一時帰国で思う・おいしければ、いいのか?色んな食べ物が下品で嘘つきにされている。
わたし
最近、下品な食べ物が流行っているんですよ。dirty chipsとか。ごてごてに「おいしいもの」をかけまくり、入れまくり、乗っけまくり、みたいな。日本に行った時もそれを感じた。「生ドーナツ」とかに、ちょっとそんな空気を感じる。
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dirty chips、わかります。あれって単に高カロリーというより、発想として「快楽の足し算」ですよね。
塩気+脂+チーズ+ソース+食感+量+見た目。
一段ずつ積み上げて、反応を最大化する。
「生ドーナツ」も、もちろん全部がそうではないけれど、時々少し近い空気があります。
ふわふわ、じゅわ、クリーム、とろける、断面、限定感。
味そのものだけじゃなく、「快楽の演出」まで込み。
たぶんあなたが引っかかっているのは、健康の話ではなくて、
どこまで刺激を増幅していいのか
という感覚なんじゃないかな。
面白いのは、昔の贅沢って案外逆だったんですよ。
手間をかける。
素材を引き出す。
季節を待つ。
余白を残す。
今はむしろ、
「すぐ強く感じる」
方向に最適化されやすい。
これは食だけじゃなく、
動画、音楽、物語、宗教記号、全部似ている。
濃くする。
短くする。
混ぜる。
盛る。
即反応が返る。
だから「おいしければいいのか?」って、味覚の話をしているようでいて、
実は「感覚全般を強く刺激する方向ばかりに行ってない?」という問いかもしれない。
一方で、dirty chips自体が悪いとも思わないんです。
祭りの食べ物って昔からそういう側面がありますし。
でも毎日の食卓まで全部それになると、違和感が出る。
たぶん、あなたが見ているのは「快楽そのものへの拒否」じゃなくて、
節度や輪郭が全部“物足りないもの”扱いされる空気
への違和感なんじゃないかな。
それで思い出したんですが、日本に帰ると、昔より「濃厚」「背徳」「ご褒美」「贅沢」「とろける」が広告語として増えた感じ、ありますよね。
あれを見て、「おいしいのはいいけど、もう十分じゃない?」って感覚になる人、実は少なくない気がします。
わたし
そう、お祭りの食べ物にはその役目がある。で、毎日お祭りしたくない。
なんか、嫌らしいっていうかみっともないって言うかそういう気持ちにさえなるよ。
少し前の、「癒されたい」ブームあたりから似た感覚あった。「癒されたい!癒されたい!」
って、身もふたもないって言うか、ちょっとその辺でおっぱじめるカップルみたいなにおいがするよ。
👆
ああ、わかります。ここで言っている「嫌らしい」「みっともない」は、道徳的な非難というより、美意識の違和感に近いですね。
快楽そのものが嫌なんじゃない。
むしろ快楽って本来かなり大事なものなのに、それをあまりに直接、全面、連呼で出されると、何か居心地が悪い。
「癒されたい!癒されたい!」の例、すごく近いかもしれないです。
癒しって、本来は結果として起きるものだった。
友人と話した、散歩した、湯気の立つお茶を飲んだ、静かな時間があった──そのあとで「あ、癒されたな」と気づく。
でも少し前から、
癒しそのものを目的化・商品化して、
「癒しを摂取する」
感じになった。
すると、不思議なことに少し生々しく見える。
あなたが挙げた「その辺でおっぱじめるカップル」の比喩、面白いですけど、たぶん共通点はそこなんでしょうね。
本来は少し隠れていたり、余韻として漂っていたりするものを、
前面化して、
見せて、
共有して、
消費する。
快楽、癒し、幸福、愛情、自己肯定、全部そう。
昔の日本文化って、少なくとも理想像としては、
満開より七分咲き、
告白より気配、
豪華よりしつらえ、
直接より余情、
みたいな美意識が結構あった。
もちろん現実は昔から俗っぽいし祭りも派手だったんだけど、建前として「露骨さは少し野暮」という感覚があった。
だから今の、
「気持ちいいなら全部乗せ」
「癒されるなら全部盛り」
「ご褒美だから遠慮しない」
という語りを見ると、
内容より先に、欲望の出し方が気になる。
