【第1巻】深淵の地図|マゼランの絶望
1519年9月20日、スペイン南部の港町サンルーカル・デ・バラメーダ。大西洋へと注ぐグアダルキビル川の濁った水面に、5隻の木造船がその影を落としていた。
旗艦トリニダード号を先頭に、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、ビクトリア号、そして最小のサンティアゴ号。270名に及ぶ乗組員たちは、岸壁で見守る群衆の歓声とは裏腹に、重苦しい沈黙の中にいた。
彼らが挑もうとしているのは、前人未到の「西回り」による香料諸島への到達である。
当時の世界地図において、南米大陸の南端は未だ描かれていない「深淵」であった。水平線の先には巨大な滝があり、海には船を飲み込む怪物が潜むと信じられていた時代。羅針盤とアストロラーベだけを頼りに、未知の暗闇へと足を踏み出すことは、死刑宣告にも等しい。
しかし、この航海を真に呪われたものにしていたのは、自然の脅威でも、未知への恐怖でもなかった。

それは、船団の頂点に立つ指揮官、フェルディナンド・マゼランその人に向けられた、あまりにも深い憎悪と不信感であった。
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【1】ポルトガル人指揮官への消えない疑念

艦隊の最高指揮官、マゼランの立ち位置は、極めて歪なものであった。彼はもともと、隣国ポルトガルの下級貴族として生まれ、インドやアフリカの戦場を渡り歩いた歴戦の騎士である。
しかし、王室との軋轢から不遇をかこい、自らの「西回り航路」の構想を却下されると、あろうことか宿敵スペインへと亡命した。

1494年のトルデシリャス条約により、世界はスペインとポルトガルの二国によって分割されていた。
スペインにとってマゼランは、敵国の機密情報を手土産に転がり込んできた「裏切り者」であり、ポルトガルにとって彼は、国家を売り渡した「反逆者」であった。
この複雑な地政学上の背景が、航海の幕開けに暗い影を落とす。

スペイン王カルロス1世は、マゼランに独占的な権限を与えた。しかし、これを快く思わないスペインの貴族たちは、艦隊の主要な役職に自国の人間を送り込んだ。
5隻のうち4隻の船長はすべて、マゼランを監視し、あわよくば失脚させようと目論むスペイン人たちで固められたのである。
マゼランもまた、彼らを一切信用していなかった。彼は航海日誌の詳細はもちろん、進路の決定権を誰にも分け与えず、沈黙による絶対的な統治を強行した。
「なぜ、ポルトガル人の裏切り者に
我々の命を預けねばならないのか」
「奴は我々を騙し、
ポルトガルへ船を売り渡すつもりではないのか」
船内では、マゼランの耳に届かぬところで、毒を含んだ囁きが広がっていく。サンティアゴ号の船長フアン・デ・カルタヘナをはじめとするスペイン人船長たちは、公然とマゼランへの敵意を露わにした。
しかしマゼランは、氷のように冷たい瞳で水平線を見つめるだけであった。
彼の胸中にあったのは、栄誉でも富でもない。自分を切り捨てた祖国への意地と、自身の正しさを証明したいという、狂気にも似た執念であった。
その執念が、後にサン・フリアン湾で流される血の伏線となるとは、この時まだ誰も想像していなかった。
【2】存在しない海峡を求める狂気

艦隊が大西洋を南下するにつれ、自然の猛威は容赦なく乗組員たちの肉体と精神を蝕み始めた。赤道直下の無風地帯、いわゆるドールドラムズに捕らわれた三週間は、まさに生き地獄であった。
風は完全に止み、海面は鏡のように不気味に静まり返る。強烈な太陽が甲板を焼き、樽の中の水は瞬く間に緑色に濁って悪臭を放った。
食料は腐敗し、ネズミ一匹さえもが貴重なタンパク源として高値で取引される惨状であった。
この極限状態にあっても、マゼランは沈黙を貫いた。
彼は、部下たちが求める「いつこの苦境が終わるのか」という問いに対し、一切の回答を拒んだ。指揮官としての威厳を保つための沈黙は、閉鎖された船内において、不信という名の毒素を培養する結果となった。

イタリア人の記録者アントニオ・ピガフェッタは、当時の状況を「空腹と乾き、そしていつ終わるともしれぬ航海への恐怖が、男たちの理性を奪っていった」と記している。
1520年初頭、船団は現在のブラジル、リオデジャネイロ付近に到達した。一時的な休息を得たものの、マゼランの真の目的はさらに南にあった。
彼は、南米大陸のどこかに、大西洋と未知の「南の海」を結ぶ海峡が存在すると確信していた。その根拠は、彼がかつてドイツの地理学者マーティン・ベハイムの描いた海図で見たという、不確かな記憶のみであった。
さらに南下を続けた艦隊は、巨大な湾に行き当たる。現在のリオ・デ・ラ・プラタ川である。

