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『インビジブルフレーム』The Frame Is Set──フレームは死なない

📢 本編を読む前に
この物語は、小説『ソシオパスフレーム』の続編にあたり、ミステリー小説「寅子、若き日の一篇」シリーズ〈白石輝道編〉の完結編です。

前作『ソシオパスフレーム』の最後、亡き父・正が残した手記を読み終えた真理と寅子は、大学の中庭で、ひとつの決意を交わしました。

怪物・白石輝道という男の輪郭を、いつか法廷の場へ引きずり出すまで、追い続けること。

それから、数か月。

二人は大学生活を送りながら、白石とつながる福祉法人「ひかりの窓」を、外側から静かに追い続けています。

白石自身は、ほとんど姿を見せません。

それでも、彼が残した言葉や考え方は、人から人へ、組織から組織へと場所を変えながら、少しずつ広がり始めています。

本作からでも物語の流れを追えるように構成していますが、シリーズ完結編という性格上、前作『ソシオパスフレーム』を先にお読みいただくと、登場人物たちが抱えているものや、物語の奥にある「フレーム」が、より立体的に見えてくると思います。

また、前日譚『ソシオパスフレーム・ゼロ』では、白石輝道という人間が、どのように生まれていったのかを描いています。

🔗 前作『ソシオパスフレーム』はこちら

🔗 前日譚『ソシオパスフレーム・ゼロ』はこちら

🔗 ミステリー小説『寅子シリーズ』まとめはこちら

そして――

白石輝道をめぐる物語は、本作で完結します。

『インビジブルフレーム:The Frame Is Set』予告動画はこちらから

⚠️ お読みいただく前に
本作は完全なフィクションであり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
作中には、情報操作、ネット上の誹謗中傷、殺人、ひき逃げ、近しい人物の死などを扱う場面があります。
読者の方によっては、心理的な負担を感じる可能性があります。どうかご自身の状態を最優先に、無理のない範囲でお読みください。

👤『インビジブルフレーム』登場人物解説

白石 輝道(しらいし・てるみち)
姿をほとんど見せない男。
それでも、彼が残した言葉と考え方は、人から人へ、組織から組織へと、静かに場所を変えながら生き続けている。
誰も命じていない。 誰の手も汚れていない。
それでも、何かが動いている。


源 寅子(みなもと・とらこ)
祖父・久兵衛の遺志を継ぎ、白石輝道を追う大学生。
人差し指と親指でつくる、小さな四角。 幼い頃、祖父に教わった「おまじない」。
見たいものだけが、真ん中にくる。
今度、その四角の中に入るものは何なのか。


宮武 真理(みやたけ・まり)
亡き父・正が残した手記を受け継ぎ、寅子とともに白石を追う。
父が最後まで辿り着けなかった場所へ、自分なら辿り着けるのか。
そして、知ることと、理解することは、本当に同じなのか。


平 ひとし(たいら・ひとし)
真理の大学の先輩で、放送局KHJの映像技術者。
暗闇に何も見えなくても、そこに情報が残っていないとは限らない。
誰も気づかなかった痕跡を、映像の奥から拾い上げるのが彼の仕事。
そして寅子とは、なぜか出会ったその日から、妙に馬が合わない。


丹波 誠一郎(たんば・せいいちろう)
教誨師。
正が生前、長く取材を続けていた人物の一人。
正の死後も宮武家を気にかけ、今では寅子と真理にとっても、調査について相談できる数少ない大人になっている。
穏やかで、誠実で、決して声を荒らげない男。


柏木 悠人(かしわぎ・はやと)
「ひかりの未来基金」改め、「ひかりの窓」代表。
白石から受け継いだ言葉を掲げながら、福祉の世界から、少しずつ別の場所へと足場を広げ始めている。
彼は、白石の後継者なのか。

それとも――。


神代 由紀子(かみしろ・ゆきこ)
現職都知事。
「市民の声に耳を傾ける政治」を掲げ、高い支持を集めてきた。
善意と正しさを信じる、ごく普通の政治家。
だからこそ、その周囲では、彼女自身にも見えない何かが、少しずつ動き始めている。

【📖本編】インビジブルフレーム:The Frame Is Set


序章 フレームの中の都市


大学の生協食堂で、寅子はスマートフォンの画面を見つめたまま、味噌汁の椀に手を伸ばしかけて、止めた。昼時の食堂は、いつも通り賑やかだった。唐揚げ定食の列が、レジまで伸びている。寅子は、その喧騒がわりと好きだった。

〈都知事、学歴詐称か〉

見出しの下に、都知事・神代由紀子の顔写真が大きく貼られていた。四年前の当選会見で見た、あの人好きのする笑顔のままだった。記事によれば、神代が公表していた出身大学の卒業名簿に、その名前が存在しないという。地方の私大の事務局が、問い合わせに対して「該当者なし」と回答した、という一文が、記事の中ほどに淡々と記されていた。

寅子はその記事を、三度読み返した。

「え、これ、盛大にやらかしてない?」

思わず声に出た。同じテーブルの学生が、ちらりとこちらを見た。寅子は悪びれもせず、そのままスマートフォンを真理の方に向けた。

「見て見て、これ」

向かいの席で、真理がノートパソコンの画面を覗き込んでいた。トレンドワードの推移を追う、無料の分析ツールだった。「学歴詐称」というワードの折れ線は、この二時間でほぼ垂直に立ち上がっている。

「もう、拡散が始まってる」

真理はそう言って、スマートフォンをテーブルに置いた。

「柏木が動く、と思う?」

寅子が聞くと、真理は頷いた。迷いのない頷きだった。

「動かないわけがない。都知事の目玉政策は『都民参加型ガバナンス』。その実行団体が、ひかりの窓でしょう。都知事が失脚すれば、政策ごと吹き飛ぶ。ひかりの窓の、都政の中での足場も」

あの手記を読み終えた朝、寅子と真理は、大学の中庭で決めたことがあった。
白石輝道という男の輪郭を、法廷の場に引きずり出すまで、追い続けると。それから数か月、二人は柏木悠人という男を、大学の講義の合間を縫って、静かに見張り続けてきた。

「ひかりの未来基金」は、龍崎の失脚と死をきっかけに解体され、柏木を代表とする新しい福祉法人へと、つい先ごろ生まれ変わったばかりだった。
その名を、「ひかりの窓」といった。組織の名前も、看板も変わっていたが、活動拠点にしている建物は、龍崎の時代からそのまま引き継がれていた。先月、その一つを外から確認しに行った時、寅子は玄関の庇の下に、型の古い防犯カメラが今も設置されているのを見つけていた。
塗装が色褪せ、レンズの縁に埃が積もっている。看板だけを塗り替えて、中身は何一つ更新されていない——そのちぐはぐさが、妙に印象に残っていた。

団体の理念を語るホームページの文章には、正の手記で読んだあの文言と、ほとんど同じ響きが残っていた。

「ここは、誰も否定されない場所です」

柏木は、白石から受け継いだ言葉づかいを、そのまま看板として掲げていた。
代表の欄には、堂々と柏木悠人の名前があった。もう隠す必要すらない、というように。白石輝道の名前だけは、どこにも出てこなかった。出てこないことこそが、答えだった。

「都民参加型ガバナンス」という言葉が、都の広報資料に初めて登場したのは、ひかりの窓が発足してまもなくのことだった。市民の声を政策に反映させる新しい仕組み、という触れ込みで、窓口として名前が挙がっていたのが、ひかりの窓だった。その資料を見つけた夜、寅子は正の手記のある一節を思い出していた。

〈誰も命令しない。誰も強制しない。ただ、空気が変わる。それだけで、人間は動く〉

あの言葉が、個人ではなく、都市そのものに向けて使われている。そう感じた瞬間の寒気を、寅子は今でも覚えている。

真理は、この数か月の監視の中で、ほとんど寅子の前でだけは、感情を見せた。最初の頃は、柏木の欺瞞を見つけるたびに、静かに怒りを見せた。唇を結び、テーブルの下で拳を握る。その拳を、寅子は何度も見てきた。だが最近は、その怒りの色が薄くなっている気がした。代わりに、真理の中には、妙に凪いだ静けさがあった。水面は動かない。けれど、その下で何が流れているのか、寅子には分からなかった。

「行こうか」

真理の声で、寅子は我に返った。次の講義の時間だった。

食堂を出ると、キャンパスの中庭には、いつもと変わらない昼下がりの喧騒があった。学生たちが芝生に座り、笑い合っていた。誰も、今朝のニュースのことなど気にしていないように見えた。この学生たちのうちの何人が、今日一日のうちに、ひかりの窓が発信するどれかの言葉に触れるのだろう。触れたことにすら気づかないまま。

この数か月、寅子と真理は、柏木を直接告発する材料を、まだ何一つ握れていなかった。代わりにやってきたのは、地道な情報の受け渡しだった。知り合いの記者に、匿名で資料を渡す。都議会関係者に、それとなく疑問を吹き込む。誰も名乗らず、誰も命令せず、ただ小さな違和感を、然るべき場所に置いていく。それだけで、いずれ大きな流れになる——そう信じて、二人はここまでやってきた。

先週も、真理は、真理のジャーナリズム研究会の先輩が紹介してくれた、経済誌の記者と、駅前の喫茶店で会っていた。資料は、印刷したものを、封筒に入れて渡した。データで送れば、送信元が辿られる可能性がある。真理は、そこまで慎重だった。

「これ、どこから?」

記者が聞くと、真理は、いつもの決まり文句を返した。

「言えません。でも、内容は、確かめてもらえれば分かるはずです」

記者は、それ以上、深く追及しなかった。匿名の情報提供者を、無理に特定しないのが、この業界の暗黙のルールだった。その暗黙のルールを、寅子と真理は、最大限に利用していた。

その手口が、正の手記に書かれていた白石のやり方と、驚くほど近いことに、寅子は最近になって気づいていた。

寅子は、人差し指と親指で、小さな四角をつくった。指先が、いつもより冷たかった。空調のせいか、それとも別の理由か。幼い頃、祖父の久兵衛に教わったおまじないだった。見たいものだけが、真ん中にくる。
あの日も、寅子はこうして指で枠を作り、遠くにいる祖父を覗いていた。式典の会場だった。四角の中に納めた祖父のもとに、一人の女性が駆け寄るのが見えた。何が起きたのか、その時の寅子には分からなかった。悲鳴。人々のざわめき。誰かに抱き上げられ、視界から強引に引き離された感覚。八年経った今も、このポーズを作るたびに、寅子の中でその記憶がわずかに疼く。だが、その疼きは、もう痛みというより、確かめるための儀式に近かった。

四角の中に、今、都知事の顔が入っていた。その背後に、柏木の——そして、まだ姿の見えない白石の気配が、透けて見える気がした。

寅子は手を下ろした。

「真理ちゃん」

「うん?」

「私たちがやろうとしていること、あの人たちと同じにならない?」

真理は、一瞬だけ動きを止めた。その一瞬が、寅子には少し長く感じられた。中庭を渡る風が、真理の前髪を軽く揺らした。真理はそれを払いもせず、視線を遠くの芝生に向けたまま、それから、いつもの静かな笑みを浮かべた。

「ならないよ」

「なんで、そう言い切れるの」

「まだ、何もやってないから」

その答えに、寅子は少しだけ安堵した。だが、答えを口にした後の真理の横顔――笑みの形を保ったまま、目だけがどこか別の場所を見ているような、その微妙な静止に、寅子は言葉にならない違和感を覚えた。まだ、という言葉が、まるで何かの予告のように、寅子の耳の奥に残った。

もう一つ、寅子の頭の隅に、時々ふっと顔を出すものがあった。

丹波誠一郎という名前だった。

正の手記を読み終えた朝、寅子はある考えを、一度だけ、はっきりと言葉にしたことがあった。丹波が毎回、正の取材に応じ続けた理由は、信頼ではなく、観察だったのではないか、と。

証拠は、何もなかった。それに、と寅子は思う。疑ってばかりいたら、きっと身が持たない。
丹波さんは、真理にとって、数少ない頼れる大人だ。考えすぎ、考えすぎ。寅子は胸の内でそう呟くと、ぶるぶると首を振って、その影を追い払った。

深く考え込むのは、寅子の柄ではなかった。

講義棟へと続く道の途中、ジャーナリズム研究会の掲示板の前で、二人は足を止めた。
新歓シーズンの名残で、まだ活動報告のポスターが貼られたままになっていた。

「今年、OBの人が講演に来るって」

真理が、ポスターの隅を指さした。指先が、一瞬だけ止まった。

「KHJに就職した人らしい。映像編集の話をしてくれるって」

真理の声は、いつもと変わらない調子を装っていた。だが、寅子はその一瞬の間の意味に気づかないまま、話を聞き流していた。

平ひとし、という、少し変わった名前だった。

第一章 庭の後継者


講演会は、講義棟の地下にある視聴覚室で行われた。窓のない部屋特有の、換気の悪い空気が、開演前からすでに漂っていた。
集まった学生は二十人ほど。真理は前から二列目に座り、開演前からノートを開いていた。寅子はその隣に、あまり乗り気ではない顔で腰を下ろした。映像編集の話に、それほど興味があるわけではなかった。真理に付き合っただけだった。

登壇者が現れた瞬間、真理の手からペンが滑り落ちかけた。慌てて拾い直し、何事もなかったような顔をつくる。

三年ぶりだった。

真理が入学したばかりの春、ジャーナリズム研究会の総会で、一つの騒動があった。同期の一人が、他サークルとの些細なトラブルをきっかけに、加工されたスクリーンショットとともに「盗撮をしていた」とSNSで名指しされ、拡散されたのだ。部内のグループチャットは、あっという間に、うちのサークルとは無関係だという声明を早く出すべきだ、疑わしい以上は本人に辞めてもらうしかない、という空気に染まっていった。

その空気の中で、当時四年生だったひとしだけが、声を荒げることなく、こう言った。

「証拠がないなら、私たちは何も言うべきじゃない。声明を出すのは、事実を確認してからでいい」

その一言で、会場全体の温度が、少しだけ下がった。数日後、問題のスクリーンショットは加工されたものだと判明した。もしあの時、ひとしが押しとどめていなければ、部として無実の同期を切り捨てる声明が、確実に出ていた。真理は、末席で新入生としてその場に居合わせていただけだった。発言する立場にはなかった。ただ、周りの空気に流されず、感情ではなく事実だけを拠り所に言葉を選んだひとしの姿は、真理の中に強く残った。父が繰り返し言っていた「誰かが書かなければ、なかったことになる」という言葉と、地続きの態度に見えた。

それから真理は、一度も直接言葉を交わすことのないまま、ひとしを一年近く、遠くから見続けた。声をかける勇気はなかった。ひとしはその年度末に卒業し、真理の存在を知る機会は、一度もなかった。三年経って、目の前に立っている男は、記憶にあるより少し痩せて、髪型も変わっていた。だが、話し始める前の、あの静かな佇まいだけは、変わっていなかった。

「今日は、放送業界の現場で、実際にどういう技術が使われているか、という話をします」

登壇した男は、背が高く、痩せていた。眼鏡の奥の目は、終始一点を見ているような、落ち着いた光を宿していた。話し方に無駄がなかった。学生受けを狙うような軽さも、業界人ぶった気取りもない。ただ、淡々と、事実だけを積み上げるように話す人間だった。その話し方に、寅子はどこかで覚えがある気がした。

――正さんの手記の文体に、似ている。

そう思った瞬間、寅子は自分でも意外なほど、この男に興味を持ち始めていた。

ひとしの話は、映像編集の基礎から始まり、次第に、彼自身が携わった仕事の具体例に移っていった。

「去年、深海の洞窟を撮影するドキュメンタリーの編集を手伝いました。光がまったく届かない場所です。照明を焚けば生物が驚いて逃げてしまうので、ほとんど無灯に近い状態で撮るしかない。当然、映像はただの黒い画面にしか見えません」

