そして、ゲイになる―もう会わない友達―
2000年を目前にしたあの頃、私たちは週に何回も集まって、いつも変な味の酎ハイを飲んでゲラゲラと笑った。
あの頃を考えると、必ずサワダの事を思い出す。
「また沖縄行こ〜」
みんなで何度も行った沖縄に、もう行かなくなってから何回もサワダは言った。
今どこでどうしているんだろう。
街で偶然出会っても、私は声をかけない気がする。
私は東京に引っ越したし、きっともう会わない。
会わないのに、まだ消えない彼を、友達と呼ぶのだろうか。
1996年、20歳の私はTKファミリーに恋をして、こっそり安室や朋ちゃんに憑依され、さらにこっそりイケメンを目で追った。
1997年、TKファミリーに取って代わるようにGLAYやラルクが爆売れした。やっぱり男性として女性と付き合おうと決めて、何度か付き合うも男性機能は沈黙。
そして1998年、宇多田ヒカル、浜崎あゆみが爆誕した。
歌姫たちの魅力に、私の中のゲイのDNAが抗えなかった。
うち、ゲイやん。
悲しいほどに、ゲイやん。
今までのしょっぱい出来事を全部塗り替えたかった。
一生結婚できなくて、子供も家族も持てなくてもいいやん。
ゲイでもいいやん。
そう思いたかった。
しかし、彼氏も友達も作ろうと思ってもできないもので、むしろ期待が大きいほど、いつもさらに大きく裏切られた。
そんな時期、出会い系サイトで出会ったしんじをきっかけに、私は同い年の4人のゲイと友達になる。私の人生に、深く関わる出会いだった。
2回目しんじと会う日に、いちろうって子呼んでいい?と言われ、じゃあ僕はひでお呼ぶわ、と自然と4人組になった。
数ヶ月後にしんじが「今度サワダっていう子も呼んでいい?」
と呼ばれて来たのがサワダだった。
私は、このサワダという男が苦手だった。
初めてクラブで会った時、響くダンスミュージックの中、サワダは「フー!」とか言い出しそうなテンションで、ちょっと不思議なダンスをしながら大声で笑っていた。パリピが苦手な私は瞬時にこの人無理かも、と心が硬くなった。
そんな出会いだったけれど、みんなで集まればサワダも呼ぶようになって、次第に私たちは5人組になっていった。
同い年の私たちは、5人全員が似ていなかった。
似ていなくても一緒にいると、ほっとした。
「何も隠さなくていい」
そのことがこんなにも私たちをほっとさせるなんて。
大きな体にのんびりとしたマイペースすぎる、いちろう。
キリッと凛々しいイケメンなのに、どこかお嬢様みたいな煌びやかさを持った、しんじ。
小柄で可愛いのに早口で全てを笑いに変えるエロのプロフェッショナル、ひでお。
小心で内気だけど好奇心旺盛な私。
そして、皮肉屋でめんどくさいけど、みんなを好きすぎるサワダ。
そんなサワダと仲良くなるのに半年以上の時間がかかった。
思っていることをズバッと言ってから、ハッとして「ごめんごめん褒めてるつもりやってん」と汗をかくサワダ。
こっそり漫画を描いていることを打ち明けたら、こっちがびっくりするくらいの大声で「読みたい!」と言ってくれたサワダ。
サワダは驚くほどピュアで、不器用だった。
あんなに気まずかったのに、気づけばサワダは何て言うだろう?と考えている自分がいた。
我が強くて、機嫌が顔に出やすいサワダは、一緒にいて最高に楽しい人だったけれど、よくみんなとぶつかった。
沖縄の古民家カフェで、みんなで楽しく氷ぜんざいを食べていたかと思えばサワダといちろうが顔を真っ赤にして言い合っていたり、花火を撮るデジカメの使い方でしんじを怒鳴りつけてしまう。
私も旅行先で食べたいものがみんなと違うから1人でその店に行きたいと言ったら激怒された事がある。
サワダのそれは、あまりにも頻繁で、みんなはそんなサワダを受け入れていたけれど、その度にサワダは自分のことが嫌いになっていっているようにも見えた。
