見出し画像

「ともだち」って、なんだろう~中学生男子のリアルな悩みから、友達付き合いの在り方を考える

こんにちは、水無瀬あずさです。ようやく秋らしい気候になってきました。我が家の子どもたち(中3・中1)は、今頃になって通学中に手足を蚊に刺されまくっているようで、蚊も季節感がバグってるなと感じる今日この頃です。

さて突然ですが皆さんには、「ともだち」がいますか。どうもこういう書き方をすると『20世紀少年』を思い出して不穏な気持ちになるのですが、怪しい宗教団体を作って世界を破滅に導く人とは関係ありません。

敢えて平仮名で「ともだち」と書いたのにはワケがあります。というのも私の中では友達って、広義の「友達」と、狭義の「ともだち」があるからです。前者は「顔見知り」「同じクラスだった人」「同じ職場の人」「名前だけ(顔だけ)知っている人」など、そこまで親しくない人も含み、後者は「友達」の中でも私が心から信頼して仲良くなりたいと思っている人、いわゆる「親友」と呼べる、呼びたい人を指します。

一口に友達と言っても、その関わり方や親密度、想いなどによって濃淡が違いますよね。思春期真っ盛りの我が子たちが友達についてあれこれ悩んでいるのを見ていて、「ともだち」との関わり方って人間の考え方や生き方に大きく関わるものだなあと考えさせられるものがあり、非常に興味深く感じました。

そこで今回は、「ともだちって何だろう?」という非常に青臭いテーマでnoteを書いていきます。当たり前ですが大人にも子どもにも友達はいて、その関係性の中で私たちは日々を過ごしています。忙しい毎日だからこそ、ふと触れ合った友達との会話に癒されたり、励まされたり、元気を貰ったりするわけで。そういう何気ない日常って実は大事なことなんだよなあ、友達がいるから頑張れるんだよなあってこと、改めて考えるきっかけになればいいなと思います。最後までよろしくお付き合いください!


「僕は友達が少ない」―中学生男子のリアルな悩み

ラノベのタイトルではありません。現在受験勉強真っ最中の長男くん、中1の次男くんも、小学校高学年ごろからやたらと「自分には友達が少ない」と言うようになりました。何でも、「休み時間に話せる友達がいないから、本を読んだり宿題をしたりして過ごしている」と言うのです。

え!我が子そんなにボッチなん?と心配になり、小学校では個人面談、中学校では三者面談などで学校での様子を先生に聞いてみるのですが、「特に仲のいい子はいないんですが、クラスのみんなと広く仲良しですよ~」「〇〇くんが長男くん(次男くん)と仲が良いって言ってましたよ~」とか言われちゃって、「ふむ?どゆこと??」ってなっていました。別にボッチではないらしい。

そんな子どもたちでしたが、長男くんが中2のころ、「本当に気の合う友達なんて、俺きっと一生できない」と泣きそうになりながら私に相談してきたことがありました。

何でも、そこまで気が合うわけじゃないけど話を合わせて仲よくしている友達がクラスに2人いるらしく、その友達が、長男くんに深夜にスマホゲームをしようと誘ってきたんだそうです(複数人でやるゲームらしい)。長男くんは「家のルールがあるから」と初めは断っていたらしいんだけど、学校でしょっちゅうその話になるらしく、孤立してツライということで、仕方なく親(私)に内緒でこっそり参加したりしていたんだって。話の途中で「黙っていてごめんなさい!」とめっちゃ謝られたんですが・・・真面目かお前!って思いました。黙っといたらええねんそんなん!(不真面目な親)

でも長男くん的には、「親に内緒で夜にゲームをするのは良くないことだし、翌日睡眠不足で辛いので本当はやめたい」と。いや本当に、真面目かお前!!(2回目)って感じです。とはいいつつ、夜のゲームに参加しないと、学校で自分の知らない話題で盛り上がっているのがツライ、どうすればいいのかなとのこと。「小学校から現在(中2)に至るまで、気の許せる友達なんていなかった。きっとこれからも現れない・・・」そんなことを言って、珍しく落ち込んでいました。

そんな彼に私は、「今の友達と付き合うのがしんどいなら、その友達を切って『もう一人でもいいや』って割り切るか、多少ガマンして一緒に居るかの二択しかない。学校で過ごすのはキミなんだから、キミが過ごしやすい方を選択するしかないよ」とアドバイスしました。

