第24回 様々な文献での建御名方命像から考察
前回は、越後において建御名方命信仰がここまで広がった要因と、上越エリアの伝承についてまとめました。越後から諏訪への通過地域に建御名方命の伝承が数多く残っているという興味深い事実から、古事記で書かれるように出雲から諏訪ではなく、越後から諏訪という移動のラインが見えてきました。
踏まえて、今回は様々な文献での建御名方命の書かれ方、伝承の残り方をまとめて、比較してみたいと思います。
《出雲国風土記 733年成立の地誌 》
『出雲国風土記』には、建御名方命が建御雷神に敗れて信濃へ逃れたという「敗走神話」は記されていません。意外にも建御名方命は出雲神話の中心人物としてはほとんど扱われません。
・『出雲国風土記』成立:733年
・『日本書紀』成立:720年
・『古事記』成立:712年 と、記紀とほぼ同時代です。
にもかかわらず、古事記で語られる建御名方命の敗走について書かれていないというのは違和感があります。客観的見ても、国譲り神話と敗走神話は出雲において極めて重要な伝承のように見えます。ですから733年成立の風土記が完全に沈黙するのは不自然ではないでしょうか。
理由として考えられるのは、「風土記の目的が違う」という点です。
『出雲国風土記』は神話集ではなく、地名の由来、郡郷の説明、神社、産物 を朝廷へ報告するための地誌です。そのため、なぜ建御名方命の敗走神話が出ないのか…に対しては、そもそも書く必要がなかったという説明もできます。しかし、風土記には大国主命(大穴持命)関連の伝承は大量に残されています。古事記で重要な場面で登場する、しかも大国主の子である建御名方命がもっとしっかり登場しても良さそうなものです。
出雲にとって建御名方命は出雲では重要ではなかった?
これまでまとめてきた通り、越後・信濃エリアで諏訪神社の分布が非常に多く、建御名方命信仰がかなり大きな勢力を持っています。普通に考えれば、祖地である出雲において最も信仰が濃くてもいいはずですが、あまり触れられていません。実際、出雲地方の神社分布を見ると、大国主命、事代主命、須佐之男命 は極めて強い。しかし、建御名方命はそれほど目立ちません。
神話上、建御名方命の母は奴奈川姫です。上越エリアにはその伝承も残されており、奴奈川姫は越の国を代表する神格として知られています。さらに建御名方命の信仰は、越後から信濃にかけて特に濃密に分布しています。
もちろん、信仰分布だけで神話の成立地や神の出自を断定することはできません。しかし、『出雲国風土記』における建御名方命の存在感の薄さと、越後・信濃における伝承の豊富さをあわせて見ると、建御名方命が後世においては「出雲の神」というよりも、「越・信濃圏の神」として強く記憶されていった可能性は十分に考えられます。
そう考えると、『出雲国風土記』で扱いが小さいこともそれほど不自然ではなくなります。つまり、大国主の子で出雲の王子とされているが、実際に深く関わっていた地は越の国であり、その後諏訪へも広がっていったと考えることもできます。研究者の中にも、建御名方命は元々出雲神話の主要神ではなかったと考える人もいます。
《記紀・古史古伝ではどう書かれているのか》
では、建御名方命が諏訪に至るエピソードについて、他にはどんな伝承が残されているのか、今回も様々な記紀と古史古伝の内容を簡単にまとめたいと思います。
① 古事記の建御名方命
・大国主神の子
・国譲り神話の最終抵抗者
・武力を象徴する神
として登場します。
事代主神が国譲りを認めた後、建御名方神だけが反対します。
そして建御雷神に力比べを挑み、敗北します。その後、出雲から逃走し信濃の州羽海(諏訪)まで追われ、そこでこの地から外へ出ないと誓って降伏します。
古事記の諏訪入りは建御雷に追い詰められた終着点として、「敗北した武神の流刑地」ともいえるような描かれ方をしています。
② 日本書紀の建御名方命
驚くべきことに、日本書紀の諏訪入りはそもそも存在しません。
国譲りは大国主神と事代主神を中心に進みます。 そのため諏訪入り神話は存在しません。大国主神は事代主神の意向を確認した後、比較的円滑に国譲りを行います。建御名方命がいなくても話が成立しています。
諏訪大社ほど巨大な信仰があったにもかかわらず、日本書紀は建御名方命をほぼ無視しています。そのため研究者の中には
・諏訪信仰は中央神話の外部にあった
・後世に古事記系統で追加された
と見る人もいます。
いずれにせよ日本書紀の立場では、建御名方の諏訪入りは国家神話にとって重要ではなかったということになります。
③ 先代旧事本紀の建御名方命
古事記をさらに発展させた存在です。
特徴は、母神が明記されること。
・父:大国主神
・母:高志沼河姫(奴奈川姫) となっています。
つまり出雲王家+越王家の血統になります。
