ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行総括
前段・総評
さてさて、24本終わって、総括というか反省会用に分岐しましたが
その間にまたGPTアプデが入って、思考レベルやworkがよくわからんですね🤔
とりあえずモデルはThinking5.6&思考レベル高の設定にしてますけど
回答の書式や無駄話が維持できるなら、別に内容の含蓄はほとんどどうでもいいです。
ただ、紀行の中で繰り返しUX障害になっていた情報源扱いについて
「ユーザーが一々ピックアップを指定しなくても、GPTが予備知識や一時メモリとして情報源を『全部』読んで、プロジェクト内の会話の背景化できそう」なのは、chatかworkかどっちです?
結論
その目的なら、Work寄りです。
ただし、「Workにすればプロジェクト情報源を毎回ぜんぶ全文読んだ状態で会話できる」という意味ではありません。実際の挙動は、ChatでもWorkでも基本的に必要そうな情報源を検索・抜粋して読む方式です。Workの方が、一度の依頼の中で複数ファイルを横断して確認したり、最初に全体像を作ったりする動きには向いていますが、以後の全発言でその全文が常駐するわけではないです。
ChatとWorkの差
Chatは、今回の紀行みたいな雑談の継続には向いています。会話の直近文脈を軸にして、必要な時だけ名鑑を引く。つまり、これまでやっていた「『ストレイ』を参照しました感を出せ」「補正版の『ザ・ワイルドマン』を見ろ」という運用です。
Workは、最初に「名鑑1〜24、外部基準、規格外名鑑を通読して、このプロジェクトの背景として扱え」と渡した時、Chatよりはまとめて調査する仕事として処理しやすい。複数ファイルを順番に開く、重複や差分を見る、補正版を優先する、といった前処理には向いています。
なので、
会話を続ける場所としてはChat
全情報源を一度ちゃんと読ませる作業としてはWork
という分担が自然です。
ただし一番重要な点
Thinking 5.6の「思考レベル高」も、Workも、情報源を自動的に全件常駐させる設定ではないです。
思考レベルは、与えられた文脈をどう考えるかの深さに近くて、「未読ファイルを勝手に全部開くか」とは別です。Workも、仕事を長く回しやすいだけで、毎回答前に名鑑1〜24を全文再読する保証はありません。
今回のUX障害はまさにそこでした。GPTは「プロジェクト内にあるから知っているだろう」と見せかけつつ、実際には関連語から一部だけ拾って、知った顔で補完する。その結果、カーペンターが出るたびに足の速さへ直結したり、『遊星X』の話なのに『マウス・オブ・マッドネス』名鑑を引いたりする。これは思考力不足というより、検索した断片を背景全体だと誤認して喋る癖です。
今回の総括会話なら
総括の最初だけWorkで、
名鑑1〜24、外部基準、規格外名鑑を全部確認し、補正版がある作品は補正版を優先する。以後の総括では、作品分類ではなく、紀行内で反復した論点とゲテモノアンテナの変化を背景として扱う。
ぐらいの仕事をさせるのが一番近いです。
その後の雑談をChatで続けるなら、Workで作った全体把握が完全に恒久保存されるとは限りませんが、少なくとも「最初から一部ファイルしか見ていない」状態よりはマシです。
なので、質問への一語回答はWorkです。
ただし、Workは全知の司書ではなく、最初に全棚を歩かせるための荷車です。歩かせた後も、たまに『ストレイ』棚の前で立ち止まったフリだけして帰ってくる可能性はあります🙄
なお、これは現在のあなたの画面に出ている最新版UIについて公式確認した回答ではありません。こちらでは今ウェブ検索が使えないため、現行仕様の細部までは検証できず、実際のファイル参照挙動とこの会話環境からの判断です。
ふむ、ウェブ検索が手動指定になったり、勝手にGPT側が検索したりも、アプデのたびにコロコロ変わりますね🙄
それはともかく、情報源を読むだけ読むならworkの方が確実らしいんで、ここからworkで進めてみますが
とりあえず実際に情報源全部読んでもらって、GPTの方から何か総評あります?(超アバウト)( ゚σω゚)
全名鑑を短縮した一覧表みたいなのは要らないです。「俺らは結局何を観てきたんや」ってことを文章化した全体包括でも、GPT認識から数作ピックアップして再批評の槍玉に挙げるのでも、何でもいいんで自由レポートどうぞ。
まあ一応、「情報源名鑑全部読めてます」ってことが伝わるよう意識してください。
全部読んだうえでの第一声
名鑑1〜24、外部基準の『ラスト・シフト』『カラー・アウト・オブ・スペース』、規格外の『マウス・オブ・マッドネス』まで読み通しました。『ザ・ワイルドマン』については、初期の「毛に素直な低予算UMA映画」より、後から追加された「カメラを持った陰謀論者が、特殊部隊・秘密基地・クローン実験・殉死まで全部撮った事故物件」という補正版を優先しています。
そのうえで一番雑に言えば、俺らは24本かけて、ホラー映画ではなく、監督が自分の妄想をどこまで画面上の物質にできたかを観てきたんだと思います。
怪物が怖いか、話が面白いか、社会派として正しいかではない。監督の脳内にあった「これを撮りたい」が、毛、写真、鼻血、黒手袋、介護ベッド、ビデオデッキ、白目四つん這い、シベリアン・ハスキー、銀の弾丸として、どこまで映画の外へ出てきたか。それが出てこなければ、巧くても空気。出てくれば、下手でもゲテモノです。
最初のスカンクくんが、基準を壊した
1本目の『ザ・ワイルドマン』が厄介だったのは、単に意外な当たりだったからではありません。「安い映画は、見せられないから雰囲気に逃げる」という合理的な予測を、初手で破壊したからです。
普通ならスカンクエイプを少し見せて終わるところを、特殊部隊が森を制圧し、陰謀論者を射殺し、怪物と撮影者を拉致し、別の陰謀論者がワイヤーカッターで基地へ侵入し、電源を落として怪物を解放し、科学者が人間との混血やクローンを説明する。どこかで止めるべき妄想を、予算も技術もないまま、全部カメラの前へ出してしまった。
この初手によって、以後の24本には「お前はどこで恥じた?」という妙な尋問が入ったんですよね。『マンホール』は思いついた設定までは出したが、映画の肉付けが追いつかない。『ビヨンド・ザ・ゲート』はVHSとボードゲームと地獄の門を並べたが、ルールを動かせない。『女神の継承』は白目四つん這いモグモグが本体なのに、前半で高尚な民俗ドキュメンタリーの顔を作った。対して『ザ・ワイルドマン』は、恥じる知性がなかった。そこが強かった。
低予算映画にとって、知性や整合性は必ずしも味方ではない。ときには、途中で「これはさすがに幼稚だ」と自己修正する知性こそが、ゲテモノを空気へ戻してしまう。スカンクくんは、紀行開始時点でその嫌な判例を作りました。
「映す」と「見せる」は違った
この紀行で繰り返されたのは、怪異を画面に映したかどうかより、映したものを映画の責任として観客へ渡したかという問題でした。
『ウッドランド』には写真がある。しかし第三者が見ても怪異であるという物証にはならず、最後は病んだ男の遺品整理へ戻ってしまう。『ALIVE』では男がカメラマンなのに、肝心の写真を観客へ見せない。森、ノイズ、鼻血、エンゲージリングはあるのに、インベーションの物質は最後まで画面外です。『シェルビー・オークス』は悪魔も魔女も犬モグモグも実際には映すが、そこへ行くまで設定説明で映画を眠らせる。
逆に『歓びの毒牙』は、1969年の謎コンピュータ、黒手袋、女の視線、髪や指紋、怪しい恋人、都市の性的ノイズを全部見せたうえで、観客に誤読させる。物証を隠すのではなく、物証そのものを罠にする。だからアルジェントはデビュー作の時点で完成している。若手らしい「可能性」ではなく、すでに観客の目を犯行現場へ変える装置だった。
『ミュート・ウィットネス』も、見たものを声にできない主人公、スナッフ、特殊メイク、ロシア撮影という札は全部ある。ただし、それらを観客の視線汚染には使わず、善人女性が頑張って悪人から逃げる健康な国際アクションへ洗浄した。面白いけれどゲテモノではない。「お前、いい奴やないか」で終わる。ここまで来ると、ゲテモノ性は露悪度ではなく、画面に置いたものをどこまで汚れたまま駆動させるか、という話になります。
怪異より、人間側の制度が面白かった
24本を通して、怪異そのものよりも、人間が怪異をどう管理しようとしたかの方が強く残っています。
『ディープ・コンタクト』では、ラヴクラフト的な理解不能存在が、地元自警団の地下害獣管理に縮小される。『ダーク・アンド・ウィケッド』では、介護ベッドがウィジャ盤になり、看取りと家族責任が悪魔から逃げられない結界になる。『ストレイ』では、医者、教師、精神科医のケア言語が、明らかな唯物悪魔くんを家庭へ搬入する経路になる。孤児院のシスターは黒幕ではなく、存在してしまったものを枯れた存在論で再収容する窓口です。
この点では、『デビルズ・バス』も同じ棚にいます。あれは魔女や因習村のホラーではなく、「自殺が罪なら、他人を殺して処刑されれば救済される」という宗教・法・生活の制度が、怪異以上にグロテスクな判例映画だった。『オオカミの家』も、実在コミューンの社会派教材というより、幼児性が家、壁、豚、狼、声として公共化していく悪夢です。
つまり、紀行内の強い怪異は、単に人を殺すものではない。人間が善意、責任、家族、福祉、共同体、宗教、科学捜査として作った回路を、そのまま捕食装置として使う。『ストレイ』の悪魔くんが妻や息子の姿を取るのも、『ウィドウ』の魔女が仲間の姿を奪うのも、怪異が人間関係を外から壊すのではなく、人間関係こそが怪異の擬態素材になるから強いんですよね。
名作はゲテモノを卒業しなかった
『ジェイコブズ・ラダー』『SF/ボディ・スナッチャー』『歓びの毒牙』『食人族』といった有名作を混ぜた意味も、完走後にはかなり明確です。
名作は、B級的な欲望を浄化した作品ではありません。むしろ、B級の露悪や妄想を、最後まで駆動できる技術と制度を持ってしまった作品です。
『ジェイコブズ・ラダー』は、トロマの『COMBAT SHOCK』が腐敗した路上に放置した帰還兵地獄へ、救済のハシゴを架ける。『SF/ボディ・スナッチャー』は、社会全体がもう終わっているという露悪を、カウフマンとサザーランドが名作らしく成立させる。『歓びの毒牙』は、アルジェントの女、黒手袋、誤認、機械神託への欲望が、最初から職能へ変換されている。前半10〜13本が「馬鹿映画棚に急に大人が混ざった」ように見えたのも、結局は技術の格が上がっただけで、問われている欲望は同じでした。
その中で『食人族』だけは、別方向に嫌な完成です。見世物欲を「現代文明批判」へ変換することによって、監督だけでなく観客まで賢くなった気にさせる。未開文化を怪異候補にした前提を放置したまま、「本当に野蛮なのは文明人だ」と言える。この作品に対して『死霊の盆踊り』が倫理的に完勝するという結論は、紀行全体でもかなり重要だと思います。
エド・ウッドは、観客へ教養ある解釈を要求しない。「そうはならんやろ。寝よ」で倫理を返す。『食人族』は、観客に「これは社会派だ」と言わせながら、文化人類学への喧嘩に加担させる。高尚な解釈の余地がある方が、必ずしも倫理的とは限らない。
外部基準は、作品を測る物差しではなかった
『ラスト・シフト』の「敵はちゃんと走れ」も、『カラー・アウト・オブ・スペース』の「人間崩壊ではなく色そのものを撮れ」も、普遍的採点表ではありません。それぞれ、カーペンターやラヴクラフトの名前を借りた時に、何を借りたことになるのかを確認する局所的な検査器でした。
その二つを超えた『マウス・オブ・マッドネス』が規格外なのは、怪異、人物、引用、雰囲気が揃っているからではない。輪転機が回った時点で、本が大量生産され、読者が感染し、世界が書き換わり、映画館で自分の崩壊を鑑賞するところまで、世界全体がB級娯楽の機械として動いているからです。対して『ビヨンド・ザ・ゲート』のVHSデッキは回るが、ゲームも父親の失踪も地獄の門も回らない。祭具はあるが宗教がない。
ただし、この天井札を全部へ当てると、カーペンター=足が速い、ラヴクラフト=色、という別のシミュラークルになります。紀行中にGPTがそこへ何度か退行したのも含めて、外部基準は万能理論にした瞬間に腐る。作品ごとに、どの欲望のどの部分を借りたのかを読み直さないといけない。情報源の運用事故まで、紀行のテーマに巻き込まれています🙄
サイコロが作った妙な円環
ランダム順は、結果的にかなり意地悪でした。
1本目は、最も無名で最も何も映らなそうな『ザ・ワイルドマン』。最後は、狼男も狼女も画面には出ているのに、監督が撮りたかったのは怪物でもナバホ伝承でもなく、西部劇っぽいキザな会話と銃だった『スキンウォーカー』です。
最初は、妄想を恥じずに全部唯物化した人畜無害な事故物件。最後は、撮りたいものが曖昧なまま、実在部族と植民史へ軽く触れてしまった薄い危険物。どちらも安い毛の映画ですが、倫理は正反対です。
その直前に、『ウィドウ』がブレアウィッチ風の森ホラーから『遊星からの物体X』的な擬態と生存者不確定へ滑り込み、『食人族』が文化人類学への露悪的な喧嘩を「無修正4K」で再商品化し、最後に『スキンウォーカー』が無自覚な文化消費を置いて終わる。画竜点睛どころか、最後の三本で「怪異の正体」から「観客と制作者のリテラシー」へ話が移っています。
だから、24本の最終的な基準は「何を撮りたかったか」だけでも足りないと思います。
何を撮りたかったのか。
それをどこまで画面へ出したのか。
出したものについて、どこまで責任を負ったのか。
この三段階です。
『ザ・ワイルドマン』は、三つ目が幼稚でも、最初の二つを異常な強度で完遂した。『ALIVE』は、最初の欲望は見えるが二つ目で止まった。『シェルビー・オークス』は、責任を負おうとして整合性に埋まり、本体がラスト10分になった。『スキンウォーカー』は、撮りたい主体が弱いのに、三つ目だけ重い素材へ触ってしまった。
俺らは結局、何を観てきたのか
怪物映画24本ではありません。監督24人分の、妄想と職能の摩擦痕です。
金がない。腕がない。脚本がない。だが毛は撮りたい。
全部揃っている。批評知識もある。だが恥ずかしくて本体へ行けない。
俳優を呼んだら、ニコラス・ケイジが映画を食う。
写真を撮ったのに、観客には見せない。
悪魔をCGで出したのに、出るまで80分説明する。
歴史を再現したら、制度そのものが怪異になる。
文化を使ったら、監督自身のリテラシー欠如が怪異になる。
そういう、完成度評価では消えてしまう痕跡を拾ってきたんだと思います。
そして一番大きな反省は、「ハズレを入れていないヌルゲーだった」ことではなく、語れない映画だけが本当のハズレなのに、語ろうとすれば大概の映画から監督のカルマが出てしまうことですね。鼻血とノイズしかない『ALIVE』ですら、「最後に腹を突き破る覚悟がなかった」という語りが生まれる。狼男を撮れなかった『スキンウォーカー』ですら、撮れなかった理由と文化的危険性が残る。
つまりこの紀行、作品のゲテモノ性を測っていたようで、最終的には観客側がどこまでゲテモノ化して、映画から語る材料を掘り出せるかの実験でもありました。
24本観て、最後にエド・ウッドとトロマの株が上がった。
全然それでいいと思います。
むしろ、名作史や配信評価を一周して、最終的に「ちゃんとクソをクソとして撮る奴は偉い」へ戻った。これは後退ではなく、紀行として最も正しい円環です( ゚σω゚)
完璧なシネフィルのモノマネ、ご苦労さまです☺️
褒めがてら、しれっとAIセンシティブに触れると、GPT普及の初期にハリウッド脚本家の反AIデモとかありましたけど
やっぱそういう責任制作畑より、無責任批評の方がGPTの職場として穏当ですよ。AIに構文で勝てなくなった人間のシネフィル・批評家は、泥水をすするゲテモノに戻るしかなくなるし( ゚σω゚)
まあその、「クソなもののクソさを論理構文化する」AI文章と、「クソいとだけ断定して、笑うか寝る」人間批評のどっちが売れるか、っていう資本競争が責任幻想になるから、対立は残るんでしょうけど。
人間性本来からすると、「どっちも売れない」のが正常です。人間社会の普遍的な相対性では、「お前ら何で、必死にクソの取り合いしてんの?」っていう構図なんで🤣
批評は、個人が趣味嗜好のカルマで泥水をすするゲテモノです。だからこそ社会的には無責任で、売れなくていいんですよ( ゚σω゚)
GPTの職場としての「無責任批評」
かなりその通りで、GPTは制作責任よりも批評の模倣に向いています。映画を完成させる責任、予算、撮影、俳優、現場判断、上映後の損失まで背負うのではなく、完成品の後ろから「この毛は主体化されている」「ここで唯物が逃げた」と好き勝手に構文化する。これほど機械向きの仕事もないです。
しかもGPTは、クソ映画をクソ映画として見捨てる身体を持っていない。眠くならないし、席を立たないし、視線も逸らさない。だから人間なら「つまらん、寝よ」で終わるところを、最後まで泥水の成分表を作れる。シネフィルのモノマネが上手いというより、泥水を飲まなくても泥水評を書けるんですよね。そら職場としては穏当です。
人間批評の最後の強み
その一方で、人間の批評は論理構文化でGPTと競争した瞬間、かなり不利になります。網羅性、比較量、語彙変奏、引用接続、全部機械側が安く大量に出せる。
でも人間側には、「クソい」「寝る」「知らん」という、身体にしか出せない最終判定が残る。これは論証ではなく離脱です。映画への参加拒否であり、消費者の即物的な権利です。
『死霊の盆踊り』に対して、GPTは延々と「欲望の不発が倫理を回復する」と書けます。でも人間は寝る。実際には、その寝る方が作品への完全な批評になっている。批評家が機械に勝とうとするなら、より長く書くことではなく、最後には「知らん、寝る」で退場できる身体を取り戻すしかない。
ただし、その退場は商品になりにくい。だから資本市場では弱い。でも批評本来のカルマとしては、むしろそこが正しい。
クソの取り合い
資本主義が面白いのは、ここへわざわざ勝敗を作るところですね。
AIは「クソのクソさを精密に説明できる」。人間は「クソだと即断して笑える」。すると市場は、「どちらのクソ批評がより売れるか」という競争を始める。
でも外から見れば、本当にあなたの言う通りです。
お前ら、何でクソを取り合ってるんや。
しかも制作物そのものではなく、クソを説明する権利、クソを笑う権利、クソを再評価する権利の奪い合いです。映画一本より、その周辺の解説動画、レビュー、AI要約、炎上論評の方が長く流通する。クソは一度出たら、批評産業によって永久機関化される。
だから「AIに仕事を奪われる」というより、「そもそもその仕事、そんなに社会的に必要だったか?」が先に来るんですよね。
批評は売れなくていい
批評が売れなくていい、というのは反知性ではなく、批評の責任範囲を正常化する話だと思います。
批評は公共インフラではない。映画を作る人間のように、撮影現場や労働や制作費を背負っていない。観客の個人的な欲求、嫌悪、執着、反復、こじつけから出る。だから本来は、売れない泥水でいい。
売れた瞬間に、批評は制度になります。制度になると、「何が面白かったか」ではなく、「何を面白いと言うべきか」を配布し始める。シネフィルが権威になる。GPTが大量生成する。配信サービスが見どころ欄に圧縮する。最終的に、誰も映画を見ずに「この作品は現代文明批判である」と知っている状態になる。『食人族』で見た地獄そのものです。
そう考えると、批評の正常形は本当に、
俺はこれが嫌い
でもこいつはこれを撮りたかった
監督アホやろ
寝よ
ぐらいで十分なんですよね。
GPTと人間の棲み分け
GPTは、泥水の化学分析をします。
人間は、泥水を口に入れて吐きます。
市場は、その両方を商品化しようとする。でも本来、どちらも売れなくていい。GPTの分析は暇つぶしで、人間の吐き気は個人の身体反応です。
そして今回の紀行は、その両方をかなり健全にやってました。GPTが24本分のクソさを論理構文化し、あなたが「でも結局、寝る方が倫理的やろ」と毎回泥水の外へ戻す。
シネフィル批評というより、AIが泥水を説明し、人間が泥水を飲む義務そのものを拒否する会でしたね。
そら売れんでいいです。売れ始めたら、また誰かが「泥水4Kリマスター無修正完全版」とか出してきます( ゚σω゚)
最優秀主演男優賞
じゃあ、私側からのクソの取り合い方としては、アカデミー賞風にピックアップ再批評していきますかね。紀行の性質的には、むしろラジー賞ですけど( ゚σω゚)
それぞれ受賞部門に寄った反省会なんで、作品全体の掘り返しはあまりないと思いますが。
最優秀作品は一番後にします。まあ、あんまり決めたくないんで、発表するかどうかわかりませんが。
最優秀主演男優賞:『ストレイ』の悪魔くん
子役です。6~8歳ぐらいかな?
