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香りは、なぜ昔の記憶を思い出させるのか?

駅のホームを歩いていたとき。
ホテルのロビーに入ったとき。
エレベーターで誰かとすれ違ったとき。

一瞬、何かの香りがする。


その瞬間、何年も思い出していなかった場所が戻ってくる。

昔住んでいた家。
子どもの頃の夏。
以前よく行った店。
もう会わなくなった誰か。

不思議なのは、思い出そうとしていなかったことだ。
頭の中で検索したわけではない。
写真を見たわけでもない。
名前を聞いたわけでもない。
ただ、匂いがした。

それだけで、時間が勝手に戻ってくる。

香りは、「思い出す」より先に届くことがある

  • 記憶には、思い出そうとして取り出すものがある。

  • 「あの店の名前、何だっけ」

  • 「去年の旅行はどこに行ったっけ」

  • 頭の中を探す。

  • これは分かりやすい。

でも、香りによって戻ってくる記憶は、少し違う。
突然やってくる。
準備がない。

そして、記憶そのものだけではなく、そのときの空気や、感情まで一緒に戻ってくることがある。
こうした現象は、しばしばProust phenomenon(プルースト現象)と呼ばれる。
匂いが自伝的記憶を呼び起こす現象については古くから研究されていて、レビューでは、嗅覚刺激が他の感覚刺激とは異なる特徴をもって自伝的記憶を呼び起こす可能性が示されている。
(※自伝的記憶:人生の中で経験した具体的な出来事や、自分自身に関する知識をまとめた記憶の総体)

でも、なぜ匂いなのだろう。

鼻は、ただ「香りを嗅いでいる」わけではない

香りの分子が鼻腔に入る。
嗅上皮にある嗅覚受容体がそれを検出する。

そこから信号は嗅球へ送られ、さらに嗅覚野へ伝わっていく。
ここまでは、感覚器官としての話だ。

でも面白いのは、嗅覚がその先でつながっていく場所にある。
嗅覚系は、扁桃体や海馬、眼窩前頭皮質、島皮質など、
感情や記憶に関係する脳領域と密接につながっている。
だからといって、「嗅覚は記憶中枢に直結しているから最強」
と単純化するのは雑だ。

記憶は一つの場所に保存されているわけではないし、香りを認識するにも、
学習、
文脈、
感情、
過去の経験が関わる。

でも、少なくとも嗅覚は、記憶と感情から遠い感覚ではない。

香りには、名前がなくても成立する

赤い色を見れば、「赤」と言える。
犬を見れば、「犬」と言える。
でも匂いは、少し難しい。
嗅いだ瞬間、分かる。
でも、名前が出てこない。
「これ、何か知ってるんだけど……」

それでも、身体は知っている。
懐かしい。
嫌だ。
安心する。
昔を思い出す。
つまり、言葉にできる前に、すでに何かが起きている。

ある研究では、香りそのものを手掛かりにした場合と、香りの名前を手掛かりにした場合とで、自伝的記憶の質に違いがみられた。
香りそのものによって引き出された記憶の方が、「過去に戻ったような感覚」や感情的な喚起が強かったという報告もある。
これは面白い。

名前を知ることと、記憶が戻ることは、同じではない。

記憶は、文章では保存されていない

私たちは記憶について、頭の中にファイルが保存されているように考えがちだ。
「2012年 夏」
「大学時代」
「昔の家」
みたいに。

でも、実際の記憶は、
そんなに整理されていない。
場所。
音。
光。
人。
身体感覚。
感情。
そして、匂い。

一つの経験には、複数の感覚が同時に存在する。
その中の一つが、あとから入口になる。
だから、記憶を思い出すというより、ある感覚から、当時の状態の一部が再構成されると考えた方が近い。

香りは、その入口になりやすい。

なぜ、「昔の記憶」が多いように感じるのか

香りによる記憶の研究では、比較的古い時期、とくに幼少期の記憶が呼び起こされやすい可能性も報告されている。
ただし、ここも「香りは幼少期記憶専用の装置」と考えてはいけない。
研究デザインや手掛かりによって結果は変わるし、個人差も大きい。
それでも、一つ考えられることがある。

子どもの頃、私たちは、世界の多くを初めて経験していた。
初めて泊まったホテル。
祖父母の家。
学校。
海。
雨上がり。
新しい教科書。
知らない街。
そこには、たくさんの匂いがあった。
そのとき、「この香りを記憶しておこう」なんて考えていない。

