【連載小説】夫より先に、押し入れの男が私を見つけた#75 もう一つの道
私は地図を何度も見返した。
赤い線。
そして、その途中に書かれた小さな文字。
「分岐」
一本の道ではなかった。
あの日。
子どもたちは、二つの道の前に立っていた。
「ここです。」
押井さんが静かに指を置く。
「先生は、左へ戻れって。」
「でも……。」
その先の言葉が続かない。
私はゆっくり尋ねた。
「右へ行った人がいたんですね。」
押井さんは、小さく頷いた。
「秘密の近道があるって。」
「誰かが言ったんです。」
その言葉だけは、はっきり覚えていた。
「すぐ戻れる。」
「先生には内緒。」
「ちょっとだけ。」
その”ちょっとだけ”が。
二十五年という時間を生んだ。
「押井さんは?」
私は静かに聞いた。
「どっちへ行ったんですか。」
押井さんは目を閉じる。
長い沈黙。
やがて、小さく答えた。
「……左です。」
私は思わず息をのむ。
「先生と一緒だったんですね。」
押井さんは首を横に振る。
「違います。」
「先生は。」
「右へ走って行きました。」
胸が締めつけられる。
子どもたちを止めるために。
一人で。
その日の夕方。
私は美羽を迎えに保育園へ向かった。
園庭では、子どもたちが帰る支度をしている。
「先生、さようなら!」
元気な声が響く。
保育士は、一人ひとりの顔を見ながら笑顔で送り出していた。
私はその姿を見つめる。
全員が無事に帰る。
それは当たり前ではない。
先生たちは、毎日その”当たり前”を守っている。
ふと、押井さんの言葉が重なった。
「先生は……。」
「最後まで僕を守ろうとしていました。」
私は胸の奥が熱くなる。
帰宅すると、黒川さんから短いメールが届いていた。
「地図に書かれていた分岐点を確認しました。」
その下に、もう一文だけ。
「右の道は、今はありません。」
私は画面を見つめたまま動けなかった。
道は消えていた。
でも。
そこで起きた出来事だけは。
誰の記憶からも消えてはいなかった。
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「もう一つの道」。
今回は物理的な分岐と、人の選択の分岐を重ねて描きました。
「ちょっとだけ」
「大丈夫だろう」
「すぐ戻れる」
そんな何気ない言葉は、誰もが一度は口にしたことがあるかもしれません。
だからこそ、この物語は特別な誰かではなく、私たち自身の物語でもあるのだと思っています。
今日も読んでくださり、本当にありがとうございました。
芯都
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