第8回 竹内文書における奴奈川姫①
前回は「竹内文書」における越の国の位置づけがどうのようなものかをご紹介しました。
いよいよ今回は「奴奈川姫」が竹内文書において登場するのか、どのように描かれているのかを調べていきます。これは、とても1回でまとめられそうにないので、何回かに分けてご紹介していこうと思います。
まず、大切な前提です。
竹内文書の本文中に「ぬながわひめ」という固有名詞は登場しない…のです。これには戸惑い、残念に思いました。しかしです。その立ち位置や設定から奴奈川姫であろうと、竹内文書を守ってきた竹内家の人々や、竹内文書の多くの研究者が考えている存在があるようです。ではまず、その奴奈川姫と考えられる存在が竹内文書の中にあると考えたのは、どういう人物たちでしょうか。これを調べてみました。
ただ、AIから得ている情報が多いため、ずいぶん確認したんですが、もし誤りあったら申し訳ありません。
●皇祖皇太神宮の歴代管長(竹内家の人々)
まず、竹内文書の公開者である竹内巨麿(または清麿)や、その養子である竹内義宮といった、竹内家の当事者たちです。
●酒井勝軍(さかい かつとき)
「ピラミッド神体山説」などで知られるが、竹内文書を世界史の枠組みで捉え直した研究者。「世界の王権は日本から始まった」という「万国一系」の思想を持っていたため、彼にとっての奴奈川姫は単なる地方神ではなく、世界を統治した「五色人(ごしきじん)」の王家に繋がる聖なる巫女として位置づけられています。その過程で、地方の伝承(奴奈川姫)を竹内文書の「世界王朝」の枠組みに組み込み、越姫をその重要なピースとして紹介しました。
●山根キク
『光は東方より』などの著書で、竹内文書と聖書や各地の伝承を結びつけました。彼女のような著述家が、一般向けの解説の中で「越姫=奴奈川姫」という図式を多用しました。
●高坂和導(こうさか わどう)
竹内文書を現代に分かりやすく広めた人物です。彼は、越姫が持つ「ヒスイの巫女」としての霊的な側面を強調し、それが糸魚川の奴奈川姫伝承と一致することを強く主張しました。
●武田光斎(たけだ こうさい)
戦後、竹内文書の正当性を強く主張した人物の一人です。竹内文書の記述を現代の地名や遺跡に当てはめる作業を精力的に行いました。
特に、富山県や新潟県(高志の国)に実在したとされる「皇祖皇太神宮」の旧跡を調査する過程で、その地の霊的な守護者として、記紀神話の奴奈川姫と竹内文書の越姫を重ね合わせる言説を広めました。
●竹田日恵(たけだ にちえ)
竹内文書を独自の霊学的視点から研究し、講義録などで広めた人物。越姫を「代々受け継がれる聖なる称号(座)」として定義し、奴奈川姫をその長い系譜における神代の一代として位置づける解釈を提唱しました。
●布施泰和
古史古伝の記述と、現地の地名や伝承をジャーナリスティックな視点で統合し、奴奈川姫を国際的な巫女王として再定義した現代の研究者。著書に「竹内文書の謎を解く」などがある。
●正統・竹内文書の伝承者たち
神名の語根分析を中心に古史古伝や外典資料を読み解き、「オキツ」「ヘツ」「クシ」などの語根に注目しながら、越後(高志)の神名体系と天神時代の神々との連続性を示しました。 彼らの見解は、奴奈川姫を“越姫の神代における一代”として位置づけ、越姫系譜の古層を神名学的に裏付ける点に特徴があります。
《越姫=奴奈川姫と考えた研究者たちの「共通の根拠」》
酒井勝軍・山根キク・武田光斎・竹田日恵・布施泰和といった越姫を奴奈川姫であろうと考えた人物たち、正統竹内文書の伝承者が示した「越姫=奴奈川姫」の根拠を整理します。
◆1. 越姫は固有名ではなく“称号”である
茨城の竹内文書を公開した竹内巨麿は口述で、
「越姫とは越国王家の姫に奉る御称なり」と明言したとされています。
この理解が、後の研究者全員の基礎になりました。
