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第16回 地元神社に残る事代主の痕跡②居多神社、斐太神社

前回は、田伏・奴奈川神社の社伝から、事代主=建沼川男命、つまり奴奈川姫の実子である可能性を考察しました。
実は、事代主が奴奈川姫の実子でないかという事を調べ始めた時は、なかなか手掛かりがなく、こじつけ的な弱い伝承しか見つけられずに、やっぱりこれは無理な説かなぁと、半ば諦めて、最後に居多神社をもう一度だけ調べてみるか…とほぼ希望もなく調べていたところ、思わぬ伝承を見つけたのでした。
 
《居多神社の伝承》
居多神社の古い由緒書きでは祭神が 
大国主命、奴奈川姫、建御名方命、事代主の4柱だったというのです。
さらに建御名方命と事代主を 「2柱の御子」 と伝えているのです。
残念ながら、この古い由緒書きは現在は公開されていないという事なのですが、複数の郷土史家が同じ内容を引用しているようです。
 
現在、居多神社の祭神というと、大国主命、奴奈川姫、建御名方命の
家族3柱と認識されています。ここに事代主がいたという事も驚きましたが、「2柱の御子」という表現について衝撃を受けました。
 
ただ単に、「2柱とも大国主の子だから」そういう見解も成り立つと言えます。でも、普通に考えて実の親子家族3柱に、異母兄弟を混ぜて「2柱の御子」とするのか? という違和感があると私は思います。
 
ここで思ったのは、応神天皇を祀る八幡神社です。
多くが応神天皇とともに母である神功皇后、そして父親であるはずの仲哀天皇ではなく、神功皇后の大きなバックボーンであったとされる武内宿祢を共に祀ります。
 
これが、日本神話の考察では、おおむね武内宿祢は応神天皇の実の父親であると解釈されています。私もそうでなければ、違和感があると感じました。このことと同様のパターンで、事代主が奴奈川姫の実子でなければ、この顔ぶれで一緒に祀られている事に違和感があるのです。
 
この居多神社の古い由緒書きにつての郷土史家の引用というのはかなり明確で次のようなものです。
「居多神社は奴奈川姫命と二柱の御子を祀る」
この「二柱の御子」が、
・建御名方命
・事代主命 であると説明されています。

 私自身も考えたこともなかった、事代主は奴奈川姫の子という
竹内文書の内容との一致に、とにかく、驚きました。
 
《斐太神社(妙高市)に伝わる事代主》
そして、もう一つ上越市から内陸に入る妙高市の斐太神社です。
ここは以前から存在は知っていたんですが、奴奈川姫を調べ始めるまでどんな神社か知りませんでした。奴奈川姫とゆかりがあると知り、いい神社だと人からも聞いていたので、訪れてみると、非常に立派な神社で、おすすめされた意味が良く分かりました。
ここの祭神を調べると大国主命、建御名方命、事代主の3柱です。またこの組み合わせです。
 
またこの神社の周辺には、遺跡が多数出ており、規模としては当時の東日本の最大級の規模と言われています。これらの遺跡は奴奈川姫の性質を母体とする特徴が見られ、斐太神社では、現在も祭神表記には奴奈川姫は見えないのですが、立地・神格構成・周辺社の伝承を総合すると、奴奈川姫を中心とする信仰が基層にあり、その上に現在の神々が配置されたと考えるのが妥当であると認識され続けています。
 
そうすると、構図としては居多神社の4柱と全く同じ構図になります。
この4柱の組み合わせというのは、奴奈川姫を祀る神社が全国的に少ない事を考えると、おそらくこの糸魚川~上越エリアだけであろうと思います。
 
斐太神社の伝承は、非常に注目すべき内容が多いです。
分かりやすい文章に置き換えると、このような内容になります。
 
斐太神社 社伝(現代語訳)
そもそも当社は、越後国頸城郡斐太の地に鎮座する古い神社であり、その創建は非常に古いと伝えられています。
大国主命は、御子神である事代主命と建御名方命を従えてこの地に来られ、しばらく滞在して国土の開発を行いました。すなわち、大国主命と建御名方命は山野を切り開き、田畑を開墾して人々に農耕の方法を教え、事代主命は河川や沼を整備して水路を開き、人々の生活を安定させたといいます。 その結果、土地は整い、人々も豊かになりました。
このことから、この地域は「日高見(ひだかみ)の国」と呼ばれるようになり、後に「斐太」という地名になったと伝えられています。こうした由来によって、三柱の神を祀る神社として創建されました。


