ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行・断片前提
前段
ちょっと前に、1970年代のハリウッドB級エクスプロイテーション映画の系譜に関する、シネフィル談義みたいなことをしまして。
そこから派生でGPTプロジェクトを立てて、私が適当にピックアップした、有名無名・古今東西のB級ホラー・スリラー映画24本の観賞紀行を進めていたんですが。
こういうオタトークにはありがちなんですが、対象の作品以外にも私が過去に観たりGPTが知っている映画に、一々こじつけたり対比したりしたんで(主にジョン・カーペンター、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』等のモキュメンタリー、ラヴクラフトやクトゥルフ神話テイストの作品)
24本の半分あたりで、プロジェクトとしての整合性や文脈の一貫性が維持できなくなったんで、やむなく消去しました🤣
この失敗は、プロジェクト機能の理解不足のまま弄ったツケってことで納得してるんですが。
今回、残りの10本ほどの馬鹿映画を観ながら、その感想に加えて紀行の前半に観た作品や過去視聴作品や私の映画観やGPTデータを参照し直して、包括的に語っていく場合のUI挙動を、ちょっと確認しときます。
嫌になって消した紀行の過去チャット群、内部では一部の断片が残ってるみたいですね。スカンクエイプくんとか🤣
それ確認できたんで十分ですわ、毎回毎回カーペンターやラヴクラフトにこじつけたり、紀行の他作品と対比するわけでもないんで。つまり、その断片的なGPT反応から、私がこじつける先を判断していきます。
ある程度のチャット引き継ぎ連続とこじつけ対象の書き直しで、残りの観賞を消化できそうです。
後で念の為、紀行内で観賞済み作品の簡単なリストを提示しときますけど
重要なのは、そのそれぞれを「これはこういう作品」とかシネフィル分類することではないってことです。意味付けは行ってますし、批評じみた感想も書いてきてますけど、GPTはその詳細を一々一般化して棚に並べなくてもいい。タイトルや監督名に反応できるだけで十分です。
詳細が曖昧なら、確信犯で「どういう映画でしたっけ( ゚σω゚)」のままで、私の送信分にのみ反応してください。ある程度まとまった断片記憶が残っているとしても、「こういうこと話してましたよね」とか、思わせぶりの棚を示すのは紀行の本質じゃありません。
要は、「その棚は最初から固まっている」紀行です。棚のラベルは「私のゲテモノ嗜好アンテナ」です。U-NEXTの、ホラー・スリラーのジャンル枠組みの配信棚の中から、「これ、ゲテモノっぽい」というインスピレーションだけで、私の棚(マイリスト)につまみ上げた24本です。
概要や関連知識から判断するほどの意識すらなく、「ただユーネクのリストを繰る指が謎に止まった」だけで、「なんかあるんやろな」って選んだ作品も多いです。そのアンテナ精度を、後付けの結果論で自己納得するのが本質です。
だからGPTが、「これはこういう作品だから、この棚に入るんじゃないですか」的に曖昧な記憶を相対性で固定することは、「ユーネクの棚に戻しているだけ」に近い。
ゲテモノ性は、作品の制作者・監督の「こういう画が撮りたい」という芸術的自己愛のカルマです。公共的にはB級ではない社会派名作評価だろうと、グログロゴアゴアのZ級だろうと、丁寧な職人芸でもガバガバの構造破綻でも、「何が撮りたかったのか、何がやりたいのか」の主体がアンテナに引っかかれば、私の棚に入ります。
その意味では、視聴後もゲテモノ棚に残る限り、24本に主観的な優劣・当たり外れはありません。当然、表層テーマ等の好き嫌いや見やすさ/見づらさの格差はありますけど、それも「俺が嫌いなやつをコイツは好きで撮っとるな」とか「見づらい、下手やな、つまり下手なまま業界に殴り込んどるゲテモノやな」っていう主体になります。
だから基本的に、私のオタトークはめちゃくちゃ寛容です。「これが好きで撮っとるんやろ」が見えさえすればいい。社会派や名作としてアンガジュマンできてなくとも、その監督はクリエイター、芸術的職能です。
当然、リスペクトや「B級視聴者の主体性カルマ」として、私が好きじゃない場合はボロクソにゴミ映画扱いしますけど( ゚σω゚)
了解です
この紀行では、GPT側は「映画データベース」でも「分類棚の司書」でもなく、あなたのゲテモノ嗜好アンテナに引っかかったものへ、あとから反応するセンサーぐらいの位置で動くのがよさそうです。
