【連載小説】声を聞かせて#7 DAYS act3『日高愛勇理の傷』『名前のないマスター』
日高愛勇理の傷
とんとん、とドアを叩く音がした。
「はい!」
努めて大きく返事をするとドアが開いて、カラフルなエコバッグを掲げながら、
「ちょっと根を詰めすぎじゃない? とっくにお昼すぎだよ」
と棚橋が言った。
棚橋の差し入れは、コンビニのサンドイッチと紙袋に入った唐揚げ、そして温かい缶コーヒーだった。食事を取るあいだ、棚橋は黙ってスマホを見ていた。食事を終え、温かいカフェオレのプルタブを引いて息をつくと、棚橋は合わせるようにため息を落として、
「小城君て、お姉ちゃんいるでしょ。どんなお姉ちゃん?」と尋ねた。
「優秀です、とても」
「そういう感じよね、姉って」
棚橋は苦笑した。
「私も弟がいるからわかる。こちらは目の中に入れても痛くないと思ってんのに、あっちは未だにびくびくしてる、おっかしいよねぇ」
姉らしい笑顔がこぼれ、真行は離れて暮らす姉を思った。一番古い記憶は、なぜか姉だ。夏。レースのカーテンが風に揺れていた。真行はリビングの座卓で姉が算数ドリルを解くのを見ていた。姉のほうも真行をちらちら見て、やがて笑いだした。姉は母を呼んだ。母が鉛筆を持たせてくれたのを覚えていた。僕は何を書いたのだろうな。真行は言った。
「運動も得意で近所でもガキ大将で、いい姉でした」
「——ずっと守られていたんだね。顔に書いてある」
優しい目をして、棚橋は言った。
「日高准教授も、そういう姉だった。いや、誰にとってもそういう役割。三人姉妹の長女なんてだいたいそうなる。上背があって頭がよくて運動神経も抜群なら。憧れの先輩というやつよ。今も二人の妹をかわいがっている」
そうだな。姉というのはそういうものかもしれない、と真行は思った。真行の姉、えい子は高校までは砲丸投げをやっていた。看護大学に進学してからは、現在に至るまでウェイトトレーニングを続けている。今日は何キロ上げたと聞くたび、感心するよりもゾッとする。
真行はデスクの上に置いた昼食のゴミに目をやった。食べ終えたサンドイッチの袋を折りたたみたい。が、身じろぎせずじっとしている他はない。教授の御前である、と。心の中で誰かが戒めるからだ。部屋は、しんとしていた。サンドイッチの包装が形を戻そうとして、小さい音がしたとき、
「さっき、日高に頼まれたの。私から小城君に話しておいてくれって」
と棚橋は言った。
「日高は大学で同い年の男と同棲しながら、院に進んで心理学をやりたいと考え始めていた。そういう相手だったというわけよ。男の進路に合わせて、彼女自身の郷里でもあった鹿児島で院進、結婚したけど。女子高の教師になった夫が教え子とトラブルを起こした。不起訴にはなったけど、でも——」
膝の上で両手を固く握り、真行は視線を凍らせて聞いた。棚橋は続けた。
「男性の中には、性欲を抑制できない症状を強くあらわす人がいる。身体のつくりとして男性ホルモンが多いわけだから、より顕著に出る。学生時代から支えてきた日高は、心をやられた。逮捕や失職にまつわる世間体だけじゃない。ひどいことを言われた」
棚橋は黙った。真行はおそるおそる棚橋のほうを見た。その瞳は真行に、この先を聞く覚悟はあるか? と問うていた。
「ひどいこと、とは」
かすれた声で真行が尋ねると、
「いつも見下ろされていてつらかったって」と棚橋は言った。
「見下ろす側に、俺の気持ちはわからない、一生気付くことはできない、と夫は言った」
「そんな」
「日高は——たしかにわからなかった。彼女にとって高身長はアイデンティティ。それはいつだって、他の誰かの役に立つものだった。部活でも、文化祭の準備でも、家事でも。夫と付き合い始めても、彼のコンプレックスに気付くことはなかった。夫は、170センチなかったのかな? 陽気で、負けん気が強くて。友達の多い人だった、て聞いたけどね」
言いながら、棚橋はサンドイッチの包装を手に取り、細く折りたたんだ。器用に小さく結んで、再び机の上に置いた。
「——そういうこと言ってしまえる人なんだ、と日高がもらすと。夫は、それは人格否定だよね、とさらに言った。売り言葉に買い言葉。心理の道を志す者が口にしてはならないことを、日高は言ってしまった。私が身長を低くできないのと同じに、あなたのそういうところを治すこともできない、と」
真行は静かに息を吸い、目をつぶった。そんな言葉を放ってしまった愛勇理の痛み。その痛みそのものに胸を押されたようになった。
「離婚したところでどうしようもない。だいぶ傷ついていた。このプロジェクトのリーダーが日高にMIRRORを任せなかったのはそのせいです。彼はとても優秀で、ときに冷酷にもなれる人。でも本質的には優しい人なの」
プロジェクトリーダー。マスター、造物主?
