ジョージ・マクドナルド「兆し」&イングリッシュ・ティータイムと創作のことあれこれ|日記
思索は蛍 月下に息づき
心は白銀の杯 葡萄酒で満つ
魂は青ほのめく地平線 そこから間もなく光が
黄金の地球を神の急流であふれさせる
──ジョージ・マクドナルド「兆し」
My thoughts are like fire-flies, pulsing in moonlight;
My heart like a silver cup, filled with red wine;
My soul a pale gleaming horizon, whence soon light
Will flood the gold earth with a torrent divine.
【ジョージ・マクドナルド】
( 1824 - 1905 )
スコットランドの文筆家、詩人、プロテスタント(会衆派)の牧師。
近代幻想文学のパイオニア的存在で、今日のファンタジー形式を創出した作家と呼ばれています。小説の他、児童文学の名作を遺しました。
ルイス=キャロルはマクドナルドを師と仰いでおり、マクドナルドとその子どもたちがアリスをたいへん好んだことから、「不思議の国のアリス」の出版に踏み切ったそうです。
代表作:「ファンタステス」「お姫さまとゴブリンの物語」「北風の後ろの国」「リリス」など

先日、アガサ・クリスティや英国ファンタジーが大好き(もちろん紅茶も英国スタイル)という方々と、ティーカップ越しに話す機会がありました。アガサ・クリスティに白熱なさるのですが、残念ながらまったくついていけなかったので、折を見てファンタジーに誘導。『ハリーポッター』『ロード・オブ・ザ・リング』『ナルニア国物語』は好きだけど、ジョージ・マクドナルドは知りません、とのことでした。(フランス文学・・・はて? みたいな場でしたので、口をつぐんでおきました。)
マクドナルドはトールキンやルイス=キャロル、W.H.オーデンたちに賞賛されたすごい人なんだけどなあ・・・ついでに紅茶もフランス式がいいのになあ・・・と、たいへん残念に思ったので(イギリス式も好きです)、ここnoteに細々とマクドナルドについて書いておこうと思い立ちました。

マクドナルドはスコットランド色の濃い方で、親戚にケルト学者がたくさんいた関係もあり、自分はケルト人である、という意識をはっきりと持っていたそうです。ですので、ドリス方言と呼ばれるスコットランド南東部のことばをキラリと光らせていらっしゃるのですが、今回はストレートに(=私にも読みやすい)イギリス英語の詩を取り上げました。
フランス詩に日本語をあてるときも同じですが、「なるべく少ない音数で端的に」という、個人的な大原則を振り返りつつ、「迷ったら消す」路線で訳しました。ちなみに、説明文を書くときは「迷ったら書く」ことが多いです。
"red wine"の訳、「葡萄酒」か「紅酒」か、ずっと迷っていました。色彩を優先するなら後者ですが、蛍・月・紅酒となるとかなり東洋的になり、「神」ってどの神? と分からなくなりそうだったので、いかにもキリスト教らしい「葡萄酒」にしました。聖餐式のイメージ、キリストの象徴です。
さてさて。
マクドナルドの著作で私が好きなのは『お姫さまとゴブリンの物語』『お姫さまとカーディの物語』。特に前者は冒険ファンタジー的な要素が強く、ストーリー展開も楽しめます。映画にもできそう。さらに、キリスト教の本質的な思想があちこちに散りばめられていて、知らないうちに心に刻まれるすぐれた導入書ともなっています。
『ナルニア国物語』シリーズの著者C.S.ルイスは、こんなふうに述べています。マクドナルドの『ファンタステス』読了後の所感です。
私は自分が大いなる境界を越えたことを悟った。
I knew I had crossed a great frontier.
これほどキリストご自身の精神に迫り、なおもたゆみなく近づいてゆく作家を、他にほとんど知らない。
I know hardly any other writer who seems closer, or more continually close, to the Spirit of Christ himself.
『ジョージ・マクドナルド:アンソロジー』
ご自身も『ナルニア国物語』という、キリスト教精神に基づいた児童文学を書かれたC.S.ルイスらしいコメントですね。