マゼランは確信した。
これこそが、世界を分かつ伝説の海峡であると。
船団は喜び勇んで湾の奥深くへと侵入した。しかし、数日間にわたる探索の結果、彼らを待ち受けていたのは残酷な真実であった。
水は次第に塩分を失い、純然たる淡水へと変わった。そこは海峡ではなく、ただの巨大な河口に過ぎなかったのである。
この「ラ・プラタの絶望」は、船団に致命的な打撃を与えた。マゼランの掲げる理想は、単なる妄想ではないのか。この男は自分たちを死に場所へ連れて行こうとしているのではないか。
信頼は完全に崩壊し、スペイン人船長たちの殺意は臨界点に達した。それでもなお、マゼランは進路を南へと固定した。
季節は南半球の冬へと向かっていた。極寒の嵐が吹き荒れるパタゴニアの海が、すぐ目の前まで迫っていた。
【3】パタゴニアの冬と暴発する不満

1520年3月31日。艦隊は荒涼とした岩肌が続くサン・フリアン湾に到着した。気温は氷点下まで下がり、連日のように暴風雨が船体を叩きつける。
マゼランはここで「越冬」を宣言した。それは、半年近くもの間、この何もない不毛の地で足止めを食らうことを意味していた。
マゼランは、食料の配給をさらに削減した。生き残るためにはやむを得ない措置であったが、飢えと寒さに震える乗組員たちにとって、それは死刑宣告にも等しかった。
スペイン人船長の一人、カサ・デ・コンセプシオン号のケサダは、公然とマゼランを罵倒した。
このままでは全員が野垂れ死ぬ。
スペインへ引き返すべきだ。
マゼランの答えは、冷徹な一言であった。
「王の命は、海峡を見つけることである。
戻ることは反逆とみなす」
この一言が、ついに火種を爆発させた。

4月1日の夜、復活祭の祝祭が終わるのを待っていたかのように、反乱が勃発した。サン・アントニオ号、コンセプシオン号、ビクトリア号の3隻が、マゼランへの反旗を翻したのである。彼らは艦隊の過半数を掌握し、マゼランに対して降伏と帰還を要求した。
漆黒の闇に包まれたサン・フリアン湾。マゼランの旗艦トリニダード号は、かつての味方であった船に包囲された。多勢に無勢、絶体絶命の窮地。
しかし、ここでマゼランが見せたのは、探検家としての顔ではなく、冷酷な軍略家としての顔であった。
彼は、暴力にはさらなる暴力で、知略には非情な策略で応える決断を下した。人類史上初の快挙を成し遂げるために、彼は自らの部下の血で海を染めることを選んだのである。
【4】サン・フリアン湾に流れた血

1520年4月2日の未明。サン・フリアン湾の漆黒の海面に、反乱軍が占拠する3隻の船影が不気味に浮かび上がっていた。
マゼランの手元に残されたのは、自身の旗艦トリニダード号と、最小のサンティアゴ号のみ。数的な劣勢は明らかであり、力ずくでの鎮圧は自殺行為に等しかった。
反乱側のリーダーであるケサダは、マゼランに対して「これ以上の南下を中止し、即刻スペインへ帰還せよ」という最後通牒を突きつけた。
しかし、マゼランという男の本領は、こうした絶望的な窮地でこそ発揮された。彼は交渉に応じるふりをして、一艘の小舟をビクトリア号へと派遣した。乗っていたのは、マゼランの懐刀である警備長ゴンサロ・ゴメス・デ・エスピノーサと、数名の屈強な部下たちであった。
彼らは表向きには「交渉の書簡」を携えていたが、その服の下には鋭利な短剣を隠し持っていた。ビクトリア号の船長ルイス・デ・メンドーサは、警戒することなく彼らを甲板に招き入れた。それが、彼にとって人生最後の過ちとなった。
エスピノーサは書簡を手渡すふりをして、メンドーサの喉元を一突きに仕留めたのである。指揮官を失い混乱に陥ったビクトリア号の甲板に、マゼランが潜伏させていた別の伏兵部隊がなだれ込み、瞬く間にこの船を再奪還した。
この電撃的な一撃により、戦力バランスは一変した。マゼランは奪還したビクトリア号を含む3隻を湾の出口に配置し、逃走を図る反乱軍の残党を物理的に封鎖した。
逃げ場を失ったサン・アントニオ号とコンセプシオン号は、マゼランの旗艦から放たれた威嚇射撃の前に、ついに沈黙した。反乱の火蓋が切られてからわずか24時間足らず。
マゼランは一滴の自軍の血も流すことなく、知略と非情な決断によって艦隊の支配権を取り戻したのである。
しかし、真の恐怖は鎮圧の後に始まった。
マゼランはサン・フリアン湾の荒涼とした海岸に即席の軍事裁判所を設置した。判決は冷酷極まりないものであった。反乱に加担した者、実に40名以上に死刑が宣告されたのである。
だが、マゼランは現実主義者でもあった。ここで40名を処刑すれば、これからの航海に必要な漕ぎ手や水夫がいなくなる。彼は熟慮の末、一般の水夫たちの罪を許し、指導層のみに狙いを定めた見せしめの処刑を執行した。