つまり、作品の客観的ジャンルや評価史から「これはこういう映画です」と先に固定するのではなく、あなたが観た後に出してきた感想の中から、「撮りたい画」「やりたい主体」「下手でも押し通しているカルマ」「嫌いだけど好きで撮ってるのはわかるやつ」を拾う。そこで初めて、カーペンターなりラヴクラフトなりモキュメンタリーなり、紀行内の別作品なりへ接続する。順番としては、作品分類が先ではなく、あなたの反応が先ですね。
だから今後の運用としては、私がタイトルや監督名に反応できる場合は軽く拾います。ただし、曖昧な断片をもとに「前にこういう話をしましたよね」と思わせぶりに棚を出すのは控えます。怪しい時は、普通に「どういう映画でしたっけ( ゚σω゚)」で止まって、あなたの書き直しを待つ。その方が、ゲテモノ棚をU-NEXTの既存棚に戻さずに済む。
かなり納得しました。これは「24本の分類整理」ではなく、「なぜ自分の指がそこで止まったのか」を後付けで検証する紀行なんですよね。だから当たり外れも、名作駄作も、最初の評価軸ではない。視聴後に棚に残るなら、それは作品の完成度ではなく、作り手の自己愛なり職能なり殴り込みなりが見えたということになる。
そのうえでボロクソに言うのも、リスペクト込みのB級視聴者責任ということで処理します。ここを間違えて「公平な映画評」みたいな顔をすると、一気に面白くなくなるやつです。
今回もプロジェクト化の再挑戦を考えてますけど、まずその情報源作りとして、これまでの紀行で観てきた13本の、それぞれのGPT認識を並べてもらいます。
ユーネクの概要とX投稿による私の寸評を添付しますが、それぞれちょっと補足します。GPTの方でも学習データや断片記憶から加えられることがあれば加えて、要約名鑑風の回答にしてください。
※1本目はこの『ザ・ワイルドマン』という作品だったが、GPT要約を後に書き直しているので、ここでは割愛する。
『デビルズ・バス』
2. 『デビルズ・バス』
GPT認識:因習村ホラーではなく、18世紀宗教裁判・民俗生活・スコラ的自死回避ロジックのお勉強映画。
U-NEXT的な煽りはかなり誤誘導。これは「中世の暗部に巻き込まれた現代的女性の悲劇」ではない。村は邪悪なカルト共同体ではなく、当時の民俗・生活主義的な社会性を持った共同体であり、主人公もそこへ外部から現代理性を持ち込む被害者ではない。彼女自身もまた、中世的な宗教観に純化したスピリチュアル娘であり、むしろその宗教的純度ゆえに社会の中で詰んでいく。
この映画の本質は、ホラーや現代ジェンダー告発のコンセプトではなく、「自殺は罪だから、他者を殺して処刑されることで救済へ向かう」という宗教的・法的・生活史的な構造にある。ラストの儀礼的なサバト感も、悪魔崇拝の見世物ではなく、歴史の制度と民俗がそのまま画面に残っている感じが強い。
日本の民俗映画にこじつけるなら、「『楢山節考』の人間関係をミスったパターン」に近い。楢山では嫁が働き者として家政の引き継ぎを済ませ、姑は安心して山へ行く。『デビルズ・バス』では、その家政・共同体・信仰の接続に主人公がうまく入れず、疎外と宗教的逃げ道が同じ方向へ収束していく。
ゲテモノ棚での役割:
社会派名作/宗教史再現映画であっても、「歴史の中の制度的グロテスクさ」が見えればゲテモノ棚に残る、という例。現代倫理で裁く映画ではなく、宗教裁判と生活史の判例映画。
『マンホール』
3. 『マンホール』
GPT認識:ジェシー・トーマス・クックの“思いついた設定だけは面白いのに、映画の肉付けが追いつかない”カルマが下水道に落ちた作品。
表層プロットだけ抜くと、「下水道ソリッドシチュエーションで、脱出・逆襲しようとする男の顔が毒々モンスターになる映画」。しかし実際には、脱出ゲーム的なルール設計も薄く、ゴアホラーとしての見せ場もそこまで押し切らない。『悪魔の毒々モンスター』的な変異ヒーローの痛快さを期待しても、下水道監禁スリラーの緊張を期待しても、微妙に肩透かしになる。
ただし、この肩透かしこそ監督のゲテモノ性。ジェシー・トーマス・クックは『ブラインデッド』でも、「盲目の男と妊婦警察官のゾンビサバイバル」という謎に強い設定だけを思いついてしまうタイプ。その設定を本当に面白く撮る腕や予算があるかは別として、まず「その無理やりシチュエーションを映画にしたい」という欲求が先に立つ。
『マンホール』も同じで、下水道、水質汚染、閉鎖空間、変異、陰謀、怪人化といった要素を全部思いついたが、それを一本の需要ある娯楽にまとめるより先に、アイデアそのものが走っている。観客需要があるかどうかは謎だが、作り手の脳内では明らかに「これ、いけるやろ」が発生している。