恋愛や、私たち以外との友達関係も難しそうに見えて、私たちがサワダと毎週会って笑えていることって、もしかしてすごく稀なことなのかもしれないと思った。
「チェリーの漫画っていつ見れるん?」
沖縄から帰って来た翌々日の夜に、大阪のゲイタウンのよく行く居酒屋で、ソフトさきいかの天ぷらを食べながらサワダがいたずらっぽく言った。
「えーチェリー漫画描いてるん??」
みんな興味深々で一斉にこっちを見る。
おいおいバラすなや、と思ったけれど、実は全員に言いたかった私は、サラッと言ってもらえたことに小さく感謝した。
大ジョッキで紫色のお酒を飲みながら考えた。
実は見せられる漫画はすでにあった。
鉛筆描きだし、無印のノートだけれど、何回も何回も描き直して、つい2日前に「できた」と思えた漫画。
でも、描きながら主人公に感情移入して泣いてしまったし、読んだらそれがばれるんじゃないか、こんなこと思ってるんや寒〜とか思われたらどうしよう、何より面白くないと言われたら耐えられるだろうか、と怖かった。
それは、自己犠牲をテーマにした、ある男女のカップルについての短編だった。
どんどん壊れていく主人公が、恋人と一緒に居たいけれど、そうすることで相手に辛い思いをさせてしまうから、自分が居ない世界で幸せになってほしいと願う悲しいお話だ。
きっとくさい。いや、絶対にくさくて読めたものじゃない。絵だって全然上手くない。
でも、心の奥のほうに、「読んでほしい」という消せない思いがあった。
「次持ってくるわ」
意を決して言って顔を上げると、みんなが期待を満タンにした笑みでこっちを見ていた。
その日はまだまだ暑くて、エアコンでキンキンに冷えたサワダの部屋で、私だけがじっとりと汗をかいていた。
使い古した無印のA4のノート。
この中に私の一部が息づいている。
これを見てもらうのか。
怖くて唇の色がみるみる青紫になった。
サワダの計らいで、集中して読めるように一人一人順番に読むことになった。
カーテンの中で、ベランダを向いて読む。他のみんなは部屋の手前でいつも通りお菓子を食べながらわちゃわちゃと喋っていた。
私は内心気が気じゃないけれど、できるだけみんなの話に集中するように努めた。
まず、いちろうが読むことになった。
息をするのもしんどくて、できたらベッドに横になりたい気分だった。
しばらくして
「読みました!」
といちろうが元気に言って、ホクホクした表情で帰ってきた。
「ネタバレなるから感想は後で言わせてもらうわな」
頬を赤らめたその表情が、友情から来るものなのか、作品を気に入ってくれたのかわからなかったけれど、ちょっとだけ気持ちが楽になった。
しんじとひでおも、読んで、表情だけ明るく、声を出さずに帰ってきた。
それを見て、また気持ちが落ち着く。
サワダが
「えーなんの表情!?ドキドキする〜!」
とノートを受け取って部屋の奥に向かい、自分にカーテンをかけた。
ノートをめくる音が聞こえる。
みんなの話に集中できない自分がいる。
サワダがゆっくりとページをめくる。
私のソワソワが止まらない。
サワダがページをめくる音を聞きながら、私の中のある思いに気がついた。
私は、この話をサワダに読んでほしかったのかもしれない。
だから漫画を描いている事をサワダに始めに伝えたのだ。
私は、何も持っていない自分をずっと責めていた。
本気で描けば、少しは自分を認められるかもしれない。そう思って描いた漫画だった。私は自分の一番柔らかい部分をサワダに見せたかったのだ。
自分のことが、どうしても好きになれないサワダに。
ページをめくる音が止んで、パタンとノートを閉じる音が聞こえた。
カーテンの中のサワダはそのまま動かない。
みんながどうしたんだろうと思ったその時、カーテンが震えて、いつもと様子が違うサワダの声が聞こえた。
泣いてる?
