( )に触れる 07 | 探究の扉
気づけば、当たり前のように使っている括弧。
「( )に触れる 07」では、「解釈」と「形式」の二つの言葉を頼りに、この記号に改めて触れてみます。
括弧は、確かに不思議な存在です。
括弧が文章に現れるだけで、その箇所に対し、集中力を入れ替える気持ちが芽生えます。
言葉を囲むだけで磁場を生み出す括弧。
括弧の有無で、その中身は果たして変質するのか考えていると、
批評家スーザン・ソンタグが触れた「解釈(interpretation)」や「形式(form)」という言葉が思い出されます。
ソンタグは、芸術作品についてこう語ります。
受け手は作品の内容を必要以上に重んじ、その結果として解釈という行為が生じるのだと。
本物の芸術が生むそわそわに耐えられず、作品をありのままに受け取るかわりに、解釈を加えながら芸術を自分の「手におえるもの」(注1) へと変えてしまう。
その指摘は、誰かの表現を受け止めるための受容体や耐性が、私たちにはまだ十分に備わっていないことを突きつけてきます。
では、解釈をしたくなるこの衝動に対して、
括弧という記号は、一体どのように働きかけているのでしょうか。
人は括弧を見つけると、ついその意味や意図を問いたくなります。
これは注釈なのか、補足なのか、それとも比喩なのか。
そうして自分なりに括弧の役割を理解し、括弧の中身を「飼い馴ら」(注2) してしまいがちです。
ですが、もし括弧に意味づけを急がず、その存在をただそこにあるものとして受け入れ、あるいは、放っておくことができたならどうでしょう。
括弧は、内容を運ぶ器としてではなく、文章の流れの中に生じるひとつの出来事として立ち現れます。
語りは括弧の地点でわずかにテンポを変え、それに合わせるように読み手の受け取る速度が変わり、注意の向きもずれ、
意味はすぐには回収されず、ほんの一拍、宙に浮かされるのです。
内容より形式にもっと目を向けるべきとのソンタグの主張に重ねてみるなら、括弧はそれ自体が意味を持つ記号ではなく、
文章に対する読み手の構えをいつのまにか変えてしまう、小さな形式なのではないでしょうか。
その形式は、決して解釈を拒むわけではありません。
ただ解釈が始まる前に、一度歩む速度を緩め、足を止める時間を作るだけです。
つまり括弧は、受け取り次第で解釈という行為に対するアクセルにもブレーキにもなるのかもしれません。
皆さんにとって、括弧はアクセルでしょうか、ブレーキでしょうか。
いつかそのようなお話も、お伺いできたら嬉しく思います。
(注1) スーザン・ソンタグ、『反解釈』、ちくま学芸文庫、1996、P23
(注2) 同上
【原著紹介】※敬称略
[原著]
Susan Sontag, Against Interpretation, 2025 (1966), Picador. (Macmillian Publishers)
https://us.macmillan.com/books/9781250374752/againstinterpretation/
『反解釈』の原文の一部 (ソンタグ財団 公式サイトより)
[邦訳]
スーザン・ソンタグ 著
『反解釈』、高橋康也・出淵博・由良君美・海老根宏・河村錠一郎・喜志哲雄 訳、1996年、筑摩書房
