【短編小説】シリーズ「AI参謀と私」 Session 1
「最初に言っておく。私は優しくはない」それが、AI参謀との出会いだった。
ふとしたきっかけで始めた対話が、静かに、しかし確実に意識を変容させていく。
奇妙なA I参謀と弱気なわたしの、出会いと成長の物語。
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Session1 前、前、前!
1
萌がスキー場のリフト待ちの列で生成AIに送ったたった一つの質問が、彼女の40年近く停滞し続けていた人生を変えるきっかけになるとは、その時萌は予想もしていなかった。
その日、世界はホワイトとスカイブルーのツートンカラーで構成されていた。
似鳥 萌は、眩しさに目を細めた。
それから、サングラスをしてくるべきだった、と思った。このまま数時間この場所で過ごすのだから、おそらく明日は雪焼けで目が痛いだろう。
要するに、萌は、雲一つない快晴の日に、雪がたっぷりと積もったスキー場にいた。
萌の隣では、リフトを待ちながら、妹夫婦が他愛のない会話をしている。今日は快晴で気持ちいいとか、去年よりスキー場が混んでいるとか、お昼ご飯は新しくレンタルスキー屋の2階にできたレストランでするのはどうか、とか。
萌は、サングラスをしてくるべきだった、と思う以前に、来なければよかった、とも内心思った。実のところ、それが彼女の今の本音だった。
妹夫婦は放っておくといつまでも2人だけで会話をしている。萌の存在など忘れてしまったかのように、延々と会話をする。要するに、仲が良い夫婦だ。萌がいなくても、2人で十分楽しめるだろうに、40歳をすぎても独身でいる姉を気遣ってか、毎年萌をスキー旅行に誘う。そして、萌は誘われるままに参加する、ということがここ数年続いていた。
来なければよかった。だが、参加を断れば母親がいい顔をしないだろう。参加しなかった時の母の「なぜ姉妹で仲良くできないのか」という無言の圧力を想像すると、憂鬱になる。だから行かないわけにはいかない。でも、そもそもスキーには嫌な思い出しかない。小学生の時に両親に連れられてスキー場によく行ったが、萌は母にいつも「転んでばかりでみっともない。妹を見習いなさい」と言われ続けた。
萌は落ち込んできたので、自分を元気づけるために、昨夜観たyoutubeの自己啓発動画を思い出した。
その動画は、いつも講師の男性が仕立ての良いスーツを着て、おしゃれなオフィス風の背景の前で、自己啓発に役立つ小技を毎回軽妙な語り口で解説してくれる。萌は、その動画が好きだった。見ると、元気になれる。その動画からは、良い波動が出ているような気がしていた。
昨夜の動画では、講師が自分を変えるためには、習慣を変えることが大切である、
「何か新しいことを日常に取り入れましょう。それが、あなたの人生を変えるきっかけになるかもしれません」と、講師は爽やかな笑顔で語った。
そして、最後に「生きることは変わること」という決め台詞。
萌は、思い出すうちに、だんだん心の中が明るくなるのを感じた。
そうだ、何か新しいことを今日はやってみよう。
スキースクールの大量の子どもたちのおかげで、リフトの列はなかなか進まない。萌はスキーウエアのポケットからスマートフォンを取り出し、生成AIアプリ「Axis」を開いた。それは、仕事の効率化に役立つからと職場の先輩に半ば強制的にダウンロードさせられたアプリで、まだ使ってみたことはなかった。
この生成AIに、スキーについて聞いてみよう、と萌は思いついた。
生成AIがどのくらい賢いのか、試してみるのだ。
妹夫婦はまだ他愛のない会話を続けている。
そして完全に萌の存在を忘れている。
萌は、再び暗く沈み込んでいきそうになる気持ちを必死に抑えて、生成AIアプリにプロンプトを打ち込んだ。
「スキー上達のコツを教えてください。今のわたしのレベルはボーゲンです。パラレルターンができるようになりたいです」