それは小さく低い声だったけれど、心の中に押し込めていたものが、溢れ出てきたみたいな、叫びみたいな泣き声だった。
誰も何も言っていないのにサワダが
「ごめ、ごめん」
と言って、震えながら泣いていて、私たちみんなは「どうしたん」と焦ってサワダのところに集まった。そして優しく脱がせるようにカーテンを開けて、みんなが自然とサワダの体に手を当てた。
目を涙でいっぱいにしながらサワダが私を見て、少し息を整えて絞り出すように言った。
「すっごい良かった。ほんまに」
私は言葉が見つからずに探して、慌てて「ありがとう」と言った。
そして、サワダが泣き止むと、一瞬みんな無言になって、
「わはははははは」
と照れくささをかき消すみたいにサワダが笑ったから、私たちもその声をかき消すみたいにみんなで笑った。
それからも私たちは、会えば笑って過ごした。
でもしんじが26歳の時に東京に転勤になって、大阪にいるのは4人になった。
いちろうは仕事を辞めてから1年以上仕事をしなかった。理由ははっきりと言わなかったけれど、大きな体はだんだんと白く、小さくなった。
そんな事を乗り越えていくたびに私の中で声が聞こえた。
「私たちは大人にならないといけない。」
大人になんて、なりたくないのだ。
楽しい事だけしていたいし、興味がある事だけ見ていたかった。
それでも、私たちはあっと言う間に30代になった。
みんなと出会って10年余りの間に、みんな恋人ができて別れたり、またできたりして、仕事も日を追うごとに責任のあるものに変わっていった。
私にも恋人ができて、別れ、また新しい恋人ができた。
漫画家になることを諦め、派遣先で運良く正社員になることができて、やっと社会で息をして生きていける気がした。
若い頃に夢見ていたみたいに、楽しくもキラキラしてもいなかったけれど、これが大人になるということなんだ、と飲み込んだ。
サワダは今までフリーランスの誌面デザイナーとして良い暮らしをしてきたが、30歳を過ぎたあたりで風向きが変わった。
サワダに仕事を振ってくれていた担当者が、今後はもうお願いできなくなると言ってきたのだった。
いつもみんなで飲む、大阪のゲイタウンにある居酒屋の古い和室で、サワダがその件について話した。
「だからこれから仕事無くなるかもしれんねん」
焼けたタコさんウインナーの皮をパリッと砕きながら思った。
「でも、今まで苦労せずにいい暮らししてたやん」
サワダの苦労を見てもないのに、そう思った。
私はその頃入った雑貨の企画製造の会社で、毎日5分で昼飯をかきこみ、山積みになった減らない仕事をこなしていた。
ずっとフリーターでぬるい生活をしていた私は、29歳で派遣社員として入った会社で正社員になれたはいいものの、毎日ほぼ休憩なしで働いていたのだった。
寝ても疲れが取れない私の目は、サワダの部屋からランチに出る時に消さないエアコンや、部屋にある何本もの飲みかけのペットボトルを、どうしても見逃せなくて、見つけてしまうたびにちょっとずつ嫌なやつになっていった。
他のみんなもそれぞれの立場で踏ん張っていて、しんじはエレベーターで1人になると「わー!!」と叫ぶ時があるんよ、と力なく笑った。
そんな話を聞くたびに「自分も頑張らないと」と勝手に力をもらって、同志みたいに思っていた。
口では、サワダも含めたみんなに
「頑張ろう、みんななら大丈夫」
と友達として応援しながら、心の中では嫉妬したり、安心したりしていた。
29歳まで漫画家の夢を楽しく追いかけていた私が、その後の人生をこの社会で生きていくためには、どんな思いをしてでも今の仕事にしがみついて、「苦労」をできるだけ経験するしかない。
その時の私は本気でそう思っていた。
