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音楽フェスのすゝめ──フェスでしか見えないバンドの輪郭がある

【文脈を愛するはずなのに】

私はたぶん、音楽をわりと面倒くさく聴く人間だ。

ただ音がよかった、ただ楽しかった、だけでは終わらない。

この曲をなぜ今やるのか。
この並びにどんな意味があるのか。
このバンドがここまで何を背負ってきたのか。
そういうことが気になってしまう。

ライブを観ながら感情が動く一方で、頭の中ではずっと別の回路も動いている。
その音が、どういう文脈の上で鳴っているのかを考えたくなる。

ここで言う「文脈」とは、単なる事前知識のことではない。
その音が、いつ、どこで、誰によって、どんな流れの中で鳴っているのか。 私はそういうものを含めて、音楽を受け取りたい。

だから、本来の相性で言えば、私に向いているのはたぶん単独ライブのほうだ。

一つのバンドの時間をじっくり浴びて、セットリストの意味も、積み重ねてきた歴史も、その日その場でしか立ち上がらない空気もまとめて味わえる。そういう濃い時間は、やっぱり単独ライブのほうが強い。

それなのに、そんな人間が、なぜかフェスもかなり好きなのだ。

理屈だけで言えば、私はもっと単独ライブだけに満足していそうなものだ。 でも実際には、フェスの告知が出るたびにそわそわしてしまう。
あれこれ考えるくせに、結局こういうところで私はかなり単純でもある。

ここが自分でもずっと不思議だった。
文脈を重く見るなら、フェスはむしろ相性のいい場所ではないはずだからだ。

知らないアーティストも多い。
持ち時間は短い。
単独ライブのように、そのバンド固有の物語を深く味わえるとは限らない。

理屈だけで考えれば、私はフェスより単独ライブを好んでいそうなものだと思う。 それでも私は、フェスに惹かれる。

たぶんそれは、私が文脈だけを食べて生きているわけではないからだ。

むしろ逆で、音楽をもっと楽しく味わいたい、もっとしゃぶり尽くしたいからこそ、積み上がった文脈を深く掘れる音楽も欲しいし、まだ自分がその文脈に接続できていない音楽との出会いも欲しいのだと思う。

積み上がった意味を深く掘る快楽がある。
その一方で、まだその文脈に接続する前に音が飛び込んできて、「なんだこれは…」と身体が先に反応する瞬間にも、私は強く惹かれる。

文脈を好んで食す。
だが同時に、文脈に触れる前の衝撃もまた、同じくらい好きなのだと思う。

フェスには、その後者がある。
もちろん、そこに鳴っている音楽に文脈がないわけではない。

ただ、少なくともその瞬間の私は、まだその文脈に十分には接続できていない。
その状態のまま音が飛び込んできて、感情や身体が先に反応してしまう。

私はあの一瞬がかなり好きだ。

今回は、フェスが終わった後の感想ではなく、行く前にこの記事を書いている。

なぜ私は、今年足を運ぶフェスを楽しみにしているのか。
文脈を重く見るはずの自分が、それでもなぜフェスに惹かれるのか。
それを、始まる前の今のうちに一度ちゃんと言葉にしておきたかった。

