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今から11年前……筆名「根布ひろえ」という小説書きがいたらしい

終った者はそこにいろ
磨きを棄てた者は他者をみるな
目くそがその眼を塞ぐだろう
嫉妬(Shit)が口から指から流れ出る
明日は希望しかないという者にとっての明日である
たのむ
俺にお前の糞を流し込まないでくれ
終った者は逝き方だけを考えろ
絶望と諦念だけなら逝き方だけを考えろ
それでいいのだ
明日は明日も生きる者にとっての明日である
逝き方だけを考える明日もおもしろそうではあるが
それが「詩人・小説書き」という生き物でもある。


飛鳥世一という小説書きが生まれる五年以上も前、小説を書いてみたいという漠然としたものを抱えた男が、はじめて一つの作品を書き上げることに向き合った。描いた本人ですら忘れていた。
タイトル 長編小説『志野狸の日の出』と、短編小説『志野狸の日の出・益子達也』がそれだった。長編・短編小説群像劇のともに第一部だった。描いたわたしが驚くのが二本とも「書き上げている」点。

折角なので、手を入れて少しだけ立派にしてやろうと思っている。
チョット抜き出しておくので宜しければ「飛鳥世一」の源流、「凍裂や夢殿」が産声を上げる前の瑞々しい「毒」を感じてほしい。習作だ。
※尚、本作の85%は「創作」である。ここの一部の連中も但し書きしておかなきゃ事実として「日記読み」するから危なくて仕方がない(笑)

短編小説『志野狸の日の出・益子達也』

スフマートを落としたようだ。
頼りなげな陰影に、目を凝らしながら境界を探す。
肩口と首回りが大きく開(あ)いたパジャマから、「あふっ・・・ごめん・・・なさい」とでも言っているかのように、無垢な悪戯っぽさを覗わせつつ、形の良い丸みを魅せた肩の上、無遠慮な太々しさを伴わせながら往来する光と陰がある。
時折その肩口で大小のうねりを見せているその様子は、我が物顔という言葉に集約され、時折の苛立ちを覚える。
 
 刻々と移ろいを見せる朝日の光射角。
 女の育ちの良さを窺うには十分すぎる寝息を刻む形の良い鼻腔。若い肌の上を光によって産み落とされた陰たちは、まるで熟達した愛撫の如き動きを見せながら行き来する。
 陰影は「闇」ではない。
闇はそこに身を置く者の抗いをスルーする。
したがって、その中に身を置いた者は受け入れることが最善の選択肢となることに気づかなければ精神の瓦解を来すだろう。
陰影の存在は、幾許かの可視光量を伴わせることによって、見る者に奥行きと遠近感そして親近感に基づくある種の「可能性」を齎すのだが、これが些か罠にも相似するがゆえ気が抜けない。
 現代絵画における「芸術の詐欺師」として名高いオランダのМCエッシャーの騙し絵のタッチをイメージしてはみたものの、騙す前提として完成されたそれと、両側に横たわる女たちの肩口で踊る光と陰は異質だ。 
 むしろイタリアバロック絵画の鬼才カラバッジョに観られる光と陰を極限まで使いこなした、瞬間的効果と突出効果の融合として見ることに合理性がありそうだ。
 とある絵画ファンがカラバッジョの技量を紹介した言葉に、「その光に照らし出される姿は何処までも純粋であり、陰に支配される姿は何処までも罪深いと評した言葉がある。
そう。陰影は罪深いのだ。闇よりも。
 これはそこに身を置く者にとっては「戸惑い」に置き換えられるからに他ならない。
手が届くかもしれない。「そこ」になんとなく見えているようだ。そう思わせる罪深さだ。
 が、自己を主張するという利己的な営みではない。むしろ主たる存在を際立たせる名脇役だ。陰影の存在は自らその役割りを知っているのだろう。
 ひっそりと、音もなく沈み込む際に現れる「名残」の如き主張といえばどうだろう。
その一瞬を切り取るために私の精神と肉体は疲弊し同時に昂る。