そこまで気が合わない友達だったとしても、ともに過ごすことで見識を広げたり、他愛ないことで笑い合ったり、毎日を少しでも楽しくしたりすることはできるはず。そのためには、『適当に』『それなりに』付き合う方法を知ること。これって非常に大切な社会勉強です。たくさんの友達と話を合わせながら、お互いが傷つかないように気を付けながら、距離感を模索していく、学校ってそのための勉強の場所でもあります。

スマホゲームに関していうなら、「親に見つかってスマホを没収された」とかの言い訳で、友達の気分を害さずに参加しない方法はあるはず。私も子どものころ親によく言われたんですよね、「困ったときは家族を悪者にしていい」って。そんな感じでうまいこと乗り切って、その話題のときは会話に参加できなくてもガマンするしかないんじゃない?と伝えました。

結局その後の話は聞いていないのですが、特に何もなくクラス替えを迎えたところを見ると、何とか乗り切れたのかな・・・?と推測します。おそらくですが、長男くん的には友達云々のことよりも、親に内緒で悪いこと(笑)をしていたという罪悪感の方が大きかったんじゃないかな。カミングアウトしてスッキリしたんだろう。私に似なくて真面目だなァ・・・。

なんか「水無瀬さんのお子さんは特に問題も無くていいよね」みたいに思われがちですが、意外とちょいちょいこういう悩みを聞かされ、「ええええ?うーん、どうすっぺ・・・」と頭を抱えている私なのでした。喉元過ぎれば何とやら、です。

公立中学校で「ともだち」を見つけるのは難しい

正直な話、大人だって、「友達」は超多くても、本当に気の許せる「ともだち」なんてほとんどいないものですよね。私は45年生きてきたけど、本当の「ともだち」と呼べる人はわずか3人です。たった14年しか生きていない長男くんが「友達がいない」って感じるのだって、仕方のないことなんです。

子どもたちのココロと体が成長する中で、これからおそらく数多くの人とつながり、「友達」が広がっていくはず。そのなかでふと、「あれ?この人、考え方が超近くね?」「行動パターンが似てね?」「なんかいつも一緒に居るくね?」みたいな人と、奇蹟みたいな確率で関わり、親しくなる。それがきっと、本当の意味での「ともだち」だと思うんです。でもそれって、中学生、しかも地域限定の公立中学校で出会うのはおそらく難しいんじゃないんじゃないかなあ。もっと広い世界に出て、色々な人と触れ合う中で初めて巡り会えるんだと思います。

昔の深夜に放送していたテレビ番組『松本紳助』の中で、紳助さんが教育について語っている回があります。ぜひ聞いて欲しい。「公立小学校は社会の縮図だ」というものなんですが。

この「社会の縮図」は、地域でエスカレーターで持ち上がる中学校にも当てはまっていて、むしろ小学校以上に公立中学校ってリアルな社会の縮図になっていると感じます。生活水準も学力水準もバラバラのいろんな子どもたちがいるからこそ、いろんな環境に揉まれて人は強くなれる。子どもが自らのココロとカラダを守る手段を学ぶ、それが学校という場所だと思うんです。

そして、やっぱり仲良くなる友達って生活環境や学力が近いものなので、公立学校では本当の「ともだち」って見つけにくいのが道理です。むしろその環境下で「ともだち」が見つかったなら、それはきっと一生モノの友達。大事にしなければね。

きっと長男くんが「友達」ではなく「ともだち」を見つけられるのは、高校になってからなんでしょう。同じレベルの子どもたちが集まる高校に入ったら、きっと話題がバチコリとあう「ともだち」が出てくると思うんです。ちょっと理解できないけどなんかスゴイことをやらかしそうな「ともだち」とか、自分には無理だけど憧れる、理想の生き方をしている「ともだち」とかね。中学生の世界よりも、高校生の世界の方が圧倒的に広いものだから。

長男くんにそういう話をしたら、「受験がんばろー!」って目を輝かせていました。本当の意味での「ともだち」、見つかるといいよね。

私の「友達」観

「友達」といえば、私にもいろいろと思うところがあるので、ちょっとざっくりと振り返ってみます。内容がちょっとアレなところもあるので、センシティブな話が苦手な人はタイトルを見て、読み飛ばしてくださいね。

高校時代、火事で亡くなった友達の話

私は中学校・高校とエスカレーター式の私立の女子校に通っていました。高校で人形劇部に入っていたのですが、同じ部活でそこそこ仲の良かった友達が、自宅が火事になったらしく、突然亡くなりました。あまりに突然のことで驚き、部員仲間で泣いたのを思い出します。

