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短編小説『のぞき』

あらすじ

五月の終わり、彩は新しいマンションの角部屋に越した。

引っ越しを手伝いに来た友人のミモザと過ごした初めての夜、彩は深夜に目を覚ます。和室とリビングを仕切る襖の脇に、丸く黒い——頭のてっぺんのような何かが、ひょっこりとのぞいていた。

それは日に日に、少しずつ姿を現してくる。

怖い。でも、何もされない。ただ、覗かれている。

彩はやがて、芸術系の大学に通う旧友・佳織を部屋に呼ぶ。塩、お札、お経——佳織の奮闘はことごとく空振りに終わるが、それでも佳織はそこにいた。

二人の間には、語られないままの過去がある。





のぞく


暗いところに
何かがいる

音がする
カサカサと

見てはいけないと
思いながら

目が
そちらへ向く

怖いのに
離れられない

それは私か
それはあなたか

暗がりの中で
ただ
息をしている




『のぞき』


1章 カサカサ

 彩が新しいマンションに越したのは、五月の終わり。  

 五階建ての二階にある角部屋だ。家賃は以前よりほんの少し高いが、駅からの距離を考えれば納得のいく範囲といえる。

 段ボールを開け、服をクローゼットへ、食器を台所横の収納へ。棚に和紙を敷き、その上にひとつひとつ並べていく。昔追いかけていたアイドルのグッズは、箱に入れたまま積み上げた。

 考えてみれば、さほど荷物もない。業者は使わず、友人のクルマで運んでもらい事足りた。

 一番大きい荷物は布団セット。ベッドは好きではないのだ。部屋を選ぶ条件は、立地の良さと和室があること——その二つだけ。畳の上に布団を敷く。今夜からここで眠るのだ。

 手伝いに来てくれたのは、スペイン人と日本人のハーフであるミモザ。ホラー映画を好む彼女の名前の由来は、一度聞いたはずだが忘れてしまった。荷解きが一段落すると、ミモザはさっそくノートパソコンを開き、映画を流し始める。

「これ知ってる? 『ファンタズム』」  
 知らなかった。

 画面の中では、銀色の球体が宙を舞う。怖いというよりは、どこか不思議な映像。ホラーは得意ではないが、これなら観られそうだ。

 段ボールを畳みながら、ぼんやりと画面を追う。ミモザが「ここ好きなんだよね」と言うたびに、脈絡のよく分からないシーンが映し出された。でも、悪くない気分だった。  

 荷物が片付くころ、窓の外はすっかり暗闇に包まれている。

 「お腹減ったね」
 ミモザの提案で、近くのコンビニで買ってきた夕食を二人で囲んだ。カーペットの上に並んで座り、映画の続きを観る。ミモザはビール。彩はお茶。

 映画はたぶん終盤。主人公が何かと戦っている。ストーリーは把握しきれなかったが、それでもいいと思った。新しい部屋、初めての夜。ミモザがいてくれてよかった。

 引っ越し疲れか、それとも画面の点滅のせいか——。気づけば、瞼が重い。

 「眠い」そうこぼすと、
 「寝ていいよ」とミモザが笑う。  

 和室へ移り、二人で一枚の敷布団に潜り込んだ。上掛けは羽毛布団が一枚きり。

 「新居おめでとう」
 暗闇の中、ミモザが囁いた。

 「ありがとう」  
 そう返してからは、もう、何も言わなかった。

───

 カサカサ。

 その音で目が覚める。

 布団セットを包んでいた大きなビニール袋が、エアコンの風で揺れていた。部屋に明かりはなく、窓からかすかな光が差し込むばかり。正確な時間は分からないが、深夜の深い時間であることだけは肌で感じられた。

 隣では、ミモザが規則正しい寝息を立てている。

 エアコンを消したかった。家賃が上がったぶん、余計な電気代は削りたい。リモコンはリビングに置いたままだと思い込んでいたが、布団から出るのも億劫だ。でも、初日から決め事を破るわけにもいかない。そう思い、身体を起こそうとした。

 その時。

 和室とリビングを仕切る襖——その、取っ手のすぐ脇。

 何かが、いた。

 リビング側から、ひょっこりと覗いている。丸く、黒い塊。髪をなでつけた後頭部のような形が、暗がりにぼうっと浮かぶ。目が慣れていないせいだと思い、まばたきを繰り返した。