「子ども向けに書いているのではなく、子どもの心を持ったすべての人に向けて書いています」と仰るマクドナルドさん。
思うに、児童文学というのは、絵本と小説の間にあって、哲学的な思索もできるうえに、暴力や残酷さがほのめかしまでで抑えられることが多いという、読み手想いの執筆法ではないでしょうか。そこが、個人的に安心でき、また賞賛したい点です。
日本語だと特にわかりやすいですが、「ですます調」の文体も多く、いろんなものを大切にしたいという意識の表れのように感じます。
文学もそうですが、なにもかもを徹底的に赤裸々に語り尽くして真実に近づいたとしても、引き換えに対象が(語り手の中の何かとともに)死んでしまうことはありますから、その加減が難しいですよね。
個人的なこだわりで言うと、だからリアリズムより象徴主義が好きなのよね・・・象徴主義の手法で真実に手を触れ(ようとし)ても、真実も自分も命を落とすほど損なわれることはないように思います。
なぜ損なわれないかというと、象徴主義のやり方は、《そのもの》は描かず、他のものをたくさん借りてきて、総合的に示す、匂わせる、という方法だから。ベーグルやドーナツの穴そのものはつくれないけど、生地を丸くすると穴が示せる。結婚指輪の真ん中の空間に"愛"が住んでいる、というわけです。
そこに指をぎゅっと差し込んでしまうから、愛が押し出されて関係が崩壊するのじゃないかしら(^^; ・・・というあたりを描くのがリアリズム、指輪のことを語るのが象徴主義。私自身はそんなふうに区分けしています。
《そのもの》については読み手が想像力によって手を伸ばして触れてみますから、そのひとが望む加減で微調整できます。だから、書く人も読む人も、それぞれの《そのもの》(真とか善とか美とか)を損なわずにいられる、というわけです。
付け加えておくと、象徴主義の手法はややもすればフェティシズムに陥りがちで、そこがまた魅力的なのだと思います。聖でも邪でも、ひとを魅くのはつまるところエロスなのではないかしら。狭い意味のエロスではなく、身体からのお知らせ、世界との関わり方における座標の0地点としてのエロス(何を好むか)のことです。
そうそう、時々リビングのテレビから、吹き替え映画やアニメ、子ども向け戦隊ものの音声が聞こえてくることがあります。私は画面を見ないのでより際立つのですが、悪役って男女問わずなんであんなにセクシー系の声を出すのでしょう? 主人公側はストイックで凛々しい声ですよね。それぞれの「らしさ」を逆転させたら成立しないよね・・・想像すると笑ってしまいます。くねくねした物言いのヒーローと、ストイックな悪役。──人間は本来善なので、悪の魅力を簡単に(ステレオタイプに)表現するならエロスを用いるのが手っ取り早いということなのかもしれません。ステレオタイプの醍醐味、ということ・・・?
マクドナルドさんに話を戻しましょう。(とくに分類されてはいないようですが、マクドナルドは象徴主義の方だと思うので、脱線してしまいましたm(_ _)m)
最近『お姫さまとカーディの物語』を少し読み返してみたところ、なんとまあ描写のすばらしいこと思索の深いこと。初めの数ページで、「お見それしました」と心地よく白旗を掲げたのでした(^∇^)/ そもそも競ってもいないけれど、まったく敵いません♡
私も物語や詩を書くのですが、ここnoteにいろんなものを載せてコメントを頂くうちに見えてきたことのひとつが、「私、意外とキリスト教的な考え方が根付いた人なのかも?」ということでした。
大切な事柄ほど、宗教色抜きに語る必要があると思っていて、「神様」を持ち出さなくて済む場合には極力避けるように気をつけているつもりです。
日本の「共通言語」にチューニングを合わせるため、また、自分の言葉を耕して語り直すため、という、ふたつの理由があるからです。
ですが、"無意識"と"ことば"をそのままつなげて書いたものに対して「キリスト教的な詩ですね」などとコメントを頂いたりするので、なるほどなあ・・・と。
こうして直接、説明文的にキリスト教と自分の関わりを書くよりも、物語を書いた方が手応えとして Love & Peace が伝わってゆくものなのかもしれないと思うので、今後はもう少し、おはなしを書く時間を増やそうかなと思い始めました。
とはいえ、物語に関わり出すと(今もまさにそうですが)、調べもの過多、愛着過多のせいで本当に仕上がらないので、そこが難しいところです・・・だって、note更新が1年に1回とかだと、安否不明者みたいでしょ?
いくらタイパを上げようと何もかもを加速したって、「寝かせる時間」を倍速で早送りすることはできませんもの。その、「一秒を一秒の重みで扱う」という私のやり方が、AIに移行できない本質的な理由のひとつなのかもしれません。子どもに向かって、「タイパが悪いから2倍速で大人になってくれる?」と要求しても果たしようがないのと同じことです。
つまり、私にとっての「時間」は、呼吸やまばたきや脈拍のような、身体が過ごしている時間のことで、だからこそ早送りはできないのだと思います。観念的な時間なら操作もできそうに感じますけれど。時間の感覚がもともと観念的な方は、AIになじみがいいということなのかもしれませんね。
芽吹き花咲き実をつける・・・そのような、「成ってゆく」時間を過ごしたいと思っています。
生成AIについてごく最近思うようになったことはもうひとつあります。「生成AI、意外といいよ?」というお声をたくさんいただいて(こちらの記事のコメント欄)、真摯に耳を傾けて考えました。お声を寄せていただいてありがたかったです。
生成AIないし創作のキモはここだ! と思うポイントが千差万別なので、まずそこからしてむずかしいなあという点も、勉強になりました。それを越えて語り合いたいと思ってくださる気持ちのありがたさを噛みしめながら・・・。
生成AIは"よきキュレーター"なのではないかしら。クリエイトしているのではなく、「収集、選択、分類、提示」(『大辞林』)してる。だから、クリエイター気質のひととキュレーター気質のひととで、なじみやすいかどうかに差が出るのかな? と。
(私自身はどちらの気質も持っているなあ・・・と思っています🤔 たとえば詩の翻訳や紹介記事作りはキュレーター的ですよね。)
さて、さて。私の好きな文筆家や詩人さんは19世紀の人が多いので、マクドナルドもそうか、ということに驚くとともに、現代によみがえってくれたら、いまの文明をどう思うかじっくり聞きたいなあ、なんて思ってしまいます、切実に。灯台になって導いてくれたらいいのに。
マクドナルドさんは私の人生?にとって、ひとつの要石ともなる方ですので、いつかまたあらためてそのことを書く日が来ると思います。ですが、今日はひとまずここで締めくくりといたしましょう。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

P.S. 今回はすべてiPhone15で撮りました。
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