イザベラ・バードと侍ボーイ

恥ずかしながら私はイザベラ・バードという人物を知らなかった。
ではなぜこの本を手に取ってみようと思ったのか。
実は先日、著者である植松三十里先生の「万事オーライ 別府温泉を日本一にした男」を読んで他にどんな作品を書かれているのだろうと興味が湧いた所で偶然見つけたので手に取ってみたというのが正直な所である。
で、そのイザベラ・バードという人物はどのような人物だったのかというと19世紀のイギリスの女性旅行家、探検家、紀行作家であり、世界中を旅し、その旅の記録を数多くの著作として残し、特に日本に関する旅行記『日本奥地紀行』が有名であるとのこと。
本作品はそのイザベラ・バードが『日本奥地紀行』を記すにあたって、東京から蝦夷地(北海道)までの旅が舞台で、通訳として伴った伊東鶴吉(実際は伊藤)と厳しい自然に悩まされながら、様々な衝突を繰り返しながらも、北海道に到達するまでを描いている。タイトルの侍ボーイはこの伊東鶴吉のことである。
イザベラは北海道に向かうにあたって日光から先は、奥州街道を外れて西洋人が足を踏み入れたことのない奥地を進んで北海道に渡りアイヌの村を訪ねたいという。奥州街道を進めば道も宿場も整備されており、楽に進めるのになぜ、わざわざそんな回り道をするのか、鶴吉同様私も疑問だったが、単純にイザベラが好奇心旺盛というわけではなく、イザベラの生い立ちとハワイや米国本土への旅で出会った人々との経験から来るものであることが分かり、それでむしろ西洋人に慣れていない奥地に行きたがったのかとなった奥下。
ただし読者はそれで納得するが鶴吉はそのような所まで知る由もなく、単にイザベラが西洋から遅れている日本人のことを本に書いて嘲笑したいだけなのではとさえ思ってしまう。
また鶴吉も複雑な事情があり、今回の旅を引き受けたのには北海道で行方不明になった父親の消息を調べるためでもあった。父親は優秀な船乗りで元は漁師であったが、幕府が海軍を整備した時に武士になっている。それでも偉ぶることなく「卑怯な真似はせず、誠実に生き、仕事は誠心誠意尽くせ。」と教えるような人であった。
表街道と違って二人の通った道は少しの雨で馬車が動けなくなるほど酷い道で、宿も風呂に入れない上に蚤や虱と一緒に寝ないといけないほど不潔。更に西洋人が珍しく、見物人が集まりプライバシーも何もあったものではなかったという。女性なのによく我慢できたものだと思う。(さすがに小説ではかなり愚痴も文句も言って、不機嫌になることも多い。恐らく実際もそうであっただろう。)
このことを鶴吉は本に書いて欲しくないらしく、何度も書かないでくれと言っている。しかしなぜそれほどまでしつこく書かないでくれというのか私には鶴吉の気持が理解できなかった。
それが分かるのは北海道に渡りアイヌの村を訪れた後のイザベラと鶴吉の会話である。なるほど、鶴吉自身も気付いていなかったがそういうことだったのか。そして実は著者も本作の中でこのことを一番言いたかったのではないかと思った。
また鶴吉は父親の消息はつかめたのか。もしくは父親に会えたのか。そこは小説を読んで欲しい所である。因みにイザベラの父と鶴吉の父はそれぞれ自分の子供(イザベラと鶴吉)に同じことを言っている。これもあって著者はこのことを一番言いたいのだろうなと思った次第である。(何かは作品を読んで欲しい。)順番は逆かも知れないが『日本奥地紀行』も読んでみたくなった。
それにしても「万事オーライ別府温泉を日本一にした男」にしても本作にしても読後感は清々しい。私は時代小説は今村翔吾先生の作品が好きで、手に汗握る戦いや駆け引きに気持ちが昂るのだが、正直、植松先生のように戦も駆け引きも無いのに、ここまで先が気になるとは思わなかった。
反対にお二方に共通している点はタイプは違うが「え!この人を主人公にするの?」という意外性というか目の付け所だと個人的には思っている。
植松先生の最新作は昨年12月に発行された「侍たちの沃野(よくや) 大久保利通最後の夢」。大久保利通って同じ薩摩出身の西郷さんと比べるとどうしてもイメージが好くなく、権謀術数にたけ最後は暗殺された人物として描かれることが多いが、この人物をどのように描いているかとても興味がある。是非、この作品も読んでみようと思う。