彼は、スクリーンに真っ暗な静止画を映し出した。

「ですが、シャドウ部を段階的に持ち上げて、ノイズを除去する処理を重ねていくと――」

画面が切り替わった。真っ暗だったはずの画面の奥に、白い、細長い生物の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がっていた。会場から、小さなどよめきが起きた。

「肉眼では何もないように見える場所にも、情報は残っています。人間の目が『暗い』と判断するのと、カメラのセンサーが『データがない』と判断するのは、必ずしも同じではない。そこに、この仕事の面白さがあります」

寅子は、いつのまにか前のめりになっていた。画面に映った、洞窟の奥からゆっくりと浮かび上がってくる白い輪郭を、身じろぎもせず見つめていた。

何もない暗闇から、確かに存在するものの形が引き出されてくる。その過程に、寅子は強く引きつけられていた。誰も気づかない場所に、誰かが確かに残した痕跡を見つけ出す作業――それは、寅子がこの数か月やってきたことと、どこかで重なるものだった。隣で真理は、寅子ほど画面には集中していなかった。真理の視線は、スクリーンよりも、それを説明するひとしの横顔に向いていた。

質疑応答の時間になり、寅子が手を挙げた。自分でも、少し驚いていた。

「今のお話ですが、その技術は、何年も前に撮られた、画質の粗いデータにも使えるものなんですか。圧縮率が高くて、ほとんど潰れて見えるような古い映像でも」

真理が、隣で小さく寅子の方を見た。

ひとしは、少し間を置いてから答えた。

「古い映像だと、圧縮の癖によって難しさが変わります。データそのものが粗ければ、復元にも限界がある。ただ、保存状態さえよければ、何年前のものでも、ある程度までは戻せます。防犯カメラのような機材だと、逆に条件が悪いことも多いですが」

彼は、そこで一度、視聴覚室の後方に視線を向けた。寅子の顔を確かめるように。寅子は、こくりと頷いただけだった。隣で、真理がノートに視線を落とすのが、寅子の目の端に映った。特に何かを書き込んでいるふうでもなかった。

講演が終わり、学生たちが帰り支度を始める中、真理は真っ先にひとしに歩み寄っていった。寅子は少し遅れて、その後をついていった。

「宮武真理といいます。ジャーナリズム研究会にいます」

真理が、努めて明るい声で言った。声の裏に、三年分の緊張が薄く滲んでいた。

「平です。平ひとし」

その名乗り方に、迷いも、含みも何もなかった。真理という名前にも、真理という顔にも、心当たりがまるでない人間の顔だった。少し寂しかった。けれど、それ以上に、当然だと思った。あの総会の日、自分がどこに座っていたかさえ、この人は覚えていない。

「少年探偵ヒトシ、みたいな名前ですね」

真理が、ぽつりと言った。三年間、一度も口にする機会のなかった軽口だった。

平ひとしは、少し呆れたように笑った。

「あー、あの探偵アニメの…よく言われます。子供の頃から」

その笑い方に、悪気のない素直さがあった。真理の頬が、わずかに緩んだ。

ひとしは、そこで寅子の方に視線を移した。

「先ほどの質問、ありがとうございました。学生の方から、あそこまで突っ込んだ質問をもらうのは珍しいので」

寅子が答えるより先に、真理が口を挟んだ。

「この子、寅子っていうんです。私の友達で」

その紹介の仕方に、どこか急いた響きがあった。寅子はそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。

「あの」と、寅子は口を挟んだ。「さっきの説明、ちょっと簡単すぎませんでしたか」

ひとしが、初めて寅子の方を見た。

「簡単、というと」

「暗所からの映像復元って、そんな単純な話じゃないですよね。ノイズを除去すれば何でも見えるみたいな言い方、誤解を招くと思います」

言った後で、寅子は少し自分でも驚いた。特に反論するつもりで発した言葉ではなかった。この男の落ち着いた話し方には、言葉の向こうに薄い壁を一枚置いているようなところがあった。それが、妙に引っかかった。

ひとしは、眼鏡の位置を直しながら、寅子を見返した。

「誤解を招くのは承知の上です。学生相手の三十分の講演で、圧縮比とビットレートの話までしても、誰も覚えていません。伝えるべき要点だけを残す。それは簡略化であって、誤りではありません」

「でも、興味を持った人が、後で『そんなに簡単じゃなかった』ってがっかりするかもしれません」

「がっかりするくらいなら、興味を持たない方がいい人です」

その言い方に、寅子はかちんときた。

「それ、ずいぶん上から目線じゃないですか」

「事実を言っているだけです」

真理が、二人の間で、はらはらした様子で視線を往復させていた。

「あの、二人とも――」

「あなたのその話し方、いちいち断定的すぎません?」と、寅子は続けた。

「あなたのその疑い方、いちいち感情的すぎません?」と、ひとしも引かなかった。

視聴覚室に残っていた数人の学生が、ちらちらとこちらを見ていた。真理は、額に手を当てて、小さくため息をついた。

「二人とも、初対面ですよね……」

寅子とひとしは、同時に真理の方を見て、それから、ばつが悪そうに視線を逸らした。

「すみません、つい」と、ひとしが、珍しく先に折れた。「初対面の相手とここまで議論したのは、久しぶりです」

「私もです」と、寅子も肩をすくめた。「でも、負けは認めてませんから」

「認めなくて結構です。事実は変わりませんので」

「はいはい、そうですか」

その言い草に、寅子はますますむっとしたが、なぜかもう一度、この男と話したいと思っている自分もいた。腹立たしいのに、不思議な感覚だった。

真理だけが、その二人のやりとりを見ながら、口元にかすかな笑みを浮かべていた。

「先輩、今度、もう少しゆっくり話を聞かせてもらえませんか」と、真理が言った。「研究会の活動で、映像の扱い方について、詳しい人の意見が欲しくて」

「いいですよ」と、ひとしは頷いた。「連絡先を交換しましょう」

真理は、いつもより少し急いだ手つきでスマートフォンを取り出した。それに気づいたのは、この場で寅子だけだった。

連絡先を交換し終えると、ひとしは軽く会釈をして、視聴覚室を出ていった。足音が廊下の向こうに消えるまで、真理はその後ろ姿を見送っていた。

「……何組んでるの、あんな面倒くさい人と」

寅子が言うと、真理は我に返ったように、慌てて視線を戻した。

「面倒くさくないよ。ちゃんと筋の通ったこと言ってた」

「筋が通ってるのと、感じが悪いのは別問題でしょ」

「寅子の方こそ、初対面でよく突っかかったね」

図星だった。寅子は言い返す言葉を探したが、見つからなかった。あの男の、事実だけを積み上げるような話し方に、なぜあそこまで苛立ったのか、寅子自身にもうまく説明がつかなかった。正の手記を読んで以来、寅子は「淡々と正しいことを語る人間」に対して、無意識に身構える癖がついていた。その癖が、今日、たまたま関係のない相手にまで発動しただけなのかもしれない。そう思う一方で、寅子の中には、別の小さな声もあった。

――違う。あれは、そういう理屈じゃない。

二人は連れ立って、講義棟から寮への道を歩いた。夕方の光が、並木の影を長く伸ばしていた。しばらく無言で歩いた後、真理が、少し拗ねたような声で口を開いた。

「さっきの質問、なんで寅子がしたの」

「え?」

「古いデータの復元がどうとか。あんなに具体的に聞くようなこと、寅子、今まで興味なさそうだったのに」

寅子は、少し考えてから答えた。

「うん……自分でも、なんであんな質問したのか、うまく説明できないんだけど。先月、ひかりの窓の旧施設に、古い防犯カメラがまだ付いてるの、見たでしょ。あれを見た時から、頭の隅にずっと引っかかってて」

「それが、さっきの質問と繋がったの?」

「うん。もし本当にそれだけの技術を持ってる人なら、いつか、使わせてもらえるかもしれないと思って」

真理は、少しの間、黙っていた。

「先に聞きたかったの、私だったのに」

その声には、隠しきれない拗ねた響きがあった。

「別に、狙ってやったわけじゃないよ」

「分かってる。分かってるけど」

真理は、少し口を尖らせた。それから、ふっと表情を緩めて、小さく笑った。

「なに、もしかして妬いてる?」と、寅子は聞いた。

真理は、答えなかった。答えの代わりに、頬がわずかに赤くなった。

「……真理ちゃん、まさか」

「まさか、何」

「好きになったんじゃないでしょうね、あの面倒くさい人のこと」

真理は、しばらく黙っていた。それから、観念したように、小さく息を吐いた。

「べ、別に。調査に役立ちそうだから、連絡先を交換しただけ」

「その言い方、一番怪しいやつだよ」

「うるさいなあ、もう」

真理は早足になった。だが、しばらく歩いてから、ふと立ち止まって、正直に言い直した。

「それだけじゃなくて、正直に言うと、話し方が、嫌いじゃなかった。丁寧に断定する人って、あんまりいないから」

寅子は、隣を歩く真理の横顔を、まじまじと見た。この数か月、団体の調査を続ける中で、真理の表情から次第に消えていった、屈託のない色。それが、今、目の前に戻ってきていた。

「いいと思うよ、私は」

寅子は言った。

「真理ちゃんが、正さんの手記のことばかり考えてる毎日から、ちょっとでも離れられるなら」

真理は、少し驚いたように寅子を見た。それから、小さく頷いた。

「ありがとう」

「でも」と、寅子は付け加えた。「近づくのは、少し慎重になった方がいいかもしれない。KHJほどの局にいる人なら、都庁や、ひかりの窓の関係者と、どこかで繋がっていても不思議はない」

真理の表情が、一瞬だけ、また硬くなった。

「分かってる。でも――近づかないと、分からないことも、ある」

その声には、恋心とは別の、もう一つの響きが混じっていた。寅子はそれを聞き分けながらも、あえて指摘しなかった。

寮の分かれ道で、二人は別れた。

「じゃあね」

真理はそう言って、いつもの静かな笑みを浮かべたまま、寮の方へ歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、寅子は、指先で小さな四角をもう一度つくってみた。四角の中に、遠ざかっていく真理の背中が収まった。

なぜか、その背中がひどく小さく見えた。

第二章 秘書と利権


柏木悠人が都知事秘書室付きの特別顧問に就任した、という発表があったのは、都知事の学歴詐称疑惑がひとまず沈静化してから、二週間ほど後のことだった。

発表の文面は、驚くほど簡素だった。「行政と市民社会の橋渡し役として、豊富な福祉分野での経験を都政に活かしていただく」——それだけの一文が、都のホームページの片隅に、他の人事異動と並んで淡々と掲載されていた。写真も、経歴の詳細もなかった。

寅子は、その発表を見つけたとき、思わず声を漏らした。

「秘書室付き特別顧問って、何をする役職なの」

「肩書きだけ聞くと、何をしてもいい役職ってこと」

真理が、パソコンの画面を睨みながら答えた。その声には、以前のような怒りの震えは、もうなかった。淡々とした、事務的な声だった。

「学歴詐称の疑惑を晴らしてもらった恩、っていう名目でしょうね。都知事は、ひかりの窓に借りができた。借りを返す一番簡単な方法が、人を厚遇で受け入れること」

寅子たちが調べた限りでは、柏木の就任から一月と経たないうちに、都の福祉関連予算の一部が、ひかりの窓の関連法人が受託する事業へと、次々に振り替えられていった。表向きは、どれも正当な入札を経た契約だった。書類上、何一つ違法な点はない。ただ、入札に参加した業者の顔ぶれを追っていくと、そのほとんどが、ひかりの窓と何らかの形で繋がりのある団体だった。

「利権って、こんなに静かに動くものなんだね」

真理が、資料をめくりながら言った。寅子は、その横顔に、以前は見たことのなかった疲労の色を見た気がした。

ある日の午後、二人は、ひかりの窓の関連法人が新たに開いたという、地域交流拠点を、外から確かめに行くことにした。
都心から少し外れた住宅街の一角に、真新しい看板を掲げた建物があった。「地域のみなさまの、居場所づくりを」という、優しい言葉が、ガラス扉に大きく貼られていた。

道路の反対側にあるバス停のベンチに腰掛け、二人は、しばらく、出入りする人々を観察した。午後の日差しの中、高齢者や、子ども連れの母親たちが、笑顔で建物に出入りしていた。表向きは、本当に、地域に根差した福祉施設だった。

「こうして見ると、悪いことしてる場所には、全然見えないね」

寅子が、小さく呟いた。

「見えないから、怖いんだよ」

真理は、そう言って、スマートフォンで、出入りする関係者の顔を、それとなく撮影していった。後で、名前や経歴を照合するためだった。

一時間ほど観察を続けたところで、一台の黒い車が、建物の前に停まった。降りてきたのは、柏木だった。柏木は、周囲を気にする様子もなく、慣れた足取りで、建物の中へと入っていった。

「本人が、直接、視察に来てるんだ」

真理の声に、緊張が滲んだ。

寅子は、その光景を、スマートフォンのカメラで、遠くから収めた。証拠と呼べるほどのものではなかった。だが、柏木とこの施設との繋がりを示す、確かな一枚だった。

その頃、丹波誠一郎という男が、二人の生活の中に、以前よりも深く入り込み始めていた。

丹波は、真理にとって、単なる顔見知りではなかった。正の葬儀に参列した数少ない関係者の一人であり、その後も、折に触れて、真理の母のもとへ、線香を上げに顔を出す人だった。正の手記の中にも、その名前は何度も登場していた。生前の正が、最も信頼を置いていた取材相手の一人として。

もっとも、二人とも、最初から丹波を手放しで信用していたわけではなかった。正の手記を読み終えたあの朝、寅子は、丹波が正に会い続けた理由を、信頼ではなく観察だったのではないかと、一度は疑っていた。真理も、その疑いを、完全には拭えずにいた。

だから、最初のうち、丹波への相談には、別の意味もあった。こちらが何を話した時、丹波がどう反応するのか。それを、それとなく確かめるつもりだった。

「宮武さんのお嬢さんも、もうこんなにしっかりして」

久しぶりに顔を合わせた丹波は、柔和な笑みを浮かべて、そう言った。その声には、深い哀悼の響きがあった。

「お父様のことは、今でも時々思い出します。誠実で、粘り強い、いい記者でした。あんな亡くなり方をされて、本当に残念でなりません」

真理はその言葉に、静かに頭を下げた。寅子も、隣でその様子を見ていた。丹波の物腰には、警戒心を解かせる何かがあった。押しつけがましさのない、控えめな優しさだった。

きっかけは、真理が、柏木の動きについて、それとなく丹波に相談したことだった。正の取材相手だった丹波なら、何か知っているかもしれない――そんな、確かめる気持ちも含んだ相談だった。ところが丹波は、警戒するどころか、何度も二人を助けた。時には、自分の立場まで危うくしかねない形で。それ以来、丹波は、時折、二人に連絡をよこすようになった。ひかりの窓の動きについて、心配そうな口調で情報を伝えてくることもあった。

疑いが、完全に消えたわけではなかった。ただ、いつの間にか二人とも、あれは自分たちの考えすぎだったのかもしれない、と思い始めていた。

「最近、柏木さんの周辺で、少し妙な噂を聞きましてね」

そういった一言が、寅子たちの調査の、思いがけない助けになることが何度かあった。丹波は、白石や柏木を直接批判することはなかった。ただ、「心配しています」という顔で、断片的な情報を落としていくだけだった。それが、寅子たちには、貴重な協力者からの善意に見えた。

その信頼が、決定的になった出来事があった。

真理が、ひかりの窓の関連団体を取材で訪ねた際、応対した職員が、真理の身元を不審に思い、団体の顧問弁護士――かつて白石の周辺にいた人物――に、それとなく確認を取ろうとしたことがあった。その話を、丹波は、どこからか聞きつけた。

「あの人たちに、あなたが動いていることを、知らせない方がいい」

丹波は、その夜、珍しく自分から真理に電話をかけてきた。

「私が、うまく話をつけておきます。宮武さんの娘さんが、卒論のために地域の歴史を調べているだけだ、と」

翌週、真理が改めてその団体に問い合わせると、拍子抜けするほどあっさりと、資料の閲覧を許された。後になって、丹波が、自分の名前と信用を使って、団体側に取り成してくれていたことを、真理は知った。もし丹波の関与が白石の耳に入れば、丹波自身の立場も危うくなりかねない、そんな橋渡しだった。

