安曇に呼ばれて〜第1章『ミニバス合宿の遠い記憶』
1.はじまり——安曇野(あずみの)へ向かうバスの中で

小学校五年生の夏、僕は地元のミニバスケットボールチームの合宿のために、信州の「安曇野」という場所へ向かうことになった。
朝早く、大きな観光バスに乗り込む。仲間たちはまだ眠そうな顔で、シートに深く腰を下ろし、スマホゲームやトレーディングカードに夢中だ。
でも、僕はどこか落ち着かない。胸の奥でざわめく期待と不安が、まるで小さな波のように揺れている。
行き先は「山に囲まれた自然豊かな場所」ということしか知らされていない。地図も見たことがないし、どんな景色が待っているのか想像もつかない。でも、その「わからない感じ」が、妙に心を躍らせた。
隣に座った幼なじみが、スポーツ雑誌を手に持ったまま、眠そうな声で話しかけてくる。
「なあ、合宿ってさ、めっちゃしんどいらしいぜ。先輩が言ってたけど、大学生と試合するって……」
僕は肩をすくめ、平静を装いながら答える。
「でも、練習の合間に川遊びできるんだろ? コーチが言ってたよ。魚がたくさんいる川が近くにあるって」
「マジ? 釣りとかやったことないけど、楽しみだなあ」
会話しながら窓の外を見ると、いつの間にか見慣れた都会のビル群が遠ざかり、視界の先に巨大な山並みが見え始めていた。トンネルを抜けるたびに緑が深くなり、まるで別世界へと誘われているようだ。山々の峰は空を切り裂くようにそびえ立ち、「こっちへおいで」と手招きしているように感じた。まだ見ぬ冒険の予感に、心臓が少し速く鼓動を打つ。
2.合宿所に到着——木の床がきしむ懐かしさ

数時間後、バスは小さな集落のはずれにある合宿所に到着した。
大きな体育館と、木造の宿泊棟が目の前に広がる。その周囲をぐるりと囲むのは、山、山、そしてまた山。空は東京で見るよりもずっと広く、青さが際立っている。まるで空そのものが呼吸しているようだ。
「荷物を置いたらすぐ練習だぞ!」
コーチの声が響き、僕たちは慌ててバスを降りる。
宿泊棟に入ると、古い小学校のような雰囲気が漂っていた。
廊下を歩くたびに、ギシギシと床が鳴る。その音は、なぜか懐かしさを呼び覚ます。まるで自分の記憶ではない誰かの思い出を歩いているような、不思議な感覚だ。
荷物を部屋に置き、幼なじみと一緒に廊下の窓に駆け寄る。
そこから見える山々の稜線は、まるで巨大な生き物の背骨のようだった。
「すげえな……」と彼がつぶやき、僕も黙ってうなずく。
胸の奥で何かが膨らむのを感じながら、僕はこの場所がただの合宿所ではない何かだと直感していた。
3.川遊びと山の空気——初めて知る“本物の自然”

練習は朝と午後に分かれていて、午前中はシュート練習やランニングメニューを徹底的にこなす。汗だくになりながら昼食を終えると、コーチが「午後の練習までは自由時間だ!」と告げた。
僕たちは一目散に合宿所の裏手へ向かう。 そこには、想像以上に澄んだ川が流れていた。岸辺には大きな岩や石が転がり、水面は陽光を受けてキラキラと輝いている。
サンダルを脱ぎ、足先を水に浸けると、「うわっ、冷た!」と思わず声が出る。でも、その冷たさが心地よい。
幼なじみが笑いながら「気持ちいいな!」と叫び、すでに膝まで川に入っている。
水は信じられないほど透明で、足元を小さな魚が群れをなして泳いでいくのが見える。時折吹く風は、松の香りと土の匂いを運び、東京のアスファルトの暑さとはまるで別世界だ。
僕たちは水をかけ合い、岩の上で滑りながら笑い転げる。先輩の一人が近づいてきて、「このあたり、昔は湖だったんじゃないかって言われてるんだぜ。コーチが言ってた」と教えてくれた。
僕は川の流れを見つめながら、そんな話を思い描く。もしここが本当に湖だったら、どんな景色だったのだろう? 子どもの頭では、その一瞬の連想が壮大なドラマへと膨らむ。まるでこの川の下に、古代の秘密が眠っているような気がしてならなかった。
4.“山神社”で見つけた謎の舟——耳にした“安曇族”の話