 私を挟んで寝息を立てる二人の女達の肩口には、「純粋」という無遠慮で余計なお世話この上ない朝日が差し込んでいる。
そしてその「罪深い」陰影が純粋に翻弄されるような立ち居振る舞いを見せながら、ときに大きく波打つ。
 我に返ることを押し留めるがごとく、朝日を弾き返す上質なシルクを思わせる肌と、キラキラと薄い輝きを放つ産毛のコントラストが目の前にその広がりを魅せる。
この瞬間程、陰が愛おしく美しく思える瞬間は無いとさえ思えるだろう。
「一般的」に言われる正常な男子であるなら何とかして触れてみたい~何とかして舌を這わせ唾液に濡らしてみたい~何とかして己が歯を立ててみたい~そう考えても不思議はなく、むしろそれが正常ということなのだ。
同時にそれこそが「正統なる美しさ」の極致だと言えよう。
 カラヴァッジョの有名な作品の一つにホロフェルネスの首を斬るユディトという作品がある。
旧約聖書の外典の一つに登場するユディト記を題材とした作品だが、ユディトの持つ正統派的美しさと究極の対峙を試みた残虐性は、光と陰のハーモニーが可能とした完璧なエロースの表現においては成功を見たと言える。
正統なる美しさをはじめとする芸術家による「主題(テーマ)」は、コンマ何秒の中に移ろう瞬間の中にこそ凝縮するのだ。 

 この、社会通念上言うところの「不可思議」で、いや、むしろ破廉恥と映る状況の子細を語ることは吝かではない。
しかし、語ってみたところで、それは理解を得るための「それ」ではなく、概ね、気分を逆なでするための前置きでしかないのかもしれない。
 「四畳半」という言葉の持つ、どこか「湿った」響きは、遙か昔には猥褻と淫靡の象徴として語られ、時に一部のモラリストにとっては、オーダーメイドで誂えたズボン下の如くやり玉として論われてきた。
 我が「創作のutero」は四畳半である。
そこに暮らす一人の画家と二人の女の日常であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 
 我が「創作のutero」に今、二人の女が寝起きを共にしている。
 この状態になって三年が経つ。
二人が衝突をしたところなどは見たことがない。日常は屈託なく、取り留めなく、いつ果てるとも尽きない会話を楽しんでいる様子は仲の良い姉妹を観ているようだ。
 髪の長い方を「さき」といい、髪の短い方は「めぐみ」と名乗っていた。
 しかし、二人とも髪は長い。
要は比較したときということなのだが、髪を後ろで括った姿を見ただけでは、どちらがどちらであるか私ですら判別に苦しんだ。
我が創作のuteroへの宿りは「さき」が先じていた。
その後、8か月ほどしてから訪ねてきたのが「めぐみ」だった。

 当時を思い返すなら、めぐみが私の元を訪ねた際、その様子を偶然に眼にしたのが我がUteroが存在する「エルミタージュ日の出」の住人、山本さんだった。

 エルミタージュとは私達が勝手に呼んでいるだけなのだが、共同玄関、共同トイレ、共同シャワー、共同洗濯機・・・自室内にあるもの以外は凡て共同であるというスタイルの、所謂、昭和型共同住宅のことだ。
トイレットペーパーも共同。
便所のスリッパも共同だ。
そして、トイレの男女も共同である。

 建物の玄関前には「日の出荘」という名前が掲げられていた。

 僅か5分を要しない驚異的な伝搬速度をもって、めぐみの登場はこのuteroを包むエルミタージュ全域に染み渡ったようだ。
しかし、当時私はこの山本さんという御仁は「おうあ」しか話せないと管理人さんから聞かされていた。
よって、めぐみの来訪を見られた折りも、さして気に留めるほどのことではなかったし、他の住人たちの耳に入ることなど予想だにしていなかった。
が、山本さんは易々と私の想像を越えてみせた。
同時にこの「エルミタージュ日の出の」持つ本質を侮っていたことに気づかされるに至ったのである。
 概ね5分という時間しか必要としなかったことはコミュニティーが驚異的な活性機能を有している裏付けと言えるだろう。

