見出し画像

第23回 越後における建御名方の伝承

前回は、新潟県における建御名方信仰の強さについて、データをもとにまとめてみました。単純に数としても、全国一の神社数である新潟県内の比率からも、諏訪大社がある長野県よりも、新潟県がかなり多いという事がわかりました。

《新潟県で建御名方命信仰が深く根付いた背景は》 
新潟県において諏訪神社がこれほど広く分布し、建御名方命信仰が深く根付いた背景には、主に三つの要因があると考えられます。
● 諏訪大社からの分霊勧請(特に下越地方)
新潟は古くから信濃国(現在の長野県)との往来が盛んな地域であり、諏訪大社の分霊を勧請した神社が数多く建立されました。
新発田諏訪神社も、信濃から移住した人々が諏訪大社の神を勧請したことを起源としています。
● 信濃との交流や結びつき(中越地方など)
越後と信濃は山で隔てられている一方で、古くから峠道や街道によって結ばれていました。
人の往来だけでなく、文化や信仰もまた信濃から越後へ伝わり、その流れの中で諏訪信仰が各地へ広がっていったと考えられます。
● 神話や伝承による信仰の土着化(特に上越地方)
もう一つの要因が、上越エリアに残る奴奈川姫・建御名方命の神話や伝承です。
上越西部から糸魚川にかけては、
  ・奴奈川姫(沼河比売命)
 ・天津神社
 ・奴奈川神社
 ・出雲系神話
 ・建御名方命 が一つの神話圏として理解できる地域です。

建御名方命は大国主神と奴奈川姫の子として語られるため、この地域では「諏訪の神」である以前に、「奴奈川姫の子」という認識によって受け入れられてきた可能性があります。
上越エリアの中でも、奴奈川姫の本拠である糸魚川市地域については、奴奈川姫の生誕や逃亡、死など奴奈川姫についての伝承が多く、建御名方命についての伝承は薄いと言われます。それに対して上越市から妙高市にかけては建御名方命本人についての伝承が比較的たくさん残っているようです。

 そんなわけで、上記の三つの要因によって、諏訪神社および建御名方命信仰は新潟県内に広がり、それぞれの地域で根付いていったと考えられます。
 
このブログでも何度も取り上げた通り、上越エリア(現在の上越市・妙高市・糸魚川市周辺)では、建御名方命は奴奈川姫の子であると伝わっています。私自身は、今回ブログを書くにあたって、これが一般的に知られている設定ではないという事、上越エリアでもその伝承を知らない人が多い事、諏訪大社のある長野県でもその設定を知らない人がいるということに非常に驚きました。
 
別の記事で、能登出身の方からコメントをいただいたのですが、奴奈川姫に関する伝承について、「こんなすごい話をもっと広めなくてどうする!おい新潟!」と思っていたとのことで、私もまったく同感なんですが、外から見てもとても重要な伝承を持っているという事、その価値を地元があまり感じていないという事に、非常にもどかしい気持になりました。
 
《上越エリアに残る建御名方命の伝承》
ここで改めて、上越エリアに残されている建御名方命についての伝承をまとめてみたいと思います。
 
1. 岩殿山(五智国分)の生誕伝承
上越市五智国分の岩殿山(岩戸山)には、
 ・大国主命が高志国へ来た
 ・奴奈川姫(沼河比売)と結ばれた
 ・岩屋で建御名方命が誕生した
という伝承があります。上越の諏訪信仰では特に有名な話です。岩殿山の諏訪神社はその生誕地を伝える神社とされます。
これは奴奈川姫の子である建御名方命が「糸魚川生まれ」ではなく、「直江津の岩殿山で誕生した」という独特の内容です。

伝承の筋書きはかなり物語性があります。
① 大国主が高志へ来る
神代の時代、大国主命はヒスイを求めて高志国へやって来たとされます。糸魚川は翡翠の産地であり、そこに奴奈川族がいたと語られます。
 