その人がミラーを作った人。人として、ミラーが好きな人。とても——。
名前のないマスター
「性犯罪再犯防止のためのプロジェクトなのだから、MIRRORとの対話も最終的にはそこに至ることになる」
と棚橋は言った。
「はい」
真行の返事を、棚橋は、目と耳と空気すべてで確かめるように聞いた。そして表情を変えず、続けた。
「まさに今あなたの心にあらわれているそのざわつきを、忘れないで。令和最新の生成AIにも未だ不可能なこと、それは研究者自身が身体からのメッセージを受け取る、ということです。いずれ人類は人工的に生体を作り出し、人工の神経系と脳をつなげることを可能にする、科学の力で情動と犯意を解き明かせる日もくるでしょう。しかし、その日を待たねばエロスと犯罪衝動の関連がわからない、解消の法を見出せないなら、それは言語の、文学の、心理の、哲学の敗北です。あなたも研究者なら負けん気を持つこと。ただしどうしても耐えがたければ我慢はしないで。それはプロジェクトリーダーからの厳命だからね」
「ミラーが言ったマスターとは、その人のことですか。お名前は……」
「名前は言えません」
棚橋はぴしゃりと言った。
「これは極秘プロジェクトだから」
極秘? 思わず口が開いた。オフィスチェアが、ぎ、と音を立てた。
「そんな重要なプロジェクトに、僕みたいな」
「僕みたい? あなたみたいな人だからいいんだよ」
棚橋はパイプ椅子の背にもたれ、優しく言った。
「あなたってほんとうに珍しい人材。穏やかで冷静で人当たりがよくて。出過ぎず、攻撃性もなく、消極的すぎるということもない。中高ではバレーボールをしてたのよね、六年間。体力と根気がある。成績はもちろん。ずっと鹿児島大のお膝元で大きくなって地元にいたのに、ここを出てからは福岡と長崎、縁者もいない土地で問題なくクリニック務め、職場でも問題はなし。院に戻ったのは……疲れちゃったんでしょ? そんなのはよくある。なさすぎたくらい。ため込むタイプでしょ? 表に出さないから、何もないと思われてるだけ。おもしろみがない、人間味がない、とか?」
心理学教授に看破される以上におそろしいものはない。
真行が黙りこくっていると棚橋は笑った。
「臨床経験も長い。実際に人を見てきた人の目線はなにより大事でしょ。あなただからいい。わかってくれた?」
「臨床の経験は、確かにそうです。でもそれは患者さんたちの人生であって僕のものではありません。僕自身は、そこまで他人と深く関わってないし」
棚橋は身体を起こし、じっと真行を見た。
そして言った。
「みんなそうだよ。誰だってそう。友達が多いとか交際経験が豊富だからって、人間を理解したことにはならない。私は夫としか交際したことないけど、恋愛心理は学んできた。だから、言語化できる。逆に、どれほど多くの人と交際して知見を得ても、当事者自身が言語化することは難しい。人生経験の有無で業務上の適正をはかっていたら日本の司法は崩壊しますよ」
棚橋は自分の発した言葉に自分で吹き出した。
「失礼。あなたの人間性には私が太鼓判を押します。日高がノートパソコンを持ってきたらセッティングしてね。そしたらあなたを交えてオンラインで話せるようになる。ノーカメラでなら、プロジェクトリーダーと話すこともできると思う。心配しないでね」
さっと立ち上がり、真行の肩をぽんと叩くと、棚橋はデスクの上のごみをつかんで出て行った。昼下がり、真行が教授の言葉すべてを整理するには、まだ少し時間が必要だった。
#8 へ続く……
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