何も生み出さない午後を残す戦略
月曜日の朝、目覚まし時計は鳴らない。
通勤する必要はない。電車の遅延も、朝礼も、上司への報告もない。会社員だった頃なら、週の始まりは誰かが決めた時間に合わせて始まった。いまは自分で決められる。
コーヒーを淹れ、パソコンを開く。
カレンダーには顧客とのオンライン会議が二つ、提出期限の近い提案書、確認しなければならない資料が並んでいる。受信箱には、まだ返していないメールが残っている。
独立してからは、当たり前だが誰にも出社しろとは言われていない。それなのに、朝八時を過ぎると少し落ち着かなくなる。
未返信メールは、こちらの雇用形態に関係なく勤怠管理に熱心である。
会社を辞めたとき、私は自由になると思っていた。
実際、自由にはなった。ただし、自由になったあとで何をするかではなく、何をしないかまで自分で決めなければならないとは、あまり考えていなかった。
上司のいない生活
独立すれば、通勤はなくなる。
仕事をする場所も時間も、自分で決められる。関心のない仕事を断り、やりたい仕事を選べる。組織の都合で突然方針が変わり、その説明を聞くためだけの会議に呼ばれることもない。
これは間違いなく快適だった。
朝の道路が混んでいようと、雪が降っていようと、私の仕事場までは十数歩で着く。昼に用事があれば外へ出られるし、午後から働くこともできる。誰かの承認を取らなくても、仕事の順番を変えられる。
だが、上司がいなくなると、仕事まで勝手に整然としてくれるわけではない。
会社には、多少不本意でも、労働時間の外側があった。退勤すれば、その日の仕事はいったん会社に置いて帰ることができた。独立すると、仕事は自宅までついてくるというより、最初から自宅に住んでいる。
家賃は払わないくせに、ずいぶん場所を取る同居人である。
姿のない上司
独立後、上司の代わりに現れたのは、売上だった。
毎月いくら必要か。いまの顧客は満足しているか。次の契約は決まるか。仕事を断れば、次から声がかからなくなるのではないか。
誰かが命令するわけではない。
「今週末も働け」と言う人はいないし、「このメールには今夜中に返事をしろ」と指示する人もいない。それでも、返事が遅れれば評価が下がる気がする。休んでいる間に、別の誰かへ仕事が流れる気もする。
会社員時代の上司には、少なくとも顔があった。機嫌が悪ければ分かったし、出張中なら少し静かになった。
売上には顔がない。休暇も取らない。
しかも、こちらが休んでいるときほど、よく働く。予定のない午後に、「この時間を使えば提案書を一つ進められる」と耳元で囁いてくる。
こうして私は、自分の時間を自分で管理しているつもりで、将来への不安に管理されるようになった。
請求書は命令しない。ただ、支払期限の近くで静かにこちらを見る。その無表情さは、たいていの管理職より完成度が高い。
得意なことが義務に変わる
独立すると、得意な仕事が集まりやすくなる。
頼まれる。期待に応える。また頼まれる。
それ自体はありがたいことである。仕事がなければ独立は続かない。顧客が増え、評判が積み上がり、紹介が生まれる。会社員だった頃より、自分の能力が直接仕事につながる実感もある。
ただし、ここには小さな罠がある。
得意なことは、最初は選択肢だった。それが繰り返し求められるうちに、自分が引き受けるべき仕事へ変わっていく。
自分なら早くできる。自分なら期待に応えられる。断るほど嫌な仕事でもない。
その結果、引き受ける。
仕事ができるほど、仕事が集まる。仕事が集まるほど、断りにくくなる。断りにくくなるほど、自分で選んでいるという感覚だけが残り、選択肢は減っていく。
自由業という言葉は、なかなかよくできている。自由なのは業種名であって、本人とは限らない。
能力が自由をつくるとは限らない。能力は、需要を呼び込む。需要は予定表を埋める。予定表が埋まれば、成功しているように見える。
しかし、埋まったカレンダーと、自由な人生は同じものではない。
五十代になると、増やすことだけが答えではなくなる
若い頃は、増やすことに合理性があった。
売上を増やす。肩書きを得る。経験を積む。人脈を広げる。案件数を増やす。新しい事業アイデアを作る。
忙しさは、前に進んでいる証拠に見えた。実際、それによって得たものも多い。
だが、五十代になると、時間の見え方が少し変わる。
まだ働ける。新しい仕事もできる。難しい案件を引き受ける力も、たぶん残っている。
一方で、体力は無限ではない。親のこと、子どものこと、家族と過ごす時間、自分自身の残り時間も、予定表や To Do リストの外側に置いておけなくなる。
若い頃は、「できるなら、やる」が自然だった。
いまは、「できること」と「やるべきこと」は同じではないと思う。
引き受けられる仕事を、すべて引き受ける必要はない。成長できる機会を、すべて成長に変換する必要もない。
仕事を断ることは、能力の否定ではない。別の時間を守るための判断である。
そう考えなければ、仕事に困って独立したわけでもないのに、仕事があることで人生の余白を失うという、わけのわからない少し手の込んだ事態になる。
休む理由を自分で作る
会社員には、有給休暇という制度がある。
もちろん、取りやすい会社もあれば、申請するだけで軽い裁判のような雰囲気になる会社もある。それでも、休むための制度上の理由は用意されている。
独立すると、休暇の承認は不要になる。
その代わり、なぜ今日は働かないのかを、自分で、自分が納得しなければならない。
疲れているから。家族と過ごしたいから。本を読みたいから。散歩したいから。または、何もしたくないから。
どれも理由になるはずなのに、売上にならないという一点だけで、少し弱く見える。
働けるのに働かないことには、妙な後ろめたさがある。
しかし、働かない時間にまで事業上の説明責任を求め始めたら、独立した意味はかなり薄くなる。
自由とは、好きな仕事を好きな時間にすることではないのかもしれない。
空いた時間を、すぐ売上に変換せず、そのまま残せること。
断る理由を、他人にも、自分の中の経理部長にも、逐一説明しなくてよいこと。
働けるのに働かない時間を、損失ではなく、自分の人生として引き受けること。
売らない午後
カレンダーが空いているだけでは、自由とは言えない。
空白を見つけるたびに仕事を入れ、メールを返し、資料を進めていけば、その時間はまだ売却可能な在庫でしかない。
だから、ときどき午後を一つ残しておく。
何をするかは決めない。仕事の遅れを取り戻す予備日にもせず、将来の案件のための準備時間にも使わない。
その空白は売上にならない。
実績にもならない。誰かに評価されることもない。翌月の請求書には、一行も反映されない。嬉しくも悲しくも、目に見えない形で残る透明な業績。
それでも、その午後を誰にも売らずに残せたなら、少なくともその時間だけは、自分のものだったと言える。
会社を辞めて得た自由は、働く場所や時間を選べることではなかったのかもしれない。
何も生み出さない時間を、何も生み出さないまま守ること。
ふと気づいた月曜日のカレンダーに残った白い午後を見ながら、最近はそう思っている。