「どうして、そこまでしてくれるんですか」

真理が聞くと、丹波は、少し困ったように笑った。

「困っている人を放っておけない性分なんです。教誨師なんて仕事を、長くやっているせいかもしれません」

その言葉に、真理も寅子も、丹波への疑いを、その時ばかりは、完全に忘れていた。

真理だけは、丹波と話すとき、いつもより少しだけ、口数が少なくなった。寅子はそれを、亡き父の知人と接する気まずさのようなものだと理解していた。


都知事選が近づくにつれ、対抗馬たちの周辺で、不穏な動きが目立つようになった。

最初に脱落したのは、若手の都議会議員だった。過去の飲酒運転の記録が、選挙戦の最中に一斉にSNSで拡散された。記録自体は事実だったが、十年以上前の、すでに罰金を払い終えた案件だった。それが、まるで昨日起きたことのように、繰り返し繰り返し、タイムラインに流れ続けた。

寅子は、この若槻というまだ三十代の議員の記者会見を、真理と二人、大学のロビーのモニターで見ていた。若槻は、カメラの放列の前で、何度も頭を下げていた。

「当時のことは、深く反省しております。二度と、同じ過ちは繰り返さないと誓い、これまで、真摯に活動してまいりました」

その声は、震えていた。十年間、誠実に議員活動を続けてきたはずの人間が、たった数日で、まるで昨日事件を起こしたばかりの犯罪者であるかのように扱われていた。記者たちの質問は、政策についてではなく、ひたすら過去の一点に集中していた。

会見の翌週、若槻は出馬辞退を発表した。その発表文には、こう書かれていた。

「家族にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかない、と判断しました」

寅子は、その一文を、何度も読み返した。

「この人、何も悪いことしてないのに」

「悪いことは、した」と、真理が静かに訂正した。「十年前にね。罰も、ちゃんと受けた。それをもう一度、今度は社会的に罰しようとしてる。二重処罰だよ、これは」

「誰も止められない」

「そう、止められない。誰も命令してないから。ただの、善意の集まりに見えるから」

寅子は、拳を握った。悪意の形をした敵なら、まだ戦いようがある。だが、これは、正義感という名の、顔のない津波だった。

次に脱落したのは、野党統一候補として担がれた元官僚だった。こちらは、根も葉もない女性関係の噂だった。真偽を確かめる術のないまま、噂だけが独り歩きし、候補者の支持率は、投票日の一週間前には、目に見えて落ち込んでいた。

「ひかりの窓が絡んでる証拠は」

寅子が聞くと、真理は首を横に振った。

「ない。今のところ、どちらの拡散元も辿れない。匿名アカウントの群れが、示し合わせたように一斉に動いただけ。命令した人間なんて、どこにもいない」

「そんなことって、あるの」

「あるんだよ。だからこそ、怖い」

真理の声には、諦めに似た響きがあった。

投票日、現職の神代由紀子は、事前の予想を大きく上回る得票率で再選を果たした。当選の記者会見で、神代は満面の笑みを浮かべ、こう述べた。

「これからも、都民のみなさんの声に、真摯に耳を傾けてまいります。特に、これまで声を上げにくかった方々の声を、丁寧に拾い上げていく仕組みづくりに、力を入れていきたいと考えています」

その言葉の背後に、ひかりの窓の影がある。そう感じるのは、この会見を見るものの中で、おそらく寅子と真理の二人だけだった。

テレビの中継を、大学の空き教室で見ていた二人のもとに、真理のスマートフォンが鳴った。丹波からだった。

「世間的には当選、おめでとう、と言うべきなんでしょうかね」

電話越しの声には、複雑な色があった。

「柏木さんが秘書室にいる以上、お二人がこれから調べようとしていることも、簡単にはいかなくなるかもしれません。心配しています。何か力になれることがあれば、いつでも言ってください」

電話を切った後、真理はしばらく、画面を見つめたまま動かなかった。

「どう思う、真理」

「分からない。でも」

真理は、ゆっくりと顔を上げた。

「丹波さんがいなかったら、私たち、もっと早く行き詰まってたと思う」

その言葉に、寅子は頷いた。頷きながら、あの小さな引っかかりが、また一瞬だけ、頭をよぎったが、寅子はすぐに思い直す。持つべきものは頼れる大人ではないかと。深刻に考えるのはやめ、寅子はコーヒーを一口飲んで、話題を次に進めた。

その夜、寅子は真理に誘われて、ジャーナリズム研究会の部室に立ち寄った。ひとしが、放送局の仕事の合間を縫って、後輩たちに映像編集の指導をしに来ているという話だった。

部室に着くと、ひとしはノートパソコンの画面を前に、数人の後輩に何かを説明しているところだった。真理は、その様子を、少し離れた場所から見ていた。

「先輩、来てたんですね」

真理が声をかけると、ひとしは顔を上げた。

「宮武さん。それと――」

「寅子です」

寅子が名乗ると、ひとしは、わずかに口の端を上げた。

「覚えてます。前回、なかなか手強い質問をくれた人」

「手強いんじゃなくて、まっとうな指摘です」

「まっとうすぎて、手強かったんです」

その返しに、寅子は少し虚を突かれた。前回の講演の後のような、刺々しいやり取りにはならなかった。かわりに、二人の間に、どこか探り合うような、奇妙な間があった。

真理は、その間を、黙って見ていた。その表情には、嫉妬とも諦めともつかない、複雑な色が浮かんでいた。寅子はそれに気づかなかったが、部室の隅で作業をしていた別の部員が、後日、雑談のついでに真理にこう言っていた。

「そういえば、ひとし先輩から、寅子さんのこと聞かれましたよ。『宮武さんの友達の、あの人』って。気があるのかな」

真理は、その時、何も答えなかった。ただ、いつもの静かな笑みを浮かべただけだった。

それから数日後、真理は、ひとしに誘われて、局の近くの喫茶店で会うことになった。「映像の扱い方について、詳しい人の意見が欲しくて」という、あの日の口実が、いつのまにか、本当に定期的な相談の場になっていた。

「研究会の後輩たち、順調ですか」

ひとしが聞くと、真理は頷いた。

「先輩が教えてくれた基礎、みんな真面目に練習してます。私も、ちょっとずつ扱えるようになってきました」

「良かった。あの部活、僕がいた頃より、ずっと活気がありますね」

「先輩がいた頃のこと、聞いてもいいですか」

真理は、少し勇気を出して聞いた。三年間、聞けなかったことだった。

「僕がいた頃は、もっと堅苦しかったですよ。取材倫理とか、報道の公平性とか、そういう議論ばかりしてた気がします」

「先輩らしいですね」

「そうですか?」

「はい。あの総会の時から、そういう人だと思ってました」

ひとしは、少し驚いたように、真理を見た。

「総会……」

「一年生の時の。覚えてないと思いますけど」

真理は、そこで初めて、あの日の出来事を、簡単に話した。加工されたスクリーンショットで名指しされた同期。空気に流されそうになった部室。「証拠がないなら、私たちは何も言うべきじゃない」という、ひとしの一言。

ひとしは、黙って聞いていた。

「……そんなこと、ありましたね」

「先輩は、覚えてなかったと思いますけど」

「いえ」と、ひとしは、少し言葉を選ぶように続けた。「ぼんやりとは、覚えてます。ただ、その場に、あなたがいたことは、知らなかった」

その一言に、真理の胸が、小さく跳ねた。

「あの時から、ずっと、先輩のこと、覚えてました」

真理は、思い切って言った。声が、少し震えた。

ひとしは、しばらく、何も言わなかった。窓の外を、夕方の電車が通り過ぎる音がした。

「光栄です」

ひとしは、そう言った。素っ気ない言葉だったが、その耳が、わずかに赤くなっているのを、真理は見逃さなかった。

「先輩、今、照れてますよね」

「照れてません」

「照れてます」

「……少しだけです」

その一言に、真理は、久しぶりに、心の底から笑った。父を失ってから、母を心配させないよう作ってきた笑顔とは、違う笑顔だった。

その週末、真理は、久しぶりに実家に帰った。母の聡子は、玄関先で真理を出迎えると、開口一番、こう言った。

「痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの」

「食べてるよ、心配しすぎ」

真理は笑いながら、靴を脱いだ。家の中には、出汁の匂いが漂っていた。父が生きていた頃と、変わらない匂いだった。

食卓につくと、聡子は、いつものように、近所の噂話や、パート先での出来事を、途切れなく話し続けた。真理は、それを聞きながら、味噌汁を口に運んだ。何気ない時間だった。だが、その何気なさが、真理にとっては、何よりも尊いものになっていた。

「最近、丹波さんは元気にしてる?」

聡子が、ふと聞いた。
丹波は、正の一周忌を過ぎてからも、季節の変わり目ごとに、この実家へ線香を上げに顔を出していた。

「うん、変わらないよ。相談に乗ってもらったりしてる」

「あの人には、本当にお世話になったわね。お父さんが亡くなった時も、あんなに親身になってくれる人、そういないもの」

聡子の声には、心からの感謝が滲んでいた。真理は、その言葉に、小さく頷きながらも、胸の奥に、なぜか言葉にならない違和感を覚えていた。だが、それを口にすることは、この夜も、しなかった。

食事の後、真理は、居間の棚に飾られた、父の写真を、しばらく見つめていた。

「お父さん、元気にしてる? 真理の中で」

聡子が、隣に座りながら聞いた。

「うん。毎日、話しかけてる」

「そう」

聡子は、優しく笑った。その笑顔が、正の遺影の笑顔と、どこか重なって見えた。

「真理、あなたは、あなたの人生を生きなさいね。お父さんのことばかり背負わなくていいから」

その言葉に、真理は、何も答えられなかった。もし、母が、自分が今どこまで父の件を追っているか知ったら、どんな顔をするだろう。真理は、その想像を、すぐに振り払った。

夜、駅まで送ってくれた聡子は、別れ際、真理を強く抱きしめた。

「気をつけてね。何かあったら、いつでも帰ってきなさい」

「うん。ありがとう、お母さん」

電車が走り出すまで、聡子は、ホームで手を振り続けていた。その姿を、真理は、窓越しに、いつまでも見ていた。

第三章 疑問視


潮目が変わり始めたのは、都知事の再選から二か月ほど経った、蒸し暑い初夏のことだった。

最初にそれを報じたのは、大手紙ではなく、中堅の経済誌だった。「都政に浸透する謎の福祉法人――『ひかりの窓』とは何者か」という見出しの、五ページにわたる特集記事だった。記者は、柏木悠人が都知事秘書室付き特別顧問に就任した経緯、そして福祉関連予算の受託先の顔ぶれを、かなり丁寧に洗い出していた。

「ようやく、外からも気づく人が出てきた」

真理が、その記事をタブレットで読みながら、小さく呟いた。声には、安堵と苛立ちが半々に混じっていた。

「遅すぎるけどね」

寅子が言うと、真理は苦笑した。

「遅くても、ゼロよりはいい」

記事が出た後、大手のテレビ局や新聞社が、後追いで取材を始めた。柏木への直接取材は、すべて秘書室を通じて断られた。都知事への定例会見では、記者から「ひかりの窓との関係について、説明責任を果たすべきではないか」という質問が飛んだ。都知事は、いつもの人好きのする笑顔を崩さないまま、こう答えた。

「行政と市民団体が連携するのは、健全な民主主義の姿だと考えています。何ら疚しいところはありません」

その答えに、会見場から失笑にも似たどよめきが起きたことが、翌日のワイドショーで小さく報じられた。

寅子は、その映像を、大学の図書館の視聴覚コーナーで、真理と並んで見ていた。

「これで、都知事も焦り始めるはず」

真理が言った。

「焦ったら、どうなるの」

「切り捨てにかかる。自分に火の粉が飛ぶ前に」

真理の予測は、思ったより早く現実になった。

一週間後、国税局が、ひかりの窓の関連法人に対する強制調査に着手した、というニュースが流れた。脱税の疑いだという。調査のきっかけとなったのは、ある匿名の内部告発だった。かつてひかりの窓の会員だったという人物から、経理の不正を示す資料が、複数の報道機関に一斉に送りつけられていた。

「これ、変じゃない?」

真理が、送りつけられたという資料の写しを、記者の知人から回してもらったものを見ながら言った。

「何が」

「タイミングが良すぎる。世論が疑問視し始めた、まさにその瞬間に、ちょうどいい内部告発が出てくる。しかも、告発の中身は脱税だけ。柏木の秘書就任の経緯とか、都知事との関係とか、一番危ない部分には、一切触れていない」

寅子は、資料に目を通した。真理の言う通りだった。数字は緻密に整理されていて、脱税の証拠としては申し分ないように見えた。だが、それ以上のことは、何も語っていなかった。

「この告発者、誰なのか分かる?」

寅子が聞くと、真理は、首を横に振った。

「匿名。でも、資料の出所くらいは、辿れるかもしれない」

二人は、資料の中に残っていた独特な内部用の表記を手がかりに、どの部署の資料から作られたものなのかを絞り込んだ。そのうえで、その周辺で活動していたひかりの窓の元会員を名乗るSNSアカウントを、手当たり次第に洗い出した。多くは、実態のない捨てアカウントだった。だが、一つだけ、以前から地道に活動履歴の残っているアカウントがあった。

真理が、そのアカウントに、思い切ってメッセージを送った。「取材をさせてもらえないか」という、率直な依頼だった。

返信は、三日後に来た。会うことは断られたが、代わりに、短い一文が添えられていた。

〈あの資料、私が作ったものじゃない。でも、私のパソコンから出た形になってる。誰かが、私のアカウントを使って、送ったんだと思う〉

寅子は、その文面を、何度も読み返した。

「アカウントを乗っ取られた、ってこと?」

「もしくは、最初から、そういう風に仕組まれてたか」

真理の声には、諦めに似た確信があった。

「証拠を、証拠ごと、でっち上げる。父の手記にも、似たような話があった。あの龍崎の不正を示す書類が、不自然なくらい整然と揃っていて、それを使って、柏木自身が、原告側の代理人として、かつての依頼人だった龍崎を訴える側に回ってた、って」

「それも、白石の仕業だったの?」

「分からない。でも、手口は、同じ匂いがする」

「柏木を切り捨てるための、身代わりの証拠ってこと?」

「多分ね。都知事との関係が疑われる前に、経理の不正だけを表に出して、幕引きする。柏木一人を悪者にして、事件を小さくまとめる」

その予測通り、国税の強制調査から十日と経たないうちに、柏木は特別顧問の職を解かれた。都のホームページに、簡素な発表が一つ掲載されただけだった。「一身上の都合により、特別顧問を辞任」という一文が、これもまた、他の人事異動と並んで、静かに掲載されていた。

発表があった日の夕方、寅子と真理は、都庁の裏口付近で、それとなく様子を窺っていた。段ボール箱を両手に抱えた柏木が、職員に付き添われるようにして、裏口から出てくるのが見えた。かつて秘書室付き特別顧問として、堂々と正面玄関を出入りしていた頃とは、あまりにも違う光景だった。

柏木は、迎えの車に乗り込む直前、一瞬だけ、空を見上げた。その表情に、寅子は、何か複雑なものを見た気がした。怒りでも、悲しみでもない、もっと虚ろな、何かを諦めた人間の顔だった。

「あの顔、覚えてる」

真理が、小さく呟いた。

「お父さんの手記に出てくる、柏木の顔と、同じ」

車が走り去るのを、二人は、黙って見送った。

その日の夕方、丹波から真理のもとに、連絡が入った。

「柏木さんのこと、聞きましたか」

電話越しの声には、いつもの穏やかさの中に、わずかな翳(かげ)りがあった。

「柏木さんも、大義名分に縋(すが)りたくなる気持ちは、よく分かります。人は、正しいと信じられるものを与えられると、そこに全部を預けたくなるものなんです。柏木さんも、きっとそうだったんでしょう。誰の身にも、起こり得ることです」