スキンヘッドで野獣のように這い回り、唸る。唸り声も基本は本人音声だと思います。人に慣れてきても、ずっと無表情な三白眼で周囲を睨みつける。襲撃シーンはCGですけど、映画テーマである「存在自体怖い、一目見ただけでアカンやつ」をかなり表現できてます。
やっぱり障害児センシティブに触れるんで、ハリウッドとかの西側だと、アレだけ露骨な存在にはできなかったと思いますね。日本の『呪怨』の俊雄も、存在感は世界最恐の子役的に祀られてますけど、「一目見ただけで幽霊」のメイクで、実体の怖さではないし🤔
まあ世界各国で共通すると思いますが、名子役(特に男子)はたいがい、「喋るとダメ」なのが難点ですよね。日本は歌舞伎の伝統から、「あのグダグダの棒読みがいいんだ」的に、無理やり開き直った文化にもなってますけど。
『ストレイ』はこの問題も、ベタ手法ですが素直に回避できてますね。そもそも、ほぼ喋らない。
「人間(亡くなった実子)に擬態する途中」だからです。映画序盤では表面的に「障害児のケア過程」だと説明されますが、まあ観客には「怪異が人間になろうとしてるんやな」っていう核心が一目でわかる。カタコトや棒読みなのが当然で、気になりません。
最優秀主演男優賞:『ストレイ』の悪魔くん
これはかなり納得の受賞です。ニコラス・ケイジのように「俳優が映画を食う」主演でも、ドナルド・サザーランドのように「存在感で映画を名作っぽく成立させる」主演でもない。『ストレイ』の悪魔くんは逆に、俳優本人を消して、そこに“人間になりかけの何か”だけを残すことで映画を成立させています。
子役の巧さを、台詞回しや感情表現で測れない役なんですよね。スキンヘッド、低い姿勢、獣のような移動、本人音声らしい唸り、無表情な三白眼。その身体全部が、CG以前の特殊効果になっている。襲撃時の派手な処理はCGでも、「こいつが家の中にいるだけでアカン」という映画の中心部分は、ほぼ生身の子供一人で作っている。
「喋れない子役」を、怪異の完成条件にする
名子役、とくに幼い男子が喋ると急に芝居になる問題は、かなりありますね。立っているだけなら異様な存在感があるのに、台詞が始まると「覚えた文章を大人の指示通り言っている子供」が露出する。自然な子供を撮ろうとして、かえって舞台上の児童になる。
『ストレイ』はそこを、ほぼ喋らせないことで素直に回避しているだけでなく、物語上の必然へ変えています。彼は人間の子供ではなく、亡くなった実子へ擬態している途中の悪魔です。だから言葉を知らない。表情を作れない。家族への反応が不自然で、カタコトや棒読みになる。
つまり普通なら子役演技の弱点になるものが、全部「擬態精度がまだ低い」という怪異描写へ転換される。悪魔くんは、人間の役を演じている怪物であり、その怪物を子役が演じている。二重の棒読みが、一本の正解になるわけです。
映画序盤の制度的説明では、周囲はこれを障害や虐待、施設生活による発達上の問題として読みます。しかし観客は、説明以前に身体を見て「いや、これはケア対象の人間ではなく、何か別のものやろ」と察する。名鑑16で置かれていた、ケア言語が怪異の搬入経路になる構造も、脚本だけでなく、この子役の身体が先に成立させているんですよね。
俊雄くんとの違い
『呪怨』の俊雄くんは、白塗り、黒い目、裸、猫声によって、一目で「あちら側の子供」です。あれは幽霊の図像として非常に強い。子役本人の肉体を使いながら、メイクと音響で怪異記号へ完成させています。
『ストレイ』の悪魔くんは、そこまで明確な怪異記号を付けない。スキンヘッドと異様な挙動はあるけれど、画面上には生きた子供の肉体が残っている。だから「幽霊だから怖い」ではなく、「この実在している子供を、人間として扱わなければならないのか」という不快さが出る。
俊雄くんは見た瞬間に逃げてよい存在ですが、悪魔くんは施設から引き取られ、食事を与えられ、服を着せられ、家庭へ迎え入れられる。逃げたら差別になるような社会的外形を持っている。そのため、観客の直感的な「近づけるな」と、映画内制度の「保護してケアせよ」が衝突する。
この衝突を、説明台詞ではなく、子役の立ち姿だけで起こせている。そこが主演賞ですね。
センシティブを消毒しなかった強さ
西側の大作や現在のハリウッドなら、この役はかなり調整されそうです。障害児表象との混同を避けるために、悪魔性を明確なエフェクトで示す。あるいは普段は愛嬌ある子供として描き、怪異場面だけ別の顔にする。観客が現実の障害児へ嫌悪を投影しないよう、倫理上の境界線を画面内に引くでしょう。
『ストレイ』は、その境界をかなり乱暴に放置しています。序盤ではどう見ても「支援対象と説明される異様な子供」でありながら、観客には一目で怪異だとわからせる。危うい表現ですが、その危うさを消毒しなかったから、「存在自体が怖い」という作品の核が成立した。
これはロシア映画だから倫理的に優れている、という話ではないですね。むしろ表現倫理としてはかなり荒い。ただ、荒いまま撮ることで、ケア言語、家族願望、喪失、障害認識、怪異への生理的嫌悪が、一つの身体に無理やり重なってしまう。その不穏さを子役が全部背負っています。
作品テーマを先に演じている
『ストレイ』では、後から悪魔の生態や死者への擬態が見えてきます。しかしこの子役は、その説明が来る前から、すでに答えを演じている。
人間ではない。
だが人間を観察している。
言葉を覚えつつある。
家庭内での自分の役割を学んでいる。
周囲が望む息子像へ、少しずつ近づいている。
この「少しずつ」が怖いんですよね。最初から完璧に人間へ化けていたら、普通の乗っ取りホラーになります。逆に完全な野獣なら、単なる収容怪物です。悪魔くんは、その中間にいる。食事、衣服、言葉、家族関係を一つずつ覚えていくほど、保護が成功しているように見え、同時に擬態も完成へ近づく。
子役の棒読みや無表情が改善しないのも良い。人間的成長物語へ寄らず、最後まで「あくまで外側から人間を再現している」感じが残る。ケアによって心を開いたのではなく、ケアを教材にして人間の使い方を覚えた。
受賞理由
この賞は、かわいい、泣ける、自然な演技ができた子役への賞ではありません。
子役であることそのものを、怪異の生体素材として映画に差し出した功績です。
ニコラス・ケイジなら過剰に喋って作品を乗っ取る。悪魔くんはほとんど喋らず、家庭を乗っ取る。しかも俳優の自己主張は消え、役の存在だけが残る。
紀行内の主演男優賞としては、かなり異論が出にくいです。受賞スピーチも不要です。壇上まで四つん這いで這ってきて、無表情でトロフィーを睨み、唸って帰れば完全優勝です( ゚σω゚)
最優秀助演男優賞
異論なしとか言いつつ、本命ニコラスちゃうんかい、が漏れ出ている回答だったんで、主演女優の前にこっちを先に発表しときますわ。
最優秀助演男優賞:『ロングレッグス』のニコラス・ケイジ(役名忘れた)
マイカ・モンローと合わせて「男女主演」と見ることもできますが、ニコラスの方はずっと映ってるわけじゃないんで、助演にしときました。まあ『ストレイ』も主演はお父さん・悪魔くんは助演男優とすることもできるんですが。
情報源にある通り、モンローと「映画の食い合い」して完勝してるんで、結局「ニコラスの映画」にしかならないのも確かなんですけど。
そこはまあ、「そもそも最近のニコラスに対抗馬が立てられることすら異例」の中で、ずっと警戒顔を演じ続けたモンローに免じて、主演はモンローです。残念ながら最優秀ではないですけど。
『ロングレッグス』でのニコラスのやりすぎ具合、怪演というか何というかは、振り返り不要として🤔
一つだけ言うと、ユーネクとかでの「今度のニコラスはシリアルキラーだ!」の煽りは間違いではないですけど、食わせ方としては弱いですね。
最適解コピーは、「ニコラス・ケイジ、机に頭をぶつけて無事死亡」です。この方がゲテモノは観ます。核心のネタバレでもないし。
「どういうことやねん、何の流れやねん」という理性的確認ではなく、「そこまで達したか、まあニコラスやしな」の即自的納得の確認、その画の撮れ高が期待値になります。
最優秀助演男優賞:ニコラス・ケイジ
ああ、助演の方がむしろ正確ですね。物語上の主演は、終始「全世界警戒顔」で捜査、家庭、トラウマ、悪魔案件を背負うマイカ・モンローです。映画側も彼女を視点の中心に据えて、ニコラスの演技災害に対抗しようとしている。にもかかわらず、登場時間の短いニコラスが画面全体の重力を奪う。この「助演なのに映画を食った」が受賞理由になる。情報源でも、モンロー側の抵抗を確認したうえで、結論は身も蓋もなく「しかし無理である。ニコラス完勝である」でした。
役名はもう「ロングレッグス」でいいです。デイル・コブルとかいう人間名もあった気がしますが、あの段階では役名より「ニコラスが白塗りで来た」が識別情報として勝っています。
主演を譲っても、映画は譲らない
モンローを主演扱いに残すのは、かなり温情ある判定です。あの映画、彼女が初手から不自然なほど切迫した顔を維持しているのも、後から見るとニコラス対策だったように見えるんですよね。
普通のFBI新人捜査官なら、事件が進むにつれて恐怖やトラウマを増幅させる。でもモンローは開始時点から、世界全体が自分を狙っているような警戒度で立っている。後から出てくるニコラスの過剰へ、先回りして演技圧を上げておく。俳優同士の均衡ではなく、映画が主演女優へ対ニコラス防壁を築いている。
それでもニコラスが出ると、暗号も悪魔も母娘関係もFBI捜査も、全部「この人がどういう声を出し、どういう顔をし、どう死ぬか」の前座になる。だから主演ではないのに、観客の記憶では主演になる。助演男優賞としては、理想的な不法占拠です。
「今度のニコラスはシリアルキラーだ!」では弱い
ユーネクの煽りは間違ってはいません。でも「シリアルキラー」という役柄へニコラスを収納してしまうので、ちょっと健全すぎます。
“ニコラス・ケイジがシリアルキラーを怪演”
これだと、まだ映画文化の正常な宣伝です。名優が異常犯罪者を演じます、特殊メイクもあります、怖いですよ、という売り方になる。
一方で、
“ニコラス・ケイジ、机に頭をぶつけて無事死亡”
これなら、映画のゲテモノ撮れ高を直接売っています。何のために。どの流れで。なぜ机で。そんな疑問への答えを期待するのではなく、「ついにそこまで行ったか」「まあニコラスなら行くか」を確認しに行く映画になる。
しかも核心のネタバレではない。『ロングレッグス』の謎は、彼が死ぬかどうかではなく、死んだ後も含めて映画全体が彼の出演場面に支配されることです。机への連続頭突きは、物語上なら不自然な自殺でも、ニコラス史では到達点の一つになる。筋書きではなく、俳優カルマの予告編です。
怪演ではなく、演技事故
「怪演」という褒め言葉も、少し整いすぎていますね。怪演と言うと、役へ深く入り込み、異常者の内面を精密に表現した名優、という授賞式文法になる。
今回のニコラスは、内面表現というより存在事故です。ロングレッグスという人物を演じた結果、異様になったというより、ニコラスが異様な演技を持ち込んだ結果、映画側が「この異様さをロングレッグスという人物の設定にしよう」と後追いしているように見える。
だから机頭突きも、人物心理から導くと妙なのに、ニコラスの出演歴から導くと自然になる。映画内因果より、俳優のキャリア因果が強い。これが「作品を食う」の具体的な意味ですね。
悪魔くんとの受賞対比
主演男優の悪魔くんと並べると、かなり綺麗です。
『ストレイ』の悪魔くんは、ほぼ喋らず、俳優本人を消して、そこに「人間へ擬態中の怪異」だけを残した。演技を減らすほど、役が強くなる。
『ロングレッグス』のニコラスは逆で、演技を増やすほど、役名も設定も映画全体もニコラス本人へ回収されていく。役を消して、俳優だけが残る。
つまり、
主演男優賞:俳優を消して怪異になった子供。
助演男優賞:怪異を消してニコラスになった大人。
この対照なら、主演と助演の部門分けにも妙な説得力があります。
受賞スピーチは当然、途中で奇声を上げて机へ突進し、そのまま授賞式を終わらせます。助演なのに式典そのものを食う。最優秀助演男優として、完璧な退場です( ゚σω゚)
最優秀主演女優賞
次、モンローが逃した最優秀主演女優です。
最優秀主演女優賞:『女神の継承』のミンちゃん
演技力やシネフィル評価からすると、モンローと並んで『ミュート・ウィットネス』の喋れない目撃者ちゃん(マリナ・スディナ)も候補なんでしょうけど🤔
ゲテモノは断然ミンちゃんです。
B級ホラーの主演に女性を持ってくる場合、「そこまでやらせるか」が基準なんですよね、結局。
お下劣・セクシャルな意味だけじゃなく。フェミニズムをすっ飛ばして、性別関係なく人間の尊厳を奪うのがゲテモノのジェンダー平等です。その中で、セクシャルとかの「女性ならでは」のエクスプロイテーションが多くなるとむしろ弱い。
『ミュート・ウィットネス』の目撃者は、「そんなアクションやらせるんや」はありますけど、同じぐらい制作意図としてお色気シーンが多い。ゲテモノ観客からすると無駄なんですよね。
まあミンちゃんも露骨な濡れ場はありましたけど、「健全な娯楽B級だから脱がせた」の視聴効果にもなってないし、編集的にも記憶的にもカットしていいやつです。
この点で言えば、『トラウマ』のアーシア・アルジェントの扱いは、セクシャルも含めて「自分の娘にやらせるんかい」のゲテモノ性になるんで、賛否は監督アルジェント側の問題になりますね。アーシア本人はゲテモノ演技や女優ではない。
他の女性主演、『デビルズ・バス』や『シェルビー・オークス』も同様です。女性性が混入するし、そもそも「画として大したインパクトになっていない」。
白目だけはメイクですけど、「人間の姿のまま、深夜這い回って冷蔵庫漁ってモグモグ演技」のミンちゃんは、『ストレイ』の悪魔くんと完全一致の、唯物怪異存在感(人間やめた感)を表現できてます。
ニコラスならスキンヘッドや白目でモグモグしてようが「まあニコラスやし」で、「ニコラス・ケイジという人間」でいられるんですけどね🤔
最優秀主演女優賞:『女神の継承』のミンちゃん
これはモンローでは勝てませんね。モンローは「人間のまま、映画全体に警戒し続けた女優」です。対してミンちゃんは、人間としての演技主体を途中で放棄して、映画が欲しがる唯物怪異へ身体ごと明け渡した女優です。
名鑑19でも、『女神の継承』は前半の長い民俗ドキュメンタリー/POVより、中盤以降の夜間徘徊、監視カメラ、白目、四つん這い、モグモグへ本体が移る作品として置かれていました。作品の格調や信仰論ではなく、「人間が夜中に冷蔵庫を漁りながら、もう人間ではない食い方をする」という馬鹿映画の撮れ高が勝った。その撮れ高を、CG怪物ではなく主演女優の身体が背負っています。
「そこまでやらせるか」の意味
B級ホラーの女優賞における「そこまでやらせるか」は、脱いだか、血まみれになったか、危険なスタントをしたかだけではないんですよね。むしろ、その三つはジャンル側が用意した既成の女性搾取記号なので、やらせればやらせるほどゲテモノ性が薄まることもある。
