久米美術館→東京庭園美術館→荏原 畠山美術館
久しぶりの息抜き。けっこう良かった。
久米美術館
久米邦武と久米桂一郎~西洋文明を伝えた父子~

概要
久米邦武は、岩倉使節団に参加した歴史家で、久米桂一郎は久米邦武の長男で、フランスで美術を学んだ洋画家兼教育者って感じの人みたいですね。
父子に共通する本質は「西洋文化をそのまま模倣した」ことではなく、西洋で得た知識を、日本で持続する学校・研究方法・団体・劇場へ変換したことにある。
感想
東京庭園美術館行く前に、時間があったので、訪問しました。
絵画は、写実や印象派っぽい画風だなあと思いました。
おそらく年代的には、写真やカメラができる前の年代で西洋の画風を輸入してきた人って立ち位置だと思います。
写真やカメラができると、より前衛的なピカソのような絵画が増えてくるのでね。
個人的には、なるほどなー、普通くらいの感じでした。劇的な人生を送っているわけではなく、絵画的にも歴史的にもそこまで重要人物ではないし、哲学も読み取れなかったのでね。
東京庭園美術館
ルーシー・リー展—東西をつなぐ優美のうつわ—












民藝にはスリップが使用されているのか、なるほど



















感想
色々な陶器を見に行ったおかげなのか、我ながら、だいぶ陶器を見る目が身に付いて良いですね。
陶器も美しいし、ルーシー・リー本人の哲学や試行錯誤工夫したり、苦難の歴史があるところがいいですねえ。趣深い。
イギリスの青銅器時代の土器から象嵌の発想を得たりだとか、ピンホールという欠点をあえて残して、装飾として使う発想も良いですね。
象嵌(ぞうがん):焼成前の素地を刀や針で彫り、その窪みに素地とは異なる色の顔料を埋め込むことで文様を表す技法。
ピンホール:釉薬の表面に現れる微小の穴。
ピンホールが生じる要因:精製された粘土やや泥漿(でいしょう)に空気や有機物が混入したとき、施釉後の感想が不十分で、焼成中に水蒸気を放出するとき、など様々。
抜粋1
ルーシー・リーが象嵌の発想を土器から得ているところが、岡本太郎が東京国立博物館の縄文土器から発想を得ているところと共通していて、面白いなあと思いました。
現代は流行だったり、みんな同じという発想に流されがちで、深く土に根を刺した考え方を得るにはどうしたらよいか、と悩む人が多いと思います。
やはり、古典や古代の物から発想だったり、着眼点を持ってくることが良いということ再認識できて良かったです。(そのために私事としては、岩波文庫を読んでいたわけですけどね。)
抜粋2
苦難や困難は当時は苦しいが、新しい出会いやチャンスが生まれる場でもある。
ルーシー・リーはユダヤ人だったため、ナチスによるユダヤ人迫害が起こったことで、オーストリアからイギリスに亡命する。そこで、バーナード・リーチや濱田庄司と出会う。
また、イギリスが第二次世界大戦の空襲に遭い、陶器製作ができないときに、友人の勧めで陶器のボタンを作成し、ボタンの作成の際に釉薬の研究をする。そのおかげで、釉薬の研究は、後々のルーシー・リー独自のスタイルを確立する上で大きな役割を持つ。
これら2つの出来事から考察をすると、苦難や困難は、本当に自分が壊れそうなら逃げ出しても良いが、苦難や困難を活かすと、より人間としても成長できるし、人生を変える上でもチャンスになると思います。
私たちが精神が寛大になり、成長をして洗練されていく上では挫折が必要だと、この本にも書いてありましたしね。
荏原 畠山(えばら はたけやま)美術館
茶道具と銘をめぐる物語




https://yoichiochiai.com/art/null2-ripples-the-sky-distorting-mirror-awakening-after-1500-years/
https://note.com/ochyai/n/n68fc0b1c7122
https://x.com/ochyai/status/1981273842002907349

