第19回 「大神(おおみわ)」「三輪山(みのわやま・みわやま)」にまつわる神社の伝承
前回は上越エリアに残される「三輪山信仰」の痕跡ではないかと思われる伝承を少し紹介しました。
今回は、複数の神社の社伝・由緒に登場する「大神・三輪山」についての資料をご紹介します。その中には、驚きの記述がたくさんあって、上越エリアの歴史の奥深さを感じずにはいられません。
前回ご紹介した「越後中頸城郡史」と更に「中頸城郡誌」からいくつか紹介します。
《居多神社についての伝承》
「居多神社 当郡十三社ノ一也 居田村身能輪山ニ鎮座」
頸城郡の十三社の筆頭格である居多神社が、明確に「身能輪山(みのわやま)」に鎮座していることが明記されおり、 この山が古くから特別な聖地として認識されていたことがうかがえます。
さらに
「越後国邪神討伐(の時)、身野輪山を以て威城(いじょう)と為し、国神の女・沼河比売(ぬなかわひめ)を娶りて妃と為し、健御名方命(たけみなかたのみこと)を生む」とあります。
・「身野輪山を威城と為す」
大国主は越後の国を平定する際、この身能輪山(みのわやま)を単なる通り道ではなく、「威城(軍事的・統治的な拠点、城)」として定めたと伝えられていることがわかります。
・「沼河比売を娶り、健御名方命を生む」
そして、その本拠地である身能輪山で奴奈川姫と結ばれ、建御名方命が生まれたとされています。
つまり、身野輪山は大国主が越の国(ヌナカワの国)を統治し、新たな血統(建御名方)を生み出した「神代の政権所在地」のように伝え残されているのです。
◆独自の生々しい伝承:建御名方命の姿と年齢
記紀(古事記・日本書紀)にはない、地方独自の非常に生々しい伝承も記されています。
・建御名方命の勇姿: 「この児、僅かに八歳にして遂にその敵を防ぐ時…」(8歳の若さで敵を防ぎ戦った)とあり、若くして武神としての力を発揮したことが記されています。
・大国主の具体的な体格: 割り注に「伝に曰く、御身丈五尺八寸、御腹廻五尺」とあります。身長が約175cm、胴回りが約150cmという、非常に恰幅の良い巨漢であったという、不思議なほど具体的な身体的特徴が地元に伝わっています。
・大国主の晩年: 「大穴牟遅命、八十歳にして…其れ出雲国に去る所なり」(80歳になって出雲の国へ去っていった)とあり、長期間にわたってこの地に留まり活動していたことが示唆されています。記紀の書かれ方では、ほんの短い期間、越の国に滞在したように感じますが、この伝承を知って大国主はそんなに長くこの久比岐の地で国づくりを行ったのかと驚きました。
◆岩殿山についての記述
誕生の聖地「岩殿山」と具体的な地形
建御名方命(諏訪大明神)が生まれたとされる具体的な場所の描写がされています。
・「胎内岩(たいないいわ)」「子産殿(こやすどの)」
岩殿山の奥に、これらの名が付けられた巨岩や洞窟のような空間があったことが分かります。古代の自然信仰(アニミズム)において、岩穴は「母の胎内」に見立てられました。
・「産生湯水(うぶゆみず)ト云フ霊泉アリ」
建御名方命の産湯に使われたとされる霊泉が湧き出しており、それが「阿賀川」となって居田浜(海)へと注いでいると記されています。
・「身能輪山岩殿ハ神代ノ旧跡ニシテ…」
これらの地形(岩殿、霊泉、川)を含む一帯が、まさに大国主と奴奈川姫が愛を育み、子を産んだ神代のリアルな舞台である「身能輪山(みのわやま)」であると結論づけています。
ここに度々書かれる「神代の霊跡にして」「神代の旧跡にて」「神代鎮座之古跡」という書かれ方はかなり重要で、神話とされている神代の時代から「身能輪山」と呼ばれていたということが公的資料として残されているということになります。
つまり、 『古事記』や『日本書紀』といった国家神話が編纂されるはるか以前の段階から、あるいはその神話の成立と並行して、越後の地において「身能輪山(みのわやま)」という具体的な山容・聖地が、大国主命の神代の活動舞台(威城・滞在地)として地域社会や社家に共有されていたということが居多神社の社伝に表されています。
そして、後世の人々が後付けで「ここが神代の舞台に違いない」とファンタジーとして創り出したのではなく、朝廷の式内社として、また平安初期の『日本後紀』などの正史に連なる格式を持つ神社において、こういった伝承が公的に残っているということが、注目すべき点と言えるでしょう。