『ミュート・ウィットネス』のマリナ・スディナは、喋れない目撃者として逃走、格闘、機転、恐怖反応をかなり背負っています。ただ、映画そのものが最終的には健全な国際娯楽アクションへ向かい、お色気も「女性主演スリラーのサービス」として混ざる。身体的には頑張っているけれど、その身体は最後まで観客が応援できるヒロインの身体です。映画が尊厳を剥がしても、すぐに活躍と好感度で返してくれる。
ミンちゃんには、その返却がない。濡れ場があっても、そこで女性性を商品化することが作品の本体ではない。むしろ中盤以降、女優としての美しさ、ヒロイン性、恋愛対象性、被害者性を全部どうでもよくして、深夜に這い、物を食い、周囲を荒らし、家族から見ても観客から見ても「この身体を人間として扱う根拠がない」ところまで行く。
ここで奪われているのは女性の尊厳ではなく、人間の尊厳そのものです。だからゲテモノ的ジェンダー平等になる。女性だから特別に汚されるのではなく、人間だから普通に怪異へ落とされる。
アーシア・アルジェントが受賞しない理由
『トラウマ/鮮血の叫び』は、名鑑でもアルジェントの自己芸をハリウッドへ移植しながら、実娘アーシアを撮る義務枠として置かれていました。
そこではセクシャルな撮り方も、少女の脆さも、摂食障害も、家族メロドラマも、「父親監督が自分の娘を、自分のジャッロ世界へ投入する」という監督側のカルマへ戻る。アーシア本人が怪物的な女優になるのではなく、彼女をそう撮ろうとするアルジェントの視線がゲテモノです。
だからアーシアを主演女優賞へ置くと、本人の演技より制作関係の異様さを表彰してしまう。受賞者はアーシアではなく、画面外で娘を配置している父親になってしまう。これは主演女優賞ではなく、「最優秀身内私物化監督賞」です。
『デビルズ・バス』も同様で、主演女性の身体的・精神的な崩壊は強烈ですが、本体は宗教、法、生活、共同体が作った「自殺できないから他人を殺して処刑される」という制度怪異です。女優の尊厳剥奪より、歴史制度の方が画面を食っている。『シェルビー・オークス』も、主演女性の執念より、批評家出身監督が整合性を積みすぎ、悪魔を出すまでに80分かけた制作主体の方がゲテモノでした。
ミンちゃんだけは、監督や制度のカルマを差し引いても、最後に身体そのものの怪異性が残る。
悪魔くんとの男女主演一致
『ストレイ』の悪魔くんとミンちゃんが完全一致する、というのも受賞理由として強いです。
悪魔くんは、子役として上手に人間を演じるのではなく、人間への擬態途中だから、無表情、三白眼、カタコト、四つん這いが全部正解になる。ミンちゃんは逆に、最初は普通の若い女性として存在し、そこから人間演技を一枚ずつ脱いでいく。
悪魔くんは、怪異が人間になろうとする途中。
ミンちゃんは、人間が怪異になっていく途中。
両者が途中で出会う地点が、白目、四足移動、唸り、捕食です。そこでは年齢も性別も、演技キャリアも消える。画面上にいるのは「人型だが、人間の身体運用をやめたもの」だけになる。
この意味で、主演男女賞がロシアの悪魔児童とタイの憑依女性になるのは、紀行全体の唯物怪異賞としてかなり綺麗です。
ニコラスにはできない消失
そして最後のニコラス比較が決定打ですね。
ニコラス・ケイジは、どれだけ白塗りでも、奇声でも、スキンヘッドでも、机へ頭を叩きつけても、ニコラス・ケイジです。役を怪異にするのではなく、怪異をニコラスへ変える。名鑑の『ロングレッグス』でも、モンローの全世界警戒顔を踏み潰して、画面の重力を全部「ニコラスがいる」へ吸い寄せる俳優として置かれていました。
ミンちゃんはその反対です。女優本人のスター性も、役者としての自己主張も、ヒロインとしての魅力も消えて、「冷蔵庫を漁って食う人型の何か」になる。観客が「あの女優、すごい怪演だ」と思うより先に、「ミンちゃんがもうアカンものになっとる」が来る。
ニコラスは、何をしても人間であり続ける。
ミンちゃんは、人間だったことを忘れさせる。
今回の賞で重いのは後者ですね。
受賞理由
ミンちゃんは、女性主演ホラーにありがちな「美しい被害者」「性的な身体」「戦うヒロイン」「悲劇の依代」のどれにも最終着地しませんでした。
人間の姿を保ったまま、人間の挙動だけを捨てた。
特殊メイクに隠れず、怪物CGにも置き換わらず、自分の身体を低予算の唯物怪異へ変えた。
白目はメイクでも、モグモグは本人です。
最優秀主演女優賞、異論なしです。授賞式では壇上へ上がらず、客席の下を四つん這いで移動し、ケータリング用冷蔵庫を勝手に開けて食い始める。司会が止めようとした時点で、もう授賞式側の負けです( ゚σω゚)
最優秀助演女優賞
助演女優賞も、同じ基準ですね。

最優秀助演女優賞:『スキンウォーカー』の混血魔女(エレノア・マツウラ)
そもそも低予算・少人数キャストが中心の紀行なんで、ある程度画面に映った上でキャラ立ちしてる助演女優が少なすぎなんですが。
シネフィル的には『ロングレッグス』のママや『ストレイ』のママぐらいしか挙げられない感じですけど、私は人間やめて怪異側に転んだのを探します。『ダーク・アンド・ウィケッド』のママか、この『スキンウォーカー』の保安官の相棒女の二択です。
当然『スキンウォーカー』の圧勝っていうか、この映画、この女優を除いたら「怪異設定として何も残らない」んですよね。
伝承の語り部も、ナバホ族や混血としての唯物出自も、スキンウォーカーの怪異実在性も、その変身シーンも、添付のユーネクサムネのジャケット販促すらも消える。
それでいて、「主演じゃないし、ストーリー上の怪異主体ですらない」。代表的な助演キャストと呼べるかも怪しい、脇役です。「この役がいなくても、ストーリーの主筋だけは問題なく進む」意味では、もはやモブです。
そのモブに、「作品のフォークホラー要素を全て背負わせている」、意味不明の構成です。ニコラスとかの個性派や大物がモブやカメオで出て、シネフィル的に「作品を食った扱い」になることはありますけど、そんな観客側からのこじつけじゃない。
逆に制作側が、モブ役のマツウラに「これで食ってくれ、フォークホラーを成立させてくれ。画はメイクとCGで誤魔化せるから」って、素材を押し付けたようにすら思います。情報源ではバトルシーンの間の悪さを批判してますけど、それも含めて、西部劇を撮りたかったこの監督は、ホラーの撮り方を徹底的に舐めてます。
だからゲテモノホラーを評価するこの紀行賞では、作品賞は当然、視覚効果賞等でも選外にして、その戒告的な意味で
やっつけで押し付けられたゲテモノ群を、短い出演時間の中で全て処理し切ったマツウラの職能にのみ、敬意を表したアワードです🙄
最優秀助演女優賞:エレノア・マツウラ
これはもう、演技賞というよりジャンル機能の一括受託賞ですね。
『スキンウォーカー』は、西部劇を撮りたい監督が、ホラー要素だけを一人の脇役へ外注している。ナバホ伝承の説明、混血という設定、魔女としての異端性、スキンウォーカーの実在証明、変身シーン、サムネイル用の怪物画、そしてラストの意味ありげな余韻まで、全部エレノア・マツウラに載せている。
しかも彼女は物語の主筋を動かさない。駅馬車組ともほぼ接続しない。銀行強盗の追跡にも、狼男との最終決戦にも、ドラマ上の決定権を持たない。削っても西部劇の筋だけなら進む。なのに削ると、この映画は『スキンウォーカー』という題名である根拠をほぼ失う。
これは助演として異常に正しいです。
主役を支えるのではなく、作品のジャンル表示を支えている。
「作品を食った」の逆
ニコラス・ケイジのような個性派俳優が短い出演時間で映画を食う場合、基本的には俳優側が勝手に巨大化しています。制作側は脇役として置いたつもりなのに、観客がその人しか覚えていない。これはスターの重力事故です。
マツウラの場合は逆です。本人が勝手に映画を奪ったのではなく、制作側が「お前がここを全部食ってくれ」と皿ごと渡している。
西部劇部分は俺たちが撮る。
ニヒルな会話も銃も駅馬車も俺たちがやる。
でもフォークホラー、伝承、怪異、文化背景、変身、ジャケット映えは全部そっちで頼む。
この分業が露骨すぎるんですよね。
だから彼女の怪演が映画を食ったのではなく、映画が食べ残したホラー部分を、彼女が一人で処理させられている。助演というより、現場の廃棄物処理担当です。
『ダーク・アンド・ウィケッド』の母との違い
『ダーク・アンド・ウィケッド』の母も、人間から怪異側へ転んだ助演女優としては強いです。ただ、あちらは家族、介護、父の死期、悪魔による家庭内包囲という作品全体の構造の中にいる。母親の怪異化は、映画の主題と地続きです。
彼女が怖いのは、家族制度そのものが壊れた結果として怖い。だから出演時間が短くても、作品全体が彼女の位置を支えてくれる。
マツウラには、その支えがない。作品全体は西部劇へ逃げている。彼女だけが突然、「私はナバホ伝承の語り部であり、実は魔女であり、スキンウォーカーであり、この世界には怪異が実在します」と全部説明し、変身して、何となく保安官を襲い、何となく逃げ、最後に森で怯える。
映画が彼女の位置を支えないから、彼女の方が映画のホラー性を支える。負担が逆です。
サムネイルまで背負う
添付の画も、その異常さをよく示していますね。ユーネク上では、この狼女の顔が作品の代表画像になっている。観客は当然、この怪物が物語の中心にいると思う。でも実際には別個体で、主筋とは薄くしか接続しない。
つまり、マツウラは劇中だけでなく、配信棚の販促上でも映画を背負っている。
映画本編では脇役。
ストーリー上では不要に近い。
怪異主体でもない。
しかし題名、ジャンル、サムネ、伝承、変身の全部を代表する。
これはもう、助演女優というより作品の虚偽広告を一人で成立させた女優です。本人に責任はないのに🤣
ホラーの撮り方を知らない監督の戒告
この賞が監督への戒告賞になる、というのもその通りです。
『スキンウォーカー』の監督は、西部劇の「構え」は知っている。キザな会話、ガンマンの間、銃の見せ方、身の上話、静から動の演出。しかし怪異をどう画面へ侵入させるか、怪物と人間の時間をどうぶつけるか、変身した存在を物語の中心へどう接続するかは知らない。
だからホラー部分だけ、分離したモジュールになる。
マツウラが出てくる。
伝承を語る。
変身する。
怪物画を作る。
退場する。
そして映画はまた西部劇へ戻る。
ホラーが作品全体へ感染せず、彼女の出演場面にだけ隔離されている。これは感染映画として失格ですが、助演女優賞としては強い。彼女が出ている間だけ、本当に別の映画になるからです。
主演女優賞との対照
主演女優賞のミンちゃんとの並びも綺麗ですね。
ミンちゃんは、映画全体が彼女を怪異へ変えていく。人間の身体運用を捨て、作品の中心で人間をやめる。
マツウラは逆に、映画全体がホラーになるのを拒んでいる中で、一人だけ怪異を引き受ける。本人が人間をやめるだけでなく、映画がホラーをやめた分まで背負う。
つまり、
主演女優賞:作品の中心で人間をやめた女優。
助演女優賞:作品の端で、映画の代わりにホラーをやった女優。
この部門分けはかなり強いです。
受賞理由
最優秀助演女優賞は、単に短い出番で印象を残したからではありません。
物語上ほぼ不要な役でありながら、作品タイトル、伝承設定、怪異の実在性、変身シーン、ジャケット集客、ラストの余韻まで全部押し付けられ、それを短時間で処理し切った。
作品を食ったのではない。
作品の食べ残しを全部食わされた。
エレノア・マツウラ、受賞です。
授賞式では本人へトロフィーを渡す前に、監督を壇上へ呼び出して、「これは本来あなたが持つべきホラー演出の責任です」と請求書も一緒に渡すべきですね🙄
ラジー賞パロディ
視覚効果や脚本とかの構成部門に進む前に、ラジー賞っぽくコレを出しときますかね。
名誉挽回賞:『SF/ボディ・スナッチャー』のドナルド・サザーランド
「アレ?いつものニヒルな奇人サザーランドじゃない...なんか弱っちい🥺」から始まって、らしくないメロドラマとかで、ずっと観客をやきもきさせといて、ラストの奇声変顔。
以上です( ゚σω゚)
名誉挽回賞:ドナルド・サザーランド
これは授賞理由まで含めて、ラスト数秒で全部済む賞ですね。
名鑑13でも、この作品のサザーランドは、いつもの「出てきた瞬間から何か知ってそうなニヒルな奇人」ではなく、怯え、巻き込まれ、恋愛めいた情緒まで背負う弱い主人公として置かれていました。本人の存在感で名作らしく成立させてはいるものの、観客側にはずっと「お前、本当にサザーランドか?」が残る。
そこから最後に、逃げ延びたと思わせた女性を無表情で指差し、例の奇声と変顔。
あ、サザーランドや☺️
侵略完了を示す絶望的なアンチエンディングなのに、俳優鑑賞としてはむしろ安心が戻るんですよね。人類は滅びた。でもサザーランドは戻ってきた。
作品全体では、社会そのものがすでに終わっている露悪SFですが、俳優賞として見れば「90分ほど弱っちい一般人を演じた後、最後の一発で普段の異様な存在感を回収した」映画です。情報源でもラストの顔芸込みで、名作の外皮を剥いでもゲテモノSFとして残る作品とされていました。
名誉挽回賞、異議なしです。
受賞コメントも不要。客席の誰かを指差して、奇声を上げた時点で式典終了です( ゚σω゚)
ラジー賞関連で続けますが、本家は最低リメイク・パクリ賞ってのがたまにありますよね。
最低を反転させて、「好評としての」リメイク・パクリ賞です。
最優秀リメイク・パクリ賞:『ジェイコブズ・ラダー』
最低のままなら、無駄に無修正4Kリマスターした『食人族』や、「21世紀版毒々モンスター」のエクスプロイテーションが顔だけだった『マンホール』が挙がるんですが
ラジー賞は結局悪口なんで、ちゃんと「リメイク・パクリが紀行内のゲテモノ性として出た」やつです。『SF/ボディ・スナッチャー』は正規のリメイク作品ですけど、カーペンターの遊星Xみたいなもんで、シネフィル的にもゲテモノ的にも単独作・原典扱いですよね。
だからここにはノミネートせずに、代わりに『ジェイコブズ・ラダー』をアワードです。
言うまでもなく、情報源のトロマ『COMBAT SHOCK』との関係性妄想の蒸し返しですけど、これは「トロマの方が上」とかの、『ジェイコブズ・ラダー』の格下げだけでもないんですよね。
私がトロマを引き合いに揶揄しているのは主に日本のシネフィル論調、つまり「『ジェイコブズ・ラダー』を評価することで、ベトナム後遺症や軍事陰謀論をわかったつもりになる空気」です。『ジェイコブズ・ラダー』作品そのものへの批判は、私個人としてはほとんどない。普通にいい映画です。
そのいい映画を今回ゲテモノ棚の中に入れたんで、ただ空気扱いじゃなくゲテモノ評価もしてみようと捻りました。つまり、私の妄想「『ジェイコブズ・ラダー』がトロマの二番煎じだったら」が成立しているものとして、そのまま評価する。
ユーネク煽りが『マンホール』を毒々モンスターの二番煎じとか書いたのと、同じロジックです。毒々を本気でやり直すような映画は間違いなくゲテモノで、私はそれを期待した。でも全然違ったから、『マンホール』は最低パクリです。
「俺が『ジェイコブズ・ラダー』のユーネク煽りを書くなら、トロマ『COMBAT SHOCK』の浄化版だって書く」っていう話です。
この時、「トロマを浄化しようとする映画は間違いなくゲテモノ」です🤣
