「暫定的分類」の可能性
様々な論争に見られる共通の対立
日々多くの論争(あるいは喧嘩)が行われています。それらに触れていると多くの論争に共通している争点が浮かんできました。それは「分類派」と「分類否定派」の対立です。様々なテーマで論争が行われていますが、多くの場合、そこには実は「分類」の評価をめぐる対立が隠れています。しかし当事者は各テーマについて意見を戦わせており、「分類」を巡る対立を意識しないため、話が通じずに拗れているパターンが多いように思ったのです。
これだけだと抽象的すぎるので「分類派」と「分類否定派」の対立について具体例を挙げながら私の問題意識とそれに対する意見を書きたいと思います。
※「分類派」と「分類否定派」というように分けるのがそもそも「分類」ではないかという意見はまさにその通りです。これは私は「分類派」に立っていることを先に示していることになります。
(固定的)分類派と分類否定派
「分類否定派」は以下のような言い方を批判します。
「日本人」は〇〇で「外国人」は〇〇だ
「東大生」は〇〇だ
「最近の若者」は〇〇だ
「女性」は〇〇だ
「投資家」は〇〇だ
「関西人」は〇〇だ
「分類派」が「日本人/外国人」、「男性/女性」、「若者/高齢者」といったようにグループ分けをしてそれに対して評価を加えるのに対して、「分類否定派」はそういったグループ分けは境界を恣意的に引いたものであることや例外があることを重視して、「主語が大きい」などと批判します。
このように考えると、分類派のような言い方を多くの人がしてしまうことと、分類否定派の方が正しそうであるということを同時に感じる人が多いと思います。実際、多数派が単純な偏見を元に雑な「分類」をして雑な批判や擁護をするのに対して、少数の賢そうな「分類否定派」が冷静にそれを批判するというような場面を多く見たことがあります。
分類否定派の限界
しかし、私は単純な分類への批判については同意しつつも、「分類否定」は現実的ではないと考えています。なぜなら、「分類」とは、世界の複雑さを知覚・理解するための情報圧縮の手段だからです。人間の脳は膨大な情報を逐次処理できないため、共通性に基づいて対象をまとめ、「種類」や「カテゴリ」として扱います。たとえば「椅子」「花」「日本人」など、すべてが分類の成果物です。「椅子」といっても様々なものがあります。たとえばパイプ椅子とベンチとロッキングチェアでは全く異なります。しかし私たちはそれらを全て「椅子」と分類しています。つまり、分類は思考の前提条件であり、分類を完全に否定することは「言語による思考」そのものを否定するに等しいと思います。何かについて語るとき、「主語が大きい」ことは避けられないのです。分類否定を貫くと、世界の認識がカオスになり、行動可能性が損なわれてしまいます。
(固定的)分類派の危険性
もちろん、「分類」は便利である一方、固定化、価値の過剰な一般化、例外の無視を伴う危険性やグラデーションを意識できなくなるという弱点があります。同じ「椅子」ならば、ロッキングチェアでもパイプ椅子でもベンチでもどれでも良いと考えるのは無理があるでしょう。「分類派」の問題は、分類の暫定性や文脈依存性を忘れ、「本質」や「普遍」として扱ってしまう点にあります。
第三の道
人間は「分類」から逃れることができないが、それを絶対視するのは危険であるというのが私の立場です。ロッキングチェアとパイプ椅子とベンチを暫定的に「椅子」としてまとめつつ、それぞれの違い(個性)を把握するという姿勢です。醤油ラーメンと味噌ラーメンでは全く味が異なるので「ラーメン」として一緒に語るのはおかしいという立場とも、醤油ラーメンと味噌ラーメンは同じ「ラーメン」なのだからその差は無視して良いと考える立場とも一線を画する第3の立場です。私はこの立場を「暫定的分類派」と暫定的に名付けたいと思います。(先ほどまでの「分類派」は「固定的分類派」としたい。)
暫定的分類派
「暫定的分類派」は文脈ごとに暫定的な分類を行いますが、その境界は流動的です。分類を「道具」として用いますが、それを絶対視せずに常に訂正・アップデートしていきます。
たとえば、「日本人/外国人」という分類は暫定的には効果があります。なぜなら日本語を用いて日本文化に囲まれた人々とそうでない人々との間には集団として比べたときに「傾向」として差が生じるのは当然だからです。しかし、「日本人」というカテゴリを絶対視してはいけません。同じ日本でも沖縄と東京と北海道では全く異なりますし、それをさらに分解してみれば、各個人で全く異なります。
「日本人は〇〇だ」ではなく、「日本人は〇〇という傾向がある」と語るべきです。「日本人(全体)は礼儀正しい」、「日本人(全体)は空気を読むばかりで自己主張をしない」という広く流布している主張は不正確で危険です。日本人であったとしても、礼儀正しくない人や自己主張が強い人は存在することは言うまでもありません。しかし、こういった「日本人論」、「日本人像」の一切を否定するのはもったいないと思います。「日本人は礼儀正しい傾向がある」、「日本人は空気を読むばかりで自己主張をしない傾向がある」という主張は、日本人全員に当てはまるものであると絶対視せずに、あくまでも常に訂正し続ける暫定的な「日本人の平均的な傾向」として分析する限りにおいて、これからの日本を考える上で有意義なものではないかと思います。たとえば、「日本人」について分析した『菊と刀』などの古典は、そのような意識で読むと非常に興味深い論考です。これは男性/女性論争や若者/高齢者論争など他の論争においても当てはまるでしょう。
※もちろん誹謗中傷的な主張は「傾向がある」と言う表現でも、倫理的に許されないのは言うまでもありません。
最後に
この記事では「分類」について私が感じたことを書きました。このテーマを最初に意識したのはMBTIの是非を巡る論争です。MBTIが大好きで多くのことをMBTIに結びつけて話そうとする友人もいれば、人間が16種類に分けられるわけがないと懐疑的な友人もいて、盲信するのは危険だけど思考の枠組みとして参考程度に捉える分には興味深い診断だと考えていた私としては双方に疑問を持っていました。機会があればMBTIについての私見も記事にしたいと思います。