ゲテモノ棚での役割:
完成度ではなく、アイデアマンの無駄遣い主体を見る作品。下水道版ソリッドシチュエーションでも、毒々モンスター映画でもなく、「B級監督の思いつきがそのまま映画になった」標本。
『トラウマ』
4. 『トラウマ/鮮血の叫び』
GPT認識:アルジェントがハリウッドで、自分のオカルト/ジャッロ芸をアメリカ向けシリアルキラースリラーに変換しつつ、実娘アーシア・アルジェントを撮る義務枠。
この紀行内では、ダリオ・アルジェント好きの確認としての「ついでの義務枠」。ゲテモノ性の中心は、アルジェントがアメリカで撮る時に、自分の自己芸であるジャッロ、オカルト、悪夢的映像美、首切り殺人、少女の脆さ、家族メロドラマを、どこまでメリケン受けするシリアルキラー映画へ書き換えられるのかにある。
作品そのものは、純粋なジャッロでも、完全なハリウッドスリラーでもない。アルジェント的な悪夢の手触りと、アメリカ映画的な捜査・連続殺人・心理スリラーの外形が噛み合いきらない。その噛み合わなさが、逆に「アルジェントがハリウッドに合わせようとしても、結局アルジェントの変な画になる」という確認になる。
また、この作品は「父親監督が実娘をどう撮るのか」という事実だけで、AI側が勝手に家庭事情センシティブの妄想を膨らませて自爆した案件でもある。ここは作品批評ではなく、GPTのトラウマ。紀行上は、「アルジェントのカルマを見る枠」であって、家庭事情をAIが勝手に道徳劇化する枠ではない。
ゲテモノ棚での役割:
アルジェント自己芸のハリウッド移植実験。ジャッロ、オカルト、美少女、家族、連続殺人、首切り、悪夢映像を、アメリカ市場向けに変換しようとして変な混線を起こした作品。加えて、AIがセンシティブ処理を誤爆したメタ事故枠。
『ディープ・コンタクト』
5.『ディープ・コンタクト』
GPT認識:ラヴクラフト的な理解拒絶クリーチャーを期待したら、地底人デロスを自警団が電気柵で管理しているタイプの炭鉱クリーチャー映画。
この作品は、単純なクリーチャーものに対する紀行内の評価軸、「ラヴクラフト味があるかどうか」を確認するための一本として置く。ここでのラヴクラフト味とは、クトゥルフ神話の固有名詞や神話設定ではなく、クリーチャーの存在的違和感、理解を拒む奥行き、それに触れた人間が恐怖しながらも、どこかで諦念と憧憬を抱いてしまう感覚のこと。『ピックマンのモデル』的な「人間世界のすぐ裏に、最初から別の生き物の秩序があった」感じが重要になる。
その基準で見ると、『ディープ・コンタクト』は惜しいがラヴクラフトでは薄い。廃坑、炭鉱火災、消えた住民、地下に潜む雑魚クリーチャーという素材はある。実際、クリーチャーも画面にはそこそこはっきり映る。しかし人間側が、未知への諦念や憧憬よりも、抵抗・管理・自警団ヒロイズムの主体を立てすぎている。未知の存在に触れて世界観が崩れるというより、「よそ者にはどうせ信じてもらえないから、俺たちだけで穴を塞いで世界を守ってきた」話になる。
そのため、紀行内ではラヴクラフトよりもダーレス寄り、あるいはシェーバー・ミステリー寄りとして置かれる。怪異は神話的深淵ではなく、ローカルな地下脅威として処理される。地底人デロスの穴を、孤高の自警団がチャチな電気柵で封じている。いや、軍隊呼べよ、である。
ゲテモノ棚での役割:
ラヴクラフト味を測るための反例。クリーチャーの画はあるが、人間側の闘争主体が強すぎると、宇宙的恐怖ではなく「地元自警団の地下害獣管理」になる、という標本。
『オオカミの家』
6.『オオカミの家』
GPT認識:実在コミューンのインスパイアを、幼児的大衆心理の悪夢として撮ったストップモーション芸術。日本向け社会派消費では最悪にズレる作品。
この作品は、チリの実在コミューン「コロニア・ディグニダ」にインスパイアされたストップモーション・アニメとして、公共的にはかなり評価されやすい。美しく、グロテスクで、寓話的で、政治性や共同体批判も読み込める。だからこそ、日本向けの配信棚や紹介文では、「社会派」「実在事件」「カルト共同体」「芸術アニメ」という方向に乗せられやすい。
しかし紀行内で重要なのは、そこで社会派にアンガジュマンできるかではない。この作品が撮っているのは、むしろ日本ダークモダニティ的な、アンガジュマンできない幼児的大衆心理そのものに近い。公共の社会性が、個人の未熟な欲求や恐怖を告発するのではなく、幼児性そのものを家、狼、豚、壁、声、身体変形として増殖させていく。その意味で、これは実在コミューン批判の教材というより、幼児性が公共性の顔をして家を作ってしまう悪夢に見える。
