memento mori⑤死を想えとは、目に視えないが、現実を引き寄せるモノ
第82回
memento moriというラテン語は「死を想え」という意味で、現在は幸せに生きている自分自身もいずれは死を迎えることを忘れず、今を生きろ!という警句です。今週は、死について考えるシリーズの5回目。
人は自分が視ている方向(見ている現実)にしか進めない!これは僕の自論です。物理的にも行動心理学的にも、どちらの側面にも当てはまります。
この持論と等しい理論に「トマスの公理」や、社会心理学の「予言の自己成就」というものがあります。噂や思い込みでも、その状況が起こるかもしれないと考えて行動すると、本当に現実になってしまうことです。自覚せずに行動に影響がでることでは、自分自身も今現在話題の2025年7月問題の影響下にあることが伺えます。引き寄せの法則や僕の自論も含めて、これらの原理はすべて同じモノと推測できますね。
こういった論点で死生観を見ると、生と死について、果たして何が正しいかなんて、答えは出なくていいんじゃないかなと思ってしまいます。
ノーベル物理学賞受賞者シェルドン.L.グラショウは広大な宇宙論と極小を扱う素粒子論が自分の尾を食むウロボロスの蛇のように、いつか統一される、宇宙は双対性で連絡していることを予言しています。シェルドンLグラショウの比喩を用いた宇宙構造の説明は、生と死、創造と破壊、永遠と一瞬の瞬間が、同居する・全てが同じモノである事が解る日がくることを予言しています。ウロボロスの蛇は、私たちの人生や宇宙の複雑さを物語っていて、その循環性と永続性は、私たちが直面する喜びや苦しみ、成長や変化を象徴しているのでしょうか?宇宙は常に変化し続けることを量子力学が示唆する、宇宙の不確定性と永続的な変化の状態という考え方と共通しています。
すべての存在が宇宙全体の一部であり、互いに影響し合っているという、科学の対極にある宗教的な概念とも繋がっている。つまり、双対性でつながっているようで、科学宗教哲学は、死という概念を理解する上で、異なる言語を使いながらも類似した洞察を提供しています。
無数にある可能性が一つの真実?現実?に確定するためには、実際に見る者の認識に依存して、可能性が分岐していき、同時に複数の世界線に派生していく、それはまさしく、人の認識そのものじゃないかと思います。死をゼロとしても、終わりのゼロなのか、始まりのゼロなのか、定義は人それぞれで、死の持つ意味は人の数だけあるもののようですね。
人の数だけ違う考えがあり、同じ経験をしても、違った認識になることもあるし、違った立場から見た矛盾した現実もある。死が何を意味するモノなのかは答えることはできないモノですが、生きづらさに悩むことを、世間の常識『フツー』という思い込みの認識で、良い悪いと決めつけることなんてできないですよね。
自分の人生なのに他人からのジャッジなんて必要あるんでしょうか?そうすると、他人へのジャッジも不要なものになりますよね。
本当に人生は自分が視ている方向にしか進んでくれません。今を楽しむことも重要だけど、自分の心が欲することをすることこそが、最も重要なことじゃないかと、この歳になって僕も気付きました。自分の心が欲する事とは、頭で考える思考ではなくて、心が燃える瞬間のfeel・エモーション・パッションと上昇する、ココロの熱量のことではないかと僕は思っています。何だか何を言っているのか怪しくなってきたので、まとめると『死の定義は想いの数だけ無限に存在しているが、目に視えないが現実を引き寄せるモノも、自分の中にあって認識を力に変える事ができれば、世界も変えることができること』こんなふうに、僕は考えています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました😊
また来週!
