第18回 上越エリアに残る三輪山信仰の痕跡
前回は、事代主が奴奈川姫の実子である場合に浮かび上がる、大和政権成立の裏に隠された「ヌナカワ」の血統について考察しました。事代主が奴奈川姫の実子だとすると、さまざまな点で疑問に感じていたことがスルスルと辻褄が合ってしまい、驚くばかりでした。
実は、この説を考え始める少し前に、上越エリアに奇妙な構図の重なりがあることに気づいていました。それは「三輪山」そして「大神」という、今はそう呼ばれなくなった山と地域があったといういくつかの伝承です。
きっかけはずいぶん昔に父が購入した、上越の地元の歴史家が自費出版したと思われる「岩殿山物語」と「虫生岩戸史」という2冊の本でした。

岩殿山は、居多神社にも近い海沿いの山で、そこは出雲からやってきた大国主と奴奈川姫が結婚してから、岩屋で生活したという伝承が残っています。「岩殿山物語」の方は、歴史的に残されている内容と地元の伝承を合わせて、奴奈川姫と大国主のストーリーに始まる古代からの岩殿山の歴史を物語風にまとめています。
一方、「虫生岩戸史」は岩殿山とほぼ同じエリアの「虫生岩戸」というさらに海に面した小さな地域の歴史を年表でまとめています。
子供のころにこの本を読んだ記憶がありますが、久しぶりにもう一度読んでみたのですが、なかなか興味深い内容で、少なくともこのエリアは2000年近い歴史があると書かれており、この本に書かれている内容は、何らかの伝承や先行資料があると思われます。
そして「虫生岩戸史」には、5世紀頃の海岸沿いの地形を再現した簡単な地図が載っていますが、気になる名前が見えました。
居多神社の旧跡地とされる「身能輪山(みのわやま」です。

《居多神社の旧社があった「身能輪山(みのわやま)」》
先日紹介した、大国主命、奴奈川姫、建御名方、事代主の4柱を祀る越後一宮・居多神社の旧社は今よりも海沿いにあり、その場所は「身能輪山」と書かれていました。(表記はこの他の様々な資料で身野輪山であったり、美乃輪山であったり、身輪山であったりします。)
「みのわやま」か。今の場所で言えば「三の輪台」のあたりかな。と頭をよぎりました。そして居多神社の祭神を見ると、ここは「みのわやま」と大国主・建御名方の組み合わです。
《上越市吉川区の尾神岳は「身能輪山」だった?》
地元の人も知らない人が多いのですが、上越市吉川区の尾神岳には、戸隠と同じ「岩戸伝説」があります。
●尾神岳の岩戸伝説
神代のころ、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れたとき、天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)が少し開いた岩戸を力いっぱい開けたところ、勢いよく岩は宙に飛び、信州に落ちて戸隠山になったといわれています。しかし、この地では、この岩戸は空中で二つに割れ、その一片が尾神岳になったと伝えられています。
また、かつてこの山の頂には神を祭る社がありました。地元ではこの小さな岩山こそが飛んできた岩戸だと伝承され、「岩が尾神に落ちたという話が伝わるうちに、どこかでその岩が尾神岳だというふうに変わった」とも、さらに「飛んできた岩は岩戸の尾の部分で「尾神岳」の名がついた」とも語り継がれています。
こんな伝承があること自体も、かなりすごい事だと思いますが、戸隠と同じ伝承があるのに、どうして上越市の尾神岳は戸隠のようにもっと人々に参拝される場所にならないのかと以前からもどかしく感じていました。
AIを使って歴史を調べるようになって、尾神岳の事も調べたときに、目に入ってきたのが、尾神岳が「身能輪山(みのわやま)」と呼ばれていた?…という情報でした。
え? また「みのわやま」?