ここで面白いのは、あなたが否定しているのが欲望そのものじゃないことです。
むしろ逆で、
欲望や快楽って、少し器や節度や文脈があるから美しく見える、
全部むき出しにすると、急に浅く見える。
だから「毎日お祭りしたくない」がすごく象徴的です。
祭りって非日常だから祭りなんですよね。
毎日になると、祝祭じゃなくて常態化した刺激になる。
そうなると、満たされるというより、だんだん鈍くなる。
その感覚への違和感、最近わりと多くの人が持っている気がします。
例えば、
「デジタルデトックス」「スローライフ」「ローフード」「ミニマリズム」「静かな贅沢(quiet luxury)」みたいな流れ
SNS疲れ、情報過多、刺激疲労という言説
「映え疲れ」「ご褒美消費疲れ」みたいな話題
食でも、濃厚・背徳系と同時に、素朴・発酵・引き算・素材回帰みたいな流れが並行していること
こういう現象を見ると、「刺激や過剰演出への反動」は一定あるようには見える。
わたし
これ(素材回帰的なこと)は以前からあったと思うんですよね。
ただ、濃厚系みたいに暴走はしにくいだろうから?か、
余り目につかないというか。反動っていうのは自然と出るのだろうけど、濃厚系の過激さと同じ幅の反動がでてるのかなあ?ていうか、濃厚系って本当に流行っているのだろうか?本当にみんな好んで消費しているのかな?
👆
なるほど、そこを問われると確かに慎重に分けた方がいいですね。前の私の言い方だと、対抗勢力みたいに見えた。
まず、「素朴・発酵・引き算・素材回帰」は最近突然出てきたものではなくて、たしかに以前からあります。むしろ長い流れです。家庭料理、季節感、素材尊重、簡素、そういう美意識はずっとある。
だから「濃厚系→反動で素朴系」という一本線ではないと思います。
むしろ面白いのは、今って両方が同時に存在しやすいこと。
昼:無添加・発酵・整える
夜:背徳・濃厚・ご褒美・チート
みたいな。
で、後半の問い、「濃厚系って本当にはやってるのか?みんな好んでるのか?」は結構鋭いです。
ここ、私は少し疑っています。
実際に消費されている量と、見えている量は違う可能性が高い。
濃厚系・映え系・背徳系って、
写真映えする
タイトル化しやすい
短時間で魅力が伝わる
SNSや広告と相性がいい
ので、可視性が異常に高い。
でも人が毎日食べているのは案外、
トースト、味噌汁、パスタ、お茶漬け、スープ、普通のサンドイッチ、
みたいな地味なものだったりする。
つまり「市場で目立つ」と「実生活で主流」は違う。
食も、毎日dirty chips食べてる人はそんなにいないかもしれない。
でもdirty chipsの画像はすごく流れる。
あと、濃厚系って実際食べると結構疲れるんですよね。
刺激の上限がある。
だからマーケティング的には「毎日食べるもの」より、「話題にしてもらうもの」「一回買ってもらうもの」として強い。
あなたが感じている「これ本当に支持されてる?」は、案外、
「可視化される欲望」と「実際の欲望」がズレている、
という感覚かもしれません。
昔なら祭りの屋台だけにいたものが、今は毎日タイムラインに出てくる。
だから社会全体が濃厚化したように見えるけど、実際の食卓までそこまで変わっているかは別、という可能性は結構あると思います。
わたし
あと前回日本に行ってすごく気になったことについて問いたい。
醤油です。
醤油が醤油じゃなくなっている。回転すし店、4種類くらい行きましたが、どこにも普通のしょうゆ、置いてなかったです。醤油風調味料だった。みんな。
スーパーの棚を見ても、結構じっくり見比べないと、騙されて醤油風調味料買う羽目になる。
味がおいしくないんですけど。だんだんこれにならされて、これが醤油の味になってしまったら
大変なことになると思う。日本人の味覚、もうかなりすでにやられてるなと今回の帰国で強く感じたよ。以前にも増して。以前から、やられてるな…って感じだったけど、今回のは、もう仕上がっちゃった、みたいな…。
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その違和感、かなり具体的ですね。そしてここは少し分けて見ると面白いと思います。
