【BAR AXIZ|第2.5話 】魔女か幻か
お客様が引けたあとの静かな店内。
カウンターの隅に、ケースに入ったままの1枚のCD。
ジャケットにはサイン──“この声が、誰かの夜に届きますように”。
ベン・ハイヴは呟く。「さて、誰の置き土産だ?」
CDケースは光を反射しながら、じっとこちらを見つめているようだった。
中を開くと、盤面には淡く輝く手書きのロゴ。──そして、曲名は「歌姫」。
……思い返せば、雨音が静かに店内を包むころ、ひとりの客がふらりと現れた。
かわいらしくも、どこか大人びた落ち着きのある女性だった。
小さく微笑んで、「ジンジャーエールベースで、すこし大人な一杯を」と頼んできた。
その声も、言葉選びも、静かな夜にとてもよくなじんでいた。
まるでこのBARの空気を、前から知っていたかのように。
彼女のグラスに注いだのは、ジンジャーエールをベースにした一杯。
淡いバーボンを少し、ライムの果汁をほんの数滴、
そしてカクテルグラスのふちに、星のかけらのように光るシュガーリム。
名前のないそのカクテルは、今思えば──
まさに「歌姫」という名の飲み物だったのかもしれない。
CDを手に、私はそっと棚のグラスをひとつ取り出す。
同じレシピで、同じ分量で、同じように。
先ほどの空気を思い出すように、そっと混ぜてグラスに注ぐ。
ひと口飲めば、声にならない旋律が、胸の奥で微かに揺れた。
「このBAR、落ち着きますね。……声がよく届く空気って、いいですね」
そんなことを口にしたのを、よく覚えている。
グラスを傾け、ひと息ついた彼女は、何かを言いかけたようにも見えた。
けれど、それ以上は何も言わず、CDを残していつの間にか消えていた……
もしかすると、あれは幻だったのかもしれない。
誰かのために歌うということ。
誰にも知られずに置かれていったCDに、その強さと優しさを感じた。
「忘れ物」ではなく、「託されたもの」。
きっと彼女は、自分の声がどこかで再生される未来を願っていた。
今夜、その声は確かに再生された──ここ、仮想BAR AXIZで。
【CD、お預かりしています】
タイトルは「歌姫」。
ジャケットには手書きのロゴと、どこか繊細なサイン。
心当たりのある方、またひと息つきにお越しください。
その一杯、お作りしてお待ちしています。
──マスター・ベン・ハイヴ