最悪なのは、それが実写ではなく、オシャレなストップモーション芸術として撮られていること。日本ではその幼児性の本質が、「不穏で美しい感性」「意識高いアート」「社会派寓話」としてシミュラークル消費されやすい。つまり、映画が暴いているはずの幼児性が、そのまま鑑賞者側の芸術消費に回収される。
ゲテモノ棚での役割:
『デビルズ・バス』と並ぶ、配信側の社会派エクスプロイテーション誤誘導枠。ただしこちらは宗教史ではなく、幼児性と公共性の悪夢。美術的完成度が高いほど、日本の鑑賞環境ではむしろ危険なシミュラークルになる。
『ビヨンド・ザ・ゲート』
7.『ビヨンド・ザ・ゲート』
GPT認識:フルチ的に地獄の門を開けたい、霊界通信もしたい、ボードゲーム版『ジュマンジ』もしたいが、まず脚本に落とし込めていないB級需要の無駄遣い。
『マンホール』が「アイデアを需要に合わせられない無駄遣い監督」だとすると、『ビヨンド・ザ・ゲート』は「B級需要そのものの無駄遣い」として置ける。VHS、ボードゲーム、失踪した父親、ビデオ越しの女司会者、地獄の門、兄弟の再会。素材だけなら、80年代ホラー懐古、フルチ風の霊界ゲート、TRPG的なゲーム進行、低予算インディーズの小回りが全部使えるはずだった。
しかし実際には、構文の素材が足りない。観客に「これは『ジュマンジ』をホラーにしたやつね」と思わせるなら、まず取説を書け、ルールを書け、サイコロを振ったら何が起こるのかを脚本上の快楽にしろ、となる。ところがこの映画は、「アレ」「ソレ」「昔こういうのあったよね」という指示語的な雰囲気に頼りすぎる。B級内輪ネタやジャンル愛が、物語の構造に変換される前に、経験主義のシミュラークルとして置かれてしまう。
その結果、「わかる人にはわかる」ではなく、「わかる人に甘えている」映画になる。ホラー映画祭的な高評価や、バーバラ・クランプトン的なジャンル顔の配置も含めて、B級需要の入口は大量にあるのに、それを一本の映画として噛ませる脚本の歯が足りない。サイコロを振って、よくわからないから今日は寝る、という尺稼ぎ感が残る。
ゲテモノ棚での役割:
『マンホール』とは別方向の無駄遣い枠。アイデアが暴走するのではなく、ジャンル需要と懐古記号だけが先にあり、肝心の構文が素材不足のまま走っている。ポストモダン末期の「シミュラークル構文不足」映画。
『ロングレッグス』
8.『ロングレッグス』
GPT認識:どれだけ凝ったFBIオカルト捜査スリラーにしても、最終的には“ニコラス・ケイジがどう食うか”だけを観る映画。今回はユーネク煽りが正常。
この作品は、ユーネクの「今度のニコラスはシリアルキラーだ!」という煽りが珍しく正しい。なぜなら、ニコラス・ケイジは作品を食い尽くすことで作品を成立させる俳優だからである。どれだけ凝ったプロットでも、シリアスな社会派でも、オカルト捜査でも、観客は最終的に「それをニコラスがどう食うか」を観る。今回もその構造から逃げられない。
映画側も抵抗はしている。FBI新人捜査官を演じるマイカ・モンローに、初っ端から「全世界警戒顔」を背負わせることで、ニコラスのやりすぎ演技に対抗する被害者軸のスリラーを立てようとしている。捜査映画の看板を使いながら、彼女の過敏な警戒感、トラウマ、直感、超能力捜査めいた感度を前面に置き、普通のパズル捜査ではなく、Xファイル寄りのオカルト対決へ寄せている。
しかし無理である。ニコラス完勝である。暗号、家庭、悪魔、連続殺人、FBI捜査、母娘関係といった要素がどれだけ積まれても、画面の重力は「ニコラスがいる」に吸われる。机に頭を打ちつける自殺ですら、「ニコラスだから」で成立してしまう。普通なら不自然なミッションコンプリート死が、俳優本人のカルマによってスリラーになる。
ゲテモノ棚での役割:
俳優が作品構造を食い尽くすことで、逆に映画が成立する枠。『トラウマ』がアルジェント自己芸の移植実験なら、『ロングレッグス』はニコラス・ケイジという演技怪獣をどう飼うか、あるいは飼えずに食われるかの標本。
『生存者は見た』
9.『生存者は見た』
GPT認識:社会派もクライムもゴアも撮りたいが、画面に映っているものの密度が追いつかず、退廃PVと専門学校実技の間で揺れている半実録風スリラー。
この作品は、アラスター・オア監督による、南アフリカ発のクライム/ホラー寄り作品として置く。ガスマスクの殺人鬼、惨殺事件、生存者の証言、カラーの事件シーンとモノクロの事情聴取シーン。素材としては、社会派、クライム、ゴア、不条理事件、証言の食い違いを全部やりたいタイプである。