もしこれを読んで、フェスに少しでも興味を持ってくれる人がいたら嬉しい。

今回は、今年自分が行くフェスをひとつの足場にしながら、そのことを書いてみたい。


【単独ライブにしかない濃さ】

フェスが好きだと書いておいて、こんなことを言うのも変かもしれない。
でもやっぱり、単独ライブにしかない濃さはある。

ひとつのバンドだけに時間が開かれている。
それだけでかなり強い。

その日その場のライブが、最初の一曲から最後の一曲まで、ひとつの意思で編まれている。

どこから始めて
どこで熱を上げて
どこで立ち止まり
最後に何を残して終わるのか。

その流れ全体に、そのバンドの考えや歴史が滲む。

単独ライブでは、一曲一曲がただ並んでいるだけでは終わらない。
この曲を今やる意味、この順番で置く意味、このタイミングでその曲を歌う意味が、立ち上がってくる。

セットリストがひとつの物語になって、曲の意味そのものを塗り替えてしまう瞬間がある。

私はああいう時間に、何度も心を動かされてきた。

しかも単独ライブには、そのバンドがここまで積み重ねてきた時間がそのまま流れ込んでくる。

過去のライブ
過去の作品
過去の発言
過去の停滞や躍進

そういったものに触れてきたぶんだけ、同じ一曲でも聴こえ方が変わる。
ただ音が鳴っているだけではなく、その音の背後にあるものまで一緒に鳴り出す。

文脈を重く見る人間にとって、単独ライブが魅力的なのはたぶんそこだ。
言ってしまえば、単独ライブは“積み上がった意味を味わう場”なのだと思う。

もちろん、何も知らなくてもライブは楽しめる。
それでも、そのアーティストの歩みを受け取ってきたぶんだけ、同じ一曲の重さが変わり、深く響く瞬間がたしかにある。
そして私は、そういう豊かさをかなり信じている。

だから、本来の相性だけで言えば、私はやはり単独ライブ寄りの人間なのだと思う。 少なくとも理屈では、そうだ。

それでもフェスが好きなのだから、話は少しややこしくなる。


【未知との遭遇、既知の更新】

私がフェスに惹かれる理由は、大きく言えば二つある。

未知との遭遇。 そして、既知の更新だ。

前者はわかりやすい。
まだ自分が接続できていない音楽に触れること。
何も知らないまま音に殴られて、「なんだこれは」と身体が先に反応すること。

フェスにはその入口がある。
だが、私がフェスを好きな理由は、それだけではない。

正直に言えば、出演者を誰も知らないフェスに、私はそこまで気軽には行けない。
ライブには時間もお金もかかる。
何にでも足を運べるわけではない以上、優先順位は当然つける。
そのとき、自分の中で明確な動機になる“お目当て”がいるかどうかは、やはり大きい。

フェスは、全部を知っている人だけの場所ではない。
そして、何も知らないまま飛び込む場所である必要もない。

ひとつか、ふたつか。
自分の中に、まず足場になるものがある。
その足場があるからこそ、外側へ出ていける。

私はたぶん、この構造そのものが好きなのだと思う。

数日後に迫ったメガベガスで言えば、その足場はRAISE A SUILENとAve Mujicaだ。

ただ、ここで言いたいのは、「好きなバンドが出るから観たい」というだけの話ではない。
見たいのは、バンドリという既存の文脈の中にいる彼女たちを、もう一度確認しにいくことではない。

その外側でどう鳴るのか、を見たいのだ。

フェスでは、バンドに別の文脈が流れ込む。
前後に並ぶ出演者が違う。
会場の空気が違う。
観客の期待が違う。
そこで求められる説得力の種類も、少し変わる。

単独ライブの観客は、そのバンドに好意的な感情を持って足を運んでいる人がほとんどだ。
もちろんそれは、単独ライブの豊かさでもある。
だがフェスは、必ずしもそうではない。

そのバンドを目当てに来ている人ばかりではない。
名前しか知らない人もいる。
ほとんど何も知らないまま、その時間を迎える人もいる。

イントロが鳴った瞬間、それまで少し様子見だった空気がふっと変わることがある。
フェスで知らないバンドを観ているとき、最初の一曲目にはたいてい、どこか探るような空気がある。