② 岩殿山の岩屋に住む
大国主はまず岩殿山の岩屋に滞在します。
その後、奴奈川族の女酋長である奴奈川姫に求婚し、二人は結婚します。
 
③ 岩屋で新婚生活
上越市五智の岩殿山には巨大な岩窟があり、伝承では、大国主命と奴奈川姫は岩殿山の岩屋で新婚生活を送ったとされています。この岩屋は、過去の大地震で上部が崩れてなくなってしまいましたが、今も堂々たる存在感で、岩殿山に残っています。
一般に知られる『古事記』の求婚歌の舞台は糸魚川周辺と解されることが多いのですが、この伝承では舞台が現在の上越市五智国分に移っています。
 
④ 建御名方の誕生
奴奈川姫は妊娠し、産婆役の姥嶽姫命(うばたけひめのみこと)が出産を助けます。その際、岩屋に自生していた「日陰のかずら」(イタビカズラ)をたすきとして用いて取り上げたとされます。 そして生まれた子が、建御名方命(後の諏訪大明神)です。岩殿山は建御名方命の生誕地とされます。
 
⑤ 建御名方は岩殿山に残る
その後、大国主は出雲へ帰り、奴奈川姫は糸魚川へ帰るとされます。しかし建御名方は、岩屋に留まったと語られています。
 
⑥ 建御名方命の「高志国防衛戦」伝承
岩殿山の縁起では、建御名方命は成長後に高志国を守るため、高志の兵を率いて高志国を譲るよう要求してきた天孫勢力と戦ったとされています。
地元の郷土史・口承ではさらに発展して、
・タケミカヅチら天孫側の軍勢が高志国へ侵攻した
・国譲りの際に建御名方命は高志国の兵を率いて戦い岩殿山の岩屋や周辺の岩山を利用して抵抗した
・岩屋に敵神を閉じ込めた、あるいは岩で封じた
・最後は敗れて信濃へ落ちた
とされます。

⑦ 諏訪へ退く
最終的に敗れた建御名方は、糸魚川から塩の道を通り諏訪へ逃れ、諏訪大社の祭神になったと語られます。この上越エリアの伝承は 高志 → 諏訪 という流れになっていて、出雲の神としての建御名方命ではなく「高志を本拠とする建御名方命」を伝えています。
 
ここで、非常に興味深いのは上越エリアから諏訪に至るまでのルートの各地域に、建御名方命についての伝承があるという事です。
それらが一つの移動ルートを示すことを直接証明する史料はありませんし、これらは確認できる史料は少なく、現在は地元の古老伝承として伝わる性格が強いようです。
 
上越エリアから諏訪に至るまでのルートの各地の伝承
頸城平野から妙高方面へ向かう地域には、
建御名方命が
・関川を遡った
・妙高山麓を通った
・関山方面から信濃へ入った
という伝承が断片的に残っています。
 
妙高市や旧妙高村域には、神が旅の途中で一夜を過ごした場所を
一夜宿、御宿、神宿などと呼ぶ例があります。
これらは建御名方命だけでなく修験者や神々の伝承と混在していますが、諏訪系神社の由緒では、諏訪へ向かう建御名方命が夜を明かしたという説明が添えられることがあります。
 
また上越・妙高・信濃北部には
・建御名方命が杖を突いたところから清水が湧いた
・人々が水不足で困っているのを見て泉を出した
という類型の伝承が広く見られます。
近隣の信州側には、建御名方神が塩不足で困る人々のために山中で塩泉を見つけた。それが現在の大鹿村・鹿塩温泉であるという有名な伝承が残っています。

このように建御名方命の移動ルートに沿うように伝承が残っていることを踏まえると、 建御名方命は出雲からではなく、越後から諏訪へ移動した可能性が考察できます。

というわけで、今回はここまで。

次回は記紀から古史古伝まで、それぞれ建御名方命がどのように伝えらているのかをまとめてみます。

では、また次回の講釈で。


いいなと思ったら応援しよう!