自我と輪廻に関する科学的一考察
今回は、”輪廻転生”を、少し科学的な観点から考えてみたいと思います。
”輪廻転生”で、輪廻するのは何なのでしょうか?
それは”自我”であると、わたしたちは考えます。つまりは、”霊”や”魂”と言われるもののコアは、”自我(意識)”であるということです。では、”自我”とはなにか?と言うことについて掘り下げ(分析)なければならないでしょう。
”自我”はどこに”生じる”のでしょうか?
仏教では、それは、五感によって生じるとされています。そして、わたしも、科学的に考えて、それを支持します。より正確に言えば、”六識”になりますが、六番目の”意識”は、わたしたちの理解では自我そのものであり、五感を内部で統合したもの(機能)と言えますので、ここでは、あえて五感と言っておきます。
五感(前五識)という「外部センサー」がキャッチした多様な情報を、脳神経系という「内部センサー」と照らし合わせ、内部でひとつの「自分が見ている世界」として統合する機能——これこそが、仏教のいう第六の「意識」であり、私たちが「自我」と呼んでいるものの正体です。
ここで重要なのは、「自我という統合機能(意識)は、外部センサー(五感)からの入力が途絶えると、その輪郭を保てなくなる」という点です。
これを端的に証明するのが、「アイソレーションタンク」の現象(実験)です。 光も音も遮断し、重力すら感じない特殊な液体に浮かぶと、外部センサーからの入力が限りなくゼロになります。すると、脳が内部で統合すべき「外界の情報」が消えるため、あんなに強固に思えた「自分と世界の境界線(自我)」が希薄になり、溶けて消えてしまうのです。
つまり、自我とは肉体の内側にポツンと独立して存在する「魂という実体(モノ)」ではありません。 「外部(環境)」と「内部(身体)」が出会い、摩擦を起こしたその境界線に立ち現れる『処理プロセス(機能)』に過ぎないのです。
私は、この「外部と内部の間に立ち現れる情報や関係性の網目」のことを、『広義のアフォーダンス』と名付けています。
自我の半分は、最初から自分の皮膚の外側(環境・他者・社会)に存在しています。自我を個体の内部だけで完結したものとして捉え、「魂がそのまま引っ越す」と考える従来の輪廻観は、科学的にもシステム論的にもナンセンスだと言わざるを得ません。
では、肉体という内部センサーが停止した時(死)、この「外部と内部の相互作用(広義のアフォーダンス)」や、そこに刻まれた情報はどこへ行くのでしょうか?
わたしたちが”自我”として感じ、信じているものの正体は”機能”なのです。しかし、「わたしとは五感に基づく機能である」と言ってみたところで、それを自分自身で”確認”できなければ、この強固な”結び目”は解くことはできません。
この強固な結び目を解き、自分自身で“確認”する作業——これこそが、ブッダの行った「瞑想(ヴィパッサナー・サティ)」であり、ブッダが人生をかけて提供した「観察の技術」でした。

五感を静め、内部センサーが発する微細なアラート(呼吸、心拍、筋肉の弛緩)をただ観察する。 そのとき初めて、私たちは「私が怒っている」「私が悲しんでいる」のではなく、「身体(内部センサー)の反応に対して、脳が『私』というストーリーを後付けで立ち上げているだけだ」という事実を、理屈を超えて確認することができます。
自他を分かつ「自我」という機能が、外部と内部の摩擦から生まれた一時的なインターフェースに過ぎないと確認できたとき、私たちの意識は皮膚の内側を飛び出します。
肉体という内部センサーが停止した時(死)、この「広義のアフォーダンス(外部と内部の相互作用)」に刻まれた情報はどこへ行くのでしょうか?
結論から言えば、それらは何一つ消滅することなく、この巨大な生態系(全体系)のなかに保存され、巡り続けます。
物理学における「エネルギー保存法則」が示す通り、肉体を構成していた物質や熱エネルギーは100%土や大気に還元され、新たな生命の内部センサーとして再構成されます。 そして情報科学的に言えば、私たちが生前、世界(外部)と交わした「相互作用のログ」——誰かにかけた言葉、残した思考、選択した行動の波紋——もまた、社会や環境というネットワークに残り、次のシステムへと継承されていきます。
アリやハチが個体の肉体ではなく「共有された外界(巣やフェロモン)」を媒介として一つの巨大なシステム(超個体)を動かしているように、私たちの命もまた、単体で閉じているのではなく、「生々流転」「動的平衡」と呼ばれるシステム全体の循環そのものなのです。
「輪廻転生とは、このシステムにおける『エネルギーと情報の保存法則』である。」
魂という実体が引っ越すのではありません。 「わたし」という機能が世界と織りなしたアフォーダンスの網目が、保存法則に従ってシステム全体に波及し、巡り続けること。
この強固な「結び目(自我)」を自らの確認によって解いたとき、私たちは「実体としての私」の死を超えて、自分がこの壮大な保存システム(縁起)そのものであったという、ブッダの目撃した真理に行き着くのです。
