自宅に3,000人の旅人を泊めると、悟りを開ける?
2007年、当時26歳の私。
会社では、びっくりするほどダメ社員だった。
ちなみにこれは謙遜ではない。
そう。「普段と異なる場所での集合」を連続で3回間違えてしまうほどには、私はポンコツだった。
毎日それなりに必死だったし、誠心誠意馬車馬のように働いていたつもりではある。だが仕事は実績が評価される。私の実績は100名を超える営業系スタッフの中で「最下位」であった。
加えて、報告、連絡、相談。段取り。根回し。空気を読むこと。上司の期待を先回りすること。与えられた役割の中で、きちんと成果を出すこと。それらの能力も著しく低かったと言わざるを得ない。
まさに「最下層サラリーマン」状態。
・・・そんな私の家に、毎晩のように世界中から旅人が来ていた。
仕事で疲れ切って、夜遅くに帰り、ドアを開けると、大抵リビングに知らない外国人がいる。

普通なら事件だ。
だが当時の私にとっては、それが日常だった。
会社ではダメ社員だったが、家に帰ると、私は世界の交差点の宿主だった。
この落差を、当時の私はうまく説明できなかった。
ただ、自分の住居の一部を提供するだけで、相手は驚くほど感謝してくれた。
会社ではうまくやっていけていない私が、家では明らかに誰かの役に立っている。
その感覚は、当時の私にとってかなり大きかったのだと思う。
私がやっていたのは、「カウチサーフィン」というWebサイトを通じて、世界中の旅人に無料で宿を提供する、というものだった。
26歳の頃から始め、29歳になる頃には、泊めてきた旅人達の数は気づけば累計で2,500人ほどになっていた。
だが、当初始めた時はそんな人数を泊めようと思ってはいなかった。
国際交流の拠点を作ろうだとか、旅人を救いたいとか、何か立派な理念があったわけではない。
体感としては、カウチサーフィンに登録すると宿泊リクエストが来て、それにYESと答えた。
また来たのでYESと答えた。
本当にそれだけ、という感覚だった。
最初に泊めたのは、若いオランダ人男性だったと思う。それ以前にも留学生などを家に泊めることはあったので、特に違和感はなかった。

ただ、泊って、話して、出て行く。
そのくらいの感覚だった。
ところが、開始当初からすべてのリクエストにYESと答え続けた二週間後。
私の家の様子が変わった。
ある日、家に3グループ8人の旅人が泊まっていた。
それぞれが、それぞれの会話をしている。誰かはキッチンで何かを作り、誰かは床に座ってパソコンを開き、誰かは初対面同士で旅の話をしている。
私の家なのに、私の知らない会話が同時多発的に起きている。

その光景を見た時、私はどこか他人事のように思った。
「ああ、自分は相当Crazyなことをしているな。」
でも、不思議とやめようとは思わなかった。
なぜ続けているのかと聞かれることは何度もあった。
光熱費もかかる、部屋も散らかる、生活リズムも崩れる、トラブルも起きる。
普通に考えれば、面倒くさいことだらけだ。
それでも、当時の私の答えはいつも曖昧だった。
うーん。
・・・・うーん。
・・・辞める、積極的な理由がない。
本当に、そのくらいの感覚だった。
部屋は、2LDKだった。
広さで言うと、30畳くらいだったと思う。
もちろん、豪邸ではない。東京の普通のマンションである。そこに、世界中から来