そしてサワダにも同じ思いをして欲しかった。
サワダは仕事を完全には失わなかった。
しかし、以前より減ってしまった仕事の報酬では、ずっと住んでいた素敵なマンションには住み続けられなくなった。
夏のある日、私たちが毎週集まっていた場所は、そんなふうに無くなってしまった。
サワダはそのマンションより、少し不便で、結構古くて、息を切らせて階段を登らないと辿り着けない部屋に引っ越した。
蒸し暑い日曜日、みんなで引っ越しを手伝おうと集まった。
私はその古いマンションで、積み上げられた段ボールの隙間から見える古い壁紙を見ながら、ここがこれからの集合場所になるんだ、と思った。
そして、前の部屋はとてもいい場所だったな、と改めて思って、飲み込んだ。
だんだんと日が落ちて来るその部屋は、やっぱり前の部屋よりちょっと暗い気がして、これから模様替えをして、サワダらしい素敵な部屋になるといいな、と段ボールを片付けるサワダの汗染みだらけの背中を見た。
みんなでその部屋を出る時、サワダが家主だから部屋に残るのは当たり前なのだけれど、
「じゃあね、バイバ〜イ!」
と元気よく笑うサワダが、閉まるドアで見えなくなるその時に、明確に、サワダをその部屋に置いていく感覚があった。
こんな暗い部屋じゃなくて、前のあの素敵な部屋に戻してあげたい、その思いでいっぱいになった。
これじゃなんだかこれからのサワダを応援できていないみたいで、そう思ったことを隣に居るしんじに話したかったけれど、やめた。
そしてみんなとバイバイして1人になった地下鉄の車内で、あの時のサワダの顔を何度も思い出した。
私の心配が当たってしまったみたいに、サワダはその部屋に引っ越してから、みるみる元気を失っていった。
仕事が減って前より給料が少ないからか、みんなみたいに恋を楽しめないからなのか。
何がどうなってしまったのかその時の私たちにはわからなかったけれど、サワダがゆっくりと自分の内側に沈み込んでいくように見えた。
あの部屋に呪われているみたいだった。
私はサワダにこんな苦労をする呪いをかけたかったわけじゃない、ほんの少し私の辛さを知って欲しかっただけだった。
21歳の時に手を取り合って人生を進み出した私たちは、10数年の時を経て、だんだんと一人一人が自分の足でそれぞれの道を歩いて行かないといけなくなった。
前へ、上へ、進みたい。自分のことは自分でやらないと誰もやってくれない。しんどさにさらされて、みんな、特に私は、少しずつドライになっていった。
いや、ならざるを得なかった。
目の前のことをこなさなければならないのだから仕方ない、そう思った。
私は長く付き合った1人目の恋人との別れを乗り越えて、早く恋人を作らないと人生は辛いことだけになってしまうと焦るように、仕事で疲れた体に鞭打って毎週のように何人もの人と会って、セックスもした。それなのに繋がれない、この人じゃないということだけがわかってしまう。
その時の私は仕事にも出会いにも、先の見えない不安と疲れを感じていた。泳いでも、泳いでも向こう岸にたどり着けない。でも泳いでいないと不安で仕方なかった。
「誰か俺に合う人連れてきて〜」
パソコンで若い頃の写真を見ながら、自分を老けた〜と笑ったあと、サワダが言った。
「俺イケメン嫌いやから。でもいい感じのおもろい人がいい〜。出会い系サイト?見てない〜」
サワダは元々皮肉屋で、それが面白くて大好きだったはずなのに、いろんな理由をつけて人と出会おうとせずに文句ばかり言うサワダにイライラした。
サワダの部屋を出て、他のメンバーと顔を見合わせて苦笑いをする。
みんなが今を変えようと行動してるのに、サワダは?
仕事も無いなら営業かけたらいいのに。
勇気を出して、何かしてみたら?って言ってみる?
