19歳の幸田延が海を渡ったことで、日本の西洋音楽は『学ぶもの』から『自ら育てていくもの』へ、大きな一歩を踏み出したのかも…
幸田延が19歳で出発した留学は、日本の音楽史上「初の政府派遣による音楽留学」という歴史的な快挙でした。
彼女が全科第1回卒業生となったのは1885年(15歳)、音楽取調掛時代です。
東京音楽学校への改称は1887年で、1889年出発時点ではまだ助手(研究科)の立場でしたが、文部省の命を受けてアメリカとオーストリアへ旅立ちます。
当時、若い女性が単身で海を渡るだけでも命がけの時代でしたが、彼女は持ち前の負けん気と才能で、本場ヨーロッパの音楽界を驚かせました。
留学中の主なエピソードは以下の通りです。
エピソードその1.
アメリカ〜ボストンでの「異例の飛び級」
延はまず、かつての恩師メーソンの母国であるアメリカのニューイングランド音楽院(ボストン)に入学しました。
日本で徹底的に基礎を叩き込まれていた延のピアノの腕前は、現地のアメリカ人たちを驚かせました。
本来なら数年かかるカリキュラムを、彼女はわずか1年足らずで優秀な成績を収めて卒業したと伝えられています。
アメリカでの学びを終えた彼女は、いよいよクラシック音楽の本場、ヨーロッパのウィーンへと向かいました。
エピソードその2.
ウィーン〜最高峰の音楽院へ入学
1891年、延は音楽の都オーストリアの「ウィーン楽友協会音楽院」(現在のウィーン国立音楽演劇大学)に入学します。
当時、ヨーロッパの最高峰であるこの音楽院に、アジア人の、しかも女性が政府の留学生として入学することは前代未聞の出来事でした。
ピアノだけでなく、ヴァイオリンや声楽、音楽理論、さらには作曲まで、あらゆる分野の超一流教授たちからマンツーマンで指導を受けました。
エピソードその3.
「東洋の神童」と絶賛された実力
ウィーンでの延の評判はすさまじく、現地の新聞でも報道されるほどでした。
教授がピアノで複雑な和音を弾き、「今のは何の手調(キー)か」と質問をしても、延は即座に正確に言い当て、周囲の度肝を抜きました。
当時の ウィーンの新聞には「東洋から来た、驚くべき才能を持った少女」として紹介され、彼女の演奏会は絶賛されたと伝えられています。
エピソードその4.
厳格なウィーン気質と「黒いドレス」
延はウィーンの伝統や格式を重んじるクラシック界に溶け込むため、服装やマナーにも徹底的にこだわりました。
演奏会では、小柄な体を包むシックな黒いイブニングドレスをまとい、毅然とした態度でステージに立ちました。
その凛とした姿と、男性顔負けの力強く正確なタッチのギャップが、ウィーンの聴衆を虜にしたと伝えられています。
こうして約6年間にわたる留学を終え、1895年(明治28年)に帰国した延は、本場の最先端クラシック音楽を日本にダイレクトに持ち込んだ「生ける伝説」として、日本の音楽界を牽引していくことになります。
帰国後の延は、東京音楽学校の教授として日本のクラシック界の頂点に立ちます。
19歳の幸田延が海を渡ったことは、
日本の西洋音楽は『学ぶもの』から『自ら育てていくもの』へ、大きな一歩を踏み出したと言われています。
日本で西洋音楽を学んだ少女が、今度は西洋音楽の本場で、日本人としてではなく、一人の音楽家として試される物語でした。
追記
私たちが普段何気なく聴いている日本のクラシック音楽の歴史は、100年前、19歳の少女が黒いドレスを着て一人で世界と戦ったあの日から始まっていたのかもしれません。
「19歳、海を渡った日本初の音楽留学生」
・1885年、15歳で音楽取調掛の第1回卒業生
・1887年に東京音楽学校へ改称
・1889年、19歳で文部省の命を受けて海外留学
・派遣の専攻はヴァイオリン
・アメリカを経てウィーンへ
・ウィーンではヴァイオリン、ピアノ、作曲などを学ぶ
※調べていると、圧倒的なピアノの腕前という内容が見られましたが、文部省の派遣命令自体が「ヴァイオリン科専修」でした。
ウィーンでもヨーゼフ・ヘルメスベルガーにヴァイオリンを、フレデリク・ジンガーにピアノを、ロベルト・フックスに作曲を学んでいます。
(ピアノ教授への転身は帰国後です)
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