また、現在は上越市長浜に鎮座する「阿比多神社」も、大国主、奴奈川姫、建御名方命とも深く関りがあり、非常に歴史が古い神社です。ここにも「みのわやま」について伝承が残っています。
《阿比多神社の社伝》
◆「身輪山(みのわやま)」と「国造大神」の明記
縁起の冒頭には、次のように記されています。
「抑当社祭神、少名昆古名命神代の霊跡にして、国造大神は三輪山に鎮り玉ひ、奴奈川比売の座す古志嶺の間に鎮ります神なれば阿比多神社と申し…」
・国造大神(大国主命)が「三輪山(身輪山)」に鎮まり、奴奈川姫が座す古志嶺(こしがみね)の間に鎮座する神であるゆえに「阿比多神社」と称するとされています。
さて、この目立たない「阿比多神社」もまた「神代の霊跡である」と書かれています。そして驚くことに、ここにもはっきり居多神社の社伝に出てきた「身能輪山」を指して、「三輪山」という書かれ方で登場するのです。
これは、居多神社の旧跡で語られていた「身能輪山」と、阿比多神社の縁起にある「三輪山(身輪山)」という名称、そしてそこに大国主と奴奈川姫が揃って鎮座しているという伝承が、一つの線でピタリと繋がります。
この「阿比多神社」はもともと岩殿山あたりにあったのではないかという地元の考察が存在しているのですが、これらを含めると、居多神社を中心とした海沿いの地域が、歴史上の重要地であったと考えることができるのは、新たな発見です。
そして別々の神社の社伝に同じキーワードが同じ場所を指しているというのは、非常に重要です。異なる伝承を持つ諸社が、それぞれの記録の中で同じ聖地や神話的空間を共有しているという事実は、この頸城平野の一帯に、かつて強固で共通した古代祭祀の原風景(基層)が存在していたことを示すものと考えても不自然ではないでしょう。
《吉川区の大神社の社伝》
前回のブログでも紹介した、岩戸伝説のある吉川区の尾神岳のふもとの大神社ですが、社伝を改めて詳しく見てみると、重要な事が残されています。
◆崇神天皇の御代と大国主命の鎮撫
「神皇十代崇神天皇の御代、大彦命北陸鎮撫の際、大国主命を大神嶽の山頂に創祀し…後世神威を恐れ、尾神嶽、尾神村に改める」
・神皇十代崇神天皇の御代: 大彦命北陸鎮撫の際、大国主命を大神嶽の山頂に創祀したのが始まりであり、これにより「大神嶽、大神村と称す。後世神威を恐れ、尾神嶽、尾神村に改める」とされています。つまり、伝承の上では、崇神天皇の御代に大彦命(おおびこのみこと)が北陸を平定・鎮撫した際、すでにその山は「大神嶽(おおみわだけ/おおみかみたけ)」と呼ばれており、そこに大国主命が祀られたとされています。
そして、その後に神威があったため、後世になって「大神(おおみわ)」という恐れ多い名前を少し弱めて「尾神(おがみ)」へと呼び変えたという文脈が、縁起に組み込まれています。尾神へと表記を変えた要因になったとされている出来事はこのようなお話です。
「風穴」にまつわる神罰の伝承
市史の引用にあった由緒では、かつて霊地の下で穴を掘り始めたところ、神の怒り(神罪)にふれて社内から大風が吹き出し、周辺の里々にまで大きな難渋や耕作への被害をもたらしたと伝えられています。その場所は「風穴」と呼ばれ、軽々しく開帳すれば目が潰れるといった、人間の常識が全く通用しない「神の荒ぶる側面(荒魂)」を象徴する伝説が今に伝えられています。大和の「三輪信仰」の成立も祟りを発祥としていますが、ここにも「祟り」と思われる出来事があったというのは興味深い点だと、個人的には感じました。
それと、尾神岳を調べていて尾神岳の近くにかつて「黒姫神社」があったということがわかりました。このブログでも奴奈川姫と黒姫の関係がかなり深いことがわかっていますので、大神社の大国主・建御名方命ときて、付近に黒姫神社というのは納得ができてしまいます。
報尽為期碑 - 上越市ホームページ
というわけで、これだけの「みわやま」にまつわる伝承が、それぞれ相当歴史の古い神社の社伝に残されていることが分かりました。
注目すべきは「神代の霊跡にして」「神代の旧跡にて」「神代鎮座之古跡」とされていることです。
これらを次回、私なりに考察したいと思います。
ではまた次回の講釈で。