まず、「醤油風調味料ばかりになった」という体感について。ここは現象として全部が置き換わったわけではないと思います。日本のスーパーでは今も本醸造しょうゆや丸大豆しょうゆは普通に大きな棚を取っています。一方で、かなり増えたのは、
だし入りしょうゆ
甘みを足したしょうゆ
うま味調整したつゆ系
低塩しょうゆ
寿司用・刺身用しょうゆ
「しょうゆ加工品」「しょうゆ風調味料」
みたいな派生ですね。
回転寿司は特にそうです。
あれは「魚に合わせる」「そのままかけても成立する」「子どもでも食べやすい」「塩辛すぎない」方向に最適化されやすい。
だから、英国から帰って久しぶりに食べると、
「あれ、醤油ってこんな甘かった?」
「こんな旨味前面だった?」
になりやすい。
で、ここから先のあなたの話が面白い。
「味覚が壊れた」というより、
基準点が移動した
という感覚なんじゃないかな。
本醸造の醤油って、意外と厳しい味です。
塩、苦味、香り、発酵臭、余韻。
単体ではむしろ不親切。
でも調味料化すると、
甘い、
丸い、
旨味が最初からある、
失敗しない。
だから慣れると、元に戻った時に物足りなく感じる可能性はある。
これって前の話とすごくつながっています。
宗教→記号化
食→最適化
快楽→前面化
全部、「受け取るための手間を減らす」方向。
醤油も、
料理を支える脇役から、
単体で完成された演出装置になる。
あなたが気になったのって、健康でも伝統保護でもなくて、
「素材の輪郭が消えていない?」
ということかもしれない。
ただ一方で、ここは少し慎重で、
日本人の味覚が終わった、というより、
市場が可視性の高い味を作っている、の方が近い気がします。
実際、家庭で普通の醤油使ってる人もたくさんいるし、地方や個人店では全然違う。
でも、外食や量販で「調整済みの味」が増えている、という違和感自体はわりと理解できます。
そして少し面白いのは、英国に住んでいると逆に輪郭が戻ることがありますよね。
毎日そこまで味を盛らない食事をして帰ると、日本の味付けが急に“演出されている”ように感じることがある。これ、結構ある現象だと思います。
わたし
醤油に関しては私はこれは賛同できないです。塩なんかと一緒で、かなり土台的なもの。それをいじってしまっては、戻ってくるよりどころがない。日本人の繊細な味覚を、破壊してしまってはもう戻れない。回転すし屋で普通のしょうゆがない、というのはかなりヤバいと見ます。選択技が増えたのとは違います。置いてない、んだから。無論入手は可能ですが、かつて、普通の塩が入手できなかった歴史的事実がある。そして、薄めた醤油風調味料は何と言っても原価が安い。金の問題。
👆
なるほど。ここであなたが言っているのは「本醸造か加工か」という技術論ではなくて、もっと文化基盤の話ですね。前の私の返しはそこを軽く扱いすぎました。
つまり、「選択肢が増えたから問題ない」ではない、と。
土台になる味覚って、言語に近いという考え方があります。
文法を覚える前に耳で身につくようなもの。
塩、米、だし、醤油、発酵臭、苦味、渋味、香り。
そういう基準点が子どもの頃から変わると、その上に積むもの全部の感じ方が変わる。
だからあなたの懸念は、
「高級醤油が残っているから大丈夫」
ではなく、
「日常・大量消費・外食の標準が変わると、基準自体が移る」
ということですよね。
これは全く荒唐無稽な話ではないです。
歴史的にも、
砂糖の普及、
精製穀物、
工業油脂、
うま味調味料、
加工食品、
こういうものは味の期待値を変えてきた。
一度基準が動くと戻しにくい、という感覚も理解できます。
ただ、ここで一つ慎重にしたいのは、「味覚が破壊された」と「味覚の基準が変化した」は少し違うかもしれない、という点です。
例えば江戸時代の人が現代の和食を食べたら、かなり甘く感じる可能性はあります。
逆に現代人が昔の再現食を食べると薄く感じることがある。
だから基準は歴史的にも動く。
でも、あなたが心配しているのは変化そのものじゃないんですよね。
変化の方向が、原価・効率・即時満足に引っ張られていること。
ここは食文化論として結構重要な問いです。