感想
とりあえず、茶の企画展をやっていると書いてあったので、来ました。
うん。なんとなくしか、よく分からん。
こういうのを見て、侘び寂びを感じ、風情を感じていたんだなあとはなんとなく思います。
とりま、風炉(ふろ)は覚えました。
風炉は、主に5月から10月末まで使用される。
夏の炉で、暑い季節にお客様から火気を少しでも遠ざける目的がある。
抽象・美への招待―静謐なる山田正亮(やまだ まさあき)
感想
線、四角などの幾何学的な模様が描かれていて、普通の絵画とまるで違うので、最初は、何これマジで意味わからんと思っていました。
それでも見ているうちに、なんとなく分かってきました。
これはおそらく、絵画のそれぞれの色の違いやコントラストを感じるものだと思いました。
音楽で言うリズムを感じる、近い感覚だと思います。
どういう線や色があり、どういう書き方をしているのかを、意味や像を見るのではなく、ただ見て、色の違いや線の模様をただ感じろ、と作者が言いかけてきている気がします。
抜粋1
この山田正亮の作品を見ながら、落合陽一の味わう文明の記述について考えていました。(こいつまた落合の概念について語っているな)
むしろホモ・サピエンスが「賢い人間」である以前に、「味を知る人間」であったことを思い出す機会である。人間はまず世界を味わい、身体化し、共に食べ、共に聴き、共に見た。その共同的な味わいの場から、知、儀礼、芸術、科学、市場、政治が生じた。思考とは、世界の香り、粘度、温度、発酵度、濁り、雑味、余韻を識別する行為である。
日本思想における身心関係も、精神を身体から浮遊する純粋演算としてではなく、身体と心の内的関係として捉えてきた[7]。この点で、味わうことは単なる感覚ではない。身体化された認識である。味わいは思考の外部ではない。味わいは、思考の前段階であり、思考の媒体であり、思考の余韻である。
デジタル発酵とデジタル蒸留、マタギドライヴのために
https://note.com/ochyai/n/n72df0cbdc6ab
この話を通して、私としての味わうの定義は、最初に難しく考えるより、純粋に身体や味、体験を楽しむ、面白がる、という結論に至りました。
その1、難しく考えない。
これは、誰が悪い、こういう解釈や考え方あるなど、物事を最初に見たときは、他者意見を参考にせず、自分で一次情報に当たって、自分で考えた上で、他人の意見を参考にする姿勢ですかね。
まあ、自分でもできているかは微妙なところですけれども笑。
その2、考えるよりも身体や味、体験を優先する。
そもそも人間は動物であって、自分で動いて体験したものを覚えるようにできている。
そのため、考えて体験するよりも、体験してから考える方が良い。
また、ネットの情報だけを鵜呑みにはせずに、原著に近い本を読んだり、博物館や美術館に行ったりして、実際の作品や仏像など、実物を見る。
その3は、今この瞬間を楽しむ、面白がる。
過去を気にし過ぎず、未来の計画はある程度立てつつ、適度に楽観視して、今生きているこの瞬間に集中することが重要。
役に立つか、何を意味するかという判断を一時的に保留し、ただ見たり、感じたり、楽しんだりする時間を持つ。
楽しむこと、面白がることこそ、上達の近道でもあるし、幸福度も上がりますからね。
というような感じで私は、頭を使い過ぎないで、ただ見て味わうことをもう少し極めていけたらなあと思っています。
総括
はい、というわけで最後の自分の論をまとめるところで、めちゃくちゃ疲れてしまいました。本当に疲れた。5時間くらいかかった。
だんだん色々な芸術がちゃんと見れて、理解できるようになって、自分の成長が感じられるところが面白いなあと感じます。
まあでも、もう少し無計画で行ってみても良いのかなあ、という感じでもあります。
突発で無計画で、美術館に行って良い物を見れたときの楽しさは本当に最高なんです!。都内はネットで事前予約が必要なところが多いので、突発で行けないところも多々あるけどね。
終わり。