合宿3日目。午後の練習を終えた後、幼なじみと二人で少し散歩してみることにした。体育館の裏から森へと続く小道を進むと、茂みに囲まれた小さな祠が見えてくる。
鳥居には「山神社」と書かれた木札があり、その脇には何やら古びた舟が置かれていた。明らかに山の光景とは不釣り合いな存在に、僕たちは思わず足を止める。
「なんで船なんかあるんだ?」幼なじみが首をかしげ、僕も言葉を失う。
舟の表面は風雨にさらされ、ひび割れ、色あせている。
近くで大人たちが立ち話をしていて、その会話が耳に入ってきた。
「この辺じゃ昔から海の民、安曇族の伝説があるんだよ。海辺じゃなく山なのに不思議だろう?」
「縄文の時代からの遺跡も近くにあるって話だけど、、、」
海の民? 縄文の遺跡? 漠然とした言葉の羅列が、かえって僕の好奇心をかき立てる。山深い土地に海の民がいたという話は、どうにも不思議でならない。看板を見ると「担ぎ舟祭り」と書かれていて、かつてここでは船を担ぐ伝承行事が行われていたらしい。すぐには理解できないものの、僕の胸の奥に小さな火種がともったような感覚があった。
5.合宿最終夜、満天の星空と消えない記憶

合宿も残りわずか。最終日の夜、どうしても眠れず、廊下に出ると、幼なじみが窓辺に立って外を見ていた。
「眠れないの?」と声をかけると、彼はうなずいて「星がすごいんだよ……」と囁く。
僕も窓に近づき、夜空を見上げる。
そこには、想像を絶する数の星が広がっていた。一つひとつが鮮やかに輝き、まるで宇宙が僕たちに寄り添っているようだ。遠くの民家の灯りは、都会のネオンとは違い、やわらかく温かい色合いをしている。しばらく無言で見とれていると、幼なじみがぽつりつぶやく。
「山の中に船があったこと、なんだかすごく不思議じゃない? ここにはまだ何か秘密があるような気がしてさ……」
僕は飲み込むようにうなずく。
この合宿はただのバスケ練習のはずだったのに、心の奥では謎めいた世界が揺らめいている。小学校の授業で習った縄文時代と何か関係があるのか、それとも古い民間伝承が残っているだけなのか。答えはわからないまま、夜は静かに更けていく。
6.帰りのバス——安曇を離れても消えない違和感

翌朝、合宿所の庭で最後のランニングを終え、片付けを済ませてバスに乗り込む。体育館や宿泊棟に別れを告げ、窓から山や川の景色を名残惜しく眺める。
先輩たちは「筋肉痛ヤバい」と笑い合い、コーチは「来年もここへ来るぞ」と言っている。でも、僕は「本当にまた来られるのかな?」と半ば疑いつつ、またここに戻りたいという思いが湧き上がる。
バスが走り出し、しばらくすると濃い緑が遠ざかり、町並みが増えていく。
幼なじみが小声で、「…結局、安曇族とか縄文とか、よくわかんなかったな」とぽつり。
僕も「うん。でも何かすごいものが眠ってる気がするよね」と返す。
そう、安曇はただの合宿地ではない。謎めいた空気と圧倒的な自然が、この土地に何か特別なものを宿しているように思えてならない。
7.次回への予告——都会で再び思い出す“安曇”

最後の夜に見上げた満天の星空と、山のふもとにあった舟の残像は、僕の記憶にしっかりと刻み込まれた。
中学、高校と進むにつれ、あの風景は薄れていったものの、ときどき思い出すたびに胸がざわつく。
「あそこには何か大きな秘密があるんじゃないか」という直感だけが、ずっと消えないまま眠っていた。
大人になり、都会での仕事に追われる日々が始まったとき、あるきっかけから山登りに目覚めた僕は、再び安曇を意識し始める。
山頂に立ち、眼下に広がる景色を眺めるたび、胸の奥に眠っていた記憶がざわめき始める。幼少期の合宿、夜空に瞬く星々、そして語り継がれる“海の民”の伝説——それらがまるで波のように押し寄せ、僕の心を揺さぶる。
「また行かなくては——いや、呼ばれているんだ。」
その思いは静かに、しかし確実に膨らんでいき、いつしか抗えない衝動へと変わっていった。
次回は「都会の山登り、丹沢から始まる挑戦」。
社会人となった主人公がストレスから解放されるために選んだ週末登山が、どのようにして幼少期の記憶を呼び覚まし、“安曇”へとつながっていくのかを描いていきます。
あとがき:幼少期の体験が種火になる
子ども時代の夏合宿は、仲間とスポーツに打ち込み、自然を全身で感じる貴重な機会です。山と川に囲まれた安曇での数日は、僕にとって単なるバスケ合宿ではなく、心の奥に「何か知りたい、探ってみたい」という欲求の種を宿す出来事でした。
山の中になぜ舟があるのか? “海の民”って本当にいたのか?——未解明のまま残ったこの疑問がやがて僕の心を動かし、物語の軸となっていきます。
次回は都会での日常や山登りのエピソードを通じて、再び「安曇の謎」が浮かび上がる様子を追いかけていきます。どうぞお付き合いください。
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