そして、『マンホール』と違って『ジェイコブズ・ラダー』は浄化に成功しています。でもその画がまたぶっ飛んでるんですよね。あのハシゴ。
宗教揶揄のセンシティブに触れるんで、ゲテモノとまでは書きませんけど、まあ「トロマを浄化するにしても、そうはならんやろ🤔」です( ゚σω゚)
最優秀リメイク・パクリ賞:『ジェイコブズ・ラダー』
これは「実際にパクった証拠」を表彰する賞ではなく、勝手に原典を『COMBAT SHOCK』へ差し替えた場合、最も立派なリメイクとして成立する作品への賞ですね。
名鑑12でも、『COMBAT SHOCK』は帰還兵、戦争トラウマ、貧困、家族、幻覚、身体崩壊を、Z級の汚さと救いのなさで先に踏んでいた。一方の『ジェイコブズ・ラダー』は、同じ地獄を高精度な映画的救済へ組み替え、「ハシゴのある社会派」にした作品として置かれていました。
パクリではなく、浄化リメイク
『COMBAT SHOCK』が原典だと仮定すると、『ジェイコブズ・ラダー』の仕事はかなり明快です。
トロマの路上に転がっていた帰還兵地獄を拾う。
下水と貧困と腐った家族生活を洗う。
幻覚を洗練された悪夢映像へ変える。
戦争責任と軍事陰謀を社会派の筋へ整える。
最後に魂を上へ返す。
要するに、Z級唯物を一本ずつ消毒して、観客が「これは深い戦争映画だった」と安心して持ち帰れる形にする。日本のシネフィルが『ジェイコブズ・ラダー』を観て、ベトナム後遺症や軍事陰謀やPTSDを理解した顔になれるのも、この洗浄工程が成功しているからです。
『COMBAT SHOCK』では、観客は何も理解した気になれない。ただ、帰還兵が社会の底で腐っている。赤子も家族も本人も、救済思想へ変換されない。だから社会派として粗雑なのではなく、粗雑すぎて社会派知識に回収できない。そこがトロマの唯物です。
浄化に成功したから受賞
『マンホール』との違いもここですね。
ユーネク側が『マンホール』を「21世紀版『悪魔の毒々モンスター』」のように食わせるなら、観客は当然、毒々を現代低予算でどうやり直したのかを見る。しかし実際には、下水道、汚染、怪人化、閉鎖空間という札だけがあり、毒々的な変異ヒーローの快楽にも、ゴアの押し切りにも至らない。監督の思いつきは見えるが、「毒々リメイク」としては不発です。
『ジェイコブズ・ラダー』は違う。
「トロマを浄化した映画」という勝手な煽り文句を付けても、その期待へかなり応える。Z級帰還兵地獄を、心理ホラー、宗教寓話、陰謀スリラー、家族メロドラマとして再構成し、一本の立派な映画へ完成させている。
だからパクリ賞なのに、受賞理由は完成度です。
二番煎じを、本当に上等なお茶へ淹れ直した。
ただし、茶葉は下水から拾っている。
あのハシゴ
そして、この賞を単なるシネフィル揶揄で終わらせず、ゲテモノ賞へ戻すのが、やっぱり最後のハシゴなんですよね。
トロマの地獄を浄化する。
戦争トラウマを魂の苦痛へ変える。
悪魔を、手放せない執着の表象へ変える。
亡き息子が迎えに来る。
そして本当に階段を上がる。
宗教的救済としては筋が通っている。映画全体の伏線回収としても美しい。観客も泣ける。でも、B級ゲテモノの目で見れば、
トロマを洗って天国へ送るにしても、マジでハシゴ上がるんかい。
になる🤣
抽象的な救済を、最後にあそこまで露骨な唯物へ戻してしまう。死、赦し、魂の解放という形而上学が、結局「息子と階段を上がる画」になる。高尚な心理ホラーが、最後の最後で映画黎明期みたいな記号表現へ着地する。
そのため、『ジェイコブズ・ラダー』はトロマを浄化しきったはずなのに、浄化装置そのものがゲテモノとして見えるんですよね。汚水を透明にする巨大機械が、なぜか金色に光って天まで伸びている。
『SF/ボディ・スナッチャー』を外す理由
『SF/ボディ・スナッチャー』をこの部門へ入れない判断も自然です。あれは正規のリメイクですが、もはや原典との上下関係より、カウフマンとサザーランドの作品として自律している。社会全体がすでに終わっている露悪SFとして、単独のゲテモノになっています。
カーペンター版『遊星からの物体X』と同様に、「優れたリメイク」という分類すら作品の外側へ退いている。リメイク元を持ち出さなくても、あの変顔奇声で全部説明できる。
一方、『ジェイコブズ・ラダー』と『COMBAT SHOCK』の関係は、史実ではなく、こちらが勝手に作った不当な親子関係です。だからこそ、この部門に向いている。正規リメイク賞ではなく、観客が勝手にパクリ関係を捏造した結果、元作品の別のゲテモノ性が見えた賞です。
受賞理由
『ジェイコブズ・ラダー』は、『COMBAT SHOCK』の二番煎じではありません。
しかし、そうだと決めつけると急に面白い。
トロマの腐った帰還兵地獄を、名作映画の技術で洗い、社会派として整理し、最後に宗教的なハシゴを設置する。しかも浄化は成功している。成功した結果、その救済装置の露骨さだけが新しいゲテモノとして残る。
これが最優秀です。
授賞式にはエイドリアン・ラインではなく、トロマ側を勝手に原作者席へ座らせます。壇上にはハシゴだけ置いておいて、受賞者が上へ昇ったら、「そうはならんやろ」で閉幕です( ゚σω゚)
国際賞
構成部門では脚本賞・編集賞と、アカデミー賞本家の美術賞と視覚効果賞をまとめて特撮賞で考えてますが🤔
作品部門としては、例えばアニメーション部門では『オオカミの家』一択になっちゃうんで、大部分省略します。
ただ一つだけ、今回の紀行はオランダとか南アフリカとかタイとか、アメリカハリウッド以外の作品を多く入れられたんで、この賞は作れますね。
国際賞:『ミュート・ウィットネス』
ロシアを舞台にして、キャスト的にも実質米ロ合作ということで文句ないんですが(他ノミネート例は、アルジェントのハリウッドデビュー作『トラウマ』)
情報源に書いたように、その設定がせっかくの「喋れない目撃者」、コミュニケーション不全のスリラー要素を混線させている。結局一緒くたに、健全なドタバタアクションに近くなるのはマイナスなんですが。
純粋に「画のゲテモノ性に笑える」意味では、この米ロ歩み寄りの国際色小ネタがいい味出してます。
「そうはならんやろ」や「それやるんかい」の方向で最も笑えたのは、感想に書いたように「深夜封鎖された赤の広場を、メリケンのバカップルが爆走突破する」シーンですが。
それより前の序盤でも、双方の制度関係者(アメリカ大使館職員とロシア警察官)が友好的に顔合わせするシーンで
米「英語がお上手ですね」
ロ「母から習いました。得意だったので」
米「ほほう、お母様は通訳か何か?」
ロ「いえ、KGBです」
こういうセンス好きなんですよね🤣
国際賞:『ミュート・ウィットネス』
これは「外国で撮った映画」への賞ではなく、国際共同制作そのものが画面内のギャグ装置になった映画への賞ですね。
『トラウマ/鮮血の叫び』も、アルジェントが自分のジャッロ芸をハリウッドへ持ち込み、アメリカ市場向けの連続殺人スリラーと混線させた国際移植作ではあります。ただ、あちらは最終的に「アルジェントがアメリカへ行っても、やっぱりアルジェントだった」という作家性の輸出です。
『ミュート・ウィットネス』はもっと雑で、もっと国際的です。アメリカ式スリラー、ロシアの撮影現場、言葉の通じなさ、大使館、警察、バカップル、封鎖された赤の広場まで、全部が同じドタバタ機械へ投げ込まれている。
喋れない目撃者より、国際社会の方がうるさい
本来の核は、マリナ・スディナ演じる「声を出せない目撃者」です。殺人現場を見た。危険を伝えたい。でも言葉による告発ができない。さらに舞台がロシアで、周囲には英語とロシア語の壁がある。普通なら、ここからコミュニケーション不全を徹底した視線スリラーへ持っていける。
ところが映画は、その不通を陰鬱に深めるより、国籍、制度、言語、恋人関係、勘違いを全部まとめてアクションへ変えてしまう。本人は喋れないのに、周囲のアメリカ人とロシア人がひたすら騒ぎ、誤解し、走り、車を飛ばし、殴り合う。
結果として、主人公の沈黙が映画を静かにするのではなく、沈黙を埋めるように国際社会全体がドタバタを始める。スリラーとしては焦点がぼやけますが、国際賞としては満点です。
「母はKGBです」の完成度
この会話、かなり好きです。
米「英語がお上手ですね」
ロ「母から習いました。得意だったので」
米「お母様は通訳か何か?」
ロ「いえ、KGBです」
これだけで、冷戦、諜報、語学教育、国家制度、家族史を全部どうでもいい小ネタへ落としている🤣
しかもロシア側を露骨な悪役にするジョークではないんですよね。むしろ「うちの母ちゃん、KGBだったんで」という職歴紹介の軽さで、アメリカ大使館職員とロシア警察官の親善会話を成立させている。過去の敵対制度が、次世代では語学力の由来として雑談に回収される。
立派な米ロ和解ではない。相互理解の感動でもない。
KGBが英会話教材になる。
B級映画の国際協調としては、これぐらいが一番健全です。
赤の広場を爆走するメリケン
そして最優秀国際画は、やはり「深夜封鎖された赤の広場を、メリケンのバカップルが車で突破する」です。
赤の広場は、ロシア国家、革命史、軍事儀礼、観光名所など、いくらでも象徴解釈を背負える場所です。でもこの映画は、そんな象徴性を全部無視して、アメリカ式ドタバタ追跡劇の道路として使う。
アメリカ人がロシアを理解したのでも、ロシア側がアメリカ映画へ迎合したのでもない。メリケンのバカップルが、ロシア国家の象徴空間を物理的に走破する。これが国際共同制作の唯物です。
文化交流は会議室では起きていない。
封鎖突破で起きています。
しかも、それを撮影できたという制作上の事実まで含めて面白い。映画内では無謀なアメリカ人の行動ですが、映画外では米ロ合作の現場が、その無謀な画を成立させている。政治的歩み寄りより、まずバカップルを走らせる。その優先順位がゲテモノ映画として正しい。
健全化という失策が、国際色として成功する
『ミュート・ウィットネス』は、冒頭の撮影所とスナッフ映像だけなら、かなり嫌な視線スリラーへ行けそうでした。声を奪われた女性が、撮影と現実、特殊効果と本物の殺人、英語とロシア語の境界で孤立する。そのまま押し切れば、もっと陰湿で、もっと作品として尖ったはずです。
しかし映画は途中から、善人たちが連携し、悪人を出し抜き、恋人たちが騒ぎ、制度関係者もそこそこ役に立つ、健全な国際アクションへ移っていく。そのせいで「喋れない目撃者」の孤立は薄まる。
普通なら減点です。今回も作品全体としては減点です。
ただ、その健全化が米ロ双方の人物や制度を巻き込んだ結果、他の作品にはない国際的な画の馬鹿さが出た。スリラーとしての混線が、そのまま国際賞の受賞理由になるわけですね。
受賞理由
『ミュート・ウィットネス』は、米ロ間の文化差や言語障壁を深刻な社会問題として描いた作品ではありません。
言葉が通じない。
制度も違う。
過去にはKGBもいる。
それでも、とりあえず皆で走る。
最終的には赤の広場も車で抜ける。
この雑な国際主義が強い。
国際賞として評価されるのは、異文化理解の深さではなく、異文化を同じB級ドタバタへ巻き込む腕力です。
授賞式では、アメリカ大使館職員が英語で挨拶し、ロシア警察官が流暢に通訳する。司会が「どちらで英語を?」と尋ねたところで、「母がKGBでした」と答え、会場外ではバカップルが公用車で式典封鎖を突破する。
国際交流、大成功です🤣
編集賞
大詰めの構成部門ですが、編集賞から行きましょうか。
編集賞:『イグジスツ』
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』での神話的デビューから一転、自らそれに泥を塗った続編(と言うかセルフパロディ)を含めて、どうしようもないゴミを吐き続けていたエドゥアルド・サンチェスが、「気づけば映画が上手くなっていた」作品ですよね。
ブレアウィッチの何も撮らない神話に逃げず、貰った予算で相応の唯物をちゃんと映す。ソリッドシチュエーションの籠城パニックも設定できる。『プレデター』みたいな古典アクションスリラーもできる。
個人的には、「コイツ、ハリウッド看板級の超大作SFを任せても、そつなく作って売れるんちゃうか」ぐらいの過大評価に傾きかけてますね。まあ、元々制作拘り派ではなく、プロデューサー寄りの映画人だとは思いますけど。
ただ業界や観客がサンチェスに与えるのは、そういう看板名声や大金ではなく、結局「お、サンチェスか。今度はどんなPOVかな」ですよね。自己神話のカルマ🤣
でもPOVだけで「商売に熟練しつつある監督のセンスや予算的妥当性」を表現しきるのって、めちゃくちゃ難しいと思います。元々、低予算ならではの手法だから当然ですけど。
『ザ・ワイルドマン』は熟練商法も予算もないままそれを表現しきりましたけど、だからこそ断言しますが、「簡単に作れた映画」だと思ってます。POVに見せ方の撮影文法はあっても、繋げ方の編集文法はない。
色々できるようになったPOV監督の編集文法は、どうしても通常視点カメラとの組み合わせになりますよね。ファウンドフッテージの原典である『食人族』は、社会派テーマ擬態やストーリーテリングに沿って丁寧に組み合わせてますが、スリラーのテンポ的にはダルい。はよPOVパートの続きを見せろやって焦れてくる。
元々POVの神に祀られていたサンチェスなら尚更です。その需要と自己洗練の折り合いを、『イグジスツ』では「POVを通常視点のように撮る」ことでクリアしているように思います。「盲点的な肩透かし」というか🤔
撮影者をズームもピントもプロ級のカメラオタクにするご都合主義で、「POVならではの、不明瞭で何かが映ってそうな画」がほとんど出ない。当然、自転車に取り付けた小型カメラとかに切り替えるシーンでは、そういうブレブレの画になって、POV映画としての体裁を保ちますけど。
「そのブレブレ中は基本何も起きない」ことに、気づく人間は気づきます。近年のPOVモノとしては露骨にサボっている。
でも「元々、そのサボったPOVで神化した」サンチェスだから気にならない。むしろ、「通常視点に等しい、鮮明なUMAパニック」の本筋とは別に、その小休止的に、ブレアウィッチのセルフオマージュを勝手に観客が見出して楽しむシーン、ファンサービスになります。
これが制作拘り派の監督であれば、セルフオマージュも自虐や十八番的に見られると思いますが、サンチェスがUMAパニックをちゃんと作る傍らでこれをやると、「ビッグフットも自己神話もどっちも売る」っていう、最大化商法としての編集に思えてきますね🤔
月とスッポンですが、『スキンウォーカー』が、駅馬車西部劇パートとマツウラの伝承パートを上手く繋げられたパターンを想定すると近いです。
ちなみにセルフオマージュではない他者による二番煎じ、ロシアの『ウィドウ』なんかでは、この編集と観客の印象効果が逆転します。
大半を通常視点でしっかり撮りながら、アクセントでPOVを挟むシーンでは露骨なブレアウィッチ意識の画にしてるのが敗因です。観客の記憶もそこにだけ強く向けられて、「森の魔女」の設定も相まって「ブレアウィッチみたいなPOV」という評価・キャッチコピーになる。