 めぐみを招き入れてから5分もしないうちに廊下の奥の方から、ただならぬ「気配」の波が押し寄せてくるのを皮膚感覚として感じていた。
ただしそれは「妖気」の類ではないことは歴然としていた。
 
 このエルミタージュ日の出には「完全なる」開かずの扉が存在する。
ほとんどの住人がそれを知っている。
 
 この世のものではない開かずの扉と、この世のものであるところの開かずの扉。
どちらに恐怖を覚えるかと言えば、正常な日常生活を営んでいる者にとっては「前者」ということになるのかもしれない。
しかし、このエルミタージュの住人にとって畏怖すべき対象は「この世の開かずの扉」であるようだ。
 それが二階に存在した。
私の部屋の真下にあたる。
 入居時から話は聞いていたので一度その部屋の前まで行き、立ち止まりその正体を皮膚直下で感じてみたが、そこの開かずの扉からは「暮らし」が流れ出していた。
 光と影を「楽しみ慈しむ」暮らしぶりが流れ出していた。
 本人が気付こうが気付くまいが、光と影と闇に身を置き、甘える姿が浮かび上がる。
寧ろ、闇の中への溶け込み方はここで暮らす他の誰よりも上手だろうとすら感じられた。
 それは正常と異常の狭間に漂うことの心地よさを知った人間が最初に身を置く場所と言えるのかもしれない。
 が、三階の我が創作のuteroに隣する部屋はそうではない。
 この世の者が不用意に近づくべきではない「穴」への入り口。いやむしろ「出口」であろうか。
 吹き出す妖気は、まるで扉の向こうが焼け野原の如き屍臭を吹き出している。
常人では部屋の前に立つことは出来まい。
幾度かシンクロを試みたが、それは私を「拒絶」した。
三階の住人は、トイレへ行くためにはその部屋の前を通らなければならない。
若い住人は時に駆け抜けていく。
三階唯一の女性住人は、二階のトイレを使用しているようだ。
 どのみち一度、かの部屋の「主(あるじ)」から話を聞いてみなくばなるまい。

つづく


長編小説『志野狸の日の出』

第一章 ますみ。の元夫
 アパートの大家である老夫婦の母屋の前で、インターフォン越しに大声で喋っているアホが居る。
おかげで糞面白くもない眠りに終りを迎えた。
 
 よりにもよって、「万年」と化した我が寝床の真下が大家の母屋の玄関先。
人の噂話ぐらい小声でやりゃぁいいものを、婆様どもと来た日にゃお構いなしだ。
これが始まるとおちおち寝ていられない。
ひとつ、また一つと砂糖に群がる蟻よろしく「たかり」はじめる。
 古い付き合い故か、「お里も知れた」間柄という気安さも手伝ってか~どの道あんたも多寡が知れたところでしょ。
判ったような無遠慮な遣り取りが耳にさわるのが常だ。
しかし、この年代のバァ様方の会話は、聴いている方がドキッとすることが多々ある。
よくもそこまでズケズケと踏み込んでいけるものだと感心させられるのだ。
 