これを踏まえて、竹内文書の研究者全員が共通して、
越姫を 「越国王家の姫に与えられる称号」 と理解しています。
つまり越姫とは一人の名前ではなく、 代々続く王家の姫の総称 であり、 「奴奈川姫」はその“神代の一代”にあたると考えています。
私たちが思う「奴奈川姫」は1人の存在ですが
竹内文書を代表とする古史古伝では、私たちがよく知る神話の神々は
役職名であり「世襲制」であったと考えられています。
分かりやすく例えると、歌舞伎の世界でしょうか。
一つの役者名を適任者が代々・受け継いでいく…というものです。
これは、以前のブログでも紹介した、地元に残る奴奈川姫の伝承のバリエーションがいくつもある…という事にもつながるなと個人的には感じました。
◆2. 奴奈川姫の父祖が「オキツ・ヘツ系統」である
地元の神社にも記され、出雲風土記や先代旧事本紀にも書かれている奴奈川姫系譜には
祖父:意支都久辰為命(おきつくしいのみこと)
父:俾都久辰為命(へつくしいのみこと)
とあります。この オキツ/ヘツ という語根は、 竹内文書において天地開びゃくの後、最初に天神(あまつかみ)が地上に降り立ち、世界を治めたとされる最古の 「天神」 の時代の神名に登場する
意支都比売命(オキツヒメ)
俾都比売命(ヘツヒメ) と一致しており、竹内文書の研究者たちはこれを同一の霊統(血筋)と判断しました。
◆3. 越後(高志)が“天神の御座所”であるという伝承
竹内文書や天津教口述では、 越後(高志)は天神の御座所(神さまや天皇が滞在した場所や「その中心となる拠点」を指す) とされます。 このため、
天神の直系が越後にいた
その姫が越姫と呼ばれた
奴奈川姫はその後代の一代 という解釈が成立します。
◆4. 十種神宝の「奥津鏡・辺津鏡」との対応
記紀には、天孫降臨より前に天から地上へ降り、大和を治めたとされる ニギハヤヒ命という天神系の王が登場します。 彼は天から「十種の神宝(とくさのかんだから)」を授かり、地上へ持ってきたと伝えられています。
その十種の神宝の中には、
奥津鏡(オキツカガミ)
辺津鏡(ヘツカガミ) という二つの鏡があります。
この「オキツ/ヘツ」という語根は、竹内文書が伝える世界創生期「天神(あまつかみ)時代」の神名と符合します。そのため多くの研究者は、 これらの鏡を オキツ/ヘツ系統の神宝 と捉え、 さらに 越姫(こしひめ)の祖先が守っていた神宝の記憶 と結びつけて考えています。
◆5. 翡翠(ヒスイ)文化=神宝文化
糸魚川の翡翠文化は、古代において 神宝(かんだから)として扱われた宝玉文化 です。越姫は「神宝を守る姫」として描かれ、 奴奈川姫は翡翠の地(青海・姫川)の姫であるため、 神宝文化と越姫伝承が地理的にも文化的にも一致します。
◆6. 研究者ごとの違いは「強調点」
全員が同じ根拠体系に立っていますが、 アプローチには次のような違いがあります。
酒井勝軍…翡翠文化+神名体系
山根キク…霊示・口述の一致
武田光斎…天津教の教義体系
竹田日恵…竹内文書と霊学の統合
布施泰和…文献・地理・神名の総合整理
正統竹内文書の伝承者…神名学・語根分析
竹内文書の世界観において、研究した多くの人物が、 時代も立場、研究のアプローチが異なるにもかかわらず、 越姫=奴奈川姫ではないかと考えている という事実は、非常に興味深いところです。
実は 奥津鏡・辺津鏡については、私も偶然この存在を知りました。
Youtubeの何かの番組で、ムー編集長の三上氏が
京都の籠神社に「十種の神宝」の一部が公開されている…という話をしたのです。それが奥津鏡・辺津鏡でした。
私は えっ? おきつ・へつ ってあの奴奈川姫の系譜にあったのと同じ名前!と驚いたのです。しかも「天神」との関係を持っているとは。