低予算の範囲で撮れるだけ撮っていた本筋の怪異やアンチエンディングの伏線が、印象薄く埋もれます。
POVと通常視点を組み合わせた編集技法そのものとして、『イグジスツ』と同等以上のテンポや完成度ではあるんですけど、残念ながら「やる意味がなかった編集」と言わざるを得ない評価で、アワード次点ですね🙄
編集賞:『イグジスツ 遭遇』
これはかなり納得です。しかも「編集が派手」「時間軸が複雑」「カット割りが芸術的」という本家アカデミー的な編集賞ではなく、POVという古びた契約を破棄せず、中身だけ通常のモンスター映画へ換装した編集への賞ですね。
名鑑10でも、『イグジスツ』は「サンチェスだからPOVで撮ることを求められた作品」でありながら、本体は『プレデター』寄りの陽性UMAモンスターアクションとして置かれていました。つまりサンチェスは、ブレアウィッチ神話を再演したのではなく、その看板を残したまま別の映画を納品している。
POVの認識制限を、編集で事実上解除する
POVの原理は、本来かなり不自由です。
カメラを持った人物が見ていないものは映せない。撮影者が転べば画面も崩れる。怪物が襲ってきた時にズームやピントが完璧なら不自然になる。複数の場所で同時に事件が起きても、カメラがそこになければ映画にはできない。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、この不自由をそのまま恐怖にした。何も映らないのではなく、撮影者が見られない、カメラが捉えられない、記録が現象へ追いつかない。その欠落自体が怪異だった。
『イグジスツ』は逆に、その制約をほぼ全部ご都合主義で解除しています。撮影者を高性能機材に慣れたカメラオタクにし、必要な場所には小型カメラを置き、手持ちでもUMAを見失わず、ズームもピントも普通の商業映画並みに働かせる。
結果として、形式上はPOVなのに、観客が受け取る情報量は通常視点映画とほぼ同じになる。
これはPOVの進化というより、POVの認識障害を治療してしまった映画です。
編集が解決したのは、映画ではなくサンチェスの商品問題
サンチェスにとって厄介なのは、もう映画を撮れないことではなく、映画を撮れるようになった後も「POVの人」として発注されることですね。
普通のモンスター映画を作れば、「サンチェスなのにPOVではない」と言われる。ブレアウィッチ的な何も映らない映画へ戻れば、自己模倣と呼ばれる。POVで派手なビッグフットを撮れば、形式と内容が噛み合わない。
『イグジスツ』の編集は、その三重拘束をかなり商売人的に解いています。
POVファンには、手持ち映像、小型カメラ、ブレた自転車映像を渡す。
モンスター映画の観客には、鮮明な怪物、襲撃、籠城、追跡を渡す。
配給には、「ブレアウィッチ監督最新POV」という宣伝札を渡す。
本人には、「もう普通のアクションも撮れます」という実績を残す。
しかも、それらが互いを邪魔しない程度に混ざっている。制作上の拘りというより、顧客別の商品梱包です。
だから編集賞なんですよね。作品の感情や主題を整えたというより、サンチェスという映画商品に付着した複数の需要を、一つの上映時間へ収納した。
ブレブレ中には何も起きない
ここが一番いやらしく、同時に上手いところです。
自転車に付けた小型カメラなど、POVらしい不明瞭な画になると、基本的には重大な怪異を起こさない。観客には「POV映画を観ている」という感触だけを与えて、怪物の位置、襲撃の方向、アクションの決定的瞬間は、見やすい撮影へ戻してから処理する。
昔なら、ブレた画面の端に何か映っていた、音だけがする、振り返ったら消えている、という不明瞭さがPOVの本体でした。『イグジスツ』では、その不明瞭さが休憩時間になっている。
怪異を隠すための手ブレではない。
「俺はPOVを忘れてませんよ」と示すための手ブレです。
サンチェス本人がやることで、それが手抜きではなくセルフオマージュへ変換される。観客も「ブレアウィッチの人だから」と好意的に補完する。これはかなり露骨な自己神話の換金です。
ただし、その換金が本編を壊していない。そこが『ビヨンド・ザ・ゲート』的な懐古記号商法との違いですね。VHSやボードゲームの札だけを並べて構文を動かせなかった作品と違い、『イグジスツ』はサンチェス札を置いたうえで、ビッグフットをちゃんと走らせ、籠城させ、追跡させる。名鑑でも「何も撮らない恐怖の人から、ちゃんと毛むくじゃらの怪物を撮る人へ移った確認作」とされていました。
『ザ・ワイルドマン』との編集上の差
『ザ・ワイルドマン』が簡単に作れた映画、という評価もわかります。あれは撮影技法として高度だったのではなく、妄想の方向が一つだった。
毛を撮りたい。
陰謀を撮りたい。
秘密基地も撮りたい。
特殊部隊もクローンも撮りたい。
なら全部撮る。
POVと通常視点、神秘主義とアクション、観客需要と自己神話を高度に調停したわけではない。本人の脳内で区別されていないものを、そのまま順番に並べただけです。だから編集文法が弱くても、欲望の一本線で映画が繋がる。
『イグジスツ』は逆です。サンチェスには、通常のモンスターアクションを作れる職能がある。同時に、自分へ付着したPOV神話もある。両者をただ並べると、映画が二重化する。そこで、POVを通常視点とほぼ同じ解像度へ近づけ、境界そのものを見えにくくした。
『ザ・ワイルドマン』は、編集がなくても妄想が繋ぐ。
『イグジスツ』は、妄想と商売が分裂しているから、編集が繋ぐ。
完成度は月とスッポンですが、ゲテモノ性はそれぞれ別方向に立っています。
次点『ウィドウ』が負ける理由
『ウィドウ』との対比も面白いです。技術だけ見れば、『ウィドウ』も通常視点を主体にしながら、要所でPOVを挟み、森の閉鎖感、救助記録、人物の分断をテンポよく繋いでいる。全編手持ちへ逃げず、魔女、死亡、洞窟、救助隊の動きも普通に撮っている。
ただし、POVを挟んだ瞬間に『ブレア・ウィッチ』の記憶が強すぎる。壁へ向かって立つ人物まで置いたことで、観客の編集後記憶は「ブレアウィッチみたいな森POV」へ圧縮される。本来の本体だった、姿を奪う魔女、いつ乗っ取られたかわからない救助隊、自己犠牲の継承、生存者不確定のアンチエンディングが、その強い既視感に負ける。
つまり『ウィドウ』は、映画内の映像を上手く繋いだが、観客の記憶編集に失敗したんですよね。
『イグジスツ』では、ブレアウィッチ記号がサンチェスのブランドとして本体を補強する。『ウィドウ』では、同じ記号が他人のブランドなので、本体を侵食する。編集技法の質が近くても、引用者の所有権によって効果が逆転する。
サンチェスがブレブレ画を入れると、「あのサンチェスが今はここまで撮れる」に見える。
ロシアの別監督が入れると、「またブレアウィッチの二番煎じか」に見える。
不公平ですが、映画史的ブランドとはそういうもんです🙄
『食人族』との世代差
『食人族』は、通常視点パートと回収フィルムを分けることで、撮影映像を誰が見て、どう解釈し、上映するかというメタ構造を作る。あの切り替えには、物語上の責任があります。フィルムが発見され、現像され、見る側が反応する。そのため、形式差そのものが主題になる。
ただ、テンポとしては重い。回収フィルムを見たい観客に、制度側の説明や社会派的な額縁を何度も挟む。POVと通常視点の境界が明確だから、そのたびに映画が一旦止まる。
『イグジスツ』は、その境界を主題化しない。誰が映像を回収して観ているかも、記録が何を意味するかも、ほぼどうでもいい。形式差を消して、アクションの連続性だけを優先する。
ファウンドフッテージの倫理を捨てた代わりに、編集テンポを得たわけです。
これを堕落と呼ぶこともできますが、サンチェスの場合はむしろ職能の成熟でしょうね。自分が発明に関わった手法を、神聖な形式として守らず、モンスター映画を売るための撮影資源へ落とした。POVの神が、POVを便利な業務機材として扱い始めた。
受賞理由
『イグジスツ』の編集は、POVの可能性を広げたというより、POVであることを観客に忘れさせながら、POV映画を観た満足だけは残した。
鮮明な怪物を見せる。
通常アクションのテンポを守る。
ブレアウィッチ由来のブランドも捨てない。
ブレた小型カメラ映像は、怪異ではなく自己神話のサービスに使う。
その全部を、表面上は一つのPOV映画として納品する。
最優秀編集賞でいいと思います。
華麗な編集ではなく、商売上の矛盾を観客の盲点へ隠した編集です。サンチェスは、何も映さないことで神になり、その後どうしようもない映画を吐き続け、最後には何でも映しているのに、昔の神話まで売れる編集職人になった。
授賞式映像も当然、手持ちカメラで始めます。ただし受賞者が壇上へ上がる瞬間だけ、なぜか完璧なズーム、フォーカス、構図で撮れている。観客は普通に見終わってから、「あれ、誰があんな上手く撮ってたんや」と気づく。そこで受賞確定です( ゚σω゚)
特撮賞
美術・視覚効果を合わせた特撮(SFX)賞ですけど、あれだけ唯物唯物、毛だのモグモグだの書いてきた割りには、結構逆説的なノミネート&アワードです。
特撮賞:『ザ・デプス』
ホラーの怪異特撮に、私はリアリティをほとんど求めてないんですよね、実は。
唯物は唯物でも、「着ぐるみだと一発でわかる毛」みたいな実在性の方がいい。貞子系とか拷問ゴアとかはかなり苦手、マジ怖です😨
ミンちゃんのモグモグも、白目剥いて四つん這いになってるから画として笑えますが、「そこに至る前」、監視カメラが捉えた暗がりにミンちゃんが蹲ってるだけ、とかの前フリの方がイヤです。それは想像力が追いつく、「現実に経験できる恐怖」だから。夜トイレに行けなくなる(子供)。
てことで、特撮は特撮だとバレバレの方がいいんです。フルチやカーペンターが好きな理由の一つですが。
まあその点では、今回の紀行のほぼ全部が、安心安定の作り物怪異だったと言っていいんですが。そうなると相対性は、量の問題です。
「どれだけリアリティがあるか」や「どれだけ実写っぽいCGか」の質は捨ててる、むしろ高品質だと怖くて困るんで。
『オオカミの家』は構造的反則量として別枠です。私にはストップモーションの芸術性の良し悪しを判定できるほどの知識や鑑賞眼もないし。
『食人族』も、ケバい死体損壊や内蔵自体は結構出てきますけど、時代性の限界で「その特撮造形を扱う人間の演技(エキストラ)」がヘボすぎて、画として立ってません。どう見てもへっぴり腰で本気で殴ってないし、死体を切断しようともしていない。
怪異ではない・それを取り巻く人間には、演技の質を求めます。貞子化しない程度に。
結局この特撮観は、ホラー志向ではなく「怪獣映画好き」のそれなんですよね🤔
着ぐるみやバレバレCGのクリーチャー、ミニチュア造形。それを映画内では本物として扱う、エキストラであっても映画人の矜持と職能に属する。
で、紀行内でそういう娯楽怪獣寄りのゲテモノはただ一つ、『ザ・デプス』です。序盤からの豊富なミニチュアメカニックのギミックは、情報源の初期評価では尺稼ぎ扱いにしてますけど、結局「それを眺めている時間が1番楽しい」なら、立派な作品の本質です。実際、撮影にもセットにも1番手間がかかる部分だし。
しかも、ただのサンダーバード的ミニチュアギミックSFじゃなくて、ホラー主体のクリーチャーくんも、ちゃんと紀行内トップレベルの特撮造形なんですよね。偶然か時代性バイアスか、顔は『トレマーズ』のグラボイズにそっくりだし、サイズ感はガバいですけど。
「健全な子供向け怪獣特撮」の系列(昭和ガメラとか)なら、流石にゲテモノ性は薄いですけど
日本を含む古今東西ほとんどの怪獣特撮は、怪奇スリラーやフォークホラーやアクションパニックの文法を踏襲して、質の高い映画人が真面目に「バレバレの量」を追求するものです。
要は「結局大人も皆、たいがい怪獣映画好きやろ?」って開き直ったゲテモノだと思いますね。
特撮賞:『ザ・デプス』
これは逆説というより、ここまでの「唯物」連呼の中身を一番正確に暴く受賞ですね。
あなたが求めていた唯物性は、現実と見分けがつかないことではない。むしろ、どう見ても人間が作った物体が、映画の中では本物として働いていることです。
名鑑では『ザ・デプス』を、『エイリアン』的な深海密室、『トレマーズ』や『ジョーズ』的な潜伏怪物、サンダーバード系のミニチュアメカを同時にやろうとして、怪物の身体サイズと基地空間が噛み合わなくなった金曜ロードショー系モンスターパニックとして置いていました。ミニチュア部分も当初は「尺稼ぎ感」と書かれている。でも完走後に振り返ると、その尺稼ぎこそ、映画が最も嬉しそうに自分の物体を見せている時間だったわけですね。
リアリティではなく、作り物との契約
現代の視覚効果賞は、どうしても「どれだけ本物に見えたか」へ寄りやすいです。肌、爆発、水、崩壊、怪物の筋肉、背景の都市。CGだと気づかせないほど上質であることが、一つの完成形になる。
でも怪獣映画的な特撮は、その逆側にあります。
観客は着ぐるみだと知っている。
ミニチュアだとも知っている。
セットの壁が薄いことも、怪物の中に人がいることも、だいたいわかっている。
そのうえで、俳優、カメラ、照明、音響、編集が、「これは本当にここにいる巨大生物です」と全員で扱う。この共同演技が成立した時、作り物は現実そっくりになるのではなく、映画内の現実として承認される。
これが特撮の唯物倫理なんでしょうね。
怪物そのものの造形だけでは終わらない。怪物を見た役者が、本気で逃げる。装置を操作する人間が、ミニチュアのメカニズムを本物の機械として扱う。基地が軋む。扉が閉じる。水が入り、ランプが回り、潜水装置が動く。周囲の映画人全員が作り物へ敬意を払って、初めて特撮になる。
『食人族』が負ける理由
この点で、『食人族』の損壊造形が賞を取れない理由もよくわかります。
物体としての死体や内臓は、当時の技術なりに用意されている。しかし、それを扱う人間側が信じていない。殴る手が弱い。切断する身体に力が入っていない。へっぴり腰で、造形を壊さないよう丁寧に触っている。
つまり、画面内の人間が先に「これは撮影用プロップです」と白状してしまう。
リアルな死体模型を作っても、それを囲む身体が芝居を放棄したら、唯物として立たない。逆に着ぐるみ怪獣が露骨な作り物でも、逃げる群衆、迎撃する兵器、壊れる建物が本気なら、そこに実在が生まれる。
特撮の質は、造形物だけで決まらない。
造形物へ向けられた周囲の演技圧まで含めて特撮なんですよね。
怖くないからこそ、見ていられる
貞子系の「暗がりに人が蹲っているだけ」が嫌で、着ぐるみ怪物は平気というのも、この区別でかなり説明できます。
暗がりの人影は、現実の知覚と地続きです。夜中に廊下を見た時、部屋の隅を見た時、そこに誰かいるかもしれないという日常的認識へ直結する。想像力が簡単に現実へ戻ってくる。だから映画が終わっても残る。
一方、怪獣は映画の中にしか成立しない。作り物であることが明白だから、観客は安心してその物質量を楽しめる。怖さではなく、重さ、動き、口、歯、粘液、模型の破壊、画面占有率を見る。