そんな会話が増えてきて、それはそれで心苦しくて、だんだんと他の友達と遊ぶことも増えていった。
新しくできた年下の友達と楽しく笑っている間も、サワダがあの部屋で待っている気がする。
あの部屋の暗い扉が頭によぎって、でももう大人やし、と思ってかき消した。
「お母さんが、新しい車を勝手に買ってん。仕事無いし俺がお金払うのに、、」
近所の激安スーパーで買った惣菜を肴に、いつもの変な缶酎ハイを飲みながらサワダが言った。
サワダの母親には会ったことがあって、割と好印象だった。
自由気ままそう、でも楽しくていい人で、ちゃんとお母さんでもあった。
みんな何と声をかけていいかわからなくて、「そうなんや〜」とか「やばいな」と口々に言う。この言葉がなんの意味も持たない事はわかっていたけれど、私たちにできることはそんな言葉を安い掛け布団みたいに重ねる事しか無いように思えた。
「なんかチェリーの恋人っぽくない」
私の新しい恋人について、明らかに不満そうにサワダが言った。
私はその人に会うまでに1年間で10人以上の人とデートをしたり、ちょっと付き合いそうになったりして、正直疲れていたし、なんの努力もしないサワダにだけは言われたくなかった。
彼はお前より何倍も優しいねん。
何も知らんくせに。
「彼氏小さくて細いからチェリーといるとなんか幽遊白書の戸愚呂兄弟みたい」
とサワダが笑った。私はうまく笑えなくて、その笑顔をじっと見て思った。
サワダのひねりの効いた皮肉が大好きだった。
大好きだったのに。
その後、サワダの調子は一段と悪くなって、様子見にサワダのお母さんと時々連絡を取り合うこともあった。
「眠れないみたいやわ。」
恐怖に近い不安。
顔色も悪く、肌の調子も悪そうだ。
その頃は、ずっと心のどこかでサワダを心配している自分がいた。
恋人のベッドで夜中にゴロゴロしていると、サワダのお母さんからメールが来た。
「今日いつもより調子が悪くて、ずっと泣いてるから私困ってしもて、、。今から来られへん?」
驚いた私はベッドで寝そうになっていた恋人に車で送ってほしいとお願いした。
恋人の部屋からサワダの家は近く、車で10分ほどだ。
駆けつけた私は恋人に下で待っていてほしいとお願いして、階段を駆け上がった。
深夜なのにマンションの部屋はキッチンも全部煌々と明かりがついていて、廊下の床で立つ力も無くなったサワダが、壁に体をもたせかけながら、脱ぎ捨てた服みたいになって、力無く泣いていた。
その傍で、薄ベージュのパジャマ姿のサワダのお母さんが「もうお手上げ」と聞こえてきそうなほど、困り果てた顔で立っていた。
私はサワダの高さまで目線を合わせて、
「大丈夫?」
と腕をさすった。
「もうこの子わからんわ、、。ごめんね、こんな夜中に。タクシーで来たん?」
とサワダのお母さんが今それ言う?というズレたことを言って、サワダが失望したように
「ふふ、、」
と涙と鼻水を流しながら笑った。
「あんたこんな時に何笑ってんのよ」
サワダのお母さんが怒り出しそうになったので、やばいと思った私は
「ちょっと落ち着いたん?ベッドで横になったほうがいいかも」
と話を変えて、しばらくサワダの側にいた。そして、横になったサワダの涙が止まって目を閉じたタイミングで部屋を出た。
サワダのお母さんは私に色々声をかけてくれたけど、多分この人はサワダの事を理解するのは難しいだろうな、と疲れた頭で思った。
小一時間ほど経って、車に戻ると、明らかに彼氏が怒っていた。そしていつもより低く冷たい声で言った。
「どうすんの?自分の家に帰る?」
心の底から怒っているのがわかって、でも待たされただけの怒りじゃ無い気がして、それが怖くて自宅に帰りたいと喉まで出かけたけれど
「あなたの家に帰りたいです」
と言った。
部屋に帰ると堰を切ったように彼は言った。
「今までいろんなわがまま聞いてきたけど今回のは無いわ。わかる?わからんやろな。俺は何のために一緒におるん?そういうの考えたことあるか?」
正直私は彼が何にこんなに怒っているのか、いまいちよくわからなくて、でも普段怒らない人が怒っていて怖かったのでとりあえずひたすら謝った。
そして心の中で、少しだけサワダを恨んだ。
この件から一年後、この彼と別れることになった時に、彼は私を見ずに優しく吐き捨てるように言った。
「一緒にいる間、ずっと寂しかったわ」
その言葉を聞いた頃の私は、「だって仕事も友達も全部大事やもん」と自分を守り、心の中でその言葉を跳ね除けた。
でも、それから15年以上経ってもその言葉は消えずに私の心に刺さったまま、ここにある。サワダとの辛かった思い出とセットになって。