 消えない。

 動かない。ただ、そこにある。

 息を吸うのを忘れていた。身体が動かない。どれほど時間が経っただろうか。

 「……どうしたん?」  
 不意に、ミモザが声を漏らした。起きていたらしい。

 「……あれ」 声が掠れる。
 視線だけで示すと、ミモザも襖の方へ顔を向けた。

 しばらく、二人分の呼吸音だけが静寂に混じる。
 「……何あれ」
 彼女にも、見えていた。

 「電気、つけるよ」  

 ミモザが、いつの間にか手元に寄せていたリモコンを操作する。  
 部屋に光が満ちた瞬間——。

 何もなかった。 襖はただの襖。取っ手の脇には何もなく、リビングも静まり返っている。二人は顔を見合わせた。ミモザが先に笑う。乾いた笑いだった。

 彩は、どうしても笑えなかった。



2章 見ないようにしている

 ミモザが帰ったのは、翌朝のこと。
 「昨日のあれ、なんだったんだろうね」
 玄関で靴を履きながら、彼女はそう言った。しかし、一度もこちらを振り返ることはない。

 「さあ」
 彩の答えと同時にドアが閉まり、部屋には再び静寂が訪れる。

───

 1日目の夜(1人になって)。

 風呂から上がり、和室に布団を敷く。電気を消す直前、どうしても襖の方へ意識が向いた。見ないように努めても、視線が勝手に泳いでしまう。

 結果は、空振り。
 何もなかった。

 拍子抜けしたような心地で横になる。節約のためエアコンは消し、窓を少しだけ開けた。夜風の運ぶ微かな物音を聞きながら、泥のような眠りに落ちる。

───

 2日目の夜。

 夕飯の片付けを終え、リビングでスマホを眺めていた。特に目的があるわけでもなく、ただ漫然と画面をスクロールさせる。

 ふと、背後の和室が気にかかった。
 襖は閉まっている。

 いつ閉めたのか、記憶にない。無意識のうちに境界を作ろうとしたのかもしれない。
 スマホに視線を戻すが、文字は頭に入ってこなかった。

 深夜、目が覚める。

 カサカサ。

 暗闇の中、音のする方へ顔を向けた。エアコンはつけていないし、原因のはずのビニール袋もすでに捨てたはずだ。

 襖の取っ手の脇。そこに、あの「黒いもの」がいた。

 最初の夜と同じ、丸く黒い頭頂部。だが今夜は、少しだけ様子が違う。

 額が見える。

 狭い額と、その生え際。境界線のような不気味な形が、暗がりにぼうっと浮かび上がっていた。

 彩は強く目を閉じる。見なければいい。そう言い聞かせ、しばらくしてもう一度目を開けたが——まだ、そこにいた。

 もう一度、まぶたを閉じる。そのまま無理やり眠りの底へ沈んだ。

───

 3日目。

 朝、目覚めれば何もいない。仕事から帰っても、異変はない。夕飯、風呂、そして和室。布団に入る前、もはや習慣のように襖の脇を確認する。

 やはり、何もない。

 安堵するのをやめようと思った。どうせ夜中には「来る」のだ。

 深夜、カサカサという音に意識を引きずり出される。

 今夜こそは見まいと決めていたのに、抗えずに目が向く。
 昨日より、さらに下まで見えていた。

 眉毛だ。

 緩やかなアーチを描く、黒い眉毛。それが取っ手の脇から覗いている。額と眉。それだけが、確かな質感を持って暗闇に存在していた。

 彩は逃げるように布団を頭まで被った。

───

 4日目の夜。

 覚醒と同時に、音が聞こえた。

 カサカサ。

 布団の中で、彩は石のように固まる。見なければいい。分かってはいるが、恐怖より先に確認したい欲求が勝った。

 ……顔を出してみる。
 あのものが、床にいた。

 もはや取っ手の脇ではない。襖のすぐ手前、廊下と和室の境目あたりの畳に、あの頭頂部があった。這うようにして、こちら側へ降りてきている。

 額と眉。そこまでは見えるが、目はまだ見えない。

 それでも、着実に近づいている。

 彩は呼吸を止め、固く目を閉じた。鼓動の音だけが、耳元で激しく鳴り響く。

───

 5日目の夜。

 その日は早々に布団に入った。眠れるはずもないが、和室の電気を消して横になる。

 カサカサ。
 やはり、音がした。

