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小説創作における『憑依型執筆スタイル』の考察と言語化への挑戦 第九章、最後に

第九章 第三の憑依型

■憑依型の進化形

 ここからの話は、都市伝説か、おっさんの妄想とでも思ってください。

 これまで述べてきた憑依型の執筆プロセスを簡単に説明すると
 脳内のイメージ(物語を妄想)→処理(情報の取捨選択)→アウトプット(言語化、文章化)
 憑依型の人のほとんどはこれに当てはまるかと思います。

 私自身、ずっとコレを続けてきたつもりでした。
 ですが、最近、1つ違うことに気付きました。それこそ、このエッセイを執筆しながら、「あれ?最近の俺、これと違うかも?」と。具体的には、脳内のイメージの部分。

 憑依型の中でも役者タイプは、キャラに憑依して、その内面の認知で物語を展開させます。
 これって、あくまでキャラなんですよね。ドラマや映画でいうと、役であって、役者がその役になりきって演技しているとも言えるんですよね。
 でも、最近私が気付いたのが、「役じゃなくて、人格そのものじゃないの?」と。
 つまり、脳内で作り上げたのが、物語の役ではなく、人格そのものなんですよ。物語なら妄想の範囲ですけど、生の人格そのものだと、脳内世界に生息しているのを、生態観測しているとでも言うべきか。

 第二章で、憑依型を視点の違いで役者タイプと観客タイプの二つに分類しましたが、役者タイプの進化形とでも言えばいいのか、ここでは「人格成形型」と名付けておきます。

 脳内に、ほぼ完全な人格ができているんです。恐らく、作ったキャラに深く潜り込んで、育ちや趣向などのバックボーンを肉付けしているウチに、キャラが完全に独立した人格になってしまった感じなんですよね。正直に言いまして、この辺りは自分でも上手く説明ができません。
 でも、口調・語彙・思考の癖が完全に自分とは全く違う独立した人格で、実在している人間を観察して書いたんじゃないかってくらいに言動が生きている人間そのままなんです。

 なので、役になりきる(キャラに憑依する)のではなく、別の人格に切り替わると言うべきでしょうか。それも脳内の中でだけの話で、二重人格者とは違って、現実の思考や口調は別人格になることは一切ないし、思考が寄せられることも無い。あくまで、脳内のドラマの中でだけ、その人格になるんです。

 憑依型である自分を特別視でもしてる痛いおっさんと思われるかもしれませんが、実際に最近執筆した作品の人物は、挙動や会話のテンポ、モノローグが勝手にポンポン出てきて、本当に生の人間そのものなんです。それは役を演じているのではなく、その人格の素の挙動だからだと思うんですよ。

 それで、その人格成形型の特徴なんですが、シリアスになろうがコメディになろうが、キャラに全くブレがでません。どんな場面でもその人格がその状況でするべき挙動を当たり前のようにするのです。そして、どんなに場面がかわろうと、その人格「らしさ」が失われないので、一切ブレないんです。
 実際に最近書いた長編は100話以上ありましたが、少なくとも自分では最初から最後までブレを感じずに「らしさ」を失いませんでした。

 やっぱり、説明が難しいですね。
 よく、憑依型ぶった人が言う「キャラが勝手に動くんです」とは、次元が違うんですよね。
「脳内に自分とは別の人格が常駐している」とでも言いましょうか。憑依して体験するというよりも、その人格に切り替わって、そこで生息するとでも言いましょうか。

 無理矢理言語化すると
 キャラが動き出す:いくつかある想定パターンの中で、作者の予想外の行動をとる。
 人格成形型:作者の想定なんて最初から無視で、人格の論理で動く。
 実際に私の作品で顕著に表れている描写を抜粋してみます。

『小用を済ませて、ついでに洗面所で顔も洗うと少し冷静になれた気がしたが、昨夜のことは思い出せないまま部屋に戻ると、ベッドの横にあるゴミ箱が視界に入った。
 中を覗くと、丸めたティッシュがいくつも入っている。直接触るのはイヤなので、ゴミ箱ごと手に持ち、顔を近づけて臭いを嗅ぐと、くっさ!めっちゃイカ臭い!』

 分かりますでしょうか。ティッシュに触りたくないからゴミ箱ごと持つという動作が、完全に生の人間の感覚です。そして、自分で臭いを嗅いでおきながら、くっさ!という反射的な反応で、異常な程リアルで生々しいんです。
 この一連の動作は、作った役(キャラに憑依)ではまず出てこない挙動だし、しかも、物語上ここまで描写する必要のないシーン。この人格が勝手にやってることなんですよね。

 ということで、第二章で提示した分類を更新すると
・役者タイプ:内面的体験型、一人称
・観客タイプ:外面的観測型、三人称
・人格成形型:自律的生息型、一人称

 こんな感じになるかと思います。

 第三の憑依型に関しては、おっさんの中二病的妄想とでも思ってください。ただ、実例でも挙げましたが、私の最近の作品を読むと、ちょっと異常なくらいに、主人公の人格が強固で、挙動が生々しいし、何があってもブレないだろうというのが解かるかと思います。
 実際に執筆しているときでも、その人格の論理でポンポン動いてくれるので、矛盾する行動は取らないし、完結まで書いていて、つまずくことはほとんどなかったです。
 ちなみに、完結まで書き終えると、その人格は綺麗さっぱり居なくなります。完結した達成感で、脳内から解放でもされたんでしょうね。

 

最後に

 ここまで読んで気付いた方がいるかは分かりませんが、ここまで【私という素材】に私自身が憑依して、観察(客観視)し、分析と解釈をして、私の言葉で体系的に言語化してきました。

 つまり、これが『現時点』での私の結論になります。この『現時点』というのが、憑依型にとっては大切だと思います。

 憑依型は脳の中で妄想を広げ続けます。変化を続けているのです。
 なので、ここで述べてきたことは、今現在の私の見解であり結論になります。明日になったら、また別のことを考え、全く違う結論を出しているかもしれません。

 でも、それで良いじゃないですか。迷子になったり180度方針転換なんて、憑依型にとっては当たり前なのだから。腐らずに、今の自分の特性を理解して、欠点を自覚しながらカバーして、自分が面白いと思ったことを書き殴るだけです。

 この創作論もどきのエッセイは、万人受けは一切狙っていません。憑依型以外の作家さんたちへ、配慮をする気もありません。
 憑依型作家さんたちに向けて書きました。自覚のある人にも、無自覚な人にも、少しでもなにかの役に立てたらと、自分のことをかなりさらけ出しました。
『こんなんでも、頑張って書いてますぜ』という、私なりのメッセージです。

 憑依型というのは欠陥ではなく、個性です。個性は作家にとって武器になります。
 少しインテリぶった話をすると、「モーツァルトの作曲理論を理解しても、モーツァルトにはなれない
 つまり、ここまで述べてきた憑依型の特性や理論をテンプレラノベ作家が読んで理解できたとしても、憑依型にはなれません。私たちだけの武器なんです。

 今は、憑依型にとっては不遇の時代ですが、必ず、テンプレ至上主義は崩壊します。その時が、我々憑依型が活躍できるチャンスです。
 憑依型の作家さんがこのエッセイを読んだことで活力をみなぎらせ、一人でもその時代に活躍できたら、私は本望です。

 本当は、自分でも活躍したいんですけどね。歳ばかりは逆らえないので、ボチボチ頑張ります。


 おしまい。


※明日から中編作品の連載を開始します。
 タイトルは『死せるアラサー、生ける後輩を走らす
 人格成形型で執筆した会話劇ですので、興味がありましたら一読してみてください。

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