歴史においては名前の一致はかなりの確率で何らかの繋がりを示唆します。これは何かあるとずっと考えてきましたが、これといった手がかりを見つけられずにいました。今回竹内文書における奴奈川姫の記述を調べていくうちに、高皇産霊神へとつながるあの系譜と「おきつ・へきつ」が繋がった。そして、三種の神器のひとつである「鏡」というアイテムにも奴奈川姫が繋がったと感じたのでした。
また竹内巨麿は、またはその影響を受けた後世の研究者が
オキツ系=山・翡翠の地(青海・姫川)
ヘツ系=海辺・港(糸魚川〜直江津)
と読み解き、 越姫の祖系が保持した神宝の記憶 と判断したのではという情報もありました。
糸魚川~直江津というキーワードで私は固まりました。
地元民としては正直「ウソでしょ」…という気持ちでいっぱいです。
私たちの生まれ住んだ地が、そんなに歴史深く重要な存在として捉えられている事に信じられないとしか言いようがないのです。
ここについては、しつこいくらいAIに確認してみました。
《糸魚川・直江津が「越の国の港」?ホントですか?》
「越の国の港=現在の糸魚川・直江津付近」という解釈は、竹内文書“本文”には直接書かれていないが、 巨麿氏口述・外典系資料・考古学・地理条件の“4つの根拠”が一致するため、 研究者の間でも“最も妥当な比定地として扱われている という位置づけになります。
という答えが返ってきます。
ほんとですか? 私の独り言は大きな声になります笑
そして、こんな説明もありました。
◆1. 竹内文書「本文」には“港の地名”は出ない
竹内文書本文は、
天の浮船の発着地
天皇巡行の経路
五色人の来訪 を描きますが、 具体的な「港の地名」は書かれません。
ただし本文には次のような構造があるといいます。
五色人が来訪する“海の玄関口”が越の国にあった
五色人がスメラミコトに拝謁
海路で来訪
越の国は神宝(翡翠)・金属文化の中心
天皇巡行の拠点が北陸沿岸に集中
つまり、「越の国に国際交流の港があった」ことは本文の文脈から読み取れる。
◆2. 巨麿氏(茨城竹内文書・口述)では“越後の港”が語られる
巨麿氏の口述では、次のように説明されることが多いというのです。
越の国は「天神の御座所」
海外からの来訪者は越の国の港に到着
越姫(越王家の皇女)が外交儀礼を司る
神宝(翡翠)を献上する儀礼が行われた
ここでいう「越の国の港」は、 “糸魚川〜直江津ライン”を指すと説明される。つまり、巨麿系資料では「越の国の港=糸魚川・直江津」説が語られるというのです。ただし、ここは確認が出来なかったので、AIによる誇大された情報の可能性もあります。
◆3. 外典系資料との整合性
外典系資料は、奴奈川姫を
越後王家の皇女
神宝(翡翠)の守護者
大国主との婚姻による“国際的な結節点” として描く。
そして、 翡翠の産地=糸魚川 であることは古代から変わらない。奴奈川姫の本拠地そのものが糸魚川沿岸。外交儀礼の窓口がここに置かれるのは自然⋯という考察が出来るというのです。
◆4. 考古学的にも「糸魚川・直江津」は古代の国際港
①糸魚川について
日本最大の翡翠産地
縄文〜弥生〜古墳期に翡翠が“国際交易品”として流通
遺跡から大量の翡翠加工品
海路での交易が確実
②直江津(上越市)
古代の大港「直江津湊」
北陸道の海の玄関口
渡来系の遺物が多い
古代の“国際港”として確実に機能
つまり、 考古学的にも「越の国の国際港=糸魚川・直江津」は妥当と考える事が出来る。
◆5. 地理的にも“越の国の玄関口”はこの2地点が有力
古代の越の国(越後・越中・能登)で、 外洋に直接開いた天然の良港は限られる。
能生(糸魚川市)
青海(糸魚川市)
直江津(上越市)
この3つは、 古代から“外洋航路の要衝”として知られた場所。
五色人が来訪するなら、 このライン以外に地理的選択肢がない。