キリスト教の学校だったので、朝のHRで亡くなった彼女のためにお祈りをささげる時間がありました。彼女の突然の死にみんな動揺していて、多くの子が泣いているのをぼんやりと眺めていたのですが、彼女とはほぼ関わりのなかったであろう人たちが号泣しているのを見て、ふと「友達って何だろう」と思ったんですよね。

もし私がいま突然いなくなったとして、こういうふうにお祈りがあったら、同じようにたくさんの人が泣いてくれるかもしれない。でもその中で、本当に私のことを思って泣いてくれる人って、どのくらいいるんだろう。そんなことを考えてしまいました。我ながら捻くれているなあって思います。

大学時代に自殺してしまった友達の話

大学1回生のころ、同じ日本史専攻で仲良くなった友達が2人いました。授業の時に喋るだけだったけど、みんな歴史好きで、それぞれが趣味を極めている感じがあって、話していて居心地が良かったものです。

そのうちの1人の友達はサークルに入っていて、毎日とても忙しそうにしていました。授業が終わるとすぐに行ってしまうので、いつももう一人の友達と一緒に帰りながら「大変そうだねえ」などと話していたのです。それがある日、忙しいはずの彼女が突然「一緒に帰ろう」と言ってきたのです。

学校から駅までの短い距離でしたが、3人で帰るのは初めてだったので、なんだかそわそわしながら帰りました。とはいえやっぱり気になるので、「今日はサークルはいいの?」と聞いてみたところ、「うん、ちょっとね。疲れちゃって」との返事。何となくひっかかりを感じましたが、仲良しの子とケンカでもしたのかなあと思って、そのまま別れました。

そしてその後、彼女が自殺したことを聞きました。線路にしゃがみこんでいて、電車にはねられたそうです。サークルでの人間関係が原因だったようですが、詳しいことは分かりません。

それからしばらくは、かなり病みました。あのとき引き留めてちゃんと話を聞いてあげられたらよかったのかな、もしかしてあれはSOSのサインだったのかな・・・いろんなことが頭の中でぐるぐるして、どうしていいかよく分からなかったのです。授業は行けてたんだっけなあ・・・あの頃どう過ごしたのか、ほぼ覚えていません。後から聞いたのですが、もう一人の友達も同じような状態でしばらくショックで動けなかったと言っていました。

私は、彼女にとってどういう存在だったんだろう。もっと距離を詰められていたら、ちゃんと「ともだち」として話を聞いていれば、違う未来があったのかな。今となってはタラレバでしかありませんが、今も昏い思い出として胸に残っている出来事です。

ママ友の話

直近で友達といえば、ママ友です。子どもたちが生まれたばかりのころ、あるいは幼稚園の保護者繋がり、学校のPTA繋がりなどで知り合った多くのママさんたちと、いわゆるママ友になりましたが、これがなかなか辛かった。長くなるので書きませんが、なんというか、「子ども同士が仲良しだと、ママ同士もも強制的に仲良くしなきゃいけない」という無言の圧に疲れ果てたのです。

私はnoteでよく書いていますが、ママ友って「友」と付くから勘違いしがちだけど、「ともだち」じゃなくて「友達」、それもかなり疎遠なほう、知り合いです。子どもが同級生なだけの人たちです!!!ママ同士のコミュニティでは、生暖かい雰囲気とともに「この場の人はみんな友達!」みたいな無言の圧があり、私も初めは「そんなものなのかな」と馴染めるように頑張りました。が、どだい無理な話だったんですわ、性格的に。だんだんしんどくなり、馴染めない私が悪いのかと自分を責め、なんとか仲間になれるように振舞っていた時期がありました。私にもあったのよ、そんな時期が!

実際のところ、何人か本当に仲良くなったママ友はいました。たまに休みの日にランチしたり、飲みに行ったりもしました。楽しかったなあ。ただ、子ども同士が関わっていた時期はとても仲が良くて「卒業してからも会おうね!」って約束はしても、いざ子どもたちが卒業して関わりがなくなるとアラ不思議!話すことがほぼなくなるんです。これ実体験です。共通の話題がなくなると、人間ってこんなにも遠く感じるのねっていうか。それもそのはず、だってママ友は「私の友達」じゃなくて「子どもの友達のママ」なだけなんですもの。

そんな時期を経て、私が出した結論は。「気が合わない人とはもう付き合わなくていいや」でした。学校でボッチでもいい、一人のが気楽だと。そして、ママ友付き合いが嫌になった私が目をつけたのが、役員であり、PTAでした。率先してそういうのやる人には、基本的にママ友は寄ってこないんだわ。

