いいお姉ちゃん、頼れる先輩と言われ続けて、そういう自分でいい、い続けようと思ってた。でも大学に来たらそんなの関係ない。出会うのは優れた人ばかり。ビジョンがあって、役割でなく自分を持っている。打ちのめされたし、そういうふうだったから簡単にのぼせてしまったの。この人のために生きようと思ってしまった……」

 愛勇理の指がすがるように動き、真行の手に触れた。真行はその指を握り返して愛勇理を見た。愛勇理は唇をわずかに引いて笑みを作り、続けた。

「同棲を始めた頃は、まだ何も変わらなかった。でも、親に借りてもらってた部屋を引き払うと、日ごと要求が増していった。家のこと、お金のこと、レポートのことだけじゃなくて、夜のこと。それまで何もなかったから私、そういうものだと思って、必死で言うなりになっていた。脅しみたいなことを言われたこともあった。愛勇理がしてくれないなら今から外でしてこようか? って」
「先生」思わず呼びかけた真行を愛勇理は見た。じっと見たまま、
「それでもまだ信じてたの」と言った。

「一歩部屋を出れば私は幸せな恋人、彼は完璧な男だって。完璧な男が具体的にどういうものかは何も知らないのに。ただ彼という人は、そういうパッケージを作り上げる力を持っていたの。それだけは事実だった。離婚したあと、人工知能の学会でプロジェクトリーダーと話してわかったことよ。ほんとに完璧な男ってああいう人。本当に人というものを知っている。私の夫が私にしたのは稚拙なコントロール。ガスライティング。まず自由を奪い、条件を与え、条件を狭く、暗くしていく。不満を抱くこと自体に罪悪感を覚えさせる……もっとも、気付くのが遅すぎた。もっと早く気付いていたら、あろうことか未成年者が被害に遭うことも」
「それは違います」真行はまっすぐ愛勇理を見、言った。
「それは先生のせいじゃありません。その人が自分で決めたことだ」
「でも監督……」
「教職に就く成人男性の配偶者に、監督責任などありはしませんよ」

 真行は愛勇理の指を握る手に力をこめ、言った。

「日本は、法治国家です。就労する成人男性を24時間監視したり、行動を制限したりすることは、配偶者どころか誰にだって不可能です。未成年者の犯罪すら保護者が刑事責任を問われるケースはないんですから」
「法解釈的にはそうだけれど……」
「倫理的責任のことをおっしゃってるんですか」

 愛勇理はうなずいた。真行は静かに息をついた。

「それは否定しませんし……自責の念にとらわれるのもわかります。そう、先生のお立場で、表立ってそう振る舞うことはできない。でもそれはあくまで体面的なことであって……」

 言葉を止め、真行は思わず目を閉じた。
 ——胸が熱い。
 これ以上何も言うなと誰かが言っている。遠くから。
 愛勇理に身体を向けるように座り直し、真行は正面から愛勇理を見た。
 そして言った。

「僕は、もう傷つかなくていいと言ってるんです」
「小城君……」
「少なくとも僕はそう思うと……どうしてそう思うかと言うと……その」

 真行は、愛勇理の瞳を見つめたまま目を外せなくなった。

「あの……」
「小城君」

 ふ、と笑みこぼし、愛勇理は言った。

「あの日、コーヒー淹れてる小城君を、初めて見て」
「はい」
「わかったんだ、私。あなたが誠実な人だって」
「……どうしてですか」
「ずっと長いこと、夫を見てたからわかった。わかったの」

 愛勇理はそっと真行を抱いた。愛勇理の髪が香る。
 真行は目をつぶり、自分も腕を伸ばして愛勇理を抱いた。ソファのスプリングだけが静かに音をたてた。
 愛勇理が落涙しているのがわかった。見ずとも。

「泣いてもいいんです」

 真行は言った。

「でも謝らないで」
「わかった」

 抱き合っていた。ずっと。
 ベランダの向こうの夜景はいつしか暗く沈んでいた。ただひとつになった影を見守るように。


いい歌すぎるので聞いてみてね。

18歳以上のあなたに……

ラブシーンには興味ないので#32に直接いきたいあなたに……

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