真理は、電話を切った後、しばらく黙っていた。

「大義名分、か」

寅子が呟くと、真理は頷いた。

「お父さんの手記に出てくる、白石の口癖と同じ」

〈人は、絶対的なルールと大義名分を与えられた時、最も迷いなく他者を殺す〉

正の手記の一節が、寅子の頭の中で、丹波の声と重なった。柏木もまた、白石の描いた大義名分の中に、自分の居場所を見つけていた人間だったのかもしれない。福祉という名の下に、誰かを救っているという実感の中に。それが、いつのまにか、利権と保身の道具にすり替わっていたことに、柏木自身は、最後まで気づかなかったのかもしれない。

寅子はふと、そんなことを思った。だが、その思考をすぐに打ち消した。今は、柏木に同情している場合ではなかった。

「ひかりの窓は、これからどうなると思う」

寅子が聞くと、真理は、タブレットの画面を閉じながら答えた。

「表向きは、解体されるでしょうね。柏木を切り捨てて、看板を下ろして、何事もなかったことにする。でも」

「でも?」

「白石は、こんなことじゃ死なない。組織が消えても、あの人が消えるわけじゃない」

真理の声には、これまでにない硬さがあった。寅子はその横顔を見つめながら、この数か月で自分たちが追い詰めてきたはずの相手が、実は少しも追い詰められていないのではないか、という不安を、初めて明確な形で意識した。

一週間後、ひかりの窓は、柏木の代表辞任と組織再編を発表した。後任については、「当面、理事会による共同運営とする」とだけ記されていた。柏木の名前は、どこにも見当たらなくなっていた。

だが、活動拠点にしていた建物のいくつかは、看板を変えただけで、そのまま使われ続けていた。

第四章 普通という檻


柏木が消えても、「都民参加型ガバナンス」という政策そのものは、少しも揺らがなかった。それどころか、都知事の再選後、その名前は、都の広報資料に、以前よりも頻繁に登場するようになっていた。

その制度が、どのように神代由紀子の中に根を下ろしていったのか、寅子や真理が知ることは、最後までなかった。だが、その経緯は、後に神代自身が、限られた側近にだけ漏らしたところによれば、こうだった。

柏木がまだ秘書室にいた頃、ある夜、二人だけの執務室で、柏木はこう切り出したという。

「知事、都民の声を、本当の意味で政策に届けたいと思ったこと、ありませんか」

神代は、その言葉に、深く頷いた。政治家としての原点だった。地方議員だった頃、有権者の声に、真摯に耳を傾けることだけを、信条にしてきた。

「ひかりの窓の活動は、まさにそれを、地道に実践しています。誰も否定しない。誰も切り捨てない。その姿勢を、都政の仕組みそのものに、組み込むことができたら」

柏木の言葉には、迷いがなかった。神代は、その確信に満ちた声に、安心感を覚えた。学歴詐称の疑惑で世論から追い詰められていた頃、自分を守ってくれたのは、ひかりの窓の存在だった。その恩を、政策という形で返すことに、神代は、何のためらいも感じなかった。

「都民参加型ガバナンス、という名前で、どうでしょう」

柏木が提案した名称に、神代は、すぐに頷いた。良い響きだと思った。誰が聞いても、反対しようのない、正しい名前だと思った。

この命名の瞬間から、神代は、この政策を、誰かに与えられたものではなく、自分自身の理念として、心の底から信じ始めていた。


寅子は、都民参加型ガバナンス制度の実態を知るために、都庁の福祉保健局を訪ねることにした。ジャーナリズム研究会の取材協力という体裁で、真理が段取りをつけてくれた。

案内された会議室で応対したのは、三十代半ばと見える、市民協働推進課の職員だった。名刺には、丁寧な字で「都民の声、ともに未来へ」という部署のスローガンが刷り込まれていた。

「都民参加型ガバナンスは、都政のあり方を根本から変える取り組みです」

職員は、用意されたパンフレットを手に、淀みなく説明を始めた。住民説明会の開催頻度、パブリックコメントの収集システム、SNSを活用した意見募集の仕組み。どれも、行政改革の教科書に載っていそうな、模範的な言葉が並んでいた。

「窓口として、ひかりの窓さんに委託されている業務があると伺いましたが」

寅子が聞くと、職員の表情に、わずかな緊張が走った。

「ええ。市民に寄り添った丁寧なヒアリングという点で、ノウハウをお持ちの団体さんですので」

「柏木さんの一件があった後も、委託は続いているんですか」

「あれは、あくまで柏木さん個人の問題だったと理解しています。団体としての活動は、引き続き、都民のためになるものだと考えています」

職員の言葉に、迷いはなかった。原稿を読み上げているような、滑らかな口調だった。

「失礼な質問かもしれませんが」

寅子は、少し間を置いてから続けた。

「そういうふうに考えるように、誰かに言われたんですか。上司の方とか、どなたかから」

職員は、一瞬、意表を突かれたような顔をした。それから、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。これが正しいことだと思ったから、自分で動きました」

その答えには、誇らしげな響きすらあった。命令された記憶など、この職員の中には、微塵もないのだろう。寅子はそう感じた。

都庁を出た後、寅子は真理に、その会話をそのまま伝えた。真理は、しばらく黙って聞いていたが、やがて、静かに口を開いた。

「お父さんが書いていた通りだ」

その声には、驚きも、憤りもなかった。ただ、確認するような、平坦な響きだけがあった。

寅子は、正の手記の一節を、もう一度思い出していた。

〈誰も命令しない。誰も強制しない。ただ、空気が変わる。それだけで、人間は動く〉

あの職員は、誰にも命じられていない。心の底から、自分の判断で、正しいことをしていると信じている。それが一番、恐ろしいことだった。命令であれば、まだ抗える。だが、これは、命令ではなかった。

その夜、寅子と真理は、ひとしの部屋に資料を持ち込んで、三人で状況を整理することになった。
ひとしは、放送局の仕事の関係で、行政の広報戦略を分析する仕事にも、いくらか関わったことがあるという。

「これは、誰か特定のひとが設計したわけじゃない」

資料を並べながら、ひとしが言った。

「もし、そんな人がいるとすれば、最初の一手を打っただけだ。都民参加型ガバナンスという正義理念と、その窓口になる仕組みを、最初に置いた。その後は」

「都庁が、自分で育てた」

真理が続けた。ひとしは頷いた。

「制度が一度入ると、それを管理する部署が生まれる。部署は、自分の存在意義を守るために、活動を増やす。増えた活動には、外部の専門家が必要になる。専門家は、もっと活動を増やすことを提案する。誰も、命じられていない。むしろ、もう、何もしなくていい」

「設計者はもう必要ない、ってこと」

寅子が言うと、ひとしは、眼鏡の奥の目を、まっすぐこちらに向けた。

「そういうことです。これが、正義理念の一番怖いところだと思います」

部屋に、しばらく沈黙が落ちた。窓の外を、終電間際の電車の音が、遠く通り過ぎていった。

「批判する人間は、これからどうなるんだろう」

寅子が呟くと、真理が答えた。

「多分、『都民感覚のない人間』ってことにされる。ひかりの窓の基準に従わない都議とか、職員とか、記者とか。批判すること自体が、新しい『普通』への違反になる」

「そんな馬鹿な」

「馬鹿げてるけど、もう始まってる。さっきの職員だって、本気でそう信じてた」

その実例を、二人は、すぐに目にすることになった。

都議会の一般質問で、都民参加型ガバナンスの委託先選定の透明性を問いただした、野党系の若手都議がいた。翌週、その都議のSNSアカウントに、大量のリプライが押し寄せた。「税金の無駄遣いを助けるのか」「弱者に寄り添う団体を攻撃するのか」――そういった言葉が、判で押したように並んでいた。

真理が、そのアカウント群の投稿時刻を調べると、深夜の同じ時間帯に、似た文体の投稿が、次々と生まれていることが分かった。正の手記に記されていたのと、同じパターンだった。

その都議は、一週間後、質問の内容について「言葉足らずな部分があった」と、謝罪めいた投稿をした。以降、都民参加型ガバナンスに関する質問は、議会から、ぴたりと消えた。

「一人黙らせれば、他の人も黙る。見せしめって、そういうものだから」

真理が、抑揚のない声で言った。

寅子は、何も言い返せなかった。目に見える悪意も、目に見える命令もないまま、都市の「普通」そのものが、少しずつ塗り替えられていく。その恐ろしさを、寅子は今、ようやく実感として掴みかけていた。

ひとしが、資料の一枚を、寅子の前に差し出した。都の会議録の写しだった。市民協働推進課の設置経緯が記されている。

「見てください。この課、今年の春に新設されています。都民参加型ガバナンスの制度化と、ちょうど同じタイミングで」

「新しい部署が、自分で自分の仕事を作った、ってこと」

「ええ。そして、設置されてからまだ数か月なのに、この課に紐づく予算は、補正のたびに少しずつ膨らんでいる。誰も、それを止めようとしない。止める理由が、どこにもないから」

真理は、その資料を、じっと見つめていた。その横顔に、寅子は、以前とは違う何かを見た気がした。怒りでも、悲しみでもない、もっと静かな、何か決意めいたものだった。

「真理」

寅子が声をかけると、真理は、我に返ったように顔を上げた。

「ん、なに」

「大丈夫?」

「大丈夫だよ」

真理は、いつもの笑みを浮かべた。だが、その笑みは、寅子の問いに答えるための笑みであって、寅子を安心させるための笑みではないように、寅子には感じられた。

ひとしだけが、二人のやり取りを、少し離れた場所から、静かに見ていた。

その夜遅く、真理が先に帰った後、寅子は、片付けを手伝うという口実で、ひとしの部屋に、もうしばらく残っていた。

「真理、大丈夫でしょうか」

ひとしが、資料を束ねながら、ぽつりと聞いた。

「分からない。強いから、大丈夫だって、自分に言い聞かせてる部分もある」

寅子は、正直に答えた。

「無理はしてほしくないんですけど」

ひとしは、そこで、言葉を切った。何か、続けようとして、やめたような間があった。

「なに?」

「いえ。……寅子さんも、無理はしないでくださいね。真理さんを支えるのに必死で、自分のことは、後回しにしてそうだから」

その言葉に、寅子は、少し驚いた。ひとしが、自分のことを気にかけているとは、思っていなかった。

「心配性ですね、ひとしさんは」

「そうかもしれません」

窓の外を、終電間際の電車の音が、また一つ、遠く通り過ぎていった。二人の間に、しばらく、心地よい沈黙が流れた。それが、少しだけ気まずくもあり、少しだけ、居心地の良いものでもあった。

「そろそろ、帰ります」

寅子は、その空気を振り払うように、立ち上がった。

「駅まで、送ります」

「いいですよ、そんな」

「夜も遅いので」

その言い方に、有無を言わせない響きがあった。寅子は、少し可笑しくなりながら、頷いた。

駅までの道を、二人は、たわいもない話をしながら歩いた。事件のことでも、真理のことでもない、ただの雑談だった。寅子は、その時間が、自分でも意外なほど、心地よく感じられることに、気づいていた。

第五章 柏木の死


柏木悠人が死んだのは、特別顧問を解任されてから、一か月と経たない、蒸し暑い夜のことだった。

その夜、柏木のマンションのインターホンが鳴ったのは、日付が変わる少し前だった。

来客の心当たりはなかった。柏木は、この一か月、誰とも会っていなかった。秘書室を追われて以来、事務所には戻らず、部屋にこもったまま、届く郵便物さえ開けずに積み上げていた。

モニター越しに映った顔を見て、柏木は、しばらく動けなかった。

白石輝道だった。

「夜分に、すみません」

インターホンの向こうの声は、記憶の中とまったく変わっていなかった。落ち着いていて、押しつけがましさのない、静かな声だった。柏木は、迷いながらも、鍵を開けた。開けないという選択肢が、自分にあるとは、なぜか思えなかった。

部屋に上がった白石は、散らかった室内を一瞥しただけで、何も言わなかった。柏木が椅子を勧めるより先に、白石はソファに、ごく自然な仕草で腰を下ろした。

「先生は、よくやりました」

白石は、そう切り出した。

柏木は、その言葉に、何か言い返そうとした。よくやった、はずがなかった。秘書室を追われ、代表の座も失い、これから何が起きるのか、想像するだけで手が震えた。だが、言葉は出てこなかった。

「結果だけを見れば、失敗に見えるかもしれません」

白石は、柏木の内心を見透かしたように続けた。

「ですが、先生は、与えられた役割を、最後まで誠実に果たした。それだけです。誠実さの結果が、必ずしも報われるとは限らない。それは、先生が一番、よくご存知のはずです」

その言葉に、柏木の中で、何かが緩んだ。何年も前、初めてこの男と対話した夜と、同じ感覚だった。理不尽な現実の中で、自分だけが分かってくれる声。

「これから、私は、どうなるんでしょうか」

柏木は、絞り出すように聞いた。

白石は、しばらく、柏木の顔をじっと見つめた。表情は変わらなかった。ただ、その沈黙の長さが、柏木には、何よりも雄弁な答えのように感じられた。

「先生」

白石は、静かに言った。

「人は、最後に何を残すかで、決まります。先生が積み上げてきたものを、誰かのせいにして終わらせるのか。それとも、最後まで、ご自身の言葉で、締めくくるのか」

「僕の、言葉で……」

「ええ。誰かに書かされた言葉ではなく。先生自身の、本当の言葉で」

柏木は、その言葉の意味を、深く考えることができなかった。ただ、白石の声を聞いていると、頭の中の混乱が、少しずつ、一つの形に収まっていくような感覚があった。まるで、答えは最初から、自分の中にあったのだと、気づかされるような。

白石は、それ以上、多くを語らなかった。三十分ほど、柏木の話に耳を傾け、時折、短い言葉を挟んだだけだった。柏木が積み上げてきた誠実さについて。裏切った人間たちについて。理解されない孤独について。

帰り際、白石は、玄関で靴を履きながら、振り返らずに言った。

「先生は、間違っていません」

ドアが閉まる音が、静かに響いた。

柏木は、しばらく、玄関に立ち尽くしていた。それから、机に向かい、便箋を取り出し、何かを書き始めた。

その一時間後、丹波誠一郎が、同じ部屋のインターホンを鳴らすことになる。


第一報は、深夜のニュース速報だった。都内のマンションの一室で、男性が首を吊った状態で発見された、という短い一文。名前が伏せられたまま流れたその報道を、寅子は、真理の部屋で一緒に見ていた。

翌朝、遺体が柏木本人のものだと確認された、という続報が流れた。遺書らしきものも見つかっており、警察は自殺とみて捜査している、という一文が添えられていた。

「自殺、か」

寅子が呟くと、真理は、画面を見つめたまま、何も言わなかった。

その日の夕方、丹波から真理に電話があった。

「柏木さんのこと、聞きましたか」

いつもより、幾分か低い声だった。

「悲しいことでした。私も、何度かお会いしたことのある方でしたから」

その言葉には、深い哀悼の響きがあった。真理は、電話口で、ただ相槌を打つだけだった。

「せめて、心穏やかに送って差し上げましょう。ああいう立場にいた人は、追い詰められると、自分でも気づかないうちに、視野が狭くなってしまうものです」

電話を切った後、真理は、しばらくスマートフォンを握ったまま、動かなかった。

「真理」

「……なんでもない」

その様子に、寅子は何かを感じたが、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。

寅子自身も、電話を切った後の丹波の声を、少しだけ思い返していた。「悲しいことでした」というあの声の、あまりに自然な哀悼の響き。それが自然すぎることが、一瞬だけ、あの小さな引っかかりを疼かせた。信頼ではなく、観察だったとしたら――そこまで考えて、寅子は小さく頭を振った。柏木さんが亡くなったばかりなのに、こんなことを考えるなんて、我ながら性格が悪い。寅子はそう自分に突っ込みを入れて、思考を切り上げた。