そして尾神岳のふもとには「大神社」があり、祀られているのは大国主命と建御名方です。
私は奇妙な共通点に気が付いたのです。
「みのわやま」とそのふもとにある「大神社」には大国主と建御名方が祀られている。地元では「おおがみしゃ」と読みますが、日本神話を知っていくと、これは「おおみわ」だと気づきました。
この「みのわやま」について、さらに調べると、このような情報が出てきたのです。
《尾神の大神社に関する古記録》
尾神の大神社について『越後頸城郡誌稿』という文献に次のような記述があるそうです。
「下美守郷尾神嶽アリ、嶽ノ麓ニ尾神村ト云(大神トモ書セリ)此ニ大神社ト云宮跡アリ、往古ハ嶽々タル大社ナリシカ、今ハ唯礎石ノミ残レリ、是ヲ里人十三社ノ一也ト傳ヘタリ…」
この部分だけでも、
・尾神村は「大神」とも書かれた
・尾神村に大神社の宮跡があった
・昔は大社だったが、後には礎石だけが残った
・「十三社」の一つとして伝承されていた と解釈できます。
注目すべきなのが続く考証部分です。
「延喜式ニ大神社ト書テおおむわノ社ト訓ス、おおむわハおほみわナリ、身能輪山則三輪山ナランカ」
現代語に直すと、
・延喜式に載る大神社は「おおむわのやしろ」と読む。
・「おおむわ」は「おほみわ(大三輪)」である。
・身能輪山というのは三輪山のことではないだろうか。
という意味になります。
『延喜式』神名帳の越後国頸城郡(久比岐の郡)の項には、明確に「大神社」と1社記載されていますが、それがどこの神社か…というのは現在も特定ができないようです。
さらに、
「尾神嶽・尾神里トモニ往古ハ大神ト書シヲ、後人尾神ト書改メタルモノナルベシ」という趣旨の推論も載せられています。
つまり『越後頸城郡誌稿』の執筆者(あるいは引用元の考証者)は、
1.尾神村は昔「大神」と表記された。
2.大神は「おおみわ」と読める。
3.身能輪山という名称は三輪山を示すのではないか。
4.尾神岳・尾神村の信仰は大三輪信仰と関係する可能性がある。
という仮説を立てていたことになります。
《否定する意見》
とはいえ、一方で同じ資料紹介では、
これらは推測の域を出ず、式内社大神社と断定する証拠はない…とも評価されています。確定した学説ではなく考証・推論として扱われている、というのが正確な理解だと思います。また、『特選神名牒』という別資料では、尾神を大神と考えた後世の附会ではないかという否定的見解も紹介されています。
しかし、この資料で実際に「身能輪山」という表記が出ているという事は、この時点で少なくとも考証者の手元に、「身能輪山・身能輪・みのわ山」といった表記を含む先行資料があった可能性があった、頸城郡誌稿系統の考証に現れる歴史的表記だったと考えることができます。
この考察が記された『越後頸城郡誌稿』は、単独の著者の本ではなく、旧高田藩士たちによる大規模な郷土誌編纂事業だそうで、特に中心人物は 庄田直道(しょうだ なおみち) で、旧高田藩士16名が参加して編纂を進めました。明治19年(1886)に着手し、明治34年(1901)に完成しています。
編纂者たちは学者というより、旧高田藩の知識人・行政実務家・漢学者層と考えたほうが近いです。明治維新で藩がなくなった後、「旧藩時代の記録が失われる前にまとめておこう」という意識で作られた本とみられます。
「おおみわ」、「みわやま(みのわやま)」、大国主…この組み合わせは
大和政権の信仰の中心「三輪山信仰」と完全に一致しています。
また居多神社の建御名方も重なっています。
さらに、今回ブログを書くにあたって調べていく中で、糸魚川市能生に「大神社」があることが分かり、とても驚きました。境内の社号標には 「大神社」、拝殿の額にも 「大神社」 とある。 この神社の読みは 「おおみわのかむやしろ」 と明記されています。
《糸魚川市能生の「大神社(おおみわのかむやしろ)」》
・通称は「森本天神」と言われ、創建は大同3年(808)3月創建と伝わります。式内社・大神社(越後国頸城郡)の論社 ※「式内社である可能性がある」と明治期の『神社明細帳』が記録されている
主祭神(本殿)
高皇産霊尊(タカミムスヒ)
大己貴命(オオナムチ=大国主)
少彦名命(スクナヒコナ)
大彦命(オオヒコ)
美保古命(ミホコ)※宮司佐藤家の祖先神
ここは、神社名がダイレクトに「おおみわ」となっており、
祭神が「大国主・少彦名」という三輪山の大物主(大国主の和魂)信仰と強く結びつく組み合わせで祀られています。
実は、先ほど紹介した『延喜式』神名帳の越後国頸城郡(久比岐の郡)の項にある「大神社」の有力な比定候補(論社)となっているのが、今回紹介した吉川区の「大神社」と、この糸魚川市能生の「大神社」なのです。
いろいろな意見があるものの、いまだにハッキリした結論は出ていないようです。
《越の国の方が古い可能性?》
完全一致というわけではありませんが、「三輪山信仰」の要素がこの3つの拠点で重なっているのです。これは偶然とは思えないほど、構図が揃いすぎています。
①『みのわやま』という名称、
②『大神社=「おおみわ」という神社名や地域名の痕跡
③大国主・少彦名・建御名方命という祭神の重なり
これを見つけたときは、大和の三輪信仰がこちらにも流入してきたのか?
とも考えたりもしました。
しかし、ここまでの考察で事代主が奴奈川姫の実子である…という見方をした時これはもしかしたら、もしかして…という大胆な仮説が浮かんでしまいました。
越の国の祭祀体系は、大和の三輪信仰と構造的に一致し、しかも越の国の方が古い可能性がある。あえて大胆な言い方をすると「三輪山信仰」が越の国に源流があったのでは? というものです。
要因はさまざまありますが、平安時代の公式記録である『延喜式』に、わざわざ大和の三輪と同じ「大神社(オオミワ)」の名で頸城郡に登録されている事実は、頸城郡に大和と同格の祭祀体系が存在したことを示しています。つまり、かつて久比岐の地に中央が無視できないほどの巨大な「オオミワ信仰」が存在していたということをあらわす1つの事実ともいえるのではないかとも考えました。
ということで、今回はここまで。
次回は、この大胆な仮説にもつながるような、貴重な地元の資料を紹介したいと思います。
ではまた次回の講釈で。