それでも、匂いは経験の一部として残っている。

嗅覚は、「背景」を記憶しているのかもしれない

視覚は、対象を見る。
顔。
文字。
景色。
物。

聴覚は、声や音楽を追う。
でも嗅覚は、対象が分かりにくいことがある。
部屋そのものの匂い。
季節の匂い。
衣服に残った匂い。
街の匂い。
誰かの近くにいたときの匂い。

つまり、嗅覚は、「主役」よりも、その場全体の背景に入り込む感覚
なのかもしれない。
だから、あとで同じ匂いに出会ったとき、一点ではなく、場面ごと戻ってくる。
これは研究から断言できる説明ではない。

でも、香りが記憶と結びつく感覚を考えるとき、かなり納得できる見方だと思う。

嫌な香りも、忘れにくい

香りと記憶というと、懐かしいパン屋。
昔の香水。
実家の木の匂い。
そんな美しい話ばかりになりやすい。

でも、嗅覚は別に、いい記憶だけを運んでくるわけではない。
病院。
煙。
消毒薬。
古い部屋。
ある場所の湿気。
嫌だった記憶も戻ってくる。
嗅覚と感情処理には共通する脳領域が関与していることが知られていて、香りに対する反応には、過去の学習や文脈も影響する。
だから、「いい香り=リラックス」というのも、かなり乱暴な話だ。

ある人にとって心地よい香りが、別の人には嫌な記憶を呼び起こすこともある。
香りの意味は、分子だけでは決まらない。

香りは、経験によって意味が変わる

例えば、あるホテルで使われていた香り。
最初は、ただの香りだった。
でも、そこで何度もいい時間を過ごす。
すると、その香りが、その場所の感覚を帯びてくる。

逆もある。

嫌な経験と一緒に存在した香りが、あとから不快に感じられる。
つまり、嗅覚は、「これはこういう香りです」という化学的情報だけを処理しているわけではない。
脳は、その匂いを、自分の履歴の中で意味づけている。

香りが記憶と結びつくのは、鼻が記憶しているからではない。
私たちが、その香りの中で何かを経験したからだ。

でも、毎日嗅いでいる香りには気づかなくなる

ここで、もう一つ不思議なことがある。
家の匂い。
自分の香水。
職場の匂い。
最初は分かる。

でも、しばらくすると、分からなくなる。
友人の家に行けば、その家独特の香りに気づく。
でも本人は、あまり分かっていない。
これは、嗅覚のhabituation / adaptation(慣れ/適応)と関係している。
同じ香りに繰り返し、あるいは長く曝露されると、感じる強さは低下していく。
ヒトでもこの現象はよく知られており、嗅覚系の末梢だけでなく、より中枢側の処理も関わっていると考えられている。
つまり、鼻が壊れたわけではない。

感覚は、「変化」に気づくためにできている

もし、部屋にあるすべての匂いを、毎秒、同じ強さで感じ続けたらどうなるだろう。
香水。
家具。
洗剤。
料理。
自分の服。
空調。
外気。
すべてが常に前景に出てくる。

それでは、新しい変化に気づきにくい。
嗅覚の慣れには、変わらない背景を弱め、新しく現れた情報を拾いやすくするという意味があると考えられる。

ここには、感覚の面白い性質がある。
感じなくなったから、存在しなくなったわけではない。

「感じない」と「ない」は違う

これは、JOURNAL 06の皮脂や、07の身体感覚、09の顎の緊張にも、
少し似ている。

身体や感覚について、私たちはつい、意識できるものだけを存在しているものとして扱う。

匂いを感じる。
だから、匂いがある。
感じなくなる。
だから、消えた。
でも実際には、環境側の刺激が残っていても、知覚の強さだけが変わることがある。
香りは消えていない。

変わったのは、こちら側の反応かもしれない。

久しぶりに戻ると、また匂いがする

旅行から帰ってきたとき。
長く家を空けたあと、玄関を開ける。
すると、普段は気づかなかった自宅の匂いがすることがある。
少し時間が経つ。
また分からなくなる。

嗅覚の適応・慣れは、刺激から離れることで回復する。

いつもそこにいると、分からない。
離れると、分かる。

これは匂いだけの話なのだろうか。

近すぎるものは、見えなくなる

毎日見る自分の顔。
毎日使う身体。
毎日いる部屋。
毎日会う人。
毎日嗅ぐ香り。
近くにあり続けるものは、情報として背景に回る。

私たちの脳は、すべてを毎日「新しい」とは扱わない。
それは効率でもある。
でも同時に、存在しているものに気づかなくなるということでもある。
そして、距離ができたとき、突然戻ってくる。

