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紅狐艶録#003

『国境の南、太陽の西』

South of the Border, West of the Sun-村上春樹


── 一行で言うなら

男は幸福な家庭を持ちながら、幻の女を求めて全てを失いかけた。



主人公・ハジメは

妻と娘と、繁盛するジャズバーを持つ

欠乏を知らぬように見える男の肖像

しかし幸福とは

ある種の欠如を糊塗するための建築物に過ぎない

島本という名の女が現れた瞬間

その壁はひとりでに崩れ始める


村上春樹がこの作品で描くのは、不倫でも堕落でもない。


喪失の形をした欲望である。


ハジメと島本は幼少期を共有した。

それだけだ

触れ合った記憶の量は

実のところ極めて少ない

にもかかわらず彼女は

初の人格の根底に棲みついている

これは愛か

執着か

それとも

自己の不完全さを他者に投影する、もっと危うい衝動か。

島本の官能性は

描写の節制によって逆説的に高まる

彼女は多くを語らず、多くを見せない

霧のように現れ

霧のように消える

読者はハジメと同様

彼女の輪郭を掴もうとして

指の間から零れ落ちる何かを感じ続ける

タイトルが示す二つの地名

──国境の南、太陽の西──


は、いずれも地図上に存在しない。

到達不能な場所への渇望


あなたにも、いるだろうか。



名前を思い出すだけで

現在の生活に微細な亀裂が走るような人間が

ハジメの罪は、妻を愛していないことではない

愛しているにもかかわらず

なお島本を求めたことだ

充足の中に飢えを発見する

その不条理を村上は裁かない

ただ、静かに

容赦なく照らす

満たされた生が

なぜ渇く

その問いに答えを持つ人間は

紅狐の知る限り、まだひとりもいない。

【誘惑の一文】

梅雨の深夜、第一章を開け。
島本の足音が、ページの向こうから近づいてくる。

── 紅狐、化かされたふりをして読んだ。


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