「美味しくなった」のか、
「安く大量に受ける味に寄せた」のか、
「慣れた結果そう感じるようになった」のか、
この三つは違う。
それで、回転寿司の醤油の話が象徴になる。
寿司って本来、魚・酢飯・醤油の三者のバランスを見る料理なのに、醤油側が先回りして完成品になっていると、
食べ手の調整能力が要らなくなる。
あなたが嫌なのはたぶんそこなんですよね。
味覚を信頼していない感じ。
「これが美味しいですよ、ここまで整えておきました」
が全部先回りしている感じ。
だから単に保守的というより、
土台のインフラを削って上物だけ派手にしていないか、
という懸念なんだと思います。
それは前に話していた「毎日祭りは嫌だ」とかなりつながっています。
わたし
そうです、そしてそれと儲け主義がうまく連動している。そして多くの消費者がそれに気づいていない。危機を覚えます。
醤油はあなたの言う通り象徴で、出来合いの食べ物、かなり甘くてびっくりします。薄味、とかじゃなくて、甘味、うま味をむやみに添加している。これに慣れると普通の素材の味はもう分からないと思う。漬物なんてひどいものだ。
キムチなど体にいいとよく言うけれど、日本で随分試したけどどれも甘すぎ。
冷蔵庫にいつまでも置いても酸味が全然でないし。ほんとに乳酸発酵してるの?
👆
なるほど、指摘された文脈を受けると、あなたが危機感を持っている対象がもう少し見えてきました。
まず、私が前に言った「これが美味しいですよ、ここまで整えておきました」は、企業や食品産業が意図的に人を騙している、という意味ではありません。そこまでは言っていませんでした。
でも、あなたが見ている問題は別ですよね。
「市場の合理性と、人間の感覚の変化が同じ方向を向いてしまう」こと。
これは実際、食の歴史では繰り返し起きています。
甘味ってその典型です。
甘味は人間にとって受容されやすい。
塩味・脂・うま味もそう。
そこに保存性、原価、再現性、満足感が乗ると、産業側にも消費側にも都合がいい。
その結果、
「少しだけ強い味」が競争を勝ち、
また次が少しだけ強くなる、
という圧力は確かに起きうる。
それでキムチの話ですが、これも実は興味深いです。
日本で広く売られているキムチには、大きく二種類あります。
発酵を主体にしたもの
日本市場向けに甘味や調味料を強め、冷蔵中も品質変化を抑えたもの
後者は、発酵をある程度コントロールしている製品も多く、甘味が強く、酸味があまり進まないことがあります。保存性や「いつ食べても同じ味」を重視した結果です。
だから、あなたが
冷蔵庫にいつまでも置いても酸味が全然でない
と感じたのは、製品によっては十分あり得る体験です。
ここで私が一番考えさせられるのは、「均一性」の価値です。
企業にとっては、
毎回同じ味
苦情が少ない
保存期間が長い
原価管理しやすい
これは非常に合理的です。
でも発酵食品って、本来は少しずつ変わるものなんですよね。
醤油も味噌も漬物もキムチも、本来は生き物に近い。
それを「いつ食べても同じ」「誰が食べても食べやすい」に寄せると、当然、変化や癖や香りは削られる。
だからあなたが危機感を持つのは、「企業が利益を追求すること」そのものではなく、
利益を追求した結果、文化の土台になる味まで均質化され、それを消費者が当たり前だと思うようになること
なんですよね。
ここで面白いのは、あなたの話が「健康に悪い」ではないところです。
あなたが言っているのは、
感覚の校正点(キャリブレーション)が動く
ことへの不安なんですよね。
甘いものを食べると舌が壊れる、という単純な話ではなくて、
基準が動く。
だから、昔なら十分甘かったものが物足りない。
素材の微差を拾わなくなる。
その方向が積み重なる。
これは味覚だけじゃなく、
音楽、映像、SNS、ニュースにも起きる構造です。
ただ、一つだけ私は少し留保したいです。
「普通の素材の味はもう分からないと思う」
までは、実際の人間は意外と可塑性があります。
面白いことに、しばらく強い味から離れると、戻る人も多い。
砂糖を減らすと甘く感じるようになるし、外食を減らすと出汁や香りに敏感になる人もいる。
だから不可逆ではないと思う。
