第20回 大和政権の祭祀の源流は越にあるか
前回は上越エリアに複数存在する「大神」「三輪山」についての各神社の社伝・由緒や郷土資料を紹介しました。
このブログで何度もご紹介してきた通り、大国主命が奴奈川姫を妻にしたいとわざわざ出向き、上越市の直江津地区の海外沿い一帯を中心地として越の国の国づくりを行ったという伝承が、この上越エリアでははっきり残っています。
その拠点となったのが「身野輪山(みのわやま)」で、この身野輪山については、居多神社、阿比多神社の社伝に残されていますが、身能輪山、美乃輪山、身輪山、三輪山などさまざまな表記で残されています。
この「みのわやま」については、「神代の霊跡にして」「神代の旧跡にて」「神代鎮座之古跡」という書かれ方をしており、大国主がこのエリアを訪れる以前からの名前であったと考えることができます。
そして上越市吉川区の尾神岳もまた「身能輪山」と呼ばれていたという伝承と、ふもとの神社の社伝では「尾神」はもとは「大神」であったとされ、崇神天皇の御代に大彦命が北陸を平定・鎮撫した際に、その大神嶽に大国主命が祀られたとされていますが、つまりその時点ですでにその山は「大神嶽(おおみわだけ/おおみかみたけ)」と呼ばれていたと考えられます。
ここに、以前考察した「事代主は奴奈川姫の実子ではないか」という仮説を重ねると、大和政権の祭祀の源流が越の国にあったのではなないかと考えることができます。
《事代主と三輪山の関係》
一般的に、事代主が三輪山とどう関りがあるのかを簡単にまとめました。
① 三輪山とは何か
・奈良県桜井市にある山で、古代から神そのもの(神体)として信仰された山
・大神神社では本殿がなく、三輪山そのものが御神体
・主祭神は 大物主神(おおものぬしのかみ)
② 事代主とは何者か
・事代主は、大国主神(おおくにぬし)の子神
・「託宣(神の意思を告げる)」の神、または商業・福の神としても知られる
・後には七福神の「恵比寿(えびす)」と習合
③ 三輪山と事代主の具体的な関係
・三輪山の神 大物主神は大国主神と同一神(または同系の神)とされる場合が多い
・そのため事代主は「三輪山の神の子」にあたる存在
つまり三輪山の神(大物主) ≒ 大国主 → 事代主(その子)
ここで注目すべきは、事代主の託宣の神としての側面です。
奴奈川姫は「神意を受け取る巫的存在」として描かれ、古代の巫女神の典型的な性質を持っています。
事代主は「託宣の神」=神意を告げる役割とされ、事代主の最も古い役割は、託宣(神の意思を告げる)、占い・予言、神意の代弁者であり、これは「巫的役割」を持つ神の典型です。つまり、事代主は“神意を受け取り伝える”という奴奈川姫の性質を継承した存在と読むことができます。
そしてこれまで紹介してきた上越エリアの伝承では、大国主は身能輪山で奴奈川姫と結ばれますが
・建御名方命が生まれる
・事代主もこの地域で国造りに関与
・事代主は沼地・水路を治める(=水の神の性質)という構造が見られます。つまり、事代主は奴奈川姫の“水の神・巫的性質”を受け継ぐ環境にいたということになります。
大和の三輪山信仰では、大物主(大国主の和魂)の子としての事代主という構造が強調されます。しかし上越エリアの伝承では、大国主、奴奈川姫、事代主、建御名方命という「家族構造」が揃っていて、これを踏まえると、事代主は父(大国主)の側面だけでなく、 母(奴奈川姫)の巫的性質も受け継いだ神と読むことができます。
その事代主は、記紀において「出雲の国譲り」の場面で、あっさりと国を譲ることを承認して姿を消しますが、その後に神武天皇の后の父として再び記紀に名前が登場します。 ここで、事代主が大和政権の背後に一定の存在感を持っていたことが伺えます。 事代主の血を引いた神武天皇の御子が「カムヌナカワミミ」。つまり第二代綏靖天皇です。 ここには奴奈川姫の「ヌナカワ」の血が主張されているととらえても、あながち不自然ではないのではないでしょうか。

ここまでの流れを踏まえると、大和政権の祭祀体系が、越の国の古代祭祀に強く影響を受けた可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。 とりわけ、このブログの初期に考察した「三種の神器の八尺瓊勾玉は糸魚川翡翠ではなかろうか」という仮説を思い返すと、事代主が奴奈川姫の実子であったと仮定した場合、この勾玉の由来に関する問題は、より大きな説得力をもってくるように思われます。