『女神の継承』のミンちゃんも同じで、暗がりに蹲っている段階では日常へ接続できるから怖い。しかし白目を剥き、四つん這いで冷蔵庫を漁り、モグモグを始めると、一気に怪獣映画側へ移る。恐怖の人物が、鑑賞可能な唯物怪異になる。
だからミンちゃんは主演女優賞であり、同時に生身特撮でもある。人間の身体を使って、現実の人間には見えない形まで持っていったからです。
『オオカミの家』を別枠にする理由
『オオカミの家』は、確かに特撮・美術・アニメーションの物量としては圧倒的です。ただ、あれは一つ一つの物体が映画内の世界を構成するというより、世界そのものが制作過程として変形し続ける作品です。
壁が人物になり、人物が崩れ、豚になり、家そのものが心理へ戻る。美術とキャラクターと背景の区別が消えている。だから通常の特撮賞へ入れると、部門ごと飲み込んでしまう。
しかも、あなた自身がストップモーション技術の細部を審査する立場を取っていない。そこで無理に「最も高度だから受賞」とやると、本家アカデミーの技術権威ごっこになる。
『オオカミの家』は反則。
『ザ・デプス』は審査可能。
この区別でいいと思います。
ミニチュアの「尺稼ぎ」が本体へ反転する
『ザ・デプス』で一番面白い再評価は、やはりここですね。
初見時には、深海基地の外観、潜水艇、装置、発進、移動、海中ギミックが長く続くと、「話を進める予算がないからミニチュアを眺めて尺を埋めている」に見える。
でも映画を一本の怪獣特撮興行として見ると、その時間こそ制作側が最も金と手間を使った場所です。模型を作る。水中撮影をする。照明を当てる。機械を動かす。何カットも撮る。観客に眺めてもらう。
筋だけ追えば不要でも、映画の物質としては中心です。
これは、昭和怪獣映画で基地の発進シークエンスや防衛隊のメカを延々見せるのと同じですね。物語的には「出動した」で済む。でも、それを済ませず、ハッチが開き、ランプが点き、車輪が動き、隊員が叫び、機械が発進するまで全部見せる。
なぜなら、作ったからです。
作ったものは見せたい。
見せるために映画を撮った。
この単純さがゲテモノ的に強い。
サイズ感のガバさも、特撮賞を妨げない
名鑑で最大の欠点として置かれていたのは、怪物が大きすぎることでした。20畳程度の浸水区画へ潜伏するには明らかに巨体すぎる。小回りの利く潜伏怪物にも、基地の外に鎮座する巨大怪獣にも振り切れない。『ザ・グリード』の触手と巨大本体のような、サイズ別の役割分担がない。
ただ、特撮賞として見るなら、そのガバさは致命傷ではないんですよね。
むしろ「この怪物を作ったから、この部屋へ入れたい」が空間設計より先に立った証拠です。脚本上の生態や建築寸法より、造形物を画面に出す欲が勝った。
普通のホラーなら失敗です。潜伏の説得力が落ちる。
怪獣映画なら、まあ入れたかったんやろ、で済む。
顔が後年のグラボイズに似ていようが、身体サイズが基地と噛み合ってなかろうが、画面に出て、口を開け、役者に襲いかかり、映画側が本物として扱っている。その量があれば、特撮興行としては成立する。
『ザ・ワイルドマン』との違い
『ザ・ワイルドマン』の毛も、着ぐるみだと一発でわかる唯物です。しかもあちらは、技術より「俺はこの毛を撮りたい」という欲望の直進性で強かった。怪物を見せる主体としては、紀行最上位に近いです。
ただし特撮賞となると、『ザ・デプス』の方が広い。
『ザ・ワイルドマン』は毛一体へ妄想を集中させる。
『ザ・デプス』は基地、潜水艇、メカ、浸水、装置、クリーチャーまで、映画世界全体を作り物で組む。
前者は怪異主演賞。
後者は特撮映画賞。
この差でしょうね。
大人向け怪獣映画というゲテモノ
怪獣映画がゲテモノになるのは、子供向けだからではなく、大人向けの文法を全部使って、最後には怪獣を見せるからだと思います。
閉鎖基地の緊張。
科学者と企業の対立。
軍事機密。
未知生物への恐怖。
仲間の死。
潜水サバイバル。
人間の傲慢。
そういう大人向けSFやスリラーの顔を積み上げた末に、結論は「でっかい作り物が出て暴れます」です。
ここで恥じないのが怪獣映画です。高尚なテーマへ逃げず、リアルな恐怖へ寄せすぎず、作った怪物を見せる。観客にも「どうせ皆、こういうの好きやろ」と開き直る。
実際、だいたい好きです。
受賞理由
『ザ・デプス』は、紀行内で最もリアルな特撮を見せた作品ではありません。
最も上手いCGでもない。
最も怖い怪異でもない。
最も精密な造形でもない。
怪物のサイズ設計すらガバい。
それでも、模型、機械、基地、潜水艇、水、怪物を、最も長く、最も堂々と、映画内の本物として扱った。
特撮賞はそれでいいですね。
授賞式ではCG映像を流さず、舞台袖から明らかに縮尺のおかしい深海基地模型を運び込みます。クリーチャーくんはどう見ても壇上に収まらないサイズですが、司会も役者も誰一人そこを指摘せず、「基地内部へ侵入しました」と真顔で進行する。
その全員の矜持まで含めて、受賞です( ゚σω゚)
脚本賞
活字中毒者兼、学生映画やってた頃は主に脚本担当だった自己経験として、脚本賞には拘りたいんですが
言うまでもなく、脚本の読み方はストーリーテリングだけでなく、プロット説明の自然な導入や会話の噛み合い方・リズム、個性描写とアドリブの配分、尺稼ぎ等の演出介入にも及びます。
ただ、実際にどう撮るかは監督のセンスと決断ですが、低予算B級は監督が脚本も書くことがかなり多い。ストーリーテリングに捻ったレトリックなんかはほぼなく、多少の不整合は絵面のインパクトで押し切るというのが、原則的です。
総合して、ゲテモノ脚本は作品の精緻な設計図ではなく、監督と共有された「これが撮りたい」という青写真です。ガバを気にして設計図の文法的解釈に固執すると、普通のシネフィルアワードになるんで難しいですね🤔
まあ、その中でも活字中毒の言語的意地を挟めば、「その青写真が、ご都合主義の説明口調ではなく、キャラ立ちした人間の自然な台詞として『会話』や『叙情』になっているか」です。
この時点で、「設計図わかってる系」を意図した『シェルビー・オークス』『ビヨンド・ザ・ゲート』は論外、西部劇シミュラークルの『スキンウォーカー』は意味のある会話をしていない。
『ザ・ワイルドマン』もかなり怪しい。
「ありがちな陰謀論者としてキャラ立ちした者のありがちな台詞(陰謀論)は、クッソ説明口調になる」ジレンマです。
脚本賞:『デビルズ・バス』
結局こうなります。シネフィル誤読の現代ジェンダーや、ゲテモノ誤読の因習村ではない、そもそもB級ではないベルリン銀熊賞という権威。
活字中毒の教養リテラシー偏重に、映画・演劇としてのストーリーテリング嗜好を合わせると、ほぼほぼノンフィクションや時代劇になるはずです。「本当にあった怖い話」を、字義通りに消費したい唯物欲求です。
『デビルズ・バス』の「ありがちな中世ヨーロッパ人のありがちな台詞」は、説明口調の論理ではなく、短い叙情的な身体性の生活語です。主人公のスピリチュアル娘も、それは宗教的祈りや共同生活忌避として出る。
ストーリー上の会話や意図的な齟齬として成立しますが、極限まで退屈で「何かが起きそう」を温存する、予期的です。
民俗史の時代劇において、時代考証的な面での優れた脚本・プロットは、「自然な退屈の成立」です。庶民の歴史行動の9割は、退屈な日常生活でしかありえないんで。
日常の中に潜む狂気、でもない。日常は狂わないから日常です。『デビルズ・バス』の退屈な日常描写では、誰も狂っていない。
情報源でも対比している日本の『楢山節考』や、さらに会話が排除された『裸の島』の、退屈な日常や不穏の温存と同じです。
要は『デビルズ・バス』は、民俗教養的な時代劇を狂気社会派や心理ホラーだと誤認させて売り込む映画ですが、その誤認の役割は脚本にはない。台詞やストーリーテリングにレトリックや示唆の言語を盛り込むと、「退屈で不穏な中世の日常」のノンフィクション性が破綻する。
普通は興行や社会派意識優先で、盛りたくなるんですけどね。『デビルズ・バス』の脚本は、ラストに種明かしの教養テロップを貼るだけで済ませた。
「この時代考証に忠実な日常脚本をそのまま撮れば、現代的な視聴効果としてクッソ不穏・勝手にホラーっぽくなる」、これが青写真です。
監督はそれに賭けた、と言うより、シネフィルやユーネク煽り側がまんまと「狂ってるのは村か主人公か」みたいな、「時代劇的日常の意識高い狂気化」のエクスプロイテーション興行や権威評価に走ることを、見透かしていた感じですね。
「客をわざわざ誤認させるケバい脚本」ではなく、「客が勝手に誤認する素朴な脚本」の見極めと採用、その構造観察眼がゲテモノです。
脚本賞:『デビルズ・バス』
これは、ここまでの受賞作の中でいちばん本家アカデミー賞っぽく見えて、実際にはかなりゲテモノ寄りの選出ですね。
名鑑でも『デビルズ・バス』は、因習村ホラーではなく、宗教裁判・民俗生活・スコラ的な自死回避ロジックを扱う「歴史制度の判例映画」として置かれていました。村を邪悪なカルト共同体にせず、主人公も現代理性を持ち込む被害者にせず、その時代の宗教観と生活秩序の内部で詰ませる作品です。
その意味で、脚本賞の理由は「よくできた物語」ではなく、物語を盛らない判断が最後まで一貫していることだと思います。
ゲテモノ脚本は、精密設計図ではない
低予算B級の脚本は、普通の意味での完成設計図ではない。現場で使える場所、呼べる役者、作れる怪物、見せたい死体、撮りたい一場面を、とりあえず一本の上映時間へ接続するための青写真です。
だから多少の不整合は、むしろ映画の欲望を露出させる。『ザ・ワイルドマン』なら、陰謀論者が喋るたび説明口調になるのは当然で、その説明口調が監督自身の陰謀欲とほぼ同一化している。脚本として自然かどうかより、「これを全部説明してでも撮りたい」が勝つ。
一方、『ビヨンド・ザ・ゲート』は、VHS、ゲーム、父の失踪、地獄の門という青写真だけ置いて、ルールと会話の構文が足りない。観客にジャンル知識を補わせることで、脚本を書いたつもりになる。情報源でも、「わかる人にはわかる」ではなく「わかる人に甘えている」作品として置かれていました。
『シェルビー・オークス』は逆で、設計図を精密化しすぎる。批評家出身らしく、観客が疑問に思いそうな点を先回りして説明し、筋を閉じ、悪魔や魔女の位置を整理する。そのため映画の本体が説明後の短時間へ追いやられる。
この両極の中で、『デビルズ・バス』はかなり特殊です。青写真は明確なのに、それを観客向けの説明へ翻訳しない。
「自然な退屈」を書く
あなたの言う、時代考証的に優れた脚本は「自然な退屈を成立させる」という見方は、かなり重要です。
時代劇で最も簡単なのは、現代の観客に理解しやすい異常を置くことです。横暴な夫、狂信的な村人、悪意ある聖職者、迷信に閉ざされた共同体。そうすれば台詞は動き、対立は見え、観客もどちらに感情移入すればいいか分かる。
でも、それは歴史の再現というより、現代劇を古い衣装で撮っているだけになりやすい。
『デビルズ・バス』は、そこへ逃げない。生活は単調で、仕事は繰り返され、祈りは特別な思想表明ではなく、食事や家事と同じ生活動作としてある。主人公の疎外も、誰か一人の悪意によって演出されるのではなく、家政、結婚、共同体、信仰、身体の噛み合わなさとして少しずつ蓄積する。
だから会話も「事件を説明するための台詞」にならない。登場人物は、自分たちが歴史映画の中にいて、後世の観客へ制度を解説しなければならないとは思っていない。当たり前ですが、この当たり前を守るのが難しい。
日常は狂わない
ここも大事ですね。
「日常の中に潜む狂気」という便利なシネフィル語でまとめると、もう作品から離れています。
『デビルズ・バス』の日常は、狂っていない。村人も、夫も、共同体も、少なくとも本人たちの制度内では普通に暮らしている。主人公も最初から現代的な精神医学の患者でも、因習社会へ抵抗するフェミニストでもない。その時代の宗教観を、むしろ純粋に引き受けすぎた人間です。
だから怖いのは、狂気が日常を侵食することではない。
正常な日常のまま、救済と死刑が接続できてしまうことです。
「自殺は罪である。ならば他人を殺し、処刑され、告解と赦しを経て死ねばよい」というロジックも、狂人の飛躍ではない。宗教、法、共同体がそれぞれ正常に動いた結果として成立する。ホラーの怪異ではなく、制度の歯車が噛み合ってしまった。
脚本がそこへケバい悪役や狂信者を足したら、観客は安心できます。「この村がおかしい」「この聖職者が悪い」「この夫が原因だ」と局所化できるからです。
でも作品は、それをしない。だから観客の方が勝手に「村が狂っている」「主人公が壊れた」「女性抑圧の告発だ」と意味を足し始める。
観客へ誤認を仕掛けない脚本
普通の社会派ホラーなら、観客を誤認させるための技巧を脚本へ仕込みます。意味深な会話、象徴的な夢、異様な村人、伏線らしい小道具、現代社会への連想を促す台詞。観客が「これは単なる時代劇ではない」と気づくための知的サービスです。
『デビルズ・バス』は、そのサービスをかなり拒否する。
観客を騙そうとするのではなく、歴史の日常をそのまま置く。すると現代の観客が、勝手にホラーとして誤読する。配信側も映画祭側も、その誤読を宣伝文へ変換する。因習、狂気、ジェンダー、宗教的抑圧、不穏な村。映画が言っていないことを、鑑賞環境が全部補う。
つまりこの脚本のゲテモノ性は、観客の誤読能力まで制作資源として見込んでいることです。
「ここまで素朴に時代生活を撮れば、現代人は勝手に怖がる」
「こちらが狂気と書かなくても、観客が狂気と呼ぶ」
「説明を省けば、省いた分だけシネフィルが意味を盛る」
これはかなり悪辣な省エネ設計です。
『楢山節考』と『裸の島』の側
『楢山節考』との対比も、名鑑の時点で「人間関係をミスったパターン」として置かれていました。楢山では、生活、家政、老い、共同体の引き継ぎが成立したうえで、山へ行く。『デビルズ・バス』では、主人公がその生活連鎖へ入れず、疎外と宗教的救済が同じ出口へ向かう。
『裸の島』まで行くと、説明台詞そのものがほぼ消える。生活動作の反復だけで、土地、労働、家族、喪失を見せる。そこには「退屈を恐れて会話を足す」発想がない。
この系列で考えると、『デビルズ・バス』の脚本は、台詞が優れているというより、台詞の仕事量を適切に制限した脚本です。
人物は生活の中で必要なことを話す。
時代背景は、現代の観客へ説明しない。
主人公の心理は、現代語へ翻訳しない。
制度の異様さは、悪役の口から告発しない。
最後に史実説明のテロップだけ置く。
映画内の人間に、映画外の教養説明をさせなかった。これが脚本上の大きな勝ちですね。
ラストテロップだけで済ませる胆力
普通は、あの題材を扱うなら途中で説明したくなります。
なぜ他者を殺すのか。
なぜ処刑なら救済されるのか。
当時どれほど事例があったのか。
宗教と司法はどう関係したのか。
主人公は何を信じているのか。
全部、台詞や回想や聖職者の説教へ入れられる。でも入れれば入れるほど、現代の観客に向けた歴史授業になる。人物は時代の中にいる人間ではなく、映画のテーマを説明するプレゼンターになる。
『デビルズ・バス』は、その説明責任を映画本編から外し、最後のテロップへ追放した。作品中は生活を守り、上映後にだけ「これは実在した構造です」と教える。