 今夜はもう、顔を向ける勇気すらない。天井を見つめたまま、ただ気配を探る。

 襖の向こうではない。すでに「和室の中」だった。

 部屋の隅——布団から最も遠い角のあたりに、何かがいる。視認はできずとも、そこに「在る」ことが皮膚を通じて伝わってきた。

 もう、限界だった。

 布団に潜り込み、震える手でスマホを取り出す。
 眩しい光の中、佳織の連絡先を探し当てた。

 『ねえ、今度うちに泊まりに来てほしいんだけど』

 送信。返事も待たず、逃げるようにスマホを伏せた。

───

 同じころ。

 佳織は自室のアトリエで、キャンバスに向き合っていた。
 提出した作品の余韻が冷めず、眠りにつく気になれない。すでに新しい絵に取りかかっていた。

 モデルは、彩。

 記憶の中にある彼女を、少しずつ描き起こしていく。輪郭、髪の毛、伏し目がちな目元。筆を持つ手は、まるで何かに取り憑かれたように止まらない。

 どれほどの時間が経っただろうか。
 ふと、異変に気づく。

 風もないのに、キャンバスが微かに揺れていた。

 佳織は筆を止める。部屋を見回すが、窓は閉まり、エアコンも止まっている。

 もう一度、キャンバスを凝視した。
 揺れは収まっている。
 気のせいか、と自分に言い聞かせ、再び筆を執った。

 その瞬間、スマホが青白く光る。
 彩からのメッセージだった。



3章 それでもここにいる

 メッセージを送った夜、佳織(かおり)はまだキャンバスの前にいた。
 不意にスマホが光る。彩からの連絡だ。

『ねえ、今度うちに泊まりに来てほしいんだけど』

 読んだ瞬間、筆を持つ手が止まった。
 うちに、泊まりに。
 反芻するように、同じ文字列をなぞる。胸の奥で熱い何かが脈打ち、抑えようとしても止められない。自らの口元が緩んでいくのが、暗い部屋の中でもはっきりと自覚できた。
『明日行く』
 そう一言だけ送信し、再びキャンバスへ目を向ける。
 描きかけの彩の輪郭が、先ほどよりも鮮明に浮かび上がって見えた。
 迷いなく筆を執り直し、そのまま夜明けまで描き続けた。

───

 翌朝、一枚の作品が完成を見た。
 シャワーで身を清め、着物をアレンジした黒い上着に赤い帯を巻く。鏡に映る自分の姿は、悪くない。

 愛車のジープ型軽四に乗り込み、エンジンを始動させた。

 彩の新居を訪れるのは、これが二度目だ。引っ越しの前日、段ボールと布団セットを運び込んだ際、彼女から「力仕事ありがとう、本当に助かった」と感謝された。その言葉だけで、報われた気がしたものだ。

 赤信号で止まるたび、スマホの画面をチェックする。
 しかし、新しいメッセージが届くことはなかった。

───

 インターフォンを鳴らすと、間を置かずドアが開く。

 「来た」彩の言葉に、
 「来たよ」と佳織は短く応じた。

 部屋に上がると、前回よりずっと生活の体裁が整っている。和紙の上に並ぶ食器、閉ざされたクローゼット。そこには確かな暮らしの匂いが漂っていた。
「お茶でいい?」
「うん」
 台所に立つ彩の後ろ姿を、リビングから見つめる。
 充実した再会になる——そう思っていた。だが、彩の横顔を見た瞬間、その予感は霧散する。彼女はひどく、疲弊しているように見えた。目の下には、うっすらと暗い翳が落ちている。
「ちゃんと眠れてる?」
「まあ……」
 彩はお茶を運んできただけで、それ以上は語ろうとしなかった。

───

 夕方、ミモザが顔を出した。

 ドアを開けるなり「おー佳織も来てたんだ」と屈託なく笑い、靴を脱ぎ捨てる。その手には缶ビールの六缶パック。

 「飲も飲も」

 カーペットの上に車座になり、乾杯を交わす。ミモザはビール、彩と佳織はお茶。

 話題は、とりとめもない。ミモザの父親のこと、最近観た映画、彩の職場。佳織は、描き上げたばかりの作品について少しだけ口にしてみた。

 「佳織ってさ」
 ミモザが喉を鳴らしてビールを飲み干す。
 「彼氏いないの?」
 「いないよ」
 佳織の即答に、一瞬の空白が生まれた。ミモザは気に留める風もなく、
「もったいない、高校の時ファンクラブあったんでしょ」と話を継ぐ。