でも、あなたの懸念の核心はそこじゃないですね。
戻れるかではなく、
戻る努力をしないと戻れない状態が標準になること
への違和感。
そしてそれが、前の「癒されたい」「全部盛り」「コンテンツ化」とつながっている。
欲望や快楽を否定しているわけではない。
ただ、「刺激が標準値になると、繊細さは贅沢品になる」。
そこへの警戒感なんだろうと思いました。
わたし
そう、仰る通りだ。そしてこれ(健康に悪い)は、言わずもがなの、もはや前提のようなもの。
👆
ああ、なるほど。そこまで含めていたんですね。すると話の重心が少し違いました。
つまりあなたにとっては、
健康に悪いかどうかは、もう入口ですらない。
甘味過多、加工度、過剰最適化、そのあたりの身体面の話は当然あるとして、むしろ気になっているのはその先。
「人間の感覚そのものをどう扱う文化になっているか」
という話なんですね。
だから、醤油の話も単に減塩や糖質の話じゃない。
癒しブームも単なる流行じゃない。
dirty chipsも単なる高カロリーじゃない。
全部、「感覚をどう設計しているか」に見えている。
ここで少し面白いのは、あなたの感覚って実は禁欲主義とは少し違うことです。
祭りは否定していない。
ご褒美も否定していない。
快楽も否定していない。
むしろ、
快楽が前提化され、常時供給され、しかも気づかれない形で最適化される
ことに違和感がある。
これは結構古い問いでもあります。
昔から、
便利になるほど人は鈍くなるのか、
快適になるほど感受性は痩せるのか、
加工されるほど世界は均質になるのか、
という問いはある。
答えは単純じゃないけど、あなたが見ている危機感はそこですよね。
しかも「悪い企業が悪いことをしている」という構図じゃない。
企業は売れるものを作る。
消費者は楽なものを選ぶ。
誰も悪意がない。
でも結果として基準点が動く。
ここが怖い。
前に言っていた「悪気がなければいいのか?」ともつながりますね。
悪意より、無自覚の方が止まりにくい。
そしてあなたの「普通の素材の味が分からなくなる」は、文字通り舌だけじゃなくて、
静けさ、余白、待つこと、弱い刺激、そういうもの全般への感度の話にも少し広がっているように見えます。
わたし
うん、で、悪意はどこかにはあると思ってるよ。
👆
なるほど。ここは結構大事な違いですね。
さっき私は「誰も悪意がない」と少し一般化しすぎました。あなたが言っているのは、陰謀論的な意味ではなくて、「構造に乗って利益を取る主体はいる」という話ですよね。
それならわりと理解できます。
例えば、
人間は甘味・脂・塩・うま味・新奇性に反応しやすい。
企業は当然そこを研究する。
反応率が上がる設計をする。
消費者は自由に選んでいるつもりでも、選びやすいものを選ぶ。
これは別に秘密でも何でもなく、商売として普通に存在する。
そこであなたが気にしているのは、たぶん利益追求そのものではない。
利益のために、
「基準点を少しずつ動かす」
「比較対象を消す」
「選択肢があるようで標準を置き換える」
方向が起きること。
だから回転寿司の醤油が象徴になる。
高級醤油を禁止しろと言っているんじゃない。
普通の醤油が裏側に退くと、比較基準が消える。
そうすると、人は選んでいるつもりでも、実は比較していない。
これは食以外にもありますよね。
SNSの通知、
動画の編集速度、
広告、
ニュース、
全部「もっと反応する設計」に寄る。
で、ここで面白いのは、「悪意」という言葉。
個々の開発者や店員に悪意があるとは限らない。
でも、システムとしては人間の弱点や習性を利用する。
このとき人によって、
「市場原理」
と呼ぶか、
「構造的な悪意」
と呼ぶか、
「誘惑」
と呼ぶか、
言葉が変わる。
あなたの違和感は、後者寄りなんだと思います。
つまり、
「人間の繊細さや節度を育てる方向ではなく、反応や依存を増やす方向に洗練されている」ことへの警戒。
そしてたぶん、その警戒は単に保守的というより、
“何を人間の自由として残したいか”
の問いなんでしょうね。
味覚でも宗教でも、比較できる基準点が残っていないと、選択している感覚自体が薄くなる、という。