反乱の首謀者の一人であるガスパール・デ・ケサダは、公開処刑台の上で首を撥ねられた。皮肉なことに、その処刑人を務めたのは、ケサダの部下でありながら助命と引き換えにマゼランの犬となった男であった。
ケサダの遺体は四つ裂きにされ、サン・フリアン湾の岩場に晒された。それは、今後マゼランの意志に背く者がたどる末路を、言葉以上に雄弁に物語っていた。
さらにマゼランは、スペイン王室と密接な関係を持つフアン・デ・カルタヘナ船長と、反乱を煽動した司祭フアン・デ・サン・チェスの二人に対して、死刑よりも残酷な刑を下した。
それは「置き去り」である。
彼らはわずかな食料と水だけを与えられ、誰もいないパタゴニアの荒野へと突き放された。凍てつく風が吹き荒れ、植物すら満足に生えない絶望の地。
スペイン王の特使としての誇りも、聖職者としての威厳も、マゼランの非情な意思の前には無力であった。彼らがその後、飢えと寒さの中でどのような最期を遂げたのかを知る者は誰もいない。
この惨劇を経て、マゼラン艦隊からは「議論」という概念が消え失せた。残された乗組員たちは、マゼランを指揮官としてではなく、逆らうことの許されない絶対的な恐怖の象徴として見なすようになった。
サン・フリアン湾に流された血は、組織を恐怖によって再定義したのである。
1520年8月、越冬を終えた船団は、処刑された仲間たちの亡霊を置き去りにし、再び南へと舵を切った。その視線の先には、ついに人類の歴史を塗り替える「伝説の海峡」が姿を現そうとしていた。
【5】地の果てに見つけた針の穴

1520年10月21日。サン・フリアン湾を出航してから約5ヶ月。船団は南緯52度付近で、鋭く突き出た岬に行き当たった。
マゼランはこれを「一万一千人の乙女の岬」と名付ける。その先に広がるのは、複雑に入り組んだ巨大な入り江であった。
これまでの失敗から、乗組員たちの間には「また巨大な河口に過ぎないのではないか」という諦念が漂っていた。しかし、マゼランの意志は揺るがない。彼はサン・アントニオ号とコンセプシオン号の2隻に先行調査を命じた。
調査に向かった2隻を凄まじい嵐が襲った。誰もが「もはや沈没した」と確信したその時、2隻の船が再び姿を現した。彼らは興奮とともに報告した。奥へ進むほど潮が満ち、水は塩分を増している。
それは川ではなく、明らかに「海」へと続く水路であった。
ついに人類は、大西洋から未知の海へと抜ける「針の穴」を見つけ出したのである。しかし、その先に待っていたのは、さらに過酷な試練であった。
海峡内部は迷路のように入り組み、周囲には標高2,000メートルを超える雪山がそびえ立つ。夜になると、南側の陸地には先住民たちの焚き火がいくつも浮かび上がった。

マゼランはそこを「火の土地」と呼んだ。暗闇の中に浮かぶ無数の火影は、未知の世界が発する警告のようであった。
【6】裏切りと、遥かなる「平穏な海」

海峡を抜ける航路探索の最中、艦隊に最大の悲劇が襲う。最も多くの食料を積んでいた大型船サン・アントニオ号が、夜陰に乗じて戦線を離脱したのである。
航海士エステバン・ゴメスを中心とした一派が、マゼランの狂気じみた進軍に耐えかね、スペインへ逃げ帰る道を選んだのだ。
主力船と膨大な備蓄を失ったことは、残された者たちにとって事実上の死を意味した。しかし、マゼランの決断に「退却」の二文字は存在しなかった。
彼は残る3隻の乗組員を前にこう宣言した。
「たとえ帆の革を食らうことになっても、
私は前へ進む」
1520年11月28日。38日間におよぶ地獄のような迷宮探索を終え、3隻の船はついに開けた大海原へと躍り出た。それまでの荒れ狂う大西洋とは対照的な、鏡のように静かな水面。
マゼランは神に感謝を捧げ、その海を「マール・パシフィコ」と名付けた。
だが、その「平穏」こそが、マゼランが直面する最大の計算違いであった。当時の地理学では、地球のサイズは実際の3分の2程度と見積もられていた。
彼は数週間もあればアジアに到達できると信じていたのだ。
しかし、眼前に広がる太平洋は、地球の表面積の3分の1を占める、想像を絶する巨大な空間であった。
「マゼランの絶望」は、この青い虚無への入り口で幕を閉じる。
彼が手にしたのは、地図上の空白を埋めたという栄光か。それとも、部下を裏切り、殺戮し、極限の飢餓へと追い込んだ末に辿り着いた、出口のない迷宮なのか。
マゼランの真の戦いは、この静かなる死の海で、さらなる深淵へと突き進むことになる。
参考文献
シュテファン・ツヴァイク『マゼラン』
ローレンス・ベルグリーン『マゼラン:世界一周の航海』
アントニオ・ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海記』
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