 「あったね」

 「なんで別れたの、みんな」

 「さあ」

 彩は沈黙を守ったまま。佳織も、それ以上は言葉を重ねなかった。

───      

 夜九時を過ぎたころ、ミモザのスマホが鳴り響く。

 「あ、お父さんだ。迎えに来たから帰るわ」

 玄関で見送ると、部屋に不自然な静寂が戻ってきた。

 「シャワー、借りてもいい?」

 佳織の問いに、彩が「どうぞ」と頷く。
 浴室のドアが閉まり、激しい水の音が響き始めた。
 彩はリビングで一人、立ち尽くす。

 台所の時計は、九時半を回ったところ。
 シャワーの音は止まない。佳織がここにいる。今夜は、一人ではない。

 ふと、和室の襖へ意識が向く。今はまだ、何もない。だが深夜になれば、あの「黒いもの」がやってくる。

 佳織の目にも、あれは映るのだろうか。

 ふと気づくと、隣に佳織がいた。
 浴室からはまだ、シャワーの音が聞こえているはず。なのに、佳織がすぐそばにいる。濡れた髪のままタオルを肩にかけ、リビングの入口に佇んでいる。

 彼女は無言で歩み寄ってきた。
 彩が口を開くより早く、佳織の腕が背中に回る。
 抱きしめられていた。

 彩は拒むこともなく、かといって抱き返すこともせず、ただされるがままその体温を受け入れた。

 佳織の髪から、シャンプーの匂いが立ち上る。
 そのとき——シャワーの音が止まった。
 佳織がそっと身体を離す。

 何事もなかったかのように、浴室のドアが開いた。

 ……シャワーの音は、まだ続いていた。
 佳織は、今まさに浴室から出てきたところだ。
 彩は立ちすくむ。リビングには、自分しかいなかった。

───

 やがて本当にシャワーの音が止み、佳織が現れる。
 濡れた髪を拭きながら、「ドライヤー借りていい?」と彼女は言った。

 「洗面所にある」
 「ありがと」
 先ほどのような不可解な出来事は、もう起きない。

───

 就寝前、和室に布団を二枚並べる。
 電気を消すと、佳織が隣に横たわった。暗闇の中、重苦しい沈黙が横たわる。

 佳織が彩の方へ寝返りを打ち、腕を伸ばそうとした——その瞬間。
 背後に、刺すような「何か」を感じた。

 視線というにはあまりに露骨な、異質な存在感。
 佳織は伸ばしかけた腕を止める。

 「……もしかして、ここ、家賃安かったりした?」

 「安くもないし、事故物件でもないよ」

 「じゃあ……あれは何」

 「見えたの?」
 「見えなくても、分かる」

 暗闇の中で、二人の呼気が重なる。


 「だから、呼んだの」



4章 三連敗

 翌朝、佳織は帰る気配を見せなかった。
「しばらくここにいる」
 彼女の宣言に、彩は何も言わず、ただ静かに頷く。

───

 1日目。

 佳織が近くのスーパーで粗塩を買ってきた。
「これでいいの?」
 彩の問いに、佳織は「たぶんね」と短く答える。

 スマホで盛り塩の作り方を検索しながら、小皿に白銀の粒を盛る。きれいな三角形に整えようとするが、指先が触れるたびにさらさらと崩れてしまう。二度の失敗を経て、三度目でようやく形を成した。

「どこに置く?」
「玄関と、和室の入口……あとは窓際かな」
「根拠は?」
「ないよ」

 三箇所に塩を供える。襖の前に置く際、二人の間に流れたのは重い沈黙だった。

 その夜。
 カサカサ。
 耳障りな音が響く。

 佳織が反射的に身体を起こし、和室の隅を凝視した。確かな気配。
 塩は、そこにある。小皿の上で、いびつな三角形を保ったまま。
 状況は、何ひとつ変わっていなかった。

───

 2日目。

 佳織が近所の氏神様を詣で、お札を授かってきた。

 「貼ってもいい?」
 承諾を求める佳織に、彩は「どこに?」と問い返す。

 「鬼門の方角」
 スマホのコンパスアプリを起動し、北東の位置を特定する。和室の壁面にお札をあてがった。画鋲を探したが、あいにく手元にはない。結局、セロハンテープで留めることになった。