私の今の「友達」と「ともだち」の線のひき方は、このママ友付き合いの経験が大きく影響しているなあと今思いました。女は怖いやで・・・。

ちなみに、PTAで出会った同じように変わった人たちとはとても仲良くなり、今もたまに連絡を取り合ったり情報交換をしたりしています。みんな忙しいので必要以上に絡みが無いし、それぞれが我が道を行っているので話を聞いていて非常に面白いです。子どもたちが卒業しても、もしかしたら関わりを続けられる人たちなのかもしれません。

友達にはグラデーションがあっていい

このように私の中には、顔見知り=「友達」、仲のいい人=「ともだち」という考え方があります。という話を、ある「ともだち」にしたところ、「水無瀬さんは友達にずいぶんと高いレベルを求めてるんやなあ」って言われました。そうなのかなあ。そうだとしたら、おそらく前述のママ友付き合いなどがあって、そこに順位的なものをつけるようになってしまったってことなのかもしれない。

でも長男くんにも話しましたが、友達って濃淡があっていいと思うんですよ。「ともだち」ほどじゃなくても濃い付き合いができる人もいれば、非常に遠すぎる距離感の人もいて、学校で会った時に「あ、どうも」と会釈するだけの関係性とか、いろいろあっていいんですよ。それでも広く浅く付き合う関係性にもきっと意味はあると思うし、「ともだち」だからこそできる濃ゆい付き合いもあるだろうし、だからこそ人間楽しいってもんだよな。

夫とお酒を飲みながらこれに関して議論したことがあるのですが、その時の結論としては、「急に連絡が取れなくなったときに、どうにかして連絡を取ろうとするのが『ともだち』。誰かに聞いてみようとか、今度確認してみようと思うなら『友達』」ってことでした。その視点で考えたとき、私の「ともだち」は3人だったんです。3人とも年賀状でやり取りはしているし、SNSやLINEで連絡したり、飲みに行ったりもしているので、これからもその人たちを大事にしていきたいと思いました。

「友達」に悩んでいた長男、「ともだち」を見つける

「俺には一生友達ができない」と悩んでいた長男ですが、今年(中3)になって、話題に良く出る友達が2人できました。正確には、前から友達だったらしいのですが、最近よく話をして一緒に過ごすようになったんだとか。一人は同じクラス、一人は別のクラスの子で、一緒に大学や難関高校の入試問題を解いたり、物理学についてのよく分からない話で盛り上がったりしているそうです。心底キモイが、なんかレベルが一緒っぽくて良かった。

一緒に帰ったり、一緒に勉強したり、一緒にご飯を食べに行ったり、学校がとても楽しそうな長男くんを見ていて、「3年目にしてようやくか・・・」と感慨深いものがあります。先日「受験が終わったら、友達と出かける約束をした!」と教えてくれて、おう頑張れやって感じ。友達がいないと悩んだ1年生、友達と付き合うのがしんどいと泣いた2年生を経て、ようやく。長かった・・・!と思ったら、今度は次男くん(中1)が「友達がいない」と言い出したので、終わったと思ったのに2周目がスタートしたよォ・・・と思っている今日この頃です。かーちゃん、がんばる!!

結び

最近の長男くんは、学校生活にも慣れ、友達もでき、成績もまあまあよいからか、何というかこう、一皮むけたような雰囲気になりました。自信に満ちているというか、大人になったというか。何かあれば「ありがとう」「ごめん」が言えるようになり、私たちにも次男くんに対してもそれなりに配慮できるようになってきて、何か困っていると「手伝おうか」って声をかけてくれるし、ああ成長ってこういうことなんだなって思います。夫も「あいつ最近、雰囲気変わったよなあ」としみじみ言っていました。まあ、代わりに変な動きとか謎のダンスをするようになって、変人が加速していますが。

そう考えると、子どもに本当に手をかけてあげられるのは中学生までなのかもしれません。幼稚園から小学校に上がったとき、「ああやっと少し手が離れる」と思ったら意外と離れなくて、中学生に上がって「やっと・・・」と思ったのに意外と離れなかったけど、いよいよ最後の手のかけどころかもね。思春期特有のめんどくささはあるけど、子どもたちにとって大事な青春の1ページなんだと思って、今度は次男くんの悩みにも向き合っていこうと思います。長男くんは受験に向けてあともうひと踏ん張り、最後まで頑張ってほしいものです。

<PR>
Webライター関連の有料記事、大好評販売中!おかげさまで、多くの皆さまにご購入いただいております。WebライターとしてAIライティングを始めたいという方、これからスキルを付けていきたいという人は、ぜひご購入をご検討ください!

いいなと思ったら応援しよう!