また、事代主命は「矢代明神」とも呼ばれ、もともとは矢代川上流の岡沢山に鎮座し、川の源を守る神でしたが、後にこの神社へ迎えられました。
建御名方命も、もとは南葉山の山頂に祀られていましたが、その後こちらに遷され、一緒に祀られるようになりました。


戦国時代になると、上杉謙信がこの神社を深く信仰し、
1574年(天正2年)に矢代明神を合祀して三柱の神とし、鮫ヶ尾城の鬼門を守る神と定めました。 さらに周辺128か村の総社と位置付け、社領を寄進して厚く保護しました。
 
ここまでが、ブログに関係する部分となります。
簡潔まとめると、「出雲系の神々がこの地を開拓し、その功績を記念して祀られた神社が斐太神社である」とする社伝です。
 
この社伝のポイントをまとめてみました。
●大国主命は、御子神である事代主命と建御名方命を従えてこの地に来られ、しばらく滞在して国土の開発を行った。
まずここは、越後エリアにあまり関りがないと思っていた事代主が、上越エリアの開拓・国づくりに大きく関与していたという事が分かる、非常に重要なポイントです。
 
●大国主命と建御名方命は山野を切り開き、田畑を開墾して人々に農耕の方法を教え、事代主命は河川や沼を整備して水路を開き、人々の生活を安定させた。
●事代主命は「矢代明神」とも呼ばれ、もともとは矢代川上流の岡沢山に鎮座し、川の源を守る神でしたが、後にこの神社へ迎えられた。
●建御名方命も、もとは南葉山の山頂に祀られていたが、その後こちらに遷され、一緒に祀られるようになった。
 
ここには非常に驚きました。
具体的に事代主が、何をしたかが残されていて、しかも「矢代明神」と名付けられた事代主が妙高市岡沢に鎮座していた。出雲・北陸に縁が深いと思われていた事代主が、上越エリアに密接に関わっていたという伝承です。
そして、兄弟で役割分担をして一緒に国づくりをしていたという事が良く分かります。
ですが一般的には奴奈川姫の子ではないとされる事代主が、奴奈川姫の地で奴奈川姫の子である建御名方と一緒に国づくりを行う…これはやはり違和感があります。
やはり、竹内文書で伝わっているように、事代主が奴奈川姫の実子であれば筋が通るのではないでしょうか。
 
●土地は整い、人々も豊かになり、この地域は「日高見(ひだかみ)の国」と呼ばれるようになり、後に「斐太」という地名になった。
 
ここはもう、びっくり仰天でした。
「日高見の国」がここ?という衝撃です。
ここについては、また後で解説できたらと思いますが、事代主を追っていて
こんな壮大な伝承にぶち当たるとは思いもよりませんでした。
 
このように、居多神社と全く同じ組み合わせで祀られる斐太神社の伝承で、矢代明神こと事代主が上越エリアの国づくりに大きく関わったことが残される。
これは、事代主が奴奈川姫の実子であると考えた方が、様々な伝承を無理なく説明できる状況になってきました。
 
 
《「ヌナカワ」を冠する、天皇の御子》
ここで、私がずっと疑問だったことが、事代主が奴奈川姫の実子であるとすると一気に全てクリアになる歴史に残された事実があります。
 
それは、第二代綏靖天皇です。
綏靖天皇は、第二代ですから神武天皇の子です。
そして、以前のブログでも書いたように、神武天皇の后の父親は「事代主」であると古事記に書かれています。
その綏靖天皇が天皇になる前の名前というか、本名はなんと
「カムヌナカワミミ」です。
 
これは、決定打と言ってもいいほどの歴史的事実ではないでしょうか。
 
いろいろな歴史を探っていく中で「カムヌナカワミミ」という名前を何度か耳にしていましたが
なぜ「ヌナカワ」という名前がついているのかずっと不思議でした。
「ヌナカワ」という言葉に何か意味があるのか? と考えたりしましたし、「ヌナカワ」と何か関係があるのか?とも考えたりもしました。
仮にも天皇の皇子に、一地方の地名である「ヌナカワ」、または地方の豪族の娘である奴奈川姫の「ヌナカワ」を付けることは、かなり不自然です。
 
ですが、この一連の情報で、事代主が奴奈川姫の実子 → 孫である神武天皇の子に「ヌナカワ」を持たせる。その流れがあまりにもピッタリはまってしまうのです。


そうすると、です。
重大なことに気が付きます。
 
大和政権の正統性が越の国、それもヌナカワの系譜を持っている事によって成立していたという構図が浮かび上がって来てしまうのです。
 
 と、衝撃展開ですが
今回はここまで。
 
次回は「カムヌナカワミミ」について考察していきます。
ではまた次回の講釈で。

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