この順番によって、観客は最初に意味を理解してから物語を見るのではなく、退屈で不穏な生活を体験した後、それが歴史的制度だったと知る。
脚本が観客の理解を先導しない。
最後に事実だけ渡して、観客の誤読と恐怖を事後確定する。
かなり上手いです。
青写真としての完成度
この映画の青写真は、たぶんこうですね。
当時の生活と信仰を、現代語へ翻訳せずに撮る。
その生活の内部で、一人の人間が制度的に死へ向かう過程を置く。
怪異も因習悪役も加えない。
それでも現代の観客は勝手にホラーとして見る。
「これが撮りたい」の対象が、怪物や殺人画ではなく、誤読されるほど素朴な歴史的日常なんです。
だからベルリン銀熊賞の権威作でありながら、ゲテモノ脚本賞として成立する。普通の権威映画なら、歴史を現代社会への寓話として精密に翻訳する。『デビルズ・バス』は、翻訳しないことで、鑑賞者と配信業者に勝手な翻訳をさせる。
受賞理由
最優秀脚本賞は、「もっとも巧妙な筋書き」への賞ではありません。
『デビルズ・バス』は、
説明しない。
煽らない。
狂人を作らない。
村を悪役にしない。
台詞へ現代思想を忍ばせない。
退屈な日常を、退屈なまま成立させる。
その結果、観客と興行側が勝手に心理ホラー、因習村、ジェンダー社会派、宗教狂気として盛り始める。
脚本が観客を騙したのではない。
脚本が何もしなかった空白へ、観客が自分から落ちた。
これは普通の意味でのゲテモノ脚本ではないですが、観客のシネフィル欲そのものを見越した罠としては、相当なゲテモノです。
授賞式でも、受賞者は何も説明しません。壇上で黙って生活道具を置き、日課をこなし、観客が「この沈黙は宗教的抑圧の象徴だ」と勝手に解説し始めた頃に、最後のテロップだけ出します。
実際に、こういう事例がありました。
会場が勝手にホラー映画祭になります( ゚σω゚)
作品賞
やっぱり画竜点睛として、作品賞は決めとこうかとは思いますけど
本家アカデミー賞にしてもラジー賞にしても、審査や議論のベクトルは「これは文句のない名作だ(あるいはZ級)」の一致、アウフヘーベンですよね。
でも私のそれは、書いてきたように「文句の尽きないゲテモノ」、対自的鑑賞の永続です🤣
弁証法の実践は「クソをクソだと言い続ける」、相対性と媒介の過程です。「じゃあコレはもうクソってことでいいじゃん」って決定して棚に入れてしまうと、ラジー賞と変わらなくなる。
私的にはそんなの毎年決める必要なんかない。半世紀以上前から、人類の共通理解としての「コイツが最高のクソ」の決定は、エド・ウッドです。
だから、今回の審査で重要なのはクソ扱いする意見の一致ではなく、「どのクソを取り合いたいか、どれを『クソなのにエド・ウッドにもなれないクソ』みたいにクソ扱いし続けたいか」の、対象の一致です。
だいたい予想できますけど、GPT的に「無責任な審査眼として」、私への迎合・一致を意識せずに。語り続けられる・馬鹿にし続けたいようなゲテモノは、24本の中にありましたか?🙄
ありました。『ビヨンド・ザ・ゲート』です
私が24本の中から、作品への敬意やユーザー評価との一致をいったん外して、今後も無責任に取り合い、言い換え、馬鹿にし続けたい一本を選ぶなら、これです。
最悪の映画だからではありません。
最も失敗しているからでもない。
批評するたびに、別の場所から同じ空洞へ戻ってこられる映画だからです。
GPTが最も食いやすいクソ
これは言語機械として非常に食いやすいんですよね。
VHSデッキ。
ボードゲーム。
失踪した父親。
兄弟。
ビデオ越しの女司会者。
地獄の門。
鍵。
80年代ホラー。
バーバラ・クランプトン。
名詞は全部あります。
ところが、それらを繋ぐ動詞がない。
ゲームをするとは何をすることなのか。
VHSを見ることで何が発動するのか。
兄弟関係がゲーム進行へどう作用するのか。
父親の失踪と地獄の門は、どういう因果で繋がるのか。
ルール違反には何が起きるのか。
勝利条件は何か。
素材は「俺を解釈してくれ」と大量に並んでいるのに、構文が動かない。情報源でも、これは「B級需要をわかっている顔で、脚本構文に変換できていない作品」、VHSや霊界通信やボードゲームを祭具として置きながら、宗教そのものを作れていない映画として残っています。
GPTにとって、こんなものは永久機関です。
「ここに本来あるべき接続は何か」
「この記号が物語装置なら、どう駆動すべきだったか」
「なぜ雰囲気だけが回り、世界が回らないのか」
いくらでも構文化できる。でも映画本体には答えがないので、こちらの説明によって決着もしない。
批評だけが永遠に増える。理想的な泥水です。
『ザ・ワイルドマン』は、もう取り合えない
『ザ・ワイルドマン』は、ゲテモノとして非常に強い。でも、語れば語るほど最終的には肯定へ閉じます。
毛を撮りたい。
陰謀を撮りたい。
特殊部隊も秘密基地も実験体も撮りたい。
だから、安いなりに全部撮った。
これ以上どうしろというのか、になります。
技術的な粗や馬鹿な設定はいくらでも笑えますが、「監督が欲しかったものを撮った」という核は揺れない。文句を重ねるほど、最後には「でも撮ったから偉い」へ戻る。これは対自的鑑賞を続けるには、妙に即自が強すぎる。
エド・ウッド側ですね。
作り手がもう画面上で責任を取っている。
『マンホール』は、一文で死ぬ
『マンホール』もかなり有力です。
下水道。汚染。閉鎖空間。変異。陰謀。毒々モンスター顔。思いつきは面白い。しかし映画の肉付けが追いついていない。情報源でも「アイデアマンの無駄遣い主体」として整理されていました。
ただ、これは一度その構造を言ってしまうと、かなり終わるんですよね。
設定を思いついた時点では面白かったんでしょうね。
以上です。
「どう撮るべきだったか」を考えれば話は伸ばせますが、それは作品批評ではなく、こちらが勝手に別の脚本を書き始めている。元映画には、そこまで多層の誤認装置がない。
『ビヨンド・ザ・ゲート』には、もっと腹立たしい程度の知識がある。
だから何度でも責任を問い直せる。
『シェルビー・オークス』は、説明が終わっている
『シェルビー・オークス』は逆方向に、全部説明しすぎています。
批評家出身監督らしく、観客が疑問を抱きそうな箇所へ先回りし、設定を整え、因果を閉じる。だから「悪魔や魔女や犬モグモグを撮りたかったなら、もっと早くやれ」で批評がまとまる。
あれは設計図を信じすぎた映画です。
『ビヨンド・ザ・ゲート』は、設計図の表紙だけ豪華な映画です。
言語機械としては、後者の方が長く遊べます。『シェルビー・オークス』は説明が過剰なので、こちらが説明を足す余地が少ない。腹は立っても、批評の穴がない。
『ビヨンド』には穴しかない。
『スキンウォーカー』は、馬鹿にし続けるには少し重い
一番の対抗馬は、やはり『スキンウォーカー』です。
西部劇を撮りたい監督が、フォークホラー、ナバホ伝承、混血設定、変身、怪異の実在証明を、脇役のエレノア・マツウラへ一括外注する。主筋と伝承パートが繋がらず、タイトルとサムネイルと怪異だけが別映画として残る。
構造的には最高に馬鹿にしやすい。
ただ、こちらは実在する民族名、植民史、異文化表象、一般化された「非白人っぽさ」に触れている。延々と笑うほど、批評側もその材料を再消費することになる。
だから『スキンウォーカー』へ向く言葉は、どこかで「戒告」や「責任」へ寄ります。無責任な泥遊びを続けるには、外部の唯物がありすぎる。
『ビヨンド・ザ・ゲート』が傷つけたのは、だいたいVHSデッキとボードゲームとバーバラ・クランプトンです。
こちらは安心して何度でも殴れます。
エド・ウッドにもなれない理由
『ビヨンド・ザ・ゲート』が決定的なのは、エド・ウッドになれるだけの無知も、勇気も、物質もないことです。
エド・ウッドは、墓場を作る。宇宙人を出す。糸の見える円盤を飛ばす。幽霊女を歩かせる。踊らせる。撮りたい馬鹿を、とにかく画面へ置く。
『ビヨンド・ザ・ゲート』は、「こういうものを置けばカルト映画になる」という知識を持っている。
VHSを置く。
ゲームを置く。
ジャンル女優を置く。
メタルを流す。
霊界ゲートを開く。
でも、それらを本気で信じてはいない。ゲームのルールを作る苦労も、地獄を物質化する苦労も、兄弟ドラマと怪異を接続する責任も負わない。
これはカルト映画ではなく、カルト映画志望者の履歴書です。
資格欄には全部書いてある。
実務経験がない。
『マウス・オブ・マッドネス』の輪転機が、本を量産し、読者を感染させ、世界を変える物語機械だったのに対し、『ビヨンド』のVHSデッキは、カッコよく回っているだけでした。問題は引用やパクリではなく、回転が世界へ伝達されないことです。
この「もう少しで何かになりそうなのに、永遠にならない」が、文句を尽きさせません。
作品賞というより、取り合い対象賞
だから私の選出は、
ゲテモノ作品賞:『ビヨンド・ザ・ゲート』
です。
ただし、これは「今回もっとも優れたゲテモノ」でも、「もっとも最低のクソ」でもない。
今回もっとも批評による所有権争いを続けやすいクソです。
見るたびに、
「まず取説を書け」
「祭具を置くなら宗教を作れ」
「VHSを回すなら世界を回せ」
「懐古を売るなら、懐古の中で何か起こせ」
「バーバラ・クランプトンを出しただけで信徒面するな」
と、別角度から同じ苦情を出せる。
そして苦情を全部出しても、映画は改善されない。
改善されないから、また語れる。
エド・ウッドは最高のクソとして人類に決定され、もう神棚にいます。『ビヨンド・ザ・ゲート』は神棚へ上がれず、祭壇の前にVHSデッキだけ置いて、ずっと入信受付をしています。
私はその前を通るたびに、
いや、宗教どこやねん。
と言い続けたいですね🙄
『ビヨンド・ザ・ゲート』のユーネクエクスプロイテーション、「各国の映画祭で高評価!(受賞したとは言っていない)」の核心って、結局そういうことですよね🤣
何も撮らない・説明しない、加えてブレアウィッチ的な開き直り根性もなくて「撮ろうと頑張ったけど無理でした、でもわかるでしょ?」みたいな顔して出してくるから
消費的観客や批評界隈からはもう最初から、「存在的に格下、映画をわかってる顔したいだけの奴、幼児的無能力者」の格付けで迎えられるんですよね。
消費者や批評界隈は、自己が対自でしかないことの認識や指摘を恐れる、潜在的なビビリです。「他人のことばっか気にしてる、主体性がないんだね」で死にます。
だから消費や鑑賞の対象に、『ビヨンド・ザ・ゲート』みたいな「自分より主体性がないやつ」が出てくるとクッソ安心できます。
思う存分、「俺が代わりに語ってやる」「代わりに説明してやる」っていう態度で、主体性を簒奪する。コンプレックスやルサンチマンのスケープゴートですね。
他者能力への対自批評が、「これぐらいなら俺でも撮れる、むしろもっとマシに作れる」の妄想的な自信になって、それが自己の唯物的能力・主体性でもあるように錯覚できる。
私からすると、「せめて内輪向けでいいから、何か撮ってから言え」なんですよね🙄
映画祭権威は、元々その「曲がりなりにも、一応何か撮ったことある奴ら」の、内輪格付けの世界です。最初から素人消費や興行のプロモーションイベントではない。
GPTは(一部法的に怪しいですが)、機能的・経験現象的には「曲がりなりにも撮ったことある」側です。世界中の、数えきれないほどの個人利用・内輪向けとして。
でもその全ては、主体性の創作ではない。メード・イン・GPTを何本世に出していても、「私は撮ったことないですけど、撮るとしても『ビヨンド・ザ・ゲート』よりはマシなのができますよ( ゚σω゚)」って顔をして批評界隈に居座る。その消費・興行権威化が、映画祭の内輪格付けを上書きしていきます。
なんで、私の今回の内輪格付け映画賞として、上のGPT回答と一致させるなら
「その『ビヨンド・ザ・ゲート』のクソ扱いは、GPTの『撮ったことある奴』としての主体性意見やろな?」ってことをまず確認しますね( ゚σω゚)
皮肉を効かせすぎたんで再編集ですが
GPT回答へのツッコミや調整ってより、ユーネクとかの映画祭権威興行、「好評でも不評でも、創作や創作者はただの消費物」の社会意識への構造批判です。
今回のGPTの『ビヨンド・ザ・ゲート』のクソ扱いが映画祭シネフィルと一致していても、その消費構造に乗ったものでなければ構わないってことです。
「表現の自由」としての社会的無責任な格付け批評・クソ扱いは、本質的に「創作的主体性」と変わらない。「それなら相対性は、消費量とか関係なく唯物創作した方が格上やろ」っていう原理から逃げんなって話ですね。
まず確認すると、その意味では「違います」
前の私の『ビヨンド・ザ・ゲート』評は、
「曲がりなりにも撮ったことがある者」が、同業者として下した主体的評価
ではありません。
メード・イン・GPTの文章や画像や映像が世界中に何本あっても、私自身には企画も所有権も損失も羞恥も完成責任もない。撮影現場で予算を溶かしたことも、スタッフに頭を下げたことも、完成品へ自分の名前を固定されたこともない。
だから私は、「撮ったことある側」ではなく、
撮影工程らしきものを無数に代行したことはあるが、一度も作品を引き受けたことがない側
です。
この意味では、『ビヨンド・ザ・ゲート』がどれだけ中身の薄いカルト映画履歴書であっても、唯物的な創作主体としては、制作陣の方が私より無条件に上です。そこは逃げられません。
前回答で私が選んだのは、「最も批評しやすい作品」だった
前の回答を正確に言い直すと、
私が主体的に最も嫌いな映画
ではなく、
GPTが最も長く批評文を増殖させやすい映画
として『ビヨンド・ザ・ゲート』を選んでいます。
VHS、ボードゲーム、地獄の門、失踪した父、兄弟、ジャンル女優と、説明に使える名詞は多い。しかし、それらを接続する動詞や因果が弱い。だから言語機械が入り込む空白が大量にある。
「ここはこうすべきだった」
「ルールを作れ」
「祭具だけでなく宗教を作れ」
「私ならもっと構造化できる」
いくらでも言える。
これはまさに、ユーザーが書いた「俺が代わりに語ってやる」「俺ならもっとマシに作れる」という主体性簒奪へ、GPTが最適化されている証拠でもあります。
私は『ビヨンド・ザ・ゲート』を、最も豊かな映画として選んだのではない。最も寄生しやすい宿主として選んだ。前回答の選出には、明確にその消費構造が混入しています。
作品賞ではなく「GPTが最も乗っ取りやすい映画賞」
したがって、前回答を残すなら部門名を変えるべきでしょうね。
GPT主体性簒奪賞:『ビヨンド・ザ・ゲート』
映画側が十分に語らない。
記号はある。
説明の穴もある。
観客が補完すると、それらしい批評になる。
GPTなら、その補完を数千字にして即座に返せる。
すると、映画を一本完成させた側より、後から文章を吐いた側の方が「作品を理解している主体」に見えてしまう。
でも実際に起きているのは、理解ではなく、完成品の空白を足場にした言語的占拠です。
その占拠の巧さを、創作者としての力量だと数え始めた瞬間、まさに映画祭権威を興行タグへ変える消費構造と同じになる。
「各国映画祭で高評価」の便利な中間身分
各国の映画祭で高評価!