つまり、巫女的性質を受け継いだ事代主が、自身の故郷である越の国の祭祀体系を大和政権にもたらし、それが後に大和政権の祭祀として再構成・昇華されていったと考えることも可能ではないでしょうか。
また、古事記において奴奈川姫が地方の豪族の娘としては異例ともいえるほど詳しく描かれている点も、大和政権と事代主の関係性、そしてこれまで考察してきた奴奈川姫と事代主の関係性を踏まえると、非常に納得のいくものとして見えてくるように思います。
古事記では、地方の女性がここまで丁寧に描かれることはほとんどありません。 にもかかわらず、奴奈川姫についてのエピソードは異例の分量で記されています。この「異例さ」は、単なる地方伝承の紹介では説明できません。
しかし、事代主が奴奈川姫の巫的性質を受け継ぎ、 その事代主が大和政権の祭祀に深く関わったと考えると、 奴奈川姫が古事記で特別扱いされる理由が自然に浮かび上がります。
つまり、第二代綏靖天皇の名前「カムヌナカワミミ(神沼河耳命)」に刻まれるように、大和王権の祭祀の背後に“ヌナカワの血”が流れていたからこそ、 奴奈川姫は古事記で特別に描かれたのではないか。これは、奴奈川姫の血統が大和政権の正統性の一部として取り込まれていた可能性を示唆するものであり、 古事記における奴奈川姫の異例の扱いを理解するうえで、非常に重要な手がかりとなります。
正直これはちょっと地元を上げすぎじゃないのか…と感じる方もいると思うのですが、図書館で偶然見つけた本で、作家の黒岩重吾氏がある講演で話した、この説につながるような興味深い考察が載っていました。
《作家・黒岩重吾氏の考察との一致》
黒岩氏は、「ヌナカワという名は、王権の正統性を示す“神璽(しんじ)=玉”と深く結びついている」とし、ヌナカワ(奴奈川姫)の名が、単なる地方の地名や女性名ではなく、 王権祭祀の象徴体系の中に組み込まれている という視点で論じています。また、やはり第二代綏靖天皇の名 神沼河耳命(カムヌナカワミミ) を非常に重視し、この名は、
・「ヌナカワ」の名を王権の系譜に刻む
・「ヌナカワの玉」の霊力を皇統に取り込む
・奴奈川姫の祭祀的性質を王権の正統性に接続する…という意味を持つと黒岩氏は解釈しています。
そして、第7代孝昭天皇の后 「渟名城津媛(ぬなきつひめ)」
第8代安寧天皇の后は 「渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)」
と「ヌナ」がつく皇后が続いていることにも触れています。
黒岩氏は、この「ヌナ」は越後の「ヌナカワ」が原点となっていることは明らかなのに黙殺されていると指摘しています。
《崇神天皇の時代に起こった祭祀の大転換》
この後に、崇神天皇期に祭祀構造の大転換が起こりますが、それについても語っています。つまり大和の三輪山祭祀の成立についてです。
第10代崇神天皇の時代に、疫病などで世が大きく乱れました。それを祟りと考えた崇神天皇は祟りを鎮めるために皇女 「渟名城入姫(ぬなきいりひめ)」に祭祀を任せます。しかし、渟名城入姫は祟りを鎮めることができず、ついに病に倒れてしまいます。
そんな中、崇神天皇の夢に大物主が現れ、三輪山のふもとに宮を作り、自身の子孫「太田田根子」に私を祀らせよ…と告げます。崇神天皇は大田田根子を見つけ出し、彼に祀らせると祟りが収まります。ここで三輪山祭祀が成立します。黒岩氏はこれを「祭祀の大きな交替」と捉えています。
つまりそれまで「ヌナカワ」の巫女によって行われていた祭祀が終わり、男性の神官による祭祀に移行したのです。
私はこれを知って、カムヌナカワミミからこの三輪山祭祀成立までの期間、歴史上実在性が疑われる「欠史八代」と重なることに気が付きました。もしこの期間に「ヌナカワ」の祭祀が行われていたのだとすれば、その後の大和政権にとっては、あまり存在感を持たせたくないものだった可能性もあるのではないかと感じています。
そして、「崇神期」というのは上越市吉川区の尾神岳の大神社の伝承とも重なる時期なので、非常に強い情報のリンクを感じました。
私としては、この説は突拍子もないのではないだろうかと躊躇してしまう部分もあります。しかし、私が行きついた考えと重なる考察が、40年近く前にすでに黒岩重吾氏によって提示されていたことを知り、その一致に驚きを隠せませんでした。
そんなわけで、長くなりましたので今回はここまで。
ではまた次回の講釈で。