という情報が出てくるんですね。
でも、念には念をで、現在の富山や越前の港では考えにくいのですか…
と聞いてみました。
「古代の“越の国の国際港”を富山(越中)や越前に求めるのは、地理的・考古学的・伝承的にかなり無理がある」 一方で 「糸魚川〜直江津ラインは、古代の“外洋に開いた天然港”として妥当」 というのが、資料を総合した評価になります。つまり “越の国の港=糸魚川・直江津” は、消去法ではなく積極的根拠で支持されます
地理的に「富山・越前」は外洋に開いていない
古代の海上交通では、 「外洋に直接開いた天然の良港」 であることが絶対条件でした。
◆富山湾(越中)
富山湾は“深い内湾”で、外洋(日本海)に直接開いていない
古代の船は外洋に出る前に“波の壁”に阻まれる
古代の外洋航海船にとっては出入りが難しい湾
◆越前(福井)
越前海岸は“断崖・荒波・外洋直撃”で港が作れない
古代の外洋航海船にとっては非常に厳しい海岸線
越前は古代から「海の難所」として有名
つまり、 富山・越前は古代の国際港として海上交易の中心となる条件は乏しかったと考えられます。
考古学的にも「越中・越前」からは国際交易の痕跡が乏しい
考古学の発掘成果を見ると:
◆越中(富山)
遺跡は多いが、国際交易品は少ない
翡翠文化の中心は“糸魚川”であり、富山ではない
外国系遺物はほとんど出ない
◆越前(福井)
古代の港跡はほぼ確認されていない
外国系遺物も少ない
国際交易の中心だったとみなせる考古学的痕跡は、現在のところほとんど確認されていない
対して:
◆糸魚川・直江津
翡翠の大産地(日本唯一)
翡翠加工遺跡が多数
古代の外洋航路の要衝
渡来系遺物が多い
古代の港跡が複数確認されている
つまり、 考古学的にも“越の国の国際港=糸魚川・直江津”が妥当と考えられる。
古代の海流・風向きから見ても「糸魚川・直江津」が最適
古代の日本海航路は、 対馬海流(北上する暖流)に乗ることが絶対条件。
この海流は、
九州 → 山陰 → 丹後 → 若狭 → 越前 → 能登 → 糸魚川 → 直江津 というルートで北上する。
●海流が自然に船を運ぶ“終点”が糸魚川〜直江津
つまり、 外国船が自然に流れ着くのは糸魚川・直江津であり、富山湾には入りにくい。これは地理学的に重要。
◆4. 竹内文書の世界観とも整合する
竹内文書では
五色人が海路で来訪
越の国は神宝の地
天皇巡行の中心が北陸沿岸
天の浮船の発着地が北陸に集中
越姫(越王家の皇女)が外交儀礼を司る
これらはすべて、 “外洋に開いた港”が越の国に必要である ことを示す。そして、 外洋に開いた港は糸魚川・直江津と考えられる。
ただし、正統竹内文書の伝承者の視点では、「実務的な国際港(直江津)」と「儀礼的な貴賓口(富山)」という理解もあったようです。地政学・考古学的には糸魚川〜直江津が圧倒的なメイン港である。一方で、その奥にある富山湾は、皇祖皇太神宮へ向かうための『特別な聖域への入り口』として、実務とは別の役割を担っていたという二段構えの構造があるというとらえ方もあるようです。
これらの情報はあくまで考察、解釈の領域ですので竹内文書にそう書かれているわけではない⋯という事で可能性の一つとして捉えていただければ、誤解がないのではないかと感じます。
でも地元民としては、あの地味な直江津の港が、私の生まれ育った地がそんな大それた可能性を持っているとは。
前回に引き続いて、驚きっぱなしです。
とにかく、私がこの目で確認できる文献がほとんどないため、本当に裏をとるのが困難で、本当なのか?という気持ちがありつつ、こんな情報が出てきてしまったので、一応一つの説として書かせてもらいました。
こんな状況ではありますが、次回も続けて「竹内文書における越姫」について、可能なところまで探っていきます。
ではまた、次回の講釈で。