 それにしても・・・この男の声は異常にでかい。
更に始末が悪いことに、鬱ら鬱らしながらも、声音から伝わる「緊張感」が弛緩に浸った体を強ばらせる。
 枕本として二十年近くを一緒に過ごしてきた吉行淳之介のエッセイの一節に、電話の相手の声から精神の具合がわかるものだ~とするくだりがあったことを薄ぼんやりとした意識の中で思い出す。
この特有なる「緊張感」は経験者にしか解らないものの一つだ。
 この「アホ」の声を除いて生活音は聞こえてこないところをみると、早朝なのか深夜なのか。
 うるさい。
 それにしても「いやな」声だ。
 布団の中で緊張と弛緩の共生に身を任せていると、奈落に引き込まれそうになる体がくだんの大声男の声に引き戻された。
頭の先までスッポリと布団にくるまり込み、
時局的混濁が勝っていた意識は知らず知らずに覚醒し始める。
 「強制執行、行き場を・・・、取り・・・雨露を、家内と二人、ありがとうございます、後ほど改めて」

 いわく、わけありか
 頭までくるまっていた布団から目鼻だけ覗かせると、カーテンの編み目から薄日が染み込んでいた。
曇りガラス越しに画鋲で留めた安物のカーテンはこの暫く解放を見たことはない。
 片眼はきつくつむり、薄く絞り込んだもう片方の眼で光を見やりながら、夕方の明るさなのか、早朝の明るさなのか~この期に至ってはどうでも良いことに意識が向かう。
「何時に寝たっけ・・・」
仕上がりの悪い眠りから放り出された意識は、この瞬間にまたも沼地に堕ちそうになる。
 部屋に時計はない。
 頭の底に薄く残った「カス」にも満たない意識をかき集めると、上半身だけを遮二無二跳ね上げる。
首を左右に折り動かし、乾いた関節の音を確んめてみる。
コキッ~コン、クキッ。
「おれちゃえ」「ポキッといっちゃえ」そんなことを小声で呟きながら少し強めに左右に振る。
 その瞬間に部屋の壁が向こうから「ドン」と叩かれるような音が聞こえてきた。
奥側の隣の部屋、即ち「共同便所前」は空室だが、階段側は少しおかしな六十がらみのおばはんが一人暮らしをしている。
「マルガリータ」これがこのおばはんにつけられた呼び名だった。
本名なぞ気にしたことはない。
所以れは知らないが、アパートを出入りする際に一緒になった折、管理人が「オイ、マルゲリータ」と呼んでいるのを耳にした。
随分とハイカラなアダナだ。
 
 このところ知っているはずの朝の雰囲気からは感じられぬ静謐さが漂っていることからするなら早朝か。
なにやら懐かしい匂いが部屋に入り込んできている。
便所の開け閉めが少ないせいか、鼻をつくあの匂いはまだ形を潜めていた。
覚醒し始めた意識の中で、階下のやりとりを反芻してみる。
本人すら意図していなかった言葉が口をつく。「腹減ったなぁ」。
 
 このアパートに引っ越して来て三年半が経っている。
 「引っ越し」当初は嫁さんもおり、共に六畳一間の共同玄関、共同トイレ、そして共同コインシャワー、さらには共同コイン洗濯機という何とも昭和チックな生活をそれなりに楽しんだつもりでいた。
ちなみに、洗濯機は当時の最新型のドラム式という、薄汚れたアパートには不釣り合いな代物が配備されていた。
 按配なんとも同棲が如き新鮮さを感じていたはずだったが、どうやらあっちは違ったようだ。
 こうなる前は、3LDKの公団の高層マンション暮らし。
 アメリカを震源とする経済不況の煽りを受けて事業は倒産を免れず、再起の場所として選んだのが、この安アパートの一室だった。
家賃二万五千円、この手のアパートとしてはけして安いとはいえない・・・と思う。
ただ、転がり込んだときの状況が、じっくり時間をかけて探すことが許される身の上ではなかった。
 倒産を経験し、再起を期すまでには行政上の手続きとは別に、精神的な「手続き」が必要であることを知る人は経験者だけだろう。
 夜逃げではなかった。
さりとて、さして変わらぬ状況であり、着の身着のまま、便利屋のアンちゃんに頼み込んでの「瞬間移動」だった。
したがって、大声の主から伝わる緊張感は、いつか来た道ということでしかない。
 