仕事はどんどん忙しくなって、だんだんとみんなで会う頻度が減っていって、いちろうやひでおとは個々で会うようになった。
やっと辿り着いた週末に、会えばまたサワダの空気に当てられてしまう。それがしんどくて自然と年下のグループに連絡した。
あの部屋の扉が頭に浮かんでは、何度もかき消した。
しんどい事は何故か重なる。
それは8月の暑い日だった。
働いていた会社で、男性上司と一緒に社長室に呼び出された。何の話だろう。仕事はまだまだ山積みで、1分でも早く解放されたかった。
70歳を超えた社長は不自然な世間話をしたあと私に言った。
「君は、あれか、ゲイというやつなんか?」
一瞬で体が冷たくなった。
隣に座っている男性上司が息を呑んだのがわかったが、顔を見られなかった。
そして、次の瞬間、心の底から激しく熱い感情が湧いてきた。手が震えているのがわかって、左手を右手でぎゅっと掴んだ。
新しくできた彼氏と休日にデートしているのを、たまたま見た女性社員が誰かに言って、それが回り回って社長にまで届いたらしい。
しばらく沈黙して私は言った。
「それ、本気で聞いてますか?」
社長は私の目に少し怯んで言った。
「本気で聞いてるよ」
なんのためやねんクソが。
そして、その社長の「男らしさ」を取り繕うような態度に、なんだか全てが馬鹿馬鹿しくなって言った。
「そうです」
その瞬間、社長と男性上司が顔を合わせて慌てて笑いながら言った。
「え?え?そうなん?」
私は2人の様子に心の底から疲れた。
うんざりだった。
「本気で聞いたんですよね?そうですよ」
今まで満足に昼食も食べずに働いたのはなんだったんだろう。
彼女いるの?といろんな人に聞かれて、彼氏を彼女に置き換えて、まわりの空気を壊さないようにしたのは、何のためだったんだろう。
みんながゲイだと知っていて、誰も何も言ってこない。そんな会社からの帰りの電車で、サワダからのメールが届いた。
それは驚くような内容だったけれど、こうなる事はわかっていたような気がした。
「みんなと絶交したいです」
もう、いい。
なんか、もう、いいわ。
メールを読んで、すぐにそう思った。
メールの向こうで、サワダが泣きじゃくっているのがわかる。10年以上も友達やってるんだから、見ていなくても、書いてなくても、わかるのだ。
「もう無理」
そう言って泣くサワダの手を、もう一度握る勇気が、私には無かった。
世の中はこんなにも私に厳しいのに、自分と恋人、そして友達を大事にするだけで、もういっぱいいっぱいだった。
メールを見た他のメンバーから続々と連絡が来る。
みんなでサワダの家に行こう。
サワダ大丈夫かな?
優しい言葉で溢れていて、それを私は、ただ見ていた。
そして送った。
「行きたい人は行ったらいいと思う。僕は行かない」
みんなが優しさで慌てている中、私だけが明確な意思を持ってサワダを見捨てた。
それから、生活のために働いているうちに、あっさりと1週間が経ち、1ヶ月、1年が経ち、それ以来私がサワダと会うことは無かった。
15年経った今、こうして私はサワダのことを書いている。
もしサワダがこれを読んだとしたら、事実と違う、そんなんじゃない、と怒るかもしれない。
しかし、書いている間中ずっと、サワダは私の友達だった。
ずっと忘れていたクセのある笑い方も思い出したよ。
書き終わった今も、めんどくさくて、最高に面白いサワダが消えない。
あの笑い声が、消えない。
先日、いちろうにサワダの写真持ってる?と聞くと、数枚の画像が送られて来た。その中に、あの時のチェキがあった。
みんなで26歳の時に東京に転勤になったしんじを、新大阪駅に見送りに行った時、サワダのチェキで撮った写真だった。
みんなが泣いて私だけ泣けなかったらどうしよう、と思っていたら、腹ごしらえにみんなでサンドイッチを食べている時に急に涙が込み上げてきて、1番初めに私が泣いた。
それを見てみんなが笑った。
でも気づけば全員泣いていて、大人の男4人がおんおん泣いているのを、道行く人たちがチラチラ見ていたけれど、どうしても涙が止まらなくて、この5人でいさせてください、ずっといさせてください、と願った。
写真に写る26歳の彼らは、49歳の私から見ると、まだまだ子供みたいな顔で、これからいろんな事を経験するんだな、と不思議な感覚になった。
私はその写真を、「昔の写真」というフォルダを作って保存した。
その写真を見ながら、今新幹線で大阪に向かっている。
東京にいるしんじには会えないけれど、いちろうとひでおと美味しいものを食べる予定だ。
これからも、会えたり、会えなくなったりしながら生きていく。
もう会わなくても大切で、しんどくて、愛おしく、続いていく。