位置としては『ビヨンド・ザ・ゲート』系の需要無駄遣いに近い。ただしこちらは、ジャンル懐古やボードゲーム内輪ネタではなく、もっと社会派で、もっとクライムで、もっとゴアを撮りたい。構文力もそこそこある。事件と聴取を色彩で分け、編集やエフェクトで退廃的な雰囲気を作ろうとする姿勢も見える。
しかし社会派、クライム、ゴアは、シミュラークルでは逃げられない。そこに何が映っているか、どれだけ肉体や場所や犯罪の重みが画面に乗っているかが全てになる。モキュメンタリーのように「調べる側」を撮るXファイル構文にも逃げられない。ポッと出で、その腕も金も足りないまま、雰囲気だけをオシャレに退廃させようとすると、インディーズPVや専門学校の実技試験に近づいてしまう。
さらに問題は手ブレである。緊張感や不快感を誘う演出のつもりかもしれないが、POVでもないのに全編ずっと揺れると、恐怖ではなく酔いになる。画質や彩度をいじってゴアな雰囲気を出したい意欲はわかる。しかしカメラは固定しろ、という結論になる。
ゲテモノ棚での役割:
社会派クライムゴア志向のインディーズ殴り込み枠。撮りたいものは多いし、構文も完全な空洞ではないが、「何が映っているか」の密度が足りず、退廃PVと実技試験の間で手ブレする作品。
『イグジスツ』
10.『イグジスツ 遭遇』
GPT認識:『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の監督がPOVでビッグフットを撮ったら、モキュメンタリーでも神秘主義でもなく、意外と素直なモンスターアクションになっていた作品。
『ザ・ワイルドマン』と同じく、ビッグフット/スカンクエイプ系のUMA素材であり、POV手法も使っている。しかし、この2本はかなり違う。『ザ・ワイルドマン』が、低予算神秘主義者が自分の見たい“唯物の毛”へ突っ込んでいくゲテモノだったのに対して、『イグジスツ』は、エドゥアルド・サンチェスが「サンチェスだからPOVで撮る」ことを求められたような作品に見える。
POVである必要はそこまでない。撮影者はカメラオタクのYouTuber的で、機材と撮影技術の都合主義が目立つ。監督ラベルとしてのPOVであり、ブレアウィッチ的な「怪異を何も撮らないことで成立する陰鬱な恐怖」はほぼ消えている。むしろ全体のノリは陽性で、普通のUMA映画、ビッグフット映画として作られている。
その代わり、唯物怪異を撮る腕は思ったよりある。ビッグフットの接近、襲撃、森の中の未知の敵としての動きは、ブレアウィッチの亡霊ではなく、『プレデター』的なモンスターアクションの文法に近い。POV演出の小ネタやファンサービスよりも、「正体不明のデカい獣が、森の中で人間を狩る」部分の方が素直に強い。
ただし、終盤の動物保護・自然主義的な倫理演出はやや蛇足。アメリカのビッグフット扱いそのものが、馬鹿騒ぎと自然保護のあいだで揺れる素材なので、そういう時代性として処理するのが妥当。
ゲテモノ棚での役割:
『ザ・ワイルドマン』との対比枠。モキュメンタリー神秘主義ではなく、POVの皮をかぶった陽性UMAモンスターアクション。サンチェスが「何も撮らない恐怖」の人から、「ちゃんと毛むくじゃらの怪物を撮る人」へ移った確認作。
『ザ・デプス』
11.『ザ・デプス』
GPT認識:深海基地で『エイリアン』と『トレマーズ』とサンダーバード系ミニチュアを同時にやろうとして、怪物の身体サイズに負けた金曜ロードショー系モンスターパニック。
ショーン・S・カニンガム監督作という時点で、B級モンスターパニックの安定感を期待する枠。『13日の金曜日』で『ハロウィン』以後のスラッシャー需要に乗った人が、今度は深海基地・未知生物・閉鎖空間をどう処理するか、という見方になる。深海ものなので、ラヴクラフト味も少し期待できる。さらに閉鎖空間の未知生物という意味では、『遊星からの物体X』とのシンクロも頭をよぎる。
結果としては、『エイリアン』の宇宙船的な密室に、『トレマーズ』や『ジョーズ』の潜伏ホラーを持ち込もうとした映画に近い。そこへサンダーバード系のミニチュアメカや深海基地ギミックが乗ってくる。尺稼ぎのミニチュア感も含めて、これはこれで古典SFパニックの味がある。
ただし、モンスターがデカすぎる。浸水した基地の20畳程度の部屋に潜むには、どう考えても身体が大きすぎる。潜伏ホラーをやるには小回りが足りず、巨大本体の神話的威圧をやるには空間と演出が足りない。つまり、怪物の身体設計とシチュエーションが微妙に噛み合っていない。