古事記同様、建御雷神と戦い敗北、信濃へ退く という筋立てです。
「先代旧事本紀の諏訪入り」
古事記同様、建御雷神と戦い敗北、信濃へ退く という筋立てです。しかし、母が高志沼河姫と特定されているため、越と建御名方命の繋がりが見えているという点は大きな違いです。
また先代旧事本紀では母系ネットワークへの帰還という読み方があります。
実は諏訪と糸魚川は黒曜石・翡翠交易の古代ルートでも結ばれていたため、この解釈を支持する研究者や民間研究者もいます。
この黒曜石・翡翠交易ルートという点も、非常に重要な意味を持ってきます。
④ 竹内文書の建御名方命
竹内文書では、日本文明は超古代から存在し、神々は実在した王族や指導者
という理解が多く、建御名方命も「実在の王・首長」として読まれる場合があります。そのため、建御名方命は単なる出雲神話の登場人物ではなく、
地方統治者、王族、地方長官など、超古代王朝や神代史の中の重要人物として扱われる傾向があります。ただし、文献によって内容差が大きく、一定した建御名方像はありません。
「竹内文書の諏訪入り……敗走ではなく配置転換」
この系統では負けて逃げて諏訪に移住 ではなく
統治領域を与えられ、諏訪を治めたと理解される傾向があります。つまり諏訪入りは「敗者神話」ではなく「新領土経営」になります。
⑤ 宮下文書の建御名方命
宮下文書では、富士王朝の王族として理解される傾向があります。
そのため建御名方命も、出雲神話より日本全土の古代統治ネットワークの一員として理解されます。
「宮下文書の諏訪入り……富士王朝の地方王として赴任」
宮下文書系では諏訪は辺境 ではなく王権ネットワークの一拠点になります。
そのため建御名方は追放された神ではなく地方王であり、諏訪入りは「流刑」ではなく「赴任」です。ここは竹内文書と近い世界観と言ってよいと思います。
⑥ 出雲口伝の建御名方命
出雲口伝では、古事記・日本書紀を「勝者による歴史」として見ています。
そのため建御名方命も、単なる敗者ではありません。出雲口伝系の考え方では、国譲りそのものを武力征服 ではなく政治的な権力移譲として捉えることが多いです。その結果、建御名方命は「敗走した神」ではなく「出雲系王族の一員として諏訪へ移った人物」として理解される傾向があります。
「出雲王族の東国進出」
建御名方は出雲王家の一員として東方へ移動し、新たな拠点を築いたとされることがあります。出雲口伝的には出雲王族が東国進出・新王国建設。
つまり諏訪は「敗北の地」ではなく「第二の建国の地」となります。
《6文献の建御名方命像の比較》
これらの文献の建御名方命像は次のように整理できます。

《6文献の諏訪入りについての描かれ方》
6文献を並べると、建御名方命の諏訪入りは次のように変化します。
①古事記…敗北して追い詰められた場所
②日本書紀…物語自体が存在しない
③先代旧事本紀…母系(奴奈川姫系)勢力圏への移住
④竹内文書…王族としての地方統治開始
⑤宮下文書…富士王朝の地方王赴任
⑥出雲口伝…出雲王家による東国進出・新王国建設
この比較で見えてくるのは古事記だけが徹底して「敗者の建御名方」を描いているという点です。後世の伝承になればなるほど、敗走神→移住神→統治神→王族神へと評価が上昇していく傾向があります。諏訪大社が日本最古級の巨大信仰圏であり続けたことを考えると、諏訪地域側では「敗北して閉じ込められた神」よりも、「新天地を開いた祖神」として理解する方向へ発展していった、と見ることができます。
《敗走神話への違和感》
私自身は、諏訪大社における建御名方命の存在感の大きさを知った時から、古事記における「建御名方命の諏訪への敗走」にどこか違和感を持ちました。
古事記・日本書紀は大和王権の正統性を示すために編纂されたという側面があります。ですから、建御名方命が建御雷神に敗れ、諏訪へ逃れて閉じ込められたという物語は、勝者側の視点から描かれた神話として理解することもできます。
また、これまで考察してきた中で見えてきた、翡翠を起点とした奴奈川姫・越の国の権威・重要度の高さ、事代主が越の血統と祭祀を大和政権に持ち込んだ可能性など様々な仮説を考慮すると、敗走よりは進出あるいは拡大だったという可能性を感じています。
もちろん、そのような考えを歴史的事実として断定することはできません。しかし今回、古事記以外の文献や古史古伝を比較してみると、建御名方命を「敗者」としてではなく、「移住した王族」「地方統治者」「新天地の開拓者」として描く伝承が数多く存在していることが分かりました。実際、越後から信濃にかけては建御名方命に関する伝承や信仰が非常に濃密に残されているのも興味深い点です。
ということで今回はここまで。
次回は、諏訪大社における建御名方命とはどういう存在でどういった扱いなのかを調べてみます。
ではまた次回の講釈で。