数日後、寅子と真理は、ひとしに相談を持ちかけた。柏木の死が、本当に自殺だったのか、確かめる方法はないか。ひとしは、放送業界にいる知り合いを通じて、警察発表以上の情報が手に入らないか、探ってくれることになった。

「一つ、気になることがあります」

数日後、ひとしが、三人で集まった際に切り出した。

「柏木さんが発見されたマンション、防犯カメラの映像データが、事件当夜の分だけ、破損していたそうです。停電か何かで、記録が飛んだという説明になっているようですが」

「都合が良すぎる」

真理が言った。

「ええ。それと、遺書の筆跡は、鑑定の結果、本人のものと断定されたそうですが」

「されたそうですが、って、含みがある言い方だね」

寅子が聞くと、ひとしは頷いた。

「筆跡は本人のものでも、内容までが本人の意思だったとは限らない。何かを書かされていた可能性は、否定できません」

翌日、三人は、柏木が住んでいたマンションの周辺で、聞き込みを試みた。管理人は、警察の捜査に協力した後で、部外者への対応には、はっきりと拒否の姿勢を見せた。だが、エントランス近くで洗車をしていた、別の住人の男性が、真理の質問に、意外なほど、あっさりと応じてくれた。

「あの部屋の人でしょ。ああ、あの夜ね……」

男性は、洗車の手を止めて、記憶を辿るように、宙を見た。

「夜中に、誰か訪ねてきてたの、覚えてますよ。エレベーターで一緒になったから。ずいぶん、落ち着いた雰囲気の人でね。あの部屋の人とは、対照的というか」

「どんな人でしたか」

寅子が、思わず身を乗り出した。

「六十前後かな。背が高くて、上品な感じの。挨拶したら、丁寧に会釈返してくれて。ただ……」

男性は、少し、言葉に迷うような顔をした。

「なんていうか、目が、笑ってなかった気がするんだよね。口元は、ちゃんと笑ってるんだけど」

その証言を、三人は、その場で、手帳に書き留めた。

「白石、かもしれない」

真理が、低く呟いた。

だが、それ以上の情報は、その住人からも、他の誰からも、得られなかった。防犯カメラの映像は、事件当夜の分だけ、すでに失われていた。

三人は、その夜、遅くまで、柏木の足取りを洗い直した。特別顧問を解任されてからの一か月、柏木がどこで誰と会っていたか。ひとしが、業界の伝手を通じて集めてきた断片的な情報と、真理が独自に集めていたSNS上の目撃情報を、寅子が時系列に並べていった。

作業の途中、資料を覗き込もうとした寅子の手元が滑り、コーヒーの入ったマグカップが、資料の山に向かって倒れかけた。

「危ない」

ひとしが、とっさに手を伸ばし、資料をまとめてすくい上げた。コーヒーは、ひとしの手の甲にかかっただけで済んだ。

「すみません」

寅子が慌てて謝ると、ひとしは、何でもないというように、手の甲を軽く拭った。

「資料が無事なら、それでいいです。……次は、寅子さんの手が心配ですけど」

「ちょっと、それどういう意味」

「統計的に、あなたが何かをこぼす確率は、他の人より高い気がするので」

「今この場で統計取らないでよ」

寅子がむっとした顔をすると、ひとしは、めずらしく、口の端をわずかに緩めた。

その一連の動きに、寅子は特に何も感じなかった。だが、少し離れた場所でノートパソコンを開いていた真理は、その瞬間を見ていた。倒れかけたカップより先に、ひとしの視線が寅子の手へ向いたことを。

真理は何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、二人の様子を見つめていた。

「柏木さんは、本当に自殺したのかな」

真理が、資料の束を見つめながら、独り言のように呟いた。

「証拠は、何もない。あるのは、状況証拠と、ちょっとした違和感だけ」

「それでも」

寅子が続けた。

「私は、自殺だとは思えない」

ひとしが、静かに頷いた。

「僕も、同感です」

三人の間に、重い沈黙が落ちた。もし柏木が殺されたのだとしたら、その手を下したのは誰なのか。白石なのか、あるいは、白石の意を汲んだ誰かなのか。答えは、まだどこにも見えなかった。

その夜、寅子が帰り支度をしている間、真理はひとしに、一つだけ質問をした。

「先輩は、寅子のこと、どう思ってますか」

唐突な問いに、ひとしは、珍しく、すぐには答えなかった。

「……どうして、そんなことを聞くんですか」

「なんとなく、気になって」

ひとしは、少し考えてから、正直に答えた。

「よく分からない人だと思います。でも」

「でも?」

「一緒にいると、退屈しない人です」

その答えに、真理は、小さく笑った。その笑みが、どんな感情から生まれたものなのか、ひとしには読み取れなかった。

帰り支度を終えた寅子が戻ってくると、真理は、いつもと変わらない顔で、「じゃあ、また明日」と言った。

寅子は、その笑顔に、何の違和感も抱かなかった。

第六章 犬と橋


きっかけは、本当に偶然だった。

柏木の死をきっかけに、過去の事件との共通点を洗い直す中で、真理は、正の死んだ夜の汐見橋周辺の動画を探そうと、動画共有サイトで地名を検索していた。検索結果の中に、場違いなサムネイルが一つ、紛れ込んでいた。柴犬らしき犬の後ろ姿に、「今日のおさんぽ」という文字が重なっている。

チャンネル名は「まめきちの休日」。飼い主が、愛犬の首に小型カメラを装着し、犬目線の散歩動画を、ほぼ毎日投稿している個人チャンネルだった。投稿者の手元には、すでに撮影時の元データは残っていなかった。動画共有サイトにアップロードされ、圧縮された状態のものしか、もう存在しなかった。

動画の説明欄には、撮影エリアが書かれていた。汐見橋を含む、あの一帯だった。

「こんなのが、あったんだ」

真理は、半ば呆れたような声で呟いた。だが、その声には、もう一つ別の色も混じっていた。

「動画のアップロード日、確認できる?」

寅子が聞くと、真理は頷いて、チャンネルの投稿履歴を遡り始めた。何百本という動画が、ほぼ毎日、律儀に投稿されていた。

作業は、思った以上に骨が折れた。投稿日と、正が転落した夜の日付を照合するだけでも、古い投稿ほど表示が不安定で、何度も遡っては見失い、また遡り直す、という繰り返しだった。

「あった……と思ったけど、違う。一日ずれてる」

真理が、何度目かの溜息をついた。深夜零時をまたぐ投稿の扱いが、チャンネルによって微妙に違っていた。寅子は、その隣で、別の端末を使い、日付を手作業で確認する担当に回った。

「こっちの記録だと、転落があったのは、二十三時台のはず」

「じゃあ、この投稿は、日付だけ見ると次の日扱いになってるけど、実質、同じ夜のものかもしれない」

三人は、無言のまま、作業を続けた。窓の外が、いつのまにか、暗くなっていた。誰かが立てるコーヒーの匂いだけが、部屋の中で、時間の経過を教えてくれた。

何度目かの「これかもしれない」を経て、ようやく、日付を絞り込んでいくうち、真理の手が止まった。

正が汐見橋から転落した、まさにその夜の日付の動画があった。

三人は、その動画を、ひとしの部屋のモニターで確認した。再生してすぐ、寅子は肩を落とした。

「真っ暗じゃん」

夜間撮影のため、映像はほとんど何も映っていなかった。時折、街灯の光が、犬の視界の端をかすめる程度だった。草むらの揺れる音、飼い主の足音、犬の荒い息遣い。それだけが、延々と続いていた。

「これじゃ、使い物にならない」

寅子が言いかけたところで、真理が「待って」と、再生を止めた。

「ここ。水の音がする」

音声に耳を澄ますと、確かに、遠くから、かすかに水の流れる音が聞こえた。汐見橋の下を流れる川の音だろう。その直後、犬が、何かに気づいたように、ぐいっと顔を上げる動きをした。カメラが揺れ、画面の向きが変わる。だが、そこに映っているのは、依然として、真っ暗な闇だけだった。

「駄目だ、これじゃ」

寅子は、椅子の背にもたれかかった。せっかく見つけた手がかりが、ただの黒い画面でしかないことに、落胆を隠せなかった。

その時、ひとしが、ふっと口の端を上げた。

「奥の手がある」

翌日、ひとしは、局のポストプロダクションルームを、深夜の空き時間を使って借りてくれた。DaVinci Resolveという、業界標準のカラーグレーディングシステムが並んだ部屋だった。

「まず、シャドウ部を持ち上げます」

ひとしは、映像の暗部のレベルを、段階的に引き上げていった。真っ黒だった画面に、うっすらと濃淡が生まれ始める。

「これだけだと、ノイズがひどい。だから、複数フレームを解析して、ノイズを除去していきます」

処理には、時間がかかった。三人は、狭い編集室で、無言のまま、画面を見つめ続けた。

「あとは、ガンマを調整して、輪郭を出します」

ひとしの指が、マウスとキーボードの上を、静かに動いていく。画面の中間の明るさが少しずつ持ち上がり、それまで塗りつぶされていた闇の中に、ぼんやりとした輪郭が、浮かび上がり始めた。

犬が水音の方向を向いた、あの瞬間の映像。橋の上に、人影らしきものが見え始めていた。

「もう一段階、いきます」

ひとしが、ソフトウェアの人物検出機能を起動した。輪郭が、少しずつ強調されていく。

画面の中に、橋の欄干の外側に向かって、何かをしている人物の姿が、はっきりと浮かび上がった。

その顔が、こちらを――正確には、犬のカメラの方向を、一瞬だけ、向いた。

画像を拡大した。

寅子は、息を呑んだ。

丹波誠一郎だった。

誰も、何も言わなかった。編集室の空調の音だけが、やけに大きく響いていた。

「……嘘でしょ」

寅子が、ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

一瞬、頭の奥で、あの小さな引っかかりが疼いた。信頼ではなく、観察だったとしたら――何度も浮かんでは、その都度、明るさで蹴散らしてきた考えだった。

まさか、ではなかった。

やっぱり、だった。

だが、その「やっぱり」を噛みしめている暇は、寅子にはなかった。頭より先に、腹の底から、単純な怒りが突き上げてきた。

「ふざけんな」

寅子は、思わず声を荒げた。

「あんなに優しい顔して。あんなに親身になってくれてたのに」

真理は、モニターを見つめたまま、微動だにしなかった。その横顔から、寅子は、何の感情も読み取ることができなかった。あまりに静かすぎる反応だった。

正の葬儀に来て、静かに頭を下げていた丹波。折に触れて、線香を上げに来てくれた丹波。この数か月、二人の調査を、陰から支え続けてくれた丹波。その優しさの一つ一つが、今、まとめて裏切りに変わった。寅子は、拳を強く握った。

「あの人が、お父さんを」

真理が、初めて口を開いた。声は、驚くほど平静だった。平静すぎて、寅子はかえって不安になった。

「真理、大丈夫?」

「大丈夫」

真理は、そう言って、画面から目を離した。

編集室に、しばらく、重い沈黙が落ちた。誰も、何も言えなかった。窓のない部屋の空調の音だけが、やけに大きく響いていた。

寅子は、震える手で、自分の腕を抱いた。信じていた人間が、正を殺した実行犯だった。その事実を、頭では理解していても、体が追いついていなかった。目の前の光景が、現実だとは、どうしても思えなかった。

ひとしは、何も言わずに、モニターの前から、二人分の椅子を引いた。座るように、目で促した。寅子は、崩れるように、椅子に腰を下ろした。

「少し、時間を置きましょう」

ひとしが、静かに言った。

「頭を冷やしてから、次のことを考えた方がいい。今、感情のまま動くと、大事な部分を見落とすかもしれません」

その言葉に、寅子は、小さく頷いた。ひとしの声の落ち着きが、今の寅子には、何よりもありがたかった。

十分ほど、誰も口を開かなかった。編集室の空調の音と、遠くの廊下を誰かが歩く足音だけが、時間の経過を教えてくれた。

やがて、真理が、先に口を開いた。

「これで、はっきりした。証拠がある」

ひとしが、慎重な声で言った。

「警察に持っていくべきです。個人で動くのは、危険すぎる」

真理は頷いた。

「明日、警察に届ける」

その夜、真理は、実家に電話をかけた。母に、この映像のことを伝えるためだった。電話の向こうで、母がどんな反応をしたのか、寅子には分からなかった。ただ、電話を切った後の真理の顔に、これまで見たことのない、複雑な色が浮かんでいたことだけを、寅子は覚えている。

「お母さん、なんて言ってた?」

寅子が聞くと、真理は、少し間を置いてから答えた。

「……分かった、って。それだけ」

窓の外には、夜の街の明かりが、いつもと変わらず灯っていた。その明かりの下のどこかで、丹波誠一郎という男が、今夜もまた、何食わぬ顔で、日常を過ごしているはずだった。

第七章 ひき逃げ


翌朝、寅子と真理は、大学の講義を休み、警視庁の庁舎を訪れた。

対応した刑事は、初め、半信半疑の様子だった。一年足らず前の未解決事件の証拠だと聞かされ、しかも復元された映像だと聞けば、無理もなかった。それでも、映像を確認した刑事の表情が、途中から明らかに変わった。

「これは、こちらで正式に預からせてください。鑑定を行います」

刑事は、そう言って、データの提出書類に、二人のサインを求めた。真理は、震える手で、自分の名前を書いた。寅子は、その手を、そっと握った。

「これで、やっと」

真理が、庁舎を出た後、小さく呟いた。声には、安堵と、それだけでは片付かない何かが、混ざっていた。

庁舎前の広場で、二人は、しばらく、日差しの中に立っていた。

「終わったら、何がしたい?」

寅子が、ふと聞いた。

「終わったら?」

「うん。全部、片付いたらってこと。裁判も、全部終わって」

真理は、少し考えてから、笑った。

「旅行に行きたい。お母さんと三人で。どこか、遠くに」

「いいね。パラオとか、南の島とか」

「寅子、南の島好きそうだもんね」

「バレた?」

その日の午後、真理は、母に会いに実家へ向かった。寅子は、大学に残って講義に出た。

前夜の電話で、真理からおおまかな話は聞いていたはずだった。それでも、実際に顔を合わせて、映像の詳しい経緯を聞かされた聡子は、しばらく言葉を失っていたという。夫を、名前の分からない誰かに奪われたまま、ずっと過ごしてきた。その誰かの顔が、ようやく分かった。しかも、その顔は、これまで自分たち家族を、ずっと気にかけてくれていると信じていた、あの丹波誠一郎のものだった。

聡子は、警察に届け出たと聞いて、一度は落ち着いたように見えた、と真理は後に語っている。だが、その夜遅く、聡子は一人で家を出た。真理には、コンビニに行くとだけ言い残して。

聡子が向かったのは、丹波の自宅だった。

何があったのか、正確なことは、誰にも分からない。分かっているのは、聡子が丹波の家を訪ね、玄関先で、何かを問い詰めたということだけだった。近隣住民の一人が、言い争うような声を、その時間帯に聞いたと、後の警察の聞き取りに証言している。

丹波は、しらを切り続けた。「何のことか、分かりません」「宮武さんの奥様、少し落ち着いてください」——そういった言葉を、近隣住民は、切れ切れに聞いていた。

埒が明かないと判断した聡子は、玄関先を離れ、駅へと向かう道を歩き始めた。

その帰り道、聡子は車に撥ねられた。

車は、そのまま走り去った。目撃者は、いなかった。防犯カメラの死角になる道だった。

聡子の死亡が確認されたのは、その日の深夜だった。

真理のもとに連絡が入ったのは、真夜中を過ぎた頃だった。寅子は、真理からの電話で、それを知った。

「寅子」

電話の向こうの声は、驚くほど平坦だった。

「お母さんが、死んだ」

寅子は、すぐに真理のもとへ向かった。実家近くの警察署で、寅子は、放心したように座っている真理を見つけた。

真理は、泣いていなかった。

その事実が、寅子には、何よりも恐ろしかった。

葬儀は、三日後に、静かに執り行われた。参列者は少なかった。聡子の職場の同僚が数人と、近所付き合いのあった人が数人。それだけだった。

祭壇の遺影の中で、聡子は、真理が話していた通りの、優しい笑顔を浮かべていた。寅子は、その写真を見上げながら、少し前、真理が嬉しそうに話してくれた、母との何気ない会話を思い出していた。「痩せたんじゃない?」と聞かれたのだと、真理は笑いながら言っていた。もう二度と、交わされることのない会話だった。