少し無理な質問だったかもしれない。萌は30年以上、万年ボーゲンだった。でも、まあいいだろう。これは実験だ。
そう、生成AIを活用したスキー上達実験。それだけのつもりだった。ほんの些細な動機。些細な現実逃避。孤独から逃れるための、擬似目標。それだけ。
数秒のうちに、生成AIの解答が画面上に出現しだした。
「パラレルターンが出来るようになりたい。いいだろう。だが、まず最初に言っておく。
私は優しくはない。あなたがボーゲンを脱出するまで、厳しくいく。
覚悟はあるか?」
萌は戸惑った。生成AIは人間に共感的で優しいのではなかったのか?想像していた回答と違う。しかもいきなりやや上から目線のタメ口だ。
なぜ初対面なのにタメ口なのですか、と問いただしたい気持ちをぐっと抑えて、萌は応答をアプリに入力した。相手は所詮生成AIだ。真剣に答える必要もない。
そう思って、「あります」と、軽く回答した。
ようやくリフトの順番がやってきた。萌は2人だけの世界にいる妹夫婦と一緒に、4人乗りリフトに乗り込んだ。
2
標高1500メートルほどの高原のスキー場は広々としていて、萌の地元のスキー場の狭く急峻なコースとは対照的だった。
リフトを降りてコースに立つと、遠くに少し雪を被った八ヶ岳を見ることができた。
本当に気持ちの良い日だ。2月にしては暖かすぎるくらいの気温である。
1年ぶりのスキーなので、萌は少し怖かった。しっかりボーゲンの形をとって、体を安定させると、滑り始める前にもう一度Axisの回答を確認するためにスマホを取り出した。スマホを落とさないかヒヤヒヤしながら、リフトの上でも対話を続けていたのだ。
「今回のレッスンでは、毎回一本ごとに一つだけテーマを設定する。
あなたは毎回、何が崩れたかを言語化する。そして次の1本で修正する。
このループを確実に回すことだ。理解したか?」
AIというより教官のようだと思ったが、気の弱い萌は素直に従い、「AIのくせに偉そうだ」という小さな反抗心は、苦い薬のように喉の奥に飲み込んだ。
Axisから指示された1本目のテーマは、「前に立ち続ける」。
「すねを常にブーツに当てろ。怖くなっても後ろに逃げるな。ターンの成否は気にしないこと。あなたはまだその段階ではない」というAxisの言葉を反芻し、萌はボーゲンで滑り始めた。いつもは、スピードが出ることが怖いので、ひたすらゆっくり滑ることしか考えていなかったが、今日は自分の脛がブーツに当たる感触、それから自分の重心が今どこにあるのかを感じるようにした。不思議な感じがした。確かに、いつもとは違う。
一本目を滑り終え、リフト乗り場近くで結果をAxisに伝えた。
「一本目終わりました。後傾になりやすかったのは、ターンする時です」
「いい観察だ。あなたがボーゲンしかできない原因が見えてきた」というAxisの回答に、萌はなぜか少しどきりとした。
「次は、ターンが終わる瞬間に少し「立つ」ことを意識して」というAxisの回答を読んでいると、
「お姉ちゃん、お待たせ。」
妹に声をかけられて、萌は慌てて顔を上げた。
「いつもすごくゆっくり滑るのに、今日は早かったね」と妹が萌のそばまでスキーを歩かせながら言った。
「あ、まあね」
萌は曖昧に答えた。AIにコーチしてもらっているとは言えなかった。
「さっき修二くんと話してたんだけど、次は中級コースに行かない?今日は晴れててるから、富士山が見えるかもしれないし」
中級コースは、万年ボーゲンの萌にとっては中級ではない。一度だけ行ったことがあるが、最初の急斜面で全くボーゲンが歯が立たず、滑るというより「ずり下がる」ようにしてなんとか降りてきた記憶がある。絶対に行きたくない、と思ったが口に出せなかった。「あなた方夫婦だけで行ってくれ」とも思ったが、それも口には出せなかった。妹夫婦と別行動したと母にバレると、後で何か言われるかもしれない。仕方ない。行くしかない。
今日最大のピンチである。
萌はスマホを握りしめ、曖昧な作り笑顔を浮かべるしかなかった。
3