香りの場合、その距離は、何年という時間になることさえある。

記憶は、なくなったのではなく、入口を失っていただけかもしれない

何年も思い出さなかったことを、「忘れていた」と言う。
たしかに、自由には思い出せなかった。
でも、ある香りをきっかけに、突然戻ってくる。

だとすると、少なくとも一部の記憶では、
完全に消えていたというより、取り出すための手掛かりがなかった
と考えることもできる。

記憶研究では、
retrieval cue : 検索手掛かり が、記憶の想起に重要な役割を持つ。
香りは、その強力な手掛かりの一つになり得る。

「あの頃」を覚えているのは、頭だけではない


昔の写真を見る。
そのときの自分を思い出す。
でも、香りによる記憶は、少し身体的だ。
「知っている」というより、「戻った」に近い。
胸の感覚。
気分。
空気。
距離。
その場にいた自分。
研究でも、香りによって喚起される自伝的記憶は、感情的な喚起や「過去へ運ばれたような感覚」と結びつくことが報告されている。
記憶は、情報だけではない。

当時の自分の状態も、記憶の一部なのかもしれない。

香りを「効能」にしすぎない

ウェルネスや美容の世界では、香りに、すぐ役割が与えられる。

この香りは、リラックス。
この香りは、集中。
この精油は、睡眠。
この匂いは、自律神経。
もちろん、香りが気分や情動に影響を与える可能性については研究されている。
でも、香りへの反応は、分子だけで決まるものではない。
濃度。
状況。
文化。
好み。
過去の経験。
記憶。
期待。
いろいろなものが絡む。
だから、「この香りを嗅げば、この状態になる」という説明は、人間を少し単純にしすぎる。

香りは薬のスイッチではない。

香りは、「何を感じるか」より「何を連れてくるか」

ある香りが、何に効くのか。
それより、その香りが、自分に何を連れてくるのか。
そっちの方が、嗅覚について考えるときには、面白いかもしれない。
何も思い出さない香りもある。
好きでも嫌いでもない香りもある。
一方で、一瞬で場所まで変えてしまう香りがある。
その差は、香りそのものだけでは説明できない。

私たちが、その香りと一緒に過ごした時間が違う。

人生には、言葉になっていない記憶がある

記憶というと、出来事を語れることだと思っていた。
「いつ」
「誰と」
「どこで」
「何をした」
でも、香りによって戻ってくるものには、言葉にならないものがある。
光。
温度。
空気。
安心。
違和感。
誰かがいた感じ。
その日の自分。
うまく説明できない。

でも、確かに知っている。
もしかすると、私たちは、自分が話せる人生より、もう少し多くの人生を覚えているのかもしれない。


30秒でわかる|なぜ香りで昔の記憶が突然戻るのか

嗅覚は、感情や記憶に関わる扁桃体・海馬などを含む脳ネットワークと密接な関係があります。香りは、自伝的記憶を呼び起こす手掛かりになり、その記憶が強い感情や「過去に戻った感覚」を伴うこともあります。
ただし、
「嗅覚だけが特別な記憶回路を持つ」と単純化するのは正確ではありません。
香りへの反応には、
その人が過去にその香りと何を経験したかも関わります。
そして同じ香りを長く嗅ぎ続けると、
嗅覚は慣れ、
知覚される強さが低下します。
香りが記憶を持っているのではない。
僕たちの時間が、香りに結びついている。


Azabu Re.TREAT

Azabu Re.TREATでは、施術の中で香りを使うことがあります。
ただ、香りを「こう効くもの」と一方向に決めつけることはしていません。
同じ香りでも、感じ方は人によって違う。
その日の状態によっても違う。
過去の記憶によっても違う。
香りもまた、自分の感覚について少し知る入口の一つだと考えています。
Azabu Re.TREATは、
麻布十番のプライベートヘッドスパです。


ご相談やお問い合わせはお気軽に公式LINEからどうぞ。
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黒かった髪から、
一本だけ色が消える。
その一本の中では、
一体何が起きているのか。
次は、
髪の色と、時間について考えます。


REFERENCES

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  • Willander J, Larsson M. Olfaction and emotion: the case of autobiographical memory. Memory & Cognition. 2007. PMID: 18062543.

  • Long live Proust: the odour-cued autobiographical memory bump. Cognition. 2000. PMID: 10771279.

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  • Dalton P. Psychophysical and behavioral characteristics of olfactory adaptation. Chem Senses. 2000. PMID: 10944515.


※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、医学的な診断・治療を目的とするものではありません。嗅覚の低下や消失、においの感じ方の急な変化などが続く場合は、耳鼻咽喉科などの医療機関へご相談ください。


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