私の「秀でたもの」の答え
「あんたは目が見えへんねんから、人より秀でたものを持たなあかん」
私が小さい頃から、母は厳しい声でしょっちゅうこう言っていた。
「目が見える人とあんたと同じことができたとする。そうしたら絶対に目が見える人の方が有利になる。でも、あんたにしかできないことを一つでも持ってたら、選ばれる人になるかもしれんやろ」
この言葉と同じぐらい聞かされていたのは
「なんでも目が見える人の方がスムーズにできる。だからあんたは人の2・3倍努力しなさい」
厳しい言葉だ。母の言葉に反発して
「私はがんばってる!これ以上どうしたらいいの?」
と言ったこともあった。
私が生まれたのは44年前。今とは比べ物にならないほど世間の「障害者」への目は厳しかった時代だ。
母は赤ちゃんの私を連れて、電車でしょっちゅう病院通いをしていた。電車の中で私を抱いた母を見て、私ににこっと笑いかけてくれる人がいた。
「目が見える赤ちゃんならにこっと笑い返すわけよ。でも、あんたはそれができへんやろ」
笑い返さない私を見た人は、はっとしたように母の顔を見る。
「そのときの『かわいそうな子やね』ていう目が忘れられへんわ」
何度も私と母の顔を見返され、中には直接言葉で
「かわいそうな子やね」
「育てるのたいへんやね」
と言われたこともあると話してくれた。世の中が「障害者である私を見る目」を感じながら、どうやったら私が生きていけるのか考えてくれていたのだと思う。こう思えるようになったのは、私も母親になったからだ。
中学生になった頃から
「将来のことを考えなさい。なんの仕事をするのか考えていかないと」
と言われていた。私が自立して一人で生きていけるように、必死だったのだろう。中学の頃の担任の先生も母と同じように、将来はどうするのか、どんな仕事に興味があるのかとよく話してくれた。私は少しずつ、どうやって働いていくのかを考えるようになった。目が見えなくてどんな仕事ができるのか、中学生なりに一生懸命考えた答えは
「先生になりたい」
だった。先生が身近な職業だったということ、全盲で先生をしている人がいると聞いたからだ。じゃぁ、なんの先生になろうかと考えた。国語は漢字が読めないからだめ、社会は地図が見られないからだめ、理数系は苦手なので無理。
「英語の先生になろう」
英語が好きだったこと、全盲で英語の先生をしている人がいることが後押しになった。
盲学校を卒業した私は、地元の大学に進学し、英語の教員免許を取得した。でも、英語の先生にはなれなかった。この先どうしていけばいいのかわからないまま大学を卒業した。
「秀でたものを持ちなさい」
母の言葉を思い出しては、何もできていない自分に途方に暮れた。大学時代に両親が離婚していたこと、妹が働いていることもあり、早く就職するために必死だった。中学生の頃「なんの仕事ができるのか」を考えたときと同じように、仕事について考えた。私は何がしたいのか、何が好きなのか…。「好きなもの」を考えて思い浮かんだのは本を読むことだ。本に絞って就職活動を始めた。ご縁があり、点字図書館の職員として採用してもらうことができた。就職を機に実家を出て、全く知らない土地での一人暮らしを始めた。その後も転職、結婚、出産に子育て。その間に7回の引っ越し。人生の大事な局面を、どれも納得するまで考え、選んできた。この文章を書き始めたときは母が言っていた「秀でたもの」は私には何もないなと思っていた。でも、書き進めるうちに気が付いた。悩んで、迷って、立ち止まって。それでも納得するまで考えて、自分が進む道を選んでいくこと。これが私の「秀でたもの」だ。誰かと比べて「秀でること」を母は願っていたのかもしれない。でも、私の答えはそうではなかった。
今の私の仕事は、視覚障害のある人たちにパソコンを教えることだ。今年で10年になる。学校の先生ではないものの「先生」として仕事をしていることを思うと、中学生の頃から持ち続けていた思いが形になっている。
母は5年前に他界した。今会って話せるなら伝えたい。
「秀でたもの、ちゃんと身についてるよ」