焼香の列に並ぶ間、寅子は、丹波が来るのではないか、という考えが、頭をよぎった。もし来たら、自分は、どんな顔をすればいいのか。幸い、丹波の姿は、会場のどこにもなかった。

真理は、喪主として、参列者一人一人に、深く頭を下げ続けていた。その所作は、あまりにも整いすぎていて、寅子には、かえって痛々しく見えた。

葬儀が終わり、参列者が三々五々、帰っていく中、真理は、しばらく、母の遺影の前から動かなかった。寅子は、その隣に、黙って立っていた。何を言えばいいのか、分からなかった。慰めの言葉は、どれも、この状況の前では、あまりにも軽く感じられた。

「お母さん」

真理が、遺影に向かって、小さく呟いた。

「ごめんね。私が、余計なことに首を突っ込んだから」

「真理のせいじゃない」

寅子は、思わず、口を挟んだ。

「殺したのは、丹波だよ。真理のせいじゃない」

真理は、寅子の方を見た。目は乾いていた。涙の気配すらなかった。寅子には、そのことの方が怖かった。

「うん。分かってる」

真理は、そう言って、また、遺影に向き直った。その横顔を、寅子は、いつまでも忘れることができなかった。

数日後、警察から、提出した映像データについて、正式な連絡があった。「鑑定の結果、証拠としての採用は困難と判断された」という、短い一文だった。理由は、詳しく説明されなかった。動画共有サイト上ですでに圧縮されていた映像であること、復元処理の過程で、元の映像には存在しなかった輪郭が強調された可能性を排除できないこと——そういった、形式的な言葉が並んでいるだけだった。

寅子は、その連絡を受けた後、ひとしに相談した。ひとしは、放送業界の伝手を使って、この決定の背景を、慎重に探ってくれた。

数日かけて分かったことは、寅子と真理を、さらに深い絶望に突き落とすものだった。

証拠の採用可否を判断する過程に、都知事の周辺から、何らかの働きかけがあった形跡がある――ひとしは、そう伝えてきた。確証はない。だが、鑑定を担当した部署の上層部と、都知事側の人間との間で、非公式な接触があったという情報を、複数の筋から得たという。

「都知事が、直接動いたってこと?」

寅子が聞くと、ひとしは、苦い顔で頷いた。

「白石が動いたのか、都知事が自分の判断で動いたのか、それは分かりません。でも、結果は同じです。証拠は、消された」

真理は、その報告を、ひとしの部屋で、静かに聞いていた。表情は、ほとんど動かなかった。

「三つ」

真理が、ぽつりと言った。

「三つ、失った」

寅子は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。真理は、指を一本ずつ折りながら、続けた。

「お父さんを殺した犯人が、ずっと信じてた丹波だったこと。お母さんが、その丹波に殺されたこと。そして、証拠まで、消されたこと」

真理の声には、涙も、怒りの震えも、なかった。ただ、事実を事実として、淡々と数え上げているだけだった。その平静さが、寅子には、これまで見てきたどんな真理の姿よりも、恐ろしく感じられた。

「真理」

寅子は、真理の肩に、そっと手を置いた。

「一人で抱え込まないで。私も、ひとしさんも、一緒にいるから」

真理は、寅子の手に、自分の手を重ねた。

「ありがとう」

その声は、いつもと変わらない、優しい声だった。だからこそ、寅子は、その言葉の裏にあるものに、気づくことができなかった。

真理の中で、何かが、静かに閉じていくのを。

その夜、真理は一人、実家の部屋で、父の手記を、もう一度、最初から読み返していた。

八年前、まだ幼かった頃には理解できなかった、白石という男の論理。誰も命じない。誰も強制しない。ただ、空気を変えるだけで、人は動く。

その論理を、真理は今、初めて、実感として理解していた。

理解した上で、真理は、あるページで、手を止めた。

商店街の有線放送について書かれた、何気ない一節だった。父が生前、特に気にも留めずに書き残した、たった数行の記述。

その数行に、真理は、何かの手がかりを感じ取っていた。

第八章 暗号解読


母の死から、二週間が過ぎた。

真理は、大学に戻ってきていた。傍目には、いつもと変わらない様子だった。講義に出て、部室に顔を出し、寅子と並んでランチを取る。だが、寅子は、その「いつも通り」の中に、以前とは違う何かが混じっていることに、うっすらと気づき始めていた。

真理が、一人で過ごす時間が、少しずつ増えていた。

「最近、何してるの」

寅子が聞くと、真理は決まって、「ちょっと調べ物」とだけ答えた。それ以上、詳しくは語らなかった。寅子は、母を亡くしたばかりの真理に、無理に踏み込むことを避けていた。時間が、真理を癒してくれることを、ただ願うしかなかった。

寅子が知らないところで、真理は、父の手記を、繰り返し読み返していた。

商店街の有線放送についての、あの数行。父が生前、何気なく書き残したその記述に、真理は、取り憑かれたように向き合っていた。

〈あの商店街に来るたびに、あれがある。気にも留めていなかった〉

正が、死の直前に書いた一文だった。「あれ」が何を指すのか、正自身は、最後まで書き残していなかった。だが、真理には、それが何であるか、ある確信があった。

真理は、汐見銀座商店街の商店会に、大学のジャーナリズム研究会の名前を借りて、取材を申し込んだ。地域の歴史をテーマにした記事を書きたい、という体裁だった。商店会長は、快く協力してくれた。

「有線放送、うちの商店街の名物なんですよ。かれこれ、二十年近くやってますから」

商店会長は、そう言って、放送を管理する会社の連絡先を、快く教えてくれた。管理会社への取材でも、真理は、同じ体裁を使った。過去のタイムテーブルの記録を見せてほしい、という真理の頼みに、担当者は、少し戸惑いながらも、古い記録を引っ張り出してきてくれた。

取材の中で、真理は、もう一つ、覚えておくべきことを聞き出していた。地元の商店や、開店祝いの依頼主が、有料で曲をリクエストできる枠が、タイムテーブルの一部に組み込まれているという。申込書と料金さえ揃えれば、誰でも、指定した曲を、指定した期間、繰り返し流してもらえる仕組みだった。開店祝いやイベント向けには、依頼主が用意した持ち込み音源にも対応しているという。管理会社の中枢に誰がいようと、この窓口自体は、ごく普通の商店会向けサービスとして、機械的に運用されていた。

その夜、真理は、ひとしの部屋を借りて、記録を解析した。ひとしには、「地域の音楽文化についての、ゼミのレポート用の資料集めだ」とだけ伝えていた。ひとしは、それを疑うことなく、部屋の使用を快く許してくれた。

真理は、一人で、何時間も、タイムテーブルの数字と向き合い続けた。

麻子が死ぬまでの数週間。龍崎が死ぬまでの数週間。そして、正が死ぬまでの数週間。それぞれの期間に流れていた楽曲のタイムテーブルを、真理は丁寧に洗い出していった。

やがて、一つの規則性が浮かび上がってきた。

麻子の死の直前、ある一曲が、異常な頻度で、タイムテーブルに組み込まれていた。通常であれば、月に数回程度しか流れないはずの曲が、その数週間だけ、毎日、何度も流れていた。龍崎の死の直前にも、同様の現象があった。ただし、流れていた曲は、麻子の時とは別の曲だった。そして、正の死の直前にも、また別の一曲が、同じように異常な頻度で流れていた。

三人、三曲。

真理は、その三曲の歌詞を、一字一句、丹念に読み込んだ。表面上は、失恋や別れをテーマにした、ありふれた歌謡曲だった。だが、読み込むほどに、その言葉の選び方に、不自然な作為が見えてきた。

「寄せ集めのぬくもりが咲く箱庭」――麻子の曲にあった一節。ひかりの庭を暗示する言葉だった。「愛の目方を量る」――経理として、麻子が組織の裏側を数字で暴こうとした行為を指しているように読めた。

「街の灯を己の太陽と信じ込み」――龍崎の曲。作られた光を、自分自身の輝きと錯覚した人間への、冷たい断罪だった。

「生まれ変わると祈った場所を泥靴のままで踏み躙る」――正の曲。父が、更生という物語を信じず、法の外から執念深く追いかけ続けたことへの、白石の怒りが滲んでいた。「正しすぎる猛毒を飲み」という一節には、父の名前――正(ただし)――が、猛毒という言葉に重ねられていた。

真理の手が、震え始めた。

これは、偶然ではない。誰かが、意図的に、この曲をこの期間に、繰り返し流していた。

真理は、次に、有線放送の管理会社の登記情報を調べた。ペーパーカンパニーに近い、小さな会社だった。役員の名前を一人ずつ辿っていくと、その中の一人が、かつて、ひかりの未来基金の関連団体に、名前を連ねていたことが分かった。

管理会社にも、白石の息がかかっていた。

その足で、真理は、登記上の住所を、直接確かめに行くことにした。地図アプリで調べた場所は、都内の外れにある、古い雑居ビルだった。取材と偽って中に入ることは、さすがにできない。真理は、通りの向かいにあるコインランドリーの窓際に座り、時間を潰すふりをしながら、ビルの出入りを観察した。

一時間ほど経った頃、一台の車が、ビルの前に停まった。降りてきたのは、四十代ほどの、地味なスーツを着た男だった。男は、鍵の束を取り出し、ビルの脇にある倉庫らしきシャッターを開けた。中には、畳まれた紅白のカラフルな布のようなものが、何機分か積まれているのが、わずかに見えた。

アドバルーンだ。

真理は、スマートフォンのカメラを、そっと構えた。シャッター音を殺す設定にしてあった。男の顔、車のナンバー、シャッターの位置。一枚、また一枚と、証拠を積み重ねていく。

夢中になっていたせいで、真理は、コインランドリーの店内に、もう一人の客が入ってきたことに、気づくのが遅れた。

「……何、写真撮ってるの」

低い声だった。振り返ると、作業着姿の年配の男が、真理のすぐ後ろに立っていた。真理の手元のスマートフォンを、じっと見ていた。

心臓が、大きく鳴った。

「あ……すみません、道を調べてて」

真理は、とっさに、スマートフォンの画面を、地図アプリに切り替えた。指先が、かすかに震えていた。

男は、少しの間、真理を見つめていたが、やがて、興味を失ったように視線を逸らし、洗濯機の一つに向かって歩いていった。

真理は、それ以上、その場に留まらなかった。何気ない足取りを装いながら、コインランドリーを出て、駅とは反対方向へ、しばらく歩いた。人通りの多い通りに出て、ようやく、詰めていた息を吐いた。

手のひらに、じっとりと汗をかいていた。

もし、あの男が、倉庫の関係者だったら。もし、真理の顔を覚えられていたら。

その可能性を、真理は、あえて考えないようにした。ここで怖気づいたら、父が最後まで辿り着けなかった場所に、自分もまた、辿り着けないままで終わる。

後日、真理は、この広告代理店の登記情報も、詳しく洗った。地元の不動産業者が管理していると、商店街では説明されていたアドバルーンだったが、実際の委託先は、この会社だった。役員の一人の名前を辿ると、そこにもまた、白石と繋がりのある人物の名前があった。有線放送の管理会社と、アドバルーンの委託業者。別々の窓口に見えて、根っこは同じ場所に繋がっていた。

真理は、さらに、残されていた過去の運行記録を照合した。麻子、龍崎、正。三人の死の前、異常な頻度で曲が流れ始めた時期と重なるように、同じ商店街でアドバルーンが上げられていた。曲だけではない。二つは、常に組み合わされていた。

アドバルーンが、召喚の合図。有線放送の曲が、標的と罪状の通知。

二段階の暗号システムが、真理の中で、一つの絵として完成した。

〈この曲、どこかで聞いたことがある気がする〉

正の手記の、また別のページに、そんな一文があった。日付は、正が死ぬ、数週間前のものだった。

真理は、その一文を、何度も読み返した。

お父さんも、気づきかけていた。

だが、気づいたときには、もう遅かった。

その夜、真理は、ひとしの部屋の窓際に立ち、遠くの夜景を、長い間、見つめていた。ひとしは、資料を片付けながら、真理の背中に、声をかけた。

「レポート、進んでますか」

真理は、振り返らずに答えた。

「うん。だいたい、分かった」

その声には、達成感とは違う、もっと硬い何かがあった。

「本当に、ゼミのレポートなんですか」

ひとしの声には、探るような響きがあった。真理の背中が、わずかに強張った。

「……どういう意味ですか」

「いえ。最近の宮武さん、少し様子が違う気がして。踏み込むべきじゃないなら、聞きません」

真理は、しばらく、窓の外を見つめたまま、動かなかった。それから、無理に、いつもの声を作った。

「大丈夫です。ちょっと、根を詰めすぎてるだけで」

ひとしは、それ以上、深くは聞かなかった。ただ、その夜、真理が部屋を出る時、ひとしが最後にかけた言葉を、真理は、なかなか忘れられなかった。

「無理は、しないでくださいね。何かあったら、いつでも、頼ってください」

「……ありがとうございます」

真理は、そう答えるので、精一杯だった。

真理は、その夜、寅子には何も話さなかった。翌日も、その次の日も、真理は、自分が突き止めたことを、寅子に伝えなかった。

寅子は、真理が何かを一人で抱え込んでいることに、うっすらと気づいていた。だが、母を失ったばかりの真理に、無理に踏み込むことができなかった。それが、優しさなのか、それとも、ただの臆病さなのか、寅子自身にも、判断がつかなかった。

証拠は、警察に届けても、握りつぶされる。法の内側には、もう、頼れるものが何もない。

真理は、父の手記を、そっと閉じた。

しばらく、閉じた表紙に手を置いたまま、動かなかった。

第九章 揺らぐ男


母の死から、しばらく経った頃には、真理の「いつも通り」も、すっかり板についていた。一人で過ごす時間が多いことだけは、相変わらずだったが、寅子は、それを、まだ癒えきらない喪失のせいだと思っていた。

その頃から、丹波の様子に、少しずつ、これまでにない翳りが見え始めていた。

最初にそれに気づいたのは、ひとしだった。柏木の死の真相を、まだ諦めずに追っていたひとしは、教誨師としての丹波の活動範囲――特に、汐見銀座商店街に隣接する保護観察所について、業界の伝手を使って、それとなく情報を集めていた。

「妙な話を聞きました」

ある日、ひとしが、寅子に言った。

「保護観察所の職員から、小耳に挟んだんですが。丹波、最近、様子がおかしいそうです。面談中に、上の空になったり、急に外の様子を気にしたりすることが増えたって」

「体調でも悪いのかな」

「体調というより、何かに怯えているような感じだった、と」

寅子は、そう聞いても、それ以上、深く考えなかった。丹波は、この一年、あまりにも多くの人の死に、間近で立ち会ってきた。心労が溜まっていても、不思議ではなかった。

丹波自身の内側で何が起きていたのか、この時の寅子には、知る由もなかった。

丹波は、その日、商店街の入り口で、思わず足を止めていた。

空を、見慣れない一機のアドバルーンが漂っていた。地元の不動産業者が、新築マンションの宣伝のために時折上げるものに、外見はよく似ていた。それでも、丹波の中で、何か古い記憶の回路が、静かに作動し始めていた。

商店街に足を踏み入れると、有線放送から、聞き覚えのない曲が流れていた。中島みゆき風の、哀愁を帯びたメロディだった。だが、歌詞に耳を傾けるうち、丹波の顔から、みるみる血の気が引いていった。