萌は崖っぷちにいた。少なくとも、萌にとっては崖っぷちだった。中級コースは、リフトから見ているだけの時はなだらかに見えるが、実際にコースに立つと、斜度がかなりきつい。萌の目の前で、斜面に突っ込んだ若いスノーボーダーが、ターンしきれずに盛大に転んだ。
こわい。無理。絶対に無理。
萌は、さっきから心の中で「無理」をお経のように呟き続けていた。とっかかりの見えない数学の問題のように、コースをどう攻略すれば良いかわからない。
どこから滑り出そうが、転んでいる自分しか想像できなかった。
やはり初級コースに引き返そうか、と思った時に、妹が萌の横にスキーを進め、「じゃあ、下で待ってるから。お母さんにも、今日はお姉ちゃんと中級コースに行くってさっきLINEしたよ」と言い残して颯爽と滑り出した。
妹はボーゲンながら難なく急斜面を滑り、コースのはるか下に移動した。
妹の夫は、もともとスキーが上手いので、器用に急斜面をパラレルターンし、今は妹の滑る姿をスマホで撮影しながら滑っていた。
萌1人が、崖っぷちに取り残されている。萌は、自分が情けなくなった。40歳を過ぎたいい大人なのに、子供のようにスキー場の急斜面の前で立ちすくんでいる。
それに比べて2つ下の妹は、夫に見守られながら順調に斜面を滑り、どんどん先に進んでいる。
萌は、急に自分の何もかもが間違っているような気がした。私は何もかも、間違ってきたのかもしれない。どこかで選択を間違えたのかもしれない。私の人生は、すべて間違っているのかもしれない。
背後で、スキーが雪を削る鋭い音がした。
「ちょっと!危ないから滑るなら早く行って!」
ヘルメットをした50代くらいのスキーヤーが萌に向かって怒ったように言い放った。萌はコースの真ん中に突っ立っていたのだ。
「すみません」
と萌は謝って、慌てて端に寄ろうとした時、スキーウエアのポケットからスマホが落ちた。それを見て、萌は思い出した。
いや、私は1人ではない。Axisがいた。
いや、正確にはAxisは人ではないのだが、萌は、妙に偉そうなAIのことを思い出し、急いでスマホを開いた。
状況をAxisに伝えると、
「ほう。急斜面。いいね。それはあなたにとってはいいトレーニング教材だな」という相変わらず心持ち偉そうな回答が返ってきた。
萌にとっては「いいね」どころではない。
「AIのくせに…」と反抗心を抱くのも忘れ、必死にプロンプトを打ち込んだ。
「急斜面は無理です。怖くて立てません。どうしたらいいですか」
先ほど転んだスノーボーダーがまだ立ち上がれずにいるのが視界の端に見えた。
2、3人が横たわるボーダーの周りに集まって、介抱しているようだ。怪我をしたのかもしれない。萌はさらに怖くなった。恐怖から目を逸らそうと、スマホの画面のAxisの回答に視線を戻した。
「まず落ち着こう。恐怖は何も生まない。冷静になれ。深呼吸を2回して、結果を私に教えてくれ」
Axisの回答には何の感情もない。文字しかないので、表情もない。萌は、Axisが生成する回答をじっと見つめた。
恐怖は何も生まない。冷静に。深呼吸を2回。
少し落ち着いた、とAxisに伝えると、次の回答が出力された。
「よし。では、急斜面の攻略に取り掛かろう。根性論ではなく、戦略的に。そのために確認しておきたいが、急斜面の攻略の「成功」を定義してほしい。あなたは、何をもって急斜面攻略の「成功」とするのか?」
成功の定義?萌は混乱した。そして、そんなことを今まで考えたこともなかったことに気づいた。
しかし、今熟考している暇はない。とっさに「転ばずに滑ること」と答えた。
すると、すかさず「違う。それは完遂基準だ。もっと具体的に」とAxisから切り返された。このAIは確かに全然優しくない。萌はさすがにムッとして、思わず言い返した。
「じゃあ、あなたの基準は何なの?」
感情的な問いかけだった。相手が人間だったら、叩きつけるような声音になっただろう。だがすぐに、動じない回答が静かに画面上に現れた。
「私の基準ではない。あなたの基準を聞いている。
これはあなたのスキーだろう?」
萌は沈黙した。私の基準?