 「緊急避難的一時措置」から落ち着きを見せ始めた三ヶ月後、バイト先から帰ってみると六畳一間の狭い空間の壁側に押しやられた場違いに大きなテーブルの上、一通の封筒と捺印された「離婚届」が置かれていた。
 肩から滑り落ちた鞄すら止める気にはなれないほどの脱力感に襲われる。
畳の上に音をたててへたり込む。
「そうなるわなぁ、やっぱり。」誰言うとはなく呟く。
 しばしの放心と空白に浸る間も、いつの頃からか頭の片隅に住み着いたマウスが、空っぽの頭の中で回し車を嬉々として回しているが如き不思議な感覚が同居していた。  
 辛うじて手に取った封筒を開封すると、見慣れた落ち着きを湛えた筆跡の書き置きが姿を顕す。
几帳面に観音開きに折り込まれているところが嫌いだ。

折ってたたんでいる姿が浮かび上がってくる。
一度半分におり、中心線に沿わせ端をあわせ、こう、キュウッとシュッと折り目を入れていたはずだ。
同じ作業を二度したはずなのだ。
最後に観音開きを閉じた瞬間、あいつはヨシッ、と言い放っている。
「○○。
ごめんなさい。
トイレのスリッパまで共同なのは耐えられません。
トイレのテッシュまで共同なんて・・・
ごめんなさい。
再生を祈ってます。
大丈夫。あなたなら必ず復活できるから。
探さないでくださいね。
離婚届に印鑑を押して役場に出しておいてください・・・
最後ぐらい頼んだことをチャンとしてね。
私は大丈夫。
落ち着いたら連絡します。
                ますみ。
馬鹿野郎・・・おまえの「ね」だけは本当に、腹が立つ。
トイレのティッシュが共同なのが嫌だったら専用のティッシュを持ち歩けば済む話ではないか。
大体、再生と復活ってなんなんだ。
 あいつは昔から自分や人の名前の下に「。」を打つ奴だった。
いつからそうなり、なぜそうなったかを聴いたことはない。
 短く、糞面白くもない手紙を読み終えると観音折りにはせず、敢えて三つに折ってみた。
が、折りが甘いためか、あいつが折った線が程良くしっかりしていたのか、手紙は元の折り目へ戻ろうとしてか次第に浮き上がり始める。
幾分あわて気味に封筒に戻し終えると、涙がこみ上げてきた。
年甲斐もなくオイオイと声を上げて泣いた、違う・・・「オイオイ泣いてみた」が正しい。
残念なことに冷静さは失っていない。
総てを喪失し、慟哭の中に身を浸すことが出来れば心地よかろうはずであった。
しかし冷静さがそれを遮る。
 この年齢にして、事業を失い、僅かばかりの財産も失い、女房も失い、残されたのは六畳一間の安アパートとノートパソコン、そして粗末な食器類数点。
いや、お気に入りのコーヒーメーカーがあった。

つづく


さて、板主 飛鳥世一からここを訪れて頂ける皆さんへのご案内です。
スキを押して頂けたり、フォローして頂けている皆様に「ご迷惑」をお掛けしている場面が出ているようでございます。バイアスですね。
ここの皆様にご迷惑をお掛けすることは私にとっては本意ではございません。どうか、お気軽にフォローをお外しになるなり、スキを押さぬなりのご判断いただき、先様お一人お一人の意思をご反映くださいますようご案内申し上げます。

まぁ、概ね、自らの氏素性を晒せぬ偽名系匿名免罪符による輩系と始末はつけておりますが、何にも関係ない皆様に気分の悪くなるようなご迷惑をお掛けしたくは無いのです。挙句がそういうバイアスを用いた作品まがいの当てこすりをされるような「ゴマメ」レベルのものも接したくないのでございます(笑)
どうか、趣旨ご賢察賜り賢きご判断賜りますようご案内申し上げます

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