紅く染めた掌。橋の上で交わした、偽りの誓い。轍の音。剥がれる仮面。朱に染まった、その名。

自分にしか分からない言葉だった。丹波誠一郎という自分の名前の一字が、色を変えた言葉の中に、繰り返し織り込まれていた。誰かが、自分の罪を知っている。

丹波の頭に、真っ先に浮かんだのは、白石の顔だった。かつて、麻子、龍崎、正――白石が「消す」と決めた人間には、必ず、この商店街を通じて、同じような形で予告が下されていた。丹波は、その仕組みを、誰よりもよく知っていた。自分が、その仕組みの、実行役だったからだ。

自分は今、消される側に回ったのかもしれない。

丹波は、その夜、一睡もできなかった。

翌日、丹波は、自分なりに、誰がこれを仕組んだのかを、探ろうとした。有線放送の管理会社に、それとなく連絡を取り、最近、外部から不審な問い合わせがなかったか、探りを入れた。担当者は、特に変わったことはない、と答えた。アドバルーンの業者にも、同じように探りを入れたが、こちらも、手がかりらしい手がかりは、何も得られなかった。

丹波は、次に、この暗号システムそのものについて、考え直した。アドバルーンを揚げ、有線放送に曲を仕込む。誰も命じない。誰も強制しない。ただ、然るべきタイミングで、然るべき場所に、然るべき言葉を置く。自分以外に、この仕組みを知っている人間は、白石しかいないはずだった。麻子にも、龍崎にも、正にも、同じやり方で予告が下されるのを、丹波は、実行役として、すぐそばで見てきた。誰かが真似できるような、生半可な仕組みではない。

だとすれば、答えは、一つしかなかった。白石が、自分に向けて、この暗号を使っている。

なぜ、今なのか。丹波には、覚えがあった。

聡子を撥ねた、あの夜のことだ。あまりにも急ごしらえだった。
目撃者が出なかったのは、幸運に過ぎない。しかも、その後も、寅子たちの調査は止まらなかった。警察に提出された映像は握りつぶせたが、いつまた、同じような証拠が浮かび上がってくるとも限らない。自分の顔は、すでに、あの犬のカメラに残ってしまっている。

白石は、決して失敗を許さない男だった。役に立たなくなった駒を、いつまでも手元に置いておくような人間ではない。

自分は、へまをした。そして今、その代償を払わされようとしている。

丹波は、その結論に、自分から逃げ場を塞いでいった。

翌週、丹波は、商店街に近づくのを避けようとした。だが、教誨師としての定例の面談が、その週、商店街に隣接する保護観察所で予定されていた。避けようがなかった。

商店街の入り口に差しかかった瞬間、丹波の足が、勝手に止まった。

アドバルーンが、また上がっていた。前回よりも、明らかに、有線放送の頻度が上がっていた。数分おきに、同じ曲が繰り返される。歩道を行き交う買い物客たちは、誰も気に留めていない。丹波にだけ、それが、処刑執行の秒読みのように聞こえていた。

その頃、寅子とひとしは、丹波の異変について、断片的な情報を、少しずつ集めていた。丹波の知人が漏らした愚痴めいた言葉から、「アドバルーン」「有線放送」という単語が、寅子たちの耳にも届くようになっていた。だが、その二つの単語が、何を意味するのか、この時点では、まだ、誰にも分からなかった。

「丹波が、最近、本当におかしいですね」

寅子が、ひとしに言った。

「白石のことで、何か心当たりがあるんでしょうか」

「分かりません。でも、放っておいていい様子には見えません」

そこに、追い打ちをかけるように、丹波の耳に、別の情報が入ってきた。真理たちが、汐見橋の映像を警察に届け出ていたこと。証拠は握りつぶされたものの、その映像データが、局のポストプロダクションを経由して復元されたものだということ。放送業界の狭い人脈の中で、その噂は、丹波のもとにも届いていた。

やはり、自分の顔は、すでに誰かの手に渡っている。丹波の中で、その確信が、ますます強くなった。

三度目のアドバルーンが上がった夜、丹波は、ついに限界に達した。

商店街では、また同じ曲が流れていた。夕方から閉店時刻まで、何度も、何度も繰り返されていた。丹波は、その音を聞きながら、暗い路地に立ち尽くし、震える手で、自分の携帯電話を握りしめていた。

消されるくらいなら。

先に、動くしかない。

丹波は、白石に連絡を取った。「大事な報告があります。二人だけで、お話ししたいことが」と、震える声で伝えた。白石は、いつもと変わらない、落ち着いた声で応じた。

「分かりました。では、いつもの場所で」

二人が「いつもの場所」と呼んでいたのは、都心にある、古い雑居ビルの屋上だった。人目につかず、防犯カメラの死角になっている。丹波が、白石と人目を避けて話す必要がある時に、幾度となく使ってきた場所だった。

その皮肉に、丹波自身、気づいていなかったわけではない。だが、他に、選べる場所を、思いつかなかった。

約束の夜、丹波は、震える足取りで、その雑居ビルへと向かった。

その夜、寅子と真理が何をしていたのか、後になって、寅子は何度も思い出そうとした。だが、それは、あまりにも平凡な、いつも通りの夜だった。真理は、いつもと変わらない笑顔で、寅子とラーメンを食べに行き、他愛もない話をして、寮の分かれ道で別れた。


翌朝、白石輝道の遺体が、雑居ビルの下で発見された、というニュースが流れた。

警察は、当初、転落死として処理を進めた。目撃者はなく、争った形跡も、明確には見つからなかった。丹波誠一郎という名前は、この時点では、まだ、事件の中に、一切登場していなかった。

真理は、そのニュースを、大学の食堂で、寅子と一緒に見た。

「白石が、死んだ」

寅子が、信じられないというように呟いた。

「まさか、こんな形で終わるなんて」

真理は、画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

「……そう」

真理は、ただ、それだけ答えた。その声から、寅子は、何の感情も読み取ることができなかった。安堵なのか、それとも別の何かなのか。落ち着き払った、その声の平坦さが、かえって寅子の不安を煽った。

「これで、終わったのかな」

寅子が呟くと、真理は、少し間を置いてから、首を横に振った。

「まだ、丹波が残ってる。この事件は、あの人が全部知ってるはずだから」

その言葉に、寅子は頷いた。真理はいつもと変わらない顔で、ニュース画面を見つめていた。少なくとも、寅子にはそう見えた。

第十章 動かされた男


白石の死から、二週間が過ぎた。

事件は、結局、単純な転落死として処理されようとしていた。警察の捜査は、これといった進展のないまま、次第に熱を失っていくように見えた。都心の片隅で起きた、身寄りの薄い初老の男の死。新聞の扱いは、日を追うごとに小さくなり、やがて紙面から消えた。

だが、寅子とひとしは、諦めていなかった。

丹波誠一郎は、その二週間、ほとんど誰の前にも姿を見せなくなっていた。教誨師としての勤めも、体調不良を理由に休み続けているという。几帳面に守られてきたはずの面談の予定が、次々と流れていった。保護観察所の職員が、それとなく漏らしたところによれば、電話の声にも、以前の落ち着きは、もう感じられないという。

「丹波、面談の途中で、急に黙り込むことがあるそうです」

ひとしが、聞き集めてきた話を、静かに伝えた。

「独り言のように、同じ言葉を繰り返すこともあると。職員の方も、気味悪がっていました」

「同じ言葉、って」

「アドバルーン。有線放送。その二つを、何度も」

寅子は、その二つの単語を聞いた瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。何の脈絡もない、意味を成さない呟きのようでいて、どこかで見た覚えがある気がした。

その夜、寅子は、久しぶりに、正の手記のファイルを開いた。真理から預かり、何度も読み返してきたはずのページの中に、これまで気にも留めていなかった一節が、確かにあった。

〈あの商店街に来るたびに、あれがある。気にも留めていなかった〉

〈この曲、どこかで聞いたことがある気がする〉

正自身も、最後まで解き明かせなかった、二つの違和感。汐見銀座商店街に、繰り返し浮かぶアドバルーン。そして、繰り返し流れる、聞き覚えのある曲。正は、その意味を、ついに書き残さないまま、この世を去った。

その二つの単語が、今、丹波の口から、うわ言のように漏れ出している。

偶然だとは、どうしても思えなかった。

翌日、寅子は、その一致を、ひとしに伝えた。窓の外では、秋の終わりの冷たい雨が、静かに降り続いていた。

「正さんが気づきかけていたものと、丹波が今、怯えているものが、同じだとしたら」

ひとしは、資料を並べた机の上で、両手を組んだまま、しばらく黙っていた。

「同じだとして、その意味までは、正直、見当がつきません」

「私も」

寅子は、正直に頷いた。

「アドバルーンと、有線放送。それだけの手がかりから、何が起きているのか、組み立てようがない。正さん自身、最後まで分からなかったことなんだから」

「だとしたら」

ひとしが、静かに言った。

「意味が分かっている人間に、直接聞くしかありません」

「丹波に、ですか」

「ええ。少なくとも、あの人は、その二つの単語が、自分にとって何を意味するのか、知っているはずです。恐れているのが、その証拠です」

二人とも、まだ、その先に何があるのかを、正確に言い当てる言葉を、持っていなかった。ただ、丹波本人にぶつける以外、これ以上、手繰り寄せる糸がないことだけは、はっきりしていた。

それから数日をかけて、ひとしは、放送業界の伝手を、丹念に辿った。かつてひかりの未来基金の時代から団体に出入りしていたという元関係者に、ようやく話を聞けたのは、白石の死から間もなく三週間が経とうとしていた、肌寒い夕方のことだった。

「白石さんは、丹波さんのことを、ずいぶん買っていたみたいですよ」

元関係者は、そう証言した。喫茶店の窓越しに、通りの街灯が、ぽつりぽつりと灯り始めていた。

「柏木さんが失脚した後、次の代表には、丹波さんを――という話が、内々に出ていたそうです。本人には、まだ伝えられていなかったようですが」

寅子は、その話を聞いても、すぐには意味を掴めなかった。

「丹波を、代表に……」

「ええ。少なくとも、切り捨てるつもりだったようには、聞こえません」

ひとしが、手帳に、その証言を書き留めながら答えた。ペン先の動きが、いつもより、わずかに慎重だった。

その情報が、何を意味するのか。この時の寅子には、まだ、その重さを、正確に量ることができなかった。ただ、胸の奥に、小さな違和感が、澱のように残った。

寅子とひとしが、丹波に直接連絡を取ろうとしたのは、次期代表の情報を得てから、すぐのことだった。

電話をかけても、丹波は出なかった。何度かけても、同じだった。留守番電話に、名前とかけ直してほしい旨を残しても、折り返しはなかった。呼び出し音だけが、虚しく続く夜が、二晩、続いた。

「このままじゃ、逃げられて終わります」

ひとしが、鳴らない画面を見つめながら、低く呟いた。

寅子は、しばらく考えた末、一つの賭けに出ることにした。手にしているのは、丹波の口から漏れたという二つの単語と、正の手記に残された、解けなかった違和感。それだけだった。だが、それだけでも、丹波にとっては、決して聞き流せない言葉になるはずだった。寅子は、丹波の携帯番号に、短いメッセージを打ち込んだ。

〈アドバルーンのこと、有線放送のこと。全部、知っています。今夜八時、汐見銀座商店街近くの児童公園で、お待ちしています〉

送信ボタンを押した後、寅子は、自分の指先が、かすかに震えていることに気づいた。証拠と呼べるものは、何もなかった。ただの、断片を繋ぎ合わせただけの、はったりだった。

真理にも、念のため、声をかけた。「一緒に来る?」と。真理は、少し考えるような間を置いてから、力なく笑った。

「今日は、ちょっと。体調が良くなくて」

「大丈夫?」

「うん。寝てれば治る。二人で、気をつけて」

「寅子と、友達になれて良かった」

「なに、急に」

「ううん。なんとなく」

「変なの」

真理は、小さく笑った。

「じゃあ、気をつけてね」

「真理もね」

二人は、寮の前で別れた。

念のため、寅子は、以前、汐見橋の映像を提出した際に対応した刑事に、事情を伝えた。丹波本人と接触するつもりだと聞いた刑事は、同僚とともに、少し離れた植え込みの陰で、待機してくれることになった。

約束の時間より早く、寅子とひとしは、汐見銀座商店街に近い、人気の少ない児童公園に着いた。夕暮れの光が、ブランコと滑り台を、長い影に変えていた。近くの保育園から、子どもたちの帰り支度をする声が、遠く聞こえていた。その、あまりにもありふれた日常の音が、この夜に限って、どこか遠い世界の出来事のように、寅子の耳を素通りしていった。

「本当に、これでいいのかな」

寅子が、ベンチに腰掛けながら呟いた。

「根拠なんて、ほとんどないメッセージだった。来なかったら、それまでだし」

「来ますよ」

ひとしは、静かに言った。その声には、迷いがなかった。

「あの人は、もう、確かめずにはいられないはずです」

指定した時間の少し前、丹波が、公園に現れた。以前の丹波からは、想像もつかないほど、やつれた顔をしていた。目の下には、濃い隈が浮かび、頬が、げっそりと削げていた。

「お話が、あるそうですね」

丹波の声には、以前のような落ち着きは、もうなかった。

「丹波さん」

寅子は、まっすぐに、丹波を見た。

「アドバルーンのこと。有線放送のこと」

寅子は、はったりを、あえて口にした。ひとしが、隣で、わずかに息を止めるのが分かった。

丹波の顔から、血の気が引いた。

「……知ってるんですか」

「何をですか」

寅子は、あえて問い返した。

丹波の唇が、震えた。

「三度も来たんだ。あの合図が。三度も」

寅子とひとしは、一瞬だけ、顔を見合わせた。

三度。

それは、二人が、初めて聞く情報だった。

「間違いない。俺は、次だった」

丹波は、崩れ落ちるように、公園のベンチに座り込んだ。両手で顔を覆ったまま、肩を震わせている。

「白石さんが、俺を消そうとしてた。あの合図は、そのための、最後通牒だった」

丹波は、両手の隙間から、掠れた声で、そう繰り返した。それ以上は、誰を殺したのか、何をしたのか、頑なに口を閉ざしていた。ただ、白石に消されかけていたという一点だけを、まるで縋りつくように、何度も口にした。

その様子を見ていたひとしが、静かに口を開いた。

「丹波さん。それは、違います」

丹波の目が、わずかに動いた。

「何が」

「白石さんは、あなたを消そうとしていません」

ひとしは、丹波の思い込みを、正面から否定した。

「柏木さんが失脚した後、ひかりの窓を誰に任せるつもりだったか、調べました」

ひとしは、一拍置いた。

「あなたです」

丹波の顔から、表情という表情が、すべて抜け落ちていった。

「……誰が、そんな」

「複数の関係者が、同じ話をしています。白石さんは、次の代表に、丹波誠一郎を据えるつもりだった」

「嘘だ」

丹波の声が、上ずった。

「代表にしようとしている人間を、なぜ消すんですか」

丹波は、答えなかった。答えられなかった。

「丹波さん」

寅子が、静かに言った。

「あなたが見たあの暗号、本当に白石が出したものだったんですか」

丹波の唇が、震えた。

「じゃあ……」

長い沈黙のあと、掠れた声が漏れた。

「俺は、誰のために、白石さんを殺したんだ」

その一言が、公園の静けさの中に、重く落ちた。夜風が、木々の枝を、小さく鳴らしていた。

丹波は、それから、堰を切ったように、語り始めた。

「白石さんを、殺しました」

丹波は、まず、そう切り出した。虚ろな目が、公園の暗がりの、どこでもない一点を見つめていた。

「屋上に呼び出して、突き落とした。あの人は、俺を消そうとしていない。だとしたら、あれは、誰かが仕組んだものだったのか。俺は――俺は、誰かに、動かされて、あの人を」

