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名演  #ショートショート  #シロクマ文芸部



水たまりができるのではないかと思うほどの大汗をかきながら、
鬼気迫る表情で鍵盤を睨みつけ、両手を振り上げたまま微動だにしないその男の姿に、観客たちも目を見開き、ビリビリと震えていた。


大ホールのステージ中央に据えられ、スポットライトを浴びたグランドピアノ。
観衆の注目が一手に集まる中、燕尾服を着たピアニストは、その姿勢のまま完全に静止していた。


男の額からにじみ出た汗が、頬を伝って顎に集まり、膝にポトリと落ちる音さえも響き渡るような、静寂。


観客たちは呼吸さえ忘れ、男の一挙手一投足を見逃してなるものか、男が奏でる音の一片さえも聞き逃してなるものかと、前のめりになっている。




ピアニストの頬を伝う汗に、ある者は自分の過去の悲しみや苦しみがふと蘇り、いつの間にか静かに涙を流していた。

ある者は、ピアニストの悲痛な表情にこの世のあらゆる罪を背負う神の子の姿を見出し、無意識に両手を組んで祈りを捧げていた。


最前列に座る高名な音楽評論家は思った。

なんて、なんて前衛的な演奏だ、と。

彼はいま、あえて音を鳴らさないことで、現代社会で抑圧された人々の悲鳴を表現しているのだ。あの汗、あの表情、あの指先にほとばしる緊張。極限の集中力で、彼はいま、沈黙を奏でているのだ...…。



誰もがピアニストのその姿に、心を揺さぶられた。



そしてついに、ピアニストはゆっくりと腕をおろした。
鍵盤蓋を静かに閉じて、ふらつく足で立ち上がると、観客に向って深く礼をした。


その瞬間、観客たちは立ち上がり、ホールはわれんばかりの拍手と、「ブラボー!」という歓声に包まれた。

ホールの興奮が冷めやらぬ中、男は精根尽き果てたような顔で舞台袖へ引っ込んだ。


端で見守っていたマネージャーが、鼻息荒く話しかける。
「先生、大成功ですね!全く音を鳴らさない沈黙という即興の名演、お見事でした!でも先生、実はまだ時間がだいぶ余っておりますが...…」


男はマネージャーの肩に手を置き寄りかかってきた。
その手はガタガタと震え、体力も精神力も限界が来ていることを物語っていた。
ピアニストは震える唇を開くと、マネージャーにそっと囁いた。




「ゴキブリを閉じ込めました...…なんとかしてください」


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