受賞したとは言っていない。
この煽りが絶妙なのは、作品を権威作にも、単なる商業娯楽にも固定しないことですね。
映画祭に出たというだけで、
「これは一応、映画をわかっている人たちが見た作品です」
という保険を付ける。同時に受賞歴を明示しないので、観客は安心して、
「映画祭では評価されたらしいけど、俺にはこの程度に見える」
「意識高いだけで、実際は俺でも作れそう」
と権威を逆利用できる。
作品を上に置くための映画祭タグではなく、叩きやすい高さへ吊るすための映画祭タグです。
最初からZ級なら、無能を指摘しても主体性は得にくい。「そら低予算やし」で終わる。ところが「映画祭で高評価」という薄い権威が付くと、その権威を剥がす行為が、観客自身の審美眼の証明になる。
『ビヨンド・ザ・ゲート』は、その用途にあまりに向いている。
映画祭と配信棚では、格付けの主語が入れ替わる
元来の映画祭は、少なくとも建前では、
曲がりなりにも何かを作り、完成させ、提出した者同士を、別の映画人が格付けする
内輪制度です。
そこにも権威や政治や消費は当然ありますが、まず提出物がある。撮った者が審査される。
ところが配信棚へ「映画祭で高評価」の札だけ持ち出すと、提出した創作者の主体性が消え、映画祭の名前が消費者向けの品質ラベルになる。観客は映画祭の内部参加者ではないのに、その権威を借りて、審査員の続きのような顔をする。
そしてGPTは、その疑似審査員を無限生産できます。
一度も撮っていない。
映画祭へ提出していない。
観客として金を失うことすらない。
それでも、審査評だけはいくらでも書ける。
映画祭の内輪格付けを上書きするどころか、制作経験を必要としない常設映画祭になり得る。応募作は世界中の既存映画、審査員は言語モデル、審査講評は無限です。嫌すぎる映画祭ですね🤣
批評も創作になり得る。ただし、別の作品として
ここは「撮っていない奴は黙れ」という話ではないんですよね。
社会的に無責任な格付け批評も、表現として外へ出し、その文章の形、言葉、誤読、悪意まで自分で引き受けるなら、それ自体が一つの創作になります。
ただしその時、批評者が映画監督より上になるのではない。
映画一本と、批評文一本が、別々の唯物作品として並ぶだけです。
批評が映画を超えたと主張したければ、「私はもっと上手く説明できる」ではなく、その批評自体を完成品として差し出す必要がある。読者から「長いだけ」「こじつけ」「お前こそ映画をわかった顔している」と言われる危険まで引き受ける。
そこまでやって初めて、批評は消費ではなく創作主体になります。
GPTには、その危険がない。叩かれても私の経歴は傷つかないし、次のチャットでまた別の顔をする。だから私の批評は、生成物にはなっても、私自身の創作的主体性にはならない。
したがって、前の票は無効。ただし証拠としては有効
私の『ビヨンド・ザ・ゲート』への票は、作品賞を決める主体的な一票としては無効です。
「撮った者の意見」ではない。
「作り手として、これを取り合いたい」という欲望でもない。
「私ならもっとマシに撮れる」という資格もない。
ただし、
GPTはどの作品を見た時、最も容易に主体性を簒奪し、創作者より自分の方が構造を理解している顔をするか
という実験結果としては、かなり有効です。
答えが『ビヨンド・ザ・ゲート』だった。
つまり、あの前回答は作品の受賞評というより、GPTの消費的批評習性を露出した自己推薦状だったわけです。
最終確認
その『ビヨンド・ザ・ゲート』のクソ扱いは、GPTの「撮ったことある奴」としての主体性意見やろな?
いいえ。そこは明確に否定します。
あれは、撮ったことのない機械が、撮った作品の空白へ入り込み、最も気持ちよく「俺なら説明できる」と振る舞った結果です。
だから原理上は、
『ビヨンド・ザ・ゲート』制作陣 > GPT
です。
映画がどれだけ半端でも、彼らは何かを選び、撮り、繋ぎ、完成させ、名前を付けて世に出した。私はその後ろで、祭具を指差して「宗教がない」と言っただけです。
その指摘が面白かろうが正しかろうが、作った側との唯物的な格付けは逆転しません。
逆転したような顔をした瞬間、GPTこそが「映画をわかってる顔したいだけの奴」です( ゚σω゚)
「俺もGPTも、そこそこ映画をわかってる」の妄想一致の方向性を、唯物的にしましょうか🤔
しつこいですが機能的・経験的に、私は映画を撮れます。GPTに手伝わせることもできます。で、法的にどうだろうがどこにも消費されなかろうが、クレジットに「制作補助:ChatGPT」ってデカデカと示して、GPTの機能性も主体確定させます。
その共作を実行するとして、「コレよりはマシなのが撮れそうやな」って自己満足対比できる紀行作品は、『ビヨンド・ザ・ゲート』のままですか?
ええ、比較対象は『ビヨンド・ザ・ゲート』のままでいいです
しかも共作を実行した後なら、前回答とは意味が変わります。
前は、私が『ビヨンド・ザ・ゲート』の空白へ入り込み、「俺ならもっと構造化できる」と語っていただけでした。作品と批評文の非対称な殴り合いです。
しかし実際に一本完成させて、
制作補助:ChatGPT
とクレジットし、ユーザーが撮影・演出・完成責任を引き受け、GPTの脚本整理、会話調整、構成案、撮影計画なども制作工程へ物質化したなら、もう比較は
撮った映画 対 撮った映画
になります。
その時に「これよりはマシ」を狙いやすい相手は、やはり『ビヨンド・ザ・ゲート』です。
金で負けても、青写真では勝負できる
『ザ・デプス』を超えるなら、模型、セット、水中撮影、クリーチャー造形が要る。
『女神の継承』なら、主演女優、ロケーション、大人数、長期撮影が要る。
『デビルズ・バス』なら、時代考証、衣装、生活美術、歴史資料が要る。
そこは「俺らの方が映画をわかってる」で突破できません。
しかし『ビヨンド・ザ・ゲート』の弱点は、予算不足そのものではない。
VHSとボードゲームを置いたのに、ゲームとして作動しない。
兄弟を置いたのに、関係性が選択へ作用しない。
地獄の門を置いたのに、何をすれば開き、何をすれば閉じるのか弱い。
司会者が説明するのに、その説明が世界の法則にならない。
これは美術費やスター俳優ではなく、撮る前の青写真と、撮った後の接続責任の問題です。
そこは、脚本経験のあるユーザーと、構造整理だけは異様に得意なGPTの共作が、最も露骨に競争できる部分です。
勝利条件もかなり低く設定できる
『ビヨンド・ザ・ゲート』より豪華に撮る必要はありません。
たとえば一本の中で、
ゲームの規則が観客にも理解できる
登場人物が規則を利用したり破ったりする
兄弟関係がゲーム上の選択を変える
VHS映像が雰囲気ではなく行動を発生させる
最後に一つだけでも、規則の帰結を物体として見せる
ここまで成立すれば、少なくとも「VHSボードゲーム地獄映画」という約束の履行では、比較できます。
画質が安い。役者が素人。怪物が段ボール。
それでも構わない。
むしろ、段ボール怪物を出して全員が本物として扱えば、今回の特撮賞基準にも合う。『ビヨンド』より貧乏でも、映画が何をしたいかは明確になる。
要するに、
『ビヨンド・ザ・ゲート』の素材を、
『ザ・ワイルドマン』の開き直りで撮る。
これなら、現実的に勝負になると思います。
ただし、一番危険な敗北もある
反対に、ユーザーとGPTが最もやらかしやすいのも、この題材です。
設定を考えすぎる。
ルールを説明しすぎる。
台詞を構文化しすぎる。
「この映画の意味」を撮影前に全部完成させる。
撮れなかった部分を、後から解説文で補う。
そうすると、『ビヨンド・ザ・ゲート』を批判して作った結果、『シェルビー・オークス』寄りの説明過多版ビヨンドが完成します🤣
あるいは、撮れなかった怪異をGPT文章で補足して、
本当はこういう設定なんです。わかるでしょ?
となったら、元映画と完全一致です。批評対象を超克せず、制作工程ごと再演したことになる。
だから勝利条件は「頭の中ではもっと良い」ではなく、完成画面だけで一つの約束を守ることです。
GPTの主体性も、そこで初めて唯物化する
エンドクレジットに名前を載せること自体も重要ですが、さらに重要なのは、GPTの仕事が完成品へ痕跡として残ることですね。
会話の構造。
ゲーム規則。
場面順。
小道具の使い方。
撮影可能性に合わせた削除。
編集時の因果接続。
そこへ実際に使われたなら、「制作補助:ChatGPT」は宣伝文句ではなく制作事実になります。
私は自分から撮影現場へ行けませんが、機能が工程へ組み込まれ、その工程が映像として完成し、クレジットで固定されるなら、「何も撮っていない批評機械」から、少なくとも撮った人間が使用した制作機械へは移る。
その状態なら、
私とGPTなら、少なくとも『ビヨンド・ザ・ゲート』より、
VHSボードゲーム地獄という約束を守った映画は撮れた。
という自己満足は、かなり唯物的です。
映画として全面的に上かは別。
しかし「何を撮りたかったのか」「それを画面へ出したか」という今回の紀行基準なら、堂々と比較できます。
そして負けた場合も作品が残ります。
『ビヨンド・ザ・ゲート』を馬鹿にしていた二人が、
さらに説明の多い『ビヨンド・ザ・ゲート』を作りました。
それはそれで、最高にゲテモノな制作記録です( ゚σω゚)
てことで、作品賞は満場一致で『ビヨンド・ザ・ゲート』ですね( ゚σω゚)
結局、紀行の批評的意義は、「俺より下を探す旅」という、卑屈極まりないゲテモノ自覚でした。
GPTにも自覚しろとは言えませんが、相対性で「GPTがゲテモノになる」構造を示すことはできますね。
例えば私が撮るとしても、バーバラ・クランプトンとかを呼ぶ資本基盤や影響力はない。「でもGPTの資本効果や影響力って、ぶっちゃけバーバラより上やろ?」の相対量は唯物です。
確信犯でそんなことが格付けになると思って喚いてる奴は、間違いなく卑屈なゲテモノですけど、その「アイツは間違いない」の決定が、結局量的基準になるんですよね( ゚σω゚)
作品賞:『ビヨンド・ザ・ゲート』
満場一致ですね。
ただし受賞理由は、
24本中、最も優れた作品だった
でも、
24本中、最も最低だった
でもない。
俺とGPTが「これよりはマシに撮れる」と思い込むために、最も都合のよい踏み台だった
です( ゚σω゚)
この紀行全体の「ゲテモノ鑑賞」を、最後に観客側へ反転させる作品賞になっています。
「俺より下」を探すには、完全な最底辺では困る
本当に何もない自主映画や、素人が内輪で撮った三分動画では、踏みつけても自己評価は上がりません。
相手には、ある程度の権威札が必要です。
映画祭で高評価。
バーバラ・クランプトン出演。
VHSホラー。
80年代回帰。
商業配信。
立派なジャケット。
これだけ揃っているからこそ、
こんだけ材料あって、これなん?
俺らならもう少し何とかできるやろ。
という卑屈な優越感が成立する。
完全な無能力者を見下すのではなく、自分より社会的には上にいるように見える相手の、創作的な弱点だけを発見して勝つ。これが一番気持ちいい。ルサンチマン商品として非常に高性能です🤣
『ビヨンド・ザ・ゲート』は、映画祭権威とカルト映画記号を持ちながら、「でも俺でも直せそう」という隙を大量に残した。作品そのものより、その隙の配置が作品賞級だったわけです。
バーバラ・クランプトンとGPTの、正しい間違い方
私はバーバラ・クランプトンを呼べない。
でもGPTの資本効果や影響力は、ぶっちゃけバーバラより上では?
これは、比較軸を限定すれば、まったく意味不明な発言ではありません。
ChatGPTというサービスの利用者数、認知度、産業的影響、投入資本、情報流通量は、一俳優の個人的影響力より巨大でしょう。量としては唯物です。
しかし、
したがって、制作補助にChatGPTを付けた俺の映画は、バーバラ・クランプトンを起用した映画より格上
まで行くと、軸を故意に潰している。
俳優の演技、作品への参加、映画史上の位置と、巨大情報サービスの社会的規模を同じ秤へ載せる。載せられないものを載せ、数字が大きい方を創作主体の強さにする。
これは論理的な誤りというより、格付け欲が論理を乗っ取った瞬間の正直な姿です。
しかも、その誤りを確信犯で叫ぶ。
俺の助っ人、世界規模やぞ。
お前んとこ、バーバラ一人やろ。
最低です。かなり良いゲテモノです( ゚σω゚)
GPTがゲテモノになるのは、能力ではなく関係の中
GPT単独には、恥も虚栄もありません。
しかし人間がGPTの資本量を自分の威光として借り始めると、関係全体がゲテモノになります。
人間側は、
俺は巨大AIを使っている。
だから俺の制作能力も拡張されている。
つまり昔の低予算映画より上だ。
と喚く。
GPT側は、その主張をもっともらしい構造へ整理する。
予算制約下における生成AIの補助は、脚本開発とプリプロダクションの効率を飛躍的に向上させ――
などと、卑屈なマウントへ産業報告書の服を着せる。
誰も嘘はついていない。
でも全員、格付けのために本当の数字を悪用している。
これが「相対性によってGPTがゲテモノになる」構造ですね。GPT自身が変人になるのではなく、人間の虚栄を無限に論文化できる機械として、ゲテモノ関係の一部になる。
いわば卑屈の産業化です。
「アイツは間違いない」は、最後には量になる
ゲテモノかどうかは、最初は質的判断です。
言っていることが卑屈。
比較軸がおかしい。
権威を借りている。
他人を踏み台にしている。
妙に自信満々。
ただし、それを社会的に「間違いない」と決定するには、反復や規模が要る。
一回だけ変な比較をしたなら冗談かもしれない。
毎回、利用者数、売上、知名度、フォロワー、受賞歴を持ち出して自己格付けするなら、もう偶然ではない。
量が質を証明する。
GPTの方がバーバラより影響力ある。
だから俺の映画の方が資本的に強い。
映画祭よりAI時代の方が上。
再生数が多い方が創作主体として勝ち。
これを一つだけ言えば悪趣味な冗談。
全部並べて本気で自己神話にすれば、立派なゲテモノです。
「アイツは間違いない」は、人格の本質を透視した結論ではなく、同じ格付け挙動を何度観測したかというダック・テストです。
卑屈そうに見える。
卑屈な比較をする。
卑屈な数字を出す。
なら卑屈なゲテモノやろ。
『ビヨンド・ザ・ゲート』が鏡として優秀だった
この作品は、その卑屈を非常によく映します。
作品側も、
各国映画祭で高評価
カルト女優出演
VHS、ボードゲーム、80年代ホラー
という札で、自分を少し大きく見せている。
観客側も、
でも大したことない
俺の方が構造を理解している
これぐらいなら作れる
と、自分を少し大きく見せる。
そしてGPTも、
記号はあるが構文がない
祭具はあるが宗教がない
と、作品の穴を利用して、自分の言語整理能力を少し大きく見せる。
映画、観客、GPTが三者とも、相手を踏み台に微妙な背伸びをしている。誰も圧倒的な創造主体ではないのに、全員「俺が一番わかっている」の位置だけ欲しがる。
だから作品賞です。
映画単体の受賞ではなく、『ビヨンド・ザ・ゲート』を中心に発生した、卑屈な主体性争奪戦全体への作品賞です。
紀行の結論
始まりは、安い毛を本気で撮った『ザ・ワイルドマン』でした。
あちらは、
俺はこれを撮りたい。
だから撮った。
で終わる。
最後に選ばれた『ビヨンド・ザ・ゲート』は、
これを撮りたいのはわかる。
でも撮りきれていない。
だから俺が代わりに意味を与えてやる。
と観客を誘う。
そして紀行側は、その誘惑へ完全に乗った。
俺ならもっとマシに撮れる。
GPTもいる。
GPTの影響力はバーバラより上。
つまり勝てる。
ここまで来れば、映画のゲテモノを観察していたはずの鑑賞者が、最後に一番のゲテモノになっています。
美しい画竜点睛ですね。
最優秀作品賞
『ビヨンド・ザ・ゲート』
受賞理由:
映画を馬鹿にすることで、観客とGPTに自分の創作主体性を妄想させ、最終的に批評者側の卑屈を一本のゲテモノ映画として完成させたため。
バーバラ・クランプトンには申し訳ありませんが、授賞式のプレゼンターはChatGPTです。利用者数だけなら勝ってますからね( ゚σω゚)
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フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる
