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末那識の存在証明(3) ―二教六理(3)―

 六理証の一番目、不共無明証を読みましたが、これと関連する第六の我執不成証を読んでみます。
 キーポイントは「恒に我執を帯すと云う。」何があっても、何が起つてもその動きの背景に我執が働いていると云います。
 三性に通じて我執が働いていると云われていますが、悪の時にが働いているのは理解できますが、善の時にも我執が働いていると教えています。
 仏道を学ぶ当初は、何とかして楽になりたいというエゴイズムが働いていたのですね。今はどうかと問われれば、やっぱり我執が働いているとしか言えません。
 親鸞聖人の眼差しは厳しいですね。『愚禿鈔』に、善導大師の文を読み替えられて、自心の信を述べておられます。紹介しますと、
 「『愚禿鈔』下
 賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。
・・・
 外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし。事蛇蝎に同じ。三業(身口意)を起すといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づざるなり。」
 自分から出てくる業行はすべて不善だという末那識への眼差しは大円鏡智に触れない限り言えません。
 この眼差しの先にある我執は阿頼耶識でも無く、第六意識でも無いわけです。つまり、第七末那識の恒行不共無明と相応するものであると云う発見だったのです。
 第六意識における善の行為の背景にも末那識が働き続けて我執が相続していると見破ったのですね。
 「外には諸の業を起すと雖も、而も内には恒に我と執す。」
 と教えています。自己を見つめる眼の厳しさが伝わってきます。
 外に向かっては、さまざまな行為を起こしますが、自分の内側を見ると我癡・我見・我慢・我愛が渦巻いていて自己愛が強く恒に自分が、自分がと執着している姿が見えるのですね。この視線がなければ真の人間関係は築く事はできません。
 世間的には善と云える行為も、内には我執が働いている云う目線。慚愧の心が限りなく人間関係を豊かにしてくると教えています。
 『論』は次に布施行について述べています。
 お盆も過ぎた事ですが、お盆は施餓鬼法要とも云われています。これは『盂蘭盆会経』と云う中国で通られた偽経なのですが、目蓮尊者が餓鬼道で苦しんでいる母を助けたいと云う一心で自分の全財産を投げ捨てて喜捨される事に由来します。
 私たちの法要は自分を問う事は皆無です。浄土真宗は亡き人を迎える法要は行いません。亡き人は私をして仏道に歩みを向かわしめるよきひとなのです。
 ですから供養は仏道に会う千載一遇の機会なのですね。
 私たちの布施行にも末那識が働いていてですね。布施行が汚されてきます。
 どうでしょうか。御先祖の為に供養をしていませんか。供養される主体は御先祖ではなく、御先祖によって供養されている自分なのだと云う事を。
 この項もう少し考えてみます。南無🙏

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