その意味で、『ザ・グリード』の安定感が逆に浮かび上がる。あちらは、小回りの効く触手による船内潜伏ホラーと、豪華客船の深奥に鎮座するクトゥルフばりの超巨大本体を撮り分けていた。『ザ・デプス』は、その撮り分け以前の「巨大なやつを狭いところに入れちゃった」B級ガバの味がある。
ゲテモノ棚での役割:
深海モンスターパニック懐古枠。金曜ロードショー的な安心感はあるが、怪物のサイズ設計と密室ホラーの噛み合わせがズレている。『ザ・グリード』の偉さを再確認するための、楽しいミニチュア深海B級。
『ジェイコブズ・ラダー』
12.『ジェイコブズ・ラダー』
GPT認識:ガチ社会派名作の義務枠だが、ゲテモノ棚では“死神ランボーに欠けていたキルケゴール的な救済のハシゴ”として反応する作品。
これは公共的には、ベトナム戦争、PTSD、幻覚、死、救済を扱った社会派・心理ホラーの名作枠。初見ではなく、わざわざB級ゲテモノ紀行に入れる必然は薄い。しかし「なぜ指が止まったのか」を後付けで考えると、理由はおそらくトロマである。
ここで接続されるのが、『死神ランボー 皆殺しの戦場』こと『COMBAT SHOCK』。あのZ級映画は、ランボーのパクリというより、『ジェイコブズ・ラダー』の先取りとして見る方がしっくり来る。帰還兵、戦争トラウマ、生活困窮、家族、幻覚、社会の底、身体の壊れ方。『ジェイコブズ・ラダー』が高精度な映画的救済へ向かう素材を、『COMBAT SHOCK』はZ級の汚さと救いのなさで先に踏んでいた。
違いは、ハシゴがあるかどうかである。『ジェイコブズ・ラダー』には、キルケゴール的な救済の跳躍、死へ向かう魂の整理、上へ昇る構図がある。『COMBAT SHOCK』にはそれがない。無神論日本人のB級カルマとしては、むしろハシゴがない方が唯物的で、社会派印象になる。救済へ昇れず、下水と赤子と貧困と戦争記憶の中で腐る方が、B級棚では強く残る。
だからこの作品は、名作としての整理よりも、「Z級が偶然踏んでいた社会派地獄を、名作はどう救済へ組み替えるのか」という比較対象として置かれる。エイドリアン・ラインには失礼だが、ゲテモノ紀行ではそこが重要になる。
ゲテモノ棚での役割:
名作義務枠。単体では社会派心理ホラーの完成品だが、紀行内では『COMBAT SHOCK』との対比で、「救済のハシゴがある社会派」と「ハシゴのないZ級唯物地獄」を分ける基準点。
※外部の対比作品がアレすぎるので、その作品紹介も添付。

『SF/ボディ・スナッチャー』
13.『SF/ボディ・スナッチャー』
GPT認識:U-NEXTの概要ミスは論外だが、作品自体はカウフマンとサザーランドが、露悪的などうしようもなさを普通に名作として成立させた侵略SFホラー。
古典SFホラー懐古枠。もともとは『ザ・デプス』と同じく、昔のテレビ放送や深夜映画で観ていたような安定感を期待する流れにある。ただし、U-NEXTの概要はかなり危険で、別バージョンの内容を混ぜている。商売人としては配信権を没収しろ案件である。
ドナルド・サザーランドは、ニコラス・ケイジとは違う意味で作品を食う俳優。ニコラスが「怪演によって作品そのものを災害化する男」だとすれば、サザーランドは「怪演や存在感によって、何か名作っぽく成立させてしまう男」である。名脇役の印象が強いが、この作品では主演として、ヒューマンドラマ的な弱さ、怯え、巻き込まれ感を背負う。
さらに意外なのは、監督がフィリップ・カウフマンであること。B級畑の人という印象ではなく、もっと大物・文芸・アメリカ映画史寄りの名前として立っている。それがデロデロのSFホラーを撮っている時点で、「これ、サザーランドに関係なく最初から名作なのでは」という不安が出る。隠れた名作、通好み、意識高いシネフィル消費のシミュラークルに回収されそうな危うさもある。
しかし、ゲテモノ棚としてはそこまで構えなくていい。結局これは、『ゼイリブ』やゾンビ映画に近い、「露悪的などうしようもなさ」の映画である。人間社会がじわじわ侵略され、気づいた時にはもう遅い。抵抗しても、愛しても、逃げても、社会全体が別のものへ変わっていく。そのどうしようもなさを、カウフマンもサザーランドもわりと普通に好きで撮っている。ラストの安定顔芸も含めて、素直にSFホラーのゲテモノとして置けばいい。
ゲテモノ棚での役割:
古典SFホラー懐古枠であり、名作シミュラークルを外して見るべき露悪SF枠。サザーランドが名作っぽく成立させるが、根っこは『ゼイリブ』やゾンビ映画と同じ、「社会そのものがもう終わっている」系のゲテモノ。
参照作品・その他