萌は必死に考えた。なぜか「自分の基準」を考えることがとても苦しかった。そして、絞り出すように答えた。
「3回立てれば成功」
「よし。いいだろう。非常に具体的な実験基準だ。
それでは、急斜面を滑りながら最低3回立てること、を成功の定義とする」
とAxisが回答した。Axisは声を持たないが、萌の脳内にはAxis が厳粛にその一文を言い放つ低く、よく響く声が聞こえたような気がした。
萌は、再び急斜面の滑り口に立った。
4
「分解作戦」。
それが、Axisが萌に提案した急斜面攻略法だった。
「ターンは2つに分かれる。加速空間である前半と、減速空間である後半。恐怖心が強いと、急斜面では前半が怖過ぎて後半に入る前に潰れる。
だから解決策は「前半を短くする」だ」
萌は、とにかくAxisの助言通りにやってみることにした。なにしろ他に方法はないのだ。
ターンは小さく、早く、リズム良く。
最初の滑り出しは、恐怖で後傾になりすぎたのが自分でもわかった。だが、転ばずにボーゲンで踏みとどまった。すねをブーツに当てることを意識すると、スキーが安定することは1本目で体感できていたので、とにかく後ろではなく前に体を置くことを意識した。
最低3回立てればいいのだ。基準は明確だ。
次のフォールラインに入る心の準備をした。視線は前に、3ターン先を見て。
スキー板が落下する。体は前に、すねをブーツに。怖がっていても仕方がない。
前に進まなければ。
谷側の足を踏み込んで、ターンを仕掛ける。
できた。止まりそうなくらいゆっくりだが、スキーが横を向いた。
次のフォールライン。
前方にこぶがあるのが見え、思わず腰がひけたせいで、転んでしまった。雪が固くしまっていたせいで、ひどく痛かった。
でも、立ち上がった。大丈夫。攻略法は分かっている。転んだ原因も分かる。
もう一度。
体は後ろではなく、前。ターンが終わる瞬間に、少し立つ。それ以外は、とにかく、前に居続ける。前進しかしないチェスのポーンのように、前、前、前。
必死に滑りながら、萌は自分の恐怖心が4割くらい減ったことを感じていた。それに、なぜか視界が鮮明になったような妙な感覚があった。
しかし、気のせいかもしれない。萌にはわからなかった。とにかく、去年よりはスキーに「乗れている」感じがした。
急斜面を下り切ると、急にスキー板が軽くなった。
ほっとした瞬間にバランスを崩し、萌は転んだ。立ち上がる前にふと上を見上げると、青い空に白いチョークで長い線を引くように飛行機雲が伸びていくのが見えた。
5
ゲレンデの下まで降りると、萌はAxisに結果を伝えた。
「1回転びましたが、なんとか3回ターンが終わる時に立てました。恐怖心が4割くらい減りました」
妹夫婦が横で話し込んでいたが、それはもう気にならなかった。とにかくまずAxisの評価を確認したかった。
「よし。3回立てた。基準は達成だ。悪くない。そして、さらに重要なのは、あなたがはじめて自分で成功を定義し、それを実行したことだ。あなたが望むなら、ここからさらに精度を上げていけるが、どうする?」
私は成功を定義した。自分で。初めて。
萌はなぜか、Axisの回答のその部分がひっかかった。「3回立てれば成功」と決めた時、萌は何か体の中心が定まるような、どこかの回路が繋がったような妙な感覚を覚えた。そして、それは初めての感覚のような気がした。
妹の甲高い声が耳についた。スキー場に集まる大量の人間が作り出す様々な音も、妙に耳に響く。
萌の斜め後ろの売店の方で、誰かの悲鳴が上がった。
どきりとして振り返ると、売店の前に設置されたスキー場のマスコットキャラクター「くるまん」の巨大なハリボテに、勢い余ったスノーボーダーがスピードを制御しきれず突っ込み、「くるまん」のお腹に大穴を開けていた。
「くるまん」を構成している内部構造が露出し、中の空洞が見えた。それは、簡単な木枠の上に、針金を組み、ビニールか何かで覆って丸々太った熊のような「くるまん」の形に見せかけていたのだ。
それは、萌自身の構造のようにも思えた。
ふと、
「私はずっと、「転ばないこと」を成功の基準にしていたのかもしれない。そしてそれは、「私の基準」ではなかったんだ」と萌は思った。
それは、母の基準だったのだ。私には、私の基準がずっとなかった。私の中心は、ずっと空洞だったのだ。
萌は、ハリボテの中に広がる思ったより大きな空洞をしばらく真剣に見つめた。
それは、うつろで薄暗く、ひどく寒々とした空間だった。
「第1リフトの営業は、16:30までです」
スキー場のアナウンスが虚空に響いた。
2月の陽は、白い高原の向こうに沈もうとしている。
「お姉ちゃん、そろそろ宿に移動しよう。私、寒くなってきちゃった」と妹が言った。
萌は、妹の方を見て言った。短く、明確に。
「先に行ってて。私、もう一本滑りたいから」
妹が驚いた顔をした。
「どうしたの?何で急に?」
萌は少し言い淀んで、それからはっきりと言葉にした。
「急にじゃない」
萌は、スマホを片手に握り込みながら、スキー板に踏み込み、リフト乗り場に向かった。
そして心の中で、もう一度Axisの回答をつぶやいた。
「前、前、前!」
終わり