「白石さんを殺すと決めてからは、初めて、あの人が何を望んでいるのかを考えるのをやめました」

丹波は、震える声で、そう続けた。

「忖度することもしなかった。全部、俺一人の判断でした。これまでは、白石さんが、どこかで見ていてくれる気がしていました。あの人の望みを汲んでいる限り、自分は、正しい側にいられる。そう思い込むことができた。でも、あの人を殺したことだけは、誰の望みでもない。俺が、俺のためにやったことです。言い訳の相手を、自分の手で、消してしまった。それが分かってから、夜、眠れなくなった」

寅子は、その言葉を聞きながら、指先の感覚が失われていくのを感じた。

「他には」

寅子が、震える声で聞いた。

「他にも、何をしたんですか」

丹波は、しばらく答えなかった。それから、一つずつ読み上げるように、語り始めた。

麻子に、致死量の睡眠薬を飲ませたこと。龍崎の首吊りを、偽装したこと。宮武正を、汐見橋から突き落としたこと。柏木を、自殺に見せかけて殺したこと。真理の母を、車で撥ねたこと。

どの名前にも、声の調子は変わらなかった。

「正さんを、なぜ」

寅子が、震える声で聞いた。

「宮武さんは、いい記者でした」

丹波は、そう答えた。

「本当に、いい記者だった。だから、白石さんの意を汲んで、あの人を消すべきだと悟った時も、正直、迷いました。でも、あの橋で、宮武さんは、俺にこう言ったんです。『丹波さん、あなたも、白石の言いなりなんですか』と。その一言で、迷いが消えました。ああ、この人はもう、白石さんの考えを理解しようとはしない。この人をここで止めることは、きっと正しいことなんだ、と」

丹波は、そこで、自嘲するように、乾いた笑いを漏らした。

「……見透かされたことに、腹を立てただけなんですけどね。後から考えれば、分かります。でも、その時の私は、それを『正しさ』に変えていた」

「そんな理由で……」

「理由なんて、後付けです」と、丹波は、力なく続けた。「白石さんは、一度も、俺に『殺せ』なんて、言ったことはありません。ただ、あの人と話していると、何をすべきか、勝手に分かってくる。それをやれば、あの人は喜ぶ。それだけで、十分でした。命じられたわけじゃない。でも、命じられたことにしておかないと、自分がやったことの意味に、耐えられなかった」

沈黙が落ちた。丹波は、放心したように、地面の一点を見つめていた。公園の街灯だけが、二人の間の暗がりを、頼りなく照らしていた。

不意に、丹波の体が、大きく揺れた。

丹波の目が、ゆっくりと寅子へ向いた。

「……お前たちは、誰がやったか、知ってるのか」

寅子は、答えなかった。

丹波の表情が、歪んだ。

「ふざけるな……!」

丹波が、突然、寅子へ向かって踏み出した。

ひとしが、とっさに、寅子の前へ出た。

その瞬間だった。

「動くな!」

植え込みの向こうから、鋭い声が飛んだ。

丹波の動きが、その場で止まった。二人の刑事が駆け寄り、その腕を後ろへ回す。丹波は、抵抗しなかった。先ほどまでの怒りが、嘘のように、体から力が抜けていた。

「……俺は」

地面を見つめたまま、丹波が、掠れた声で呟いた。

「誰に、動かされたんだ」

誰も、答えなかった。答えられる者は、この場に、誰もいなかった。

連行されていく丹波を、寅子は、ただ見ていた。夜の公園に、パトカーの赤い光が、無音のまま、静かに回り続けていた。

白石が、あのフレームを置いたのではないとしたら。

誰が、丹波の前に、あのフレームを置いたのか。

その問いが、寅子の頭の中で、静かに、輪郭を持ち始めた。

暗号を解読できる人間は、誰か。

白石の手口を、完全に理解していた人間は、誰か。

丹波を、あそこまで恐怖させることができた人間は、誰か。

答えは、一つしかなかった。

寅子の脳裏に、真理の顔が浮かんだ。同時に、今夜、寮の前で交わした、あの一言を思い出した。

「寅子と、友達になれて良かった」

あれは、ただの感傷ではなかった。

サヨナラだった。

「ひとしさん、真理を――」

寅子は、それだけ言うと、走り出していた。

「寅子さん――」

ひとしの声が、背後で聞こえた。だが、寅子は、振り返らなかった。振り返っている時間が、惜しかった。

向かう先は、一つしかなかった。

汐見橋。

父が、突き落とされた場所。娘が、今、そこに立とうとしている場所。

寅子は、夜の街を、全力で走った。息が上がり、脇腹が痛んだ。それでも、足を止めなかった。

橋の袂が見えてきた時、寅子の目に、それが映った。

第十一章(終章) 汐見橋


橋の欄干を乗り越え、その外側の縁に、真理が立っていた。欄干を背に、片手だけをそこに軽く添えている。

夜風が、真理の髪と、着ているカーディガンの裾を、揺らしていた。眼下には、黒く沈んだ川面が、街灯の光を、ちらちらと反射させていた。

「真理っ」

寅子の叫び声に、真理が、ゆっくりと振り返った。

「……寅子」

真理の顔には、驚きはなかった。むしろ、どこか、安堵にも似た表情が浮かんでいた。

「来ると思わなかった」

「来るに決まってるでしょ」

寅子は、橋の袂で足を止めた。それ以上近づけば、真理を刺激してしまうかもしれない。そんな恐怖が、寅子の足を、その場に縫い付けていた。

「全部、聞いた。丹波から」

真理は、静かに頷いた。否定は、しなかった。

「お父さんとお母さんを殺した丹波さんに、白石を殺させた。私は、そういうことをした」

「真理」

「誰も、私に命じてない。私も、誰にも命じてない。ただ、暗号を、作っただけ」

真理の声は、驚くほど、落ち着いていた。

「アドバルーンは、普通に広告として発注した。有線放送も、お祝い用のリクエスト枠を使っただけ。業者の人は、ただ仕事をしただけ。私は、丹波さんにしか意味の分からないものを、そこに置いただけ」

「そんな……それだけで」

「うん。それだけで、十分だった」

真理は、川面に目を落とした。

「白石と、同じことをした」

「違う」

寅子は、声を振り絞った。

「真理は、白石とは違う」

「同じだよ」

「違う!」

寅子の叫びが、夜の橋に響いた。

「じゃあ、何が違うの」

真理の声が、初めて、わずかに揺れた。

「動機? お父さんとお母さんのためだったから? 動機が違えば、やったことは、許されるの?」

寅子は、答えられなかった。答えを、持っていなかった。

やがて、小さく、首を振った。

「……分からない」

真理が、寅子を見た。

「真理が、白石と同じなのか、違うのか。やったことが、どこまで許されるのか。私には、分からない」

「だったら――」

「でも」

寅子は、真理の言葉を、遮った。

「それを、今ここで決めなくていい」

真理の目に、初めて迷いが浮かんだ。

「生きて、こっちに戻ってきて。それから、考えよう」

真理は、何も言わなかった。

「私は、あの日、聞いたよね。中庭で、追いかけ始めたばかりの頃。私たちがやろうとしていること、あの人たちと同じにならない、って」

真理が、静かに続けた。

「なるよ、って言いたかった。でも、あの時は、まだ、何もやってなかったから。『まだ』って、言えた」

「今は」

「今は、もう、やってしまった」

風が、また一度、強く吹いた。真理の体が、わずかに揺れた。寅子は、思わず、足を一歩、前に踏み出した。

「真理、お願い。そこから、降りて」

「降りたら、どうなるの」

「警察に、行こう。一緒に」

「私、捕まるよ」

「それでも」

「もう、今までみたいには、戻れないよ」

「それでも」

寅子は、涙を堪えながら、続けた。

「それでも、生きてて。私、待ってるから」

真理は、寅子の顔を、じっと見つめた。

「必ず、待ってる」

寅子は、繰り返した。

「どれだけかかっても、必ず、待ってる。だから、そこから、降りて」

長い沈黙が、二人の間に流れた。川の水音と、遠くの車の走行音だけが、静かに響いていた。

長い沈黙のあと、欄干に添えられていた真理の指が、ゆっくりとほどけた。

真理は、こちら側へ、足を戻した。

寅子は、駆け寄り、真理を、強く抱きしめた。真理の体は、驚くほど、冷たかった。

「ごめん」

真理が、寅子の肩に顔を埋めながら、小さく呟いた。

「ずっと、一人で、抱えてて、ごめん」

「いいよ」

寅子は、真理の背中を、そっと撫でた。

「もう、一人にしない」

エピローグ フレームは死なない


その夜、真理は、自ら警察署へ向かった。寅子は、その隣を歩いた。

丹波誠一郎は逮捕され、その後、これまでの事件について次々と責任を問われることになった。

真理もまた、偽の暗号によって丹波を動かした経緯について捜査対象となり、その後、身柄を拘束された。直接手を下していない彼女の行為を、法がどこまで罪として捉えるのか。その時点では、まだ誰にも分からなかった。

寅子は、週に一度、真理の面会に通っていた。アクリル板越しに向き合う真理は、以前よりも、ずっと痩せていた。頬は落ちていたが、目だけは、橋の上にいたあの夜よりも、まっすぐ寅子を見た。

「寅子、ちゃんとご飯食べてる?」

面会のたびに、真理は、決まってそう聞いてきた。自分よりも、寅子の心配をする。そういうところは、何も変わっていなかった。

ある日の面会で、真理は、ふと、こんなことを言った。

「後悔してないよ、って言ったら、寅子は怒る?」

寅子は、少し考えてから、首を横に振った。

「怒らない。ただ、寂しいとは思う」

「寂しい?」

「真理が、後悔してないなら、それは、私にはまだ分からない場所に、真理が一人で立ってるってことだから」

真理は、その言葉に、驚いたような顔をした。それから、目を伏せて、静かに頷いた。

「後悔は、してる。ちゃんと、してる」

真理は、アクリル板に、そっと手のひらを当てた。

「お母さんに、もっと違う形で、仇を取る方法があったんじゃないかって、毎日考える。丹波を利用しなくても、良かったんじゃないかって。でも、あの時の私には、それしか、思いつかなかった」

「うん」

「だから、後悔はしてる。でも、もう一度同じ状況になったら、また同じことをすると思う。それも、本当」

寅子は、どちらも否定しなかった。

「必ず、待ってるから」

寅子は、そのたびに、同じ言葉を繰り返した。真理は、そのたびに、少しだけ、笑った。

丹波の逮捕と、その供述から「ひかりの窓」をめぐる一連の関係が表面化すると、神代由紀子は、都知事の職を辞任した。辞任会見で、神代は、涙ながらに「ひかりの窓をめぐる一連の不正や事件については、まったく関知していなかった」と繰り返した。その言葉が、どこまで本心なのか、寅子には、もう判断のしようがなかった。神代自身、自分がいつから、誰の設計の中にいたのか、正確には分かっていないのかもしれない――寅子は、そんな風にも思った。

一連の事件と都政との関係が表面化したことで、ひかりの窓は正式に解散した。だが、市民協働推進課が担っていた機能は、名称だけを変えた別の部署として、都庁の組織図の中に、今も残り続けていた。担当者も、業務内容も、ほとんど変わらないままだった。

冬の気配が街に降り始めたある日の夕方、寅子は、ひとしと二人、汐見橋の袂で待ち合わせていた。あの夜以来、二人で、この場所に来るのは、初めてだった。

「柏木さんの死も、麻子さんの死も、龍崎さんの死も、正さんの死も。これから、捜査や裁判の中で、少しずつ明らかになっていく」

ひとしが、川面を見つめながら言った。

「白石という男が、どういう人間だったのか。これから、ようやく社会に知られていくと思います」

「それで、終わるのかな」

寅子が呟くと、ひとしは、静かに首を横に振った。

「終わりません」

その声には、迷いがなかった。

「白石は、死にました。でも、フレームは、死んでいない」

寅子は、ひとしの横顔を見た。

「フレームって」

「市民協働推進課がやっていた仕事。まだ、残っています。名前だけを変えて、今も続いている。誰も命じていない。誰の手も、汚れていない。それでも、動き続けている」

寅子は、あの都庁職員の言葉を、思い出していた。

「これが正しいことだと思ったから、自分で動きました」

白石という設計者が消えても、その設計は消えていなかった。

「ひとしさんは、これから、どうするんですか」

寅子が聞くと、ひとしは、鞄から一冊の本を取り出した。古い、翻訳書だった。表紙には、半世紀以上前、スイスで全世帯に配られたという、その本の題名が印刷されていた。

ひとしは、何も言わずに、あるページを開いて、寅子に差し出した。

そこには、こんな意味のことが書かれていた。

〈自分の普通を疑え。以前は、違っていなかったか〉

その一文が、夕暮れの光の中で、静かに、寅子の胸に落ちてきた。

自分が「普通」だと思っていることは、本当に、自分自身が選び取ったものなのか。それとも、誰かが、いつのまにか、そう感じるように、仕向けたものなのか。

寅子は、橋の欄干に手をかけ、川面を見下ろした。一年ほど前、真理の父、正が、命を落とした場所。数か月前、その娘の真理が、この欄干を乗り越え、外側の縁に立った場所。

いくつもの人生が、この一本の橋の上で、交わり、壊れ、それでも、まだ続いている。

「私、真理が戻ってくるまで、待ってる」

寅子は、静かに言った。

「待ってる間、私にできることを、やろうと思う。都庁のこと、ひかりの窓のこと、まだ終わってないなら、私が、次を見張る」

ひとしは、寅子の横顔を、しばらく見つめていた。それから、大きくため息をついた。

「またそれですか」

「またって、何」

「寅子さんが、そうやって首を突っ込むと決めた顔をする時、だいたい面倒なことになる。これまでの経験則です」

「経験則って、まだ数か月しか一緒にいないのに」

「その数か月で、十分学びました」

そう言いながらも、ひとしは、拒む素振りを見せなかった。

「一人じゃ、大変です」

「一人じゃないよ」

寅子は、ひとしの方を見た。

「ひとしさんも、いるでしょ」

ひとしは、少し驚いたような顔をした後、珍しく、はっきりと笑った。

「ええ。います。……頼むから、無茶だけはしないでくださいね」

「はいはい」

「その返事が一番信用できないんですけど」

夕陽が、川面を、橙色に染めていた。二人は、しばらくの間、何も言わずに、その光景を見つめていた。

寅子は、指先で、もう一度、小さな四角をつくった。幼い頃、久兵衛に教わったおまじない。見たいものだけが、真ん中にくる。

四角の中に、今、夕陽に染まる橋と、隣に立つひとしの横顔が、収まっていた。

祖父は、白石を追い、一人で死んだ。正もまた、同じ男を追い、一人で死んだ。真理は、その父の遺志を継ぎ、一人で罪を背負おうとした。

だが、自分は、一人ではなかった。

その違いが、この先、何かを変えられるのかどうか、寅子には、まだ分からなかった。それでも、四角の中に誰かがいるということが、今の寅子にとっては、何よりも確かな拠り所だった。

寅子は、ゆっくりと、手を下ろした。

橋の向こうの街には、今日も、都庁の明かりが灯っている。その明かりの下で、誰かが、また新しく「正しいこと」を、自分の意志で、始めているのかもしれない。

誰も、それを命じてはいない。

それでも、フレームは、今日も、静かに、動き続けている。


🐯 寅子から、この長い旅に付き合ってくださったあなたへ

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
ここまで長い旅になるとは、最初の頃の私は思っていませんでした。

祖父が追い続けた人。

正さんが、最後まで名前を書き切れなかった人。

そして、真理と私が追い続けた人。

白石輝道は、もういません。

でも、たぶん私は、これからも時々、指で小さな四角をつくると思います。
祖父に教えてもらった、あのおまじないです。

見たいものだけが、真ん中にくる。

昔の私は、その四角の中に、答えになるものを探していた気がします。
今は、少し違います。

真理は、今、自分がやったことと向き合っています。
私は、待っています。
どれだけ時間がかかっても。

そして私は、これからも、見過ごさないようにしていこうと思います。

今度は、一人じゃないので。

白石輝道をめぐる物語は、これで終わります。

長い旅に付き合ってくださって、本当にありがとうございました。

源 寅子 🐯✌️


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