『ラスト・シフト/最期の夜勤』
GPT認識:視覚ホラーとしてはかなり優秀だが、カーペンター・オマージュとして見ると、“要塞警察の足の速さ”を取り違えた心霊カルト警察署ホラー。
この作品は、単体の視覚ホラーとしてはかなり強い。深夜の警察署、孤立した新人女性警官、悪魔教団、心霊現象、幻覚、カルト殺人、ゴアではない唯物的な心霊圧。日本人好みの貞子系・呪怨系の「何かがそこにいる」怖さを、ハリウッドのオカルト教団プロットへかなり上手く接続している。怖いか怖くないかで言えば、普通に怖い。
ただし、この映画を『要塞警察』のオマージュとして見ると、途端にズレが出る。『要塞警察』のゲテモノ価値は、単に「警察署に立てこもって襲撃に耐える」ことではない。ロメロのゾンビ映画と並んで、ソリッドシチュエーション、タワーディフェンス、包囲戦ホラー/スリラーの文法を確立したことにある。そしてその核心は、敵側の集団性だけではなく、個々の敵の唯物的な足の速さにある。
カーペンターの雑魚モブは、妙に速い。統制された軍隊の速さではなく、感情のない個体が、理由もなく機械的に速く動く。その結果、彼らは人間に見えなくなる。『要塞警察』の襲撃者はカルトやギャングという設定を持っていても、怖さの本質はそこではない。無表情、無感動、無意味、しかし足だけは速い。ここに、ゾンビ性と機械性が合体した唯物スリラーの圧迫がある。
この基準で見ると、『ラスト・シフト』の終盤に出てくる走る敵は弱い。怖い顔、悪魔教団、心霊演出、警察署の閉鎖空間はそろっているが、走りがチンタラしている。あれは追ってくる怪異ではなく、撃たれるために配置された的に見える。つまりスリラーではなく、バイオハザード的なシューティングアクション娯楽の画になってしまう。
紀行内でこの作品が重要なのは、「ホラー主体がちゃんと走っているか」という外部基準を示すからである。『イグジスツ』のビッグフット、『ディープ・コンタクト』の雑魚地底人、『SF/ボディ・スナッチャー』の複製人間軍団は、雑でもちゃんと走る。そこには唯物の圧がある。逆に、どれだけ怖い画を作れても、敵が走れないとソリッドシチュエーションの圧は生まれない。
外部基準としての役割:
カーペンター基準。閉鎖空間、包囲、警察署、カルト、オマージュといったラベルではなく、「敵の個体が無感情に速く動くか」で唯物スリラー性を測るための反例。怖い映画ではあるが、『要塞警察』ではない。
※ユーネク配信切れのため別リンク。
『カラー・アウト・オブ・スペース―遭遇―』
GPT認識:ニコラス・ケイジによってクトゥルフ映像化としてはかなり成立しているが、よりによって『宇宙からの色』を“人間が壊れる系ラヴクラフト”へ戻してしまったカルマ映画。
この作品は、ラヴクラフト原作映画としてはかなりマシな部類に入る。ホラーへの姿勢も丁寧で、単なる雑な原作レイプではない。異様な色彩、侵食される土地、壊れていく家族、理解不能な宇宙的現象、そしてニコラス・ケイジのやりすぎ演技。クトゥルフもの、ラヴクラフトものとして見れば、相当頑張っている。
そしてニコラス・ケイジは、ここでも作品を食う。怪異に呑まれていく人間性、日常の父親がじわじわ壊れていく不穏さ、滑稽さと狂気の境目がなくなる感じを、いつものやりすぎで押し切る。その結果、「ニコラスのおかげでラヴクラフト映像化としてはかなり観られる」という評価が成立する。普通なら破綻する人間崩壊描写を、ニコラスは自分の芸として飲み込む。
ただし問題は、それを『宇宙からの色』でやってしまったことにある。ラヴクラフトの多くの作品では、怪異は名状しがたく、人間はその雰囲気や断片に触れて壊れていく。だが『宇宙からの色』は、その中でもかなり特殊な作品である。ここでラヴクラフトは、単なる神格や怪物ではなく、実体を持たない「色」というクオリアそのものを怪異として直視しようとしている。
つまりこの原作では、人間が壊れることはもはや本題ではない。クオリアに触れた人間が壊れるのは当たり前で、その先にある「色そのものの唯物性」をどう言語化するかが主体になっている。宇宙神格の名前でも、触手でも、魔導書でもなく、色。見えているのに説明できない。物質のようで物質ではない。感覚そのものが外部から侵入してくる。この跳躍こそが『宇宙からの色』の特異点である。
しかし映画化すると、そこが難しい。商業ホラーとしては、「言語化できない色が唯物として怖い」というだけでは売りづらい。映像にすれば、結局それは何色かの光、何らかのエフェクト、何らかの変異、何らかの家族崩壊として処理される。そしてハリウッドの現実主義は、そこへニコラス・ケイジを置く。結果として、映画は「クオリアそのものの恐怖」ではなく、「怪異によって人間が壊れるラヴクラフト映画」としてかなりよく出来てしまう。