 「これで大丈夫かな」
 「たぶん」
 「たぶんばっかりだね」
 「うるさい」
 軽口を叩き合うものの、その目には緊張の色が滲む。

 その夜。
 カサカサ。
 お札は無情にも壁に貼られたままだ。テープの端が、湿気を含んだように少し浮いている。

 あの気配は、和室の隅に居座っていた。昨日と寸分違わぬ場所に。

───

 3日目。

 佳織がお経を唱え始めた。
 般若心経。スマホの画面をなぞりながら、消え入りそうな声で読み上げる。途中で言葉を噛み、最初からやり直した。しかし、また噛む。

「集中して」
 彩が横から声をかけると、

「見ないでよ」と佳織が顔を赤らめた。

 三度、ようやく最後まで通して唱え終える。和室の真ん中に正座し、背筋を伸ばして祈る彼女の横顔は、いつになく真剣そのものだった。

 彩はリビングから、襖の隙間越しにその様子を伺う。
 その必死さが少しおかしくて、口元が微かに緩んだ。

 その夜。
 カサカサ。
 気配は、依然として和室の隅に停滞している。

 佳織が天井を仰ぎ、力なくこぼした。
 「全然、効かない」
 「うん」
 彩も短く同意する。

 しばらく、二人とも言葉を失っていた。
 「ねえ」佳織がぽつりと切り出す。
 「考えてみたら……まだ何もされてなくない?」

 彩は思考を巡らせる。確かにその通りかもしれない。物理的な危害を加えられたわけではない。ただ、覗いてくるだけ。

 ——それでも、怖かった。  何もしてこないからこそ、底知れない恐怖が募る。存在そのものが忌まわしいのだと、この三日間で嫌というほど理解させられた。姿の有無ではなく、そこに「居る」という事実が、視線を向けられているという事実が、彩の精神を削いでいく。

 「悪くはないのかもね」
 彩は自分に言い聞かせるように呟いた。

 「でも、やっぱり怖い」
 「うん」
 佳織も深く頷く。
 「怖いよ」
 それ以上、二人は何も語らなかった。

 和室の隅の気配は、執拗なまでにそこにあった。



5章 ありがとう

 四日目の夜も、あのカサカサという音が響く。
 佳織はもう、身体を起こそうとはしなかった。天井を見つめたまま、ただその音に耳を澄ませている。彩もまた、同じ姿勢で闇に溶けていた。
 しばらくの沈黙ののち、佳織がぽつりとこぼす。

 「塩、効かなかったね」
 「うん」
 「お札も」
 「うん」
 「お経も」
 「うん」
 ふっと、間が空いた。

 「……三連敗だ」
 佳織の言葉に、彩は小さく吹き出す。声には出さないが、肩が微かに揺れた。その振動を察したのか、佳織もつられて笑い始める。暗闇の中、二人だけの乾いた笑い声が重なった。

 カサカサ。
 非情な音が、再び部屋を支配する。

 笑いは、波が引くように静まっていった。
 「ねえ」
 彩が静かに問いかける。
 「絵、また描けてる?」
 佳織はわずかな逡巡のあと、
 「……描いてるよ」と応じた。

 「そう」
 「彩の絵を、描いてた」
 彩は何も答えない。
 「スランプの時も」と、佳織の独白が続く。

 「彩のことだけは描けたんだ。何も生み出せない時期に、唯一の光だったのが彩だった」

 天井に向かって放たれた言葉は、誰に聞かせるでもない祈りのよう。
 「だから余計に、忘れられなかった」     
 彩はしばらく、その言葉の重さを噛みしめる。窓の外では、遠くを走り去る車の走行音がかすかに響いていた。

「ごめん」
 彩が口にした謝罪を、佳織は即座に遮る。
「謝らないで。彩のせいじゃないことくらい、分かってる」
「でも」
「分かってる、って言ってるでしょ」
 少しだけ棘のある声。それを最後に、会話は途切れた。

 カサカサ。
 和室の隅で、異質な気配が動く。


 「……結局、何もされてないね」
 佳織の声は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
 「ただ、そこにいるだけ」
 「うん」
 彩も静かに同意する。
 「佳織も……同じだね」
 佳織が息を呑むのが分かった。

 「除霊も全部失敗して、それでもまだ、ここにいてくれる」
 責める意図など微塵もない。ただ事実として、彩はそう感じたのだ。そして、その執着こそが——今の自分には、たまらなく愛おしい。

 佳織からの返答はなかった。

 彩が、佳織の方へゆっくりと寝返りを打つ。
 網膜が闇に慣れ、佳織の輪郭がぼうっと浮き上がった。
「ありがとう」
 彩が囁く。
 佳織の腕が、吸い寄せられるように彩の背中へ回る。今度は彩も、迷わずにその腕を上げた。


 和室の隅で、またあの音がする。
 カサカサ。
 もはや二人は、それを気に留めることさえしなかった。



6章 二人いる

 深夜、静寂を切り裂く音が響く。
 カサカサ。
 いつもの聞き慣れた音。しかし今夜は、何かが決定的に違っていた。
 音が、重なって聞こえる。

 彩は天井を凝視したまま、隣で眠る佳織の足を軽くつついてみた。
 返事はない。
 もう一度、今度は少し強めに促す。
 やはり、反応はなかった。

佳織は深い眠りの中にいるのか。彩が疑問を抱きつつ横を向くと、暗闇の中で佳織がじっとこちらを見つめていた。

 不意に、目が合う。

 佳織の口元が、緩やかに吊り上がって微笑を形作った。
 起きていたのだと、安堵しかけた彩の思考が止まる。——何かが、おかしい。

 笑い方が、違う。

 それは彩の知る佳織の表情ではなかった。口元だけが歪に笑い、目は微動だにしない。というより、暗がりのせいか、あるはずの「瞳」が見えなかった。

 「佳織……?」
 震える声で呼びかける。

 「なに?」
 あろうことか、背後から答えが返ってきた。

 彩の全身が凍りつく。

 隣に横たわる佳織と、背中越しに響いた声。それは寸分違わぬ、同一人物のもの。

 嫌な汗を流しながら、ゆっくりと振り返る。
 そこには、佳織がいた。
 布団の上に上身を起こし、眠そうな顔でこちらを窺っている。紛れもない、いつもの彼女の顔だ。

 「どしたん」
 佳織が怪訝そうに首を傾げる。

 「変な声出して」
 彩が弾かれたように隣を向いた瞬間——。

 そこには、もう誰もいなかった。
 シーツの皺だけを残し、布団の上はもぬけの殻となっている。

 「ねえ」
 彩の声は、枯れた枝のように掠れていた。

 「今……隣に、誰か……」
 「え?」

 佳織が和室を見回し、ある一点でその視線を止めた。

 部屋の隅。
 あの黒い頭頂部が、そこに存在していた。いつもの場所に、いつものように。だが、異変はそれだけにとどまらない。

 「……多くない?」
 佳織の呟きに、彩は息を呑む。

 隅に、三つ。
 丸く、黒い、頭のてっぺんのような形が、暗がりに三つ並んでいた。ひとつはいつもの特等席に。残りの二つは、それに寄り添うようにして。

 微動だにせず、ただそこに在る。

 「あれ……」
 佳織が何事かを呟きかけた。

 「あなたたち——」
 しかし、言葉は途中で途切れる。

 「何、どうかしたの?」
 彩の問いに対し、佳織はわずかな空白を置いた。

 「……なんでもない」
 そう答える彼女の声は、微かに、そして確実に揺れていた。



エピローグ

 朝、目を覚ますと佳織が台所に立っていた。
 「お腹すいた」
 彼女が振り返る。

 「何か食べるもの、ある?」
 「卵くらいなら」
 「じゃあ、卵焼き作るね」

 迷いのない手つきで冷蔵庫を開ける。人の家とは思えぬ堂々とした振る舞いを、彩は布団の中からぼんやりと眺めていた。
 コンロに火が灯り、卵を割る小気味よい音が響く。
 悪くない朝だ、と彩は思った。

───

 食事を終え、佳織が帰り支度を始める。着物をアレンジした黒い上着を羽織り、鮮やかな赤い帯を締めた。使い込まれた鞄を肩にかける。

 「また来るよ」
 「うん」
 彩の短い返事を聞きながら、玄関で靴を履いていた佳織がふと漏らした。

 「そういえば最近、夜中にキャンバスが鳴るんだよね」
 彩の動きが、ぴたりと止まる。

 「カサカサって」と佳織が続ける。
 「風もないのにさ」
 彩は何も言い返せなかった。

 「彩の絵、ずっと描いてたからかな」
 佳織が冗談めかして笑う。彼女に他意がないことは分かっていた。

 「……呼ばれてたのかもね」
 彩は笑えなかった。

 佳織は親友の強張った表情に気づかぬまま、ドアを開け放つ。五月の瑞々しい光が、玄関に真っ直ぐ差し込んだ。

 「じゃあね」
 ドアが閉まる。
 彩はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

───

 部屋に戻る。そこには、一人分の静寂があるだけ。
 昼間はまだよかった。仕事から帰り、夕飯を済ませ、片付けに追われる。ミモザに送ったメッセージは、一向に既読がつかない。代わりに、佳織へ連絡を入れた。

 『今日、帰ったら静かだった』

 即座に返信が届く。
 『それ、良いのか悪いのか』
 『わかんない』
 少し考えてから送信した。
 佳織からは『笑』とだけ返ってきた。

 風呂を済ませ、和室に布団を敷く。電気を消す前、もはや習慣となった動作で襖の脇を確認した。何もない。部屋の隅を見る。やはり、何もない。  布団に潜り込み、暗闇の中で耳を澄ませる。
 エアコンは消してある。節約のためだ。
 そのまま、しばらく待つ。
 音はしない。
 その夜、カサカサという異音が響くことはなかった。
 彩は久しぶりに、深い眠りの中で朝を迎えた。

───

 同じ夜。

 佳織は自室のアトリエに戻っていた。
 キャンバスの前に座り、完成した彩の絵を見つめる。我ながら、会心の出来だ。スマホを確認すると、彩からのメッセージが届いている。
 無意識に口元が緩んだ。返信を打ち込みながら、ふと違和感に気づく。

 部屋が、静かすぎた。
 アトリエの隅へ視線を投じる。

 暗がりの中に、丸く黒い「それ」があった。
 ひとつではない。
 佳織はわずかに眉を寄せ、しかしすぐにスマホへ視線を戻した。
 彩への返信を送り終える。

 パチン、と電気を消した。

 暗闇の中、気配が立ち上がる。複数の、湿った気配。
 佳織は静かに目を閉じる。
 ——今夜は、彩の夢が見られそうだ。そう確信しながら。


ending song

『The Pastels - Something's Going On』(1984)



あとがき

 怖いものを書こうと思っていたのに、気づいたら愛の話になっていた。 たぶん、最初からそういう話だったのだと思う。

 この作品を書きながら、ずっと考えていたことがある。同性を愛することの、あの独特の純度について。

 世の中には、社会が用意した「正しい道」がある。出会い、付き合い、結婚し、家族を養う。そこには義務があり、責任があり、時として窮屈なほどの正論が積み重なっている。私たちが歩いてきた道は、そうした確かな重みに支えられてきた。

 けれど、この物語の二人が置かれた場所には、そうした既成の筋書きがない。

 用意された道がない分、感情はただの感情として、むき出しのままそこに転がっている。損得も、役割も、世間体も剥ぎ取られた場所に残るのは——ただ、「あなたのそばにいたい」という一点の執着だけだ。

 だからだろうか。女性同士の愛には、他のどんな愛よりも、逃げ場のないピュアなものが宿る気がしてならない。

 佳織が何度除霊に失敗しても、彩のそばを離れなかったように。

 のぞくことと、愛することは、似ている。

 相手の知らないところで、肉体を離れた想いだけが、相手のすべてをじっと見つめている。

 その視線が、夜の襖(ふすま)を叩き、複数の「影」となって部屋の隅に座り込む。それが「不気味な呪い」なのか「至上の愛」なのか——物語を書き終えた今も、私には分からない。

 もし、あなたの寝室の暗がりで、ふいに「カサカサ」と音がしたなら。

 それは恐怖ではなく、誰かのあまりに純粋な、行き場のない祈りなのかもしれない。

 分からないまま、この物語をあなたに手渡したいと思う。


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bonzotake 言葉が何かを残せたなら。そのお気持ちを、次の物語に変えます。書き続けるための灯りを、あなたが分けてくれた——そんな一篇を、いつかお届けできれば。