もちろん、表面上は最初から盛り上がっていることも多い。
だが、それでもなお、客席のどこかに様子見の感触が残っていることがある。

でも、ある瞬間にその均衡が崩れる。
リフなのか、声なのか、サビなのかはわからない。
ただ「あ、今この場が掴まれた」とわかる瞬間があって、あれがたまらない。

名前しか知らなかったはずの人たちの目線が、一斉にステージへ向く。 フェスには、ああいう一瞬がある。

だからこそ、そこで問われるのは、好意的な前提の上でどこまで深く届けるかだけではない。

まずその場を掴めるのか。
限られた時間で何を残せるのか。
自分たちが何者なのかを、どう示すのか。

フェスには、そういう剥き出しの場面がある。
そして、その剥き出しさが、既知のバンドの輪郭を更新する。

単独ライブでは、共有された好意や文脈の上で深く届いていく。
だがフェスでは、知っているはずのバンドでも、置かれる場所が変われば見え方は変わる。
そしてときに、その変化は単なる見え方の違いでは終わらない。
そのバンドが何者なのかを、むしろいつもよりくっきり浮かび上がらせることがある。

私はフェスに、未知の音楽との遭遇だけを求めているわけではない。
既に知っているはずのアーティストが、既知のままではいられなくなる瞬間。

そこにも強く惹かれている。

既存の文脈をなぞるのではなく、その外側でどう立つのかを見る。
知っているつもりのアーティストに、別の角度からもう一度出会い直す。

フェスとは、未知との遭遇の場であると同時に、既知の更新の場でもある。
少なくとも私にとって重要なのは、この二つが同時に起こることだ。

今年のメガベガスでRAISE A SUILENとAve Mujicaに期待しているのも、まさにそこだ。
バンドリという枠の中で見知っている彼女たちが、その外側でどんな姿を見せるのか。
あるいは、すでに一度見たはずの輪郭が、今年はどう見え直すのか。

何が変わり、
何が変わらないのか。

それを私は求めている。


【全部わからなくても、フェスは楽しめる】

ここまでフェスの面白さについていろいろ書いてきたが、それでもやはり、フェスに少し抵抗がある人の気持ちはよくわかる。

知らないアーティストが多そう。
何を予習すればいいのかわからない。
一日ずっと動き回るのはしんどそうだし、詳しい人ばかりの場所に入っていくのも少し怖い。

そういう不安は、たぶんかなり自然だ。

実際、フェスは単独ライブとは受け取る情報の質が違う。
出演者も多いし、時間の流れも速い。
全部を回収しようとすると、普通に疲れる。

だから必要なのは、完璧な準備ではない。 足場だ。

全部の出演者を把握していなくてもいい。
全曲わからなくてもいい。
一日で全部を好きになれなくてもいい。

自分の中で「これを観たい」と思えるものがひとつある。
まずはそれで十分だ。

その足場があるから、安心して外側に手を伸ばせる。
お目当てを観に行って、その前後で少し知らない音楽に触れてみる。

あるいは、お目当てだったはずのバンドが、思っていたのとは少し違う顔を見せる。
フェスの面白さは、たぶんそういうところから始まる。

そして、もうひとつよくある抵抗として、
「お目当てがいても持ち時間が短い」という感覚もあると思う。
これもかなり自然だ。

単独ライブのほうがそのアーティストだけを濃く味わえるのは間違いない。
そこに関しては、フェスは単独ライブと同じ土俵に立っていない。
同じ尺度で比べれば、物足りなさが出るのも当然だと思う。

ただ、フェスにはフェスの見え方がある。

限られた時間の中で、
そのバンドが何を持ち込み、
何を優先して見せ、
どうやってその場を掴むのか。

短いからこそ、その輪郭がむしろくっきり出ることがある。
私はそこにも、フェスの面白さを感じる。

少し気になるものがある。
ひとつ観たいものがある。
それだけでも、足を運ぶ理由としてはもう十分だ。

その日、たった一組でもいい。
極端に言えば、たった一曲でもいい。

「来てよかった」と思える瞬間がひとつあれば、そのフェスはもう十分に意味を持つ。

帰り道になっても、知らないまま聴いた一曲のサビだけが頭に残っていることがある。
知っているはずのバンドに、別の場所で出会い直すこともある。
会場の空気ごと、妙に忘れられない場面がある。

フェスの面白さは、全部を取りこぼさず味わい尽くすことにあるのではない。
むしろ、自分の中で予想していなかった反応がひとつ起きることのほうが大きい。

そういう“ひとつ”があるだけでいい。 フェスは、それで十分に面白い。


【今年、私が足を運ぶフェス】

ここまで私は、主にフェスの中で音楽がどう見え直すかを書いてきた。
だが、もうひとつ大事なのは、フェスそのものにも固有の顔があるということだ。

フェスは、単に出演者が並んでいるだけの場ではない。

野外なのか屋内なのか。
ステージを回遊して観るタイプなのか、ひとつの場に腰を据えて観るタイプなのか。
ダイブやモッシュがどこまで許容されているのか。
光り物が当たり前に混ざるのか、そうではないのか。

そういったレギュレーションや場の設計が違うだけでも、フェスの空気はかなり変わる。

そこに主催者の色、出演者の並び方、観客がその場に求めるものまで重なってくる。
だから、フェスごとに毛色が違う。

もっと言えば、フェスそのものがひとつの文脈を持っているのだと思う。

その具体例として、今年の私には数日後に控えたメガベガスがある。
今回、自分の中で入口になっているのはRAISE A SUILENとAve Mujicaだ。

そのバンドたちが、どういう並びの中に置かれるのか。
どういう空気の中で鳴るのか。
そこで何が求められ、何が立ち上がるのか。
そういう“場そのものの顔”を含めて見たい。

今回それがメガベガスである理由も、たぶんそこにある。
ただ出演者が並んでいるからではない。
ベガス主催フェスとして、どういう熱量を集め、どういう音をぶつけ合わせたいのかという意志が、少なくとも私には感じられる。

その中にRASとAve Mujicaが置かれるとき、バンドリという枠の中で見ていた輪郭が、少し違うかたちで浮かび上がる。

RASの攻撃性や制圧力が、コンテンツの外でどこまで純粋な説得力として立つのか。
Ave Mujicaの儀式性や世界観が、共有された前提の薄い場所でどう機能するのか。

私はそこを見たい。

今年の私にとって、RAISE A SUILENとAve Mujicaはたしかに足場だ。
だが、それだけでは終わらないはずだとも思っている。

その足場があるからこそ、その外側にまで手を伸ばせる。
もともと自分の中になかった音楽に出会うかもしれない。
名前だけ知っていた出演者の印象が変わるかもしれない。
逆に、思っていたほど刺さらないものもあるかもしれない。
でも、それでいいのだと思う。

フェスの面白さは、最初から全部を好きでいられることではなく、
その日その場で自分の中の地図が少し書き換わることにある。
私にとって、メガベガスに限らず、フェスというライブはその可能性を持った場だ。


【おわりに】

ここまで、かなり音楽の話に寄せてフェスの面白さを書いてきた。
だがもちろん、フェスの魅力はそれだけではない。

会場を歩いているだけでも、フェスには独特の速度がある。
フードの匂いと物販列のざわめきの向こうで、次の音がもう始まっている。

そしてステージの制圧圏内に足を踏み込むと、さっきまで散っていた意識が一気に引き寄せられ、脈がはやり、少し血が冷たくなるような感覚がある。
一日中落ち着かないのに、その落ち着かなさごと楽しい。

一日を通して会場の空気が育っていく感じ。
人の流れや熱の移り方。
フードや物販も含めて、その日ひとつの場に身を置く感覚。
そういうものも含めて、フェスには独特の楽しさがある。

これから夏に向けて、フェスはもっと増えていく。
その中に少しでも気になるものがあるなら、一度足を運んでみる価値はかなりあると思う。

全部を知っている必要はない。
全部を理解している必要もない。
ひとつ足場になるものがあればいい。

その先で、知らなかった音楽に出会うかもしれない。
知っていたはずのものが、別の顔を見せるかもしれない。
あるいは、その日の空気ごと妙に忘れられない一日になるかもしれない。

そういう“ひとつ”があるだけで、フェスはもう十分に面白い。

文脈を愛するからこそ、まだ文脈になっていない出会いにも惹かれる。
たぶん私にとってフェスは、まさにそういう場所なのだ。


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