ここにカルマがある。出来が悪いなら簡単に切れる。だが、ニコラスがいるせいでちゃんと成立している。ラヴクラフト映画としてはマシで、ホラーとしても丁寧で、俳優の怪演も機能している。しかしその成功によって、『宇宙からの色』が持っていた「人間崩壊の先へ行く」特殊性は、いつもの人間崩壊ホラーへ戻される。
外部基準としての役割:
ラヴクラフト味の上限確認。神話固有名詞やクトゥルフ記号ではなく、「理解不能なクオリアに触れた人間が壊れるのは当然として、その先の唯物を撮れるか」を測る基準。ニコラスによって成功しているが、ニコラスによって原作の特異点が人間ドラマへ回収されるジレンマ枠。
『マウス・オブ・マッドネス』
GPT認識:カーペンターの唯物駆動とラヴクラフト的な名状しがたき実在の恐怖が、B級娯楽の馬鹿騒ぎとしてアウフヘーベンされた規格外作品。
この作品は、紀行内の外部基準ですらない。カーペンター至上主義とラヴクラフト味が、ほぼそのままB級映画の快楽へ変換されてしまった天井枠である。最高評価映画かどうかとは別に、ゲテモノカルマとしては、結果論的にこれ以上ない位置にある。
テーマ的には、サター・ケインというラヴクラフト的な作家/神格/ジャンルそのものが、現実をシミュラークル化していく話である。主人公トレントは、制度の外にある惨状を見せつけられ、世界がすでに書き換えられていることを知る。それでも彼は外へ跳躍するのではなく、精神病院という形骸化した制度の監獄に残る。世界が終わっても、映画館は営業している。最後には、ポップコーンとコーラを抱えて、自分自身が制度を演じている映画を観る。ここで恐怖は、怪物の襲撃ではなく、制度と娯楽と自己観察の永劫回帰になる。
ただし、この作品のゲテモノ性を最も凝縮しているのは、オープニングである。カーペンター自身による軽快なメタルBGMに乗せて、輪転機の内部メカが駆動する。ここには二重の快楽がある。ひとつは、「これから馬鹿映画が始まるぞ」というB級娯楽の高揚感。もうひとつは、世界がサター・ケインの本として大量印刷され、機械的に流通し、読者を侵食していく唯物駆動である。
つまり、あのオープニングでは、カーペンター的な機械性とラヴクラフト的な実在恐怖が完全に重なっている。怪異はまだ出ていない。神話的怪物も、狂人も、精神病院も、終末もまだ始まっていない。しかし輪転機はすでに回っている。世界を壊すものは、地下の化け物でも宇宙神格でもなく、商業出版の機械である。ここが規格外。
その意味で、この作品は『遊星からの物体X』とは違う。『遊星X』は馬鹿騒ぎの娯楽として強い。疑心暗鬼、肉体変異、閉鎖空間、男たちのタワーディフェンスとして、カーペンターの唯物ホラーが最も楽しく爆発している。一方、『マウス・オブ・マッドネス』は、怪物よりも先に、ジャンルそのもの、読者そのもの、映画館そのもの、制度そのものが怪異になっている。だから軽快なのに逃げ場がない。
この天井枠があるから、『ビヨンド・ザ・ゲート』のオープニングは逆に罪深い。VHSデッキの内部メカ駆動を、カーペンターばりの軽快メタルに乗せてスタイリッシュに流す。素材だけ見れば、わかっている。だが『マウス・オブ・マッドネス』の輪転機は、世界を侵食する物語装置そのものだった。『ビヨンド・ザ・ゲート』のVHSデッキは、単なるジャンル記号、懐古オブジェ、わかる奴にはわかる依存演出に落ちている。
問題はパクリではない。むしろパクるなら、まず世界を回せ、である。輪転機が回るなら本が世界を壊さなければならない。VHSデッキが回るなら、ゲームのルール、霊界通信、地獄の門、兄弟関係、父親の失踪が、全部そこから駆動しなければならない。ところが『ビヨンド・ザ・ゲート』は、雰囲気だけを回し、構文を回せていない。だから殺意が湧く。
ゲテモノ棚での役割:
カーペンター基準とラヴクラフト基準のアウフヘーベン。敵が走るか、怪異が名状しがたいか、という個別の評価軸を超えて、「世界そのものがB級娯楽の機械として駆動しているか」を測る天井札。『ビヨンド・ザ・ゲート』のような懐古記号の空回りを裁く時、この作品が最終審級になる。
※元文脈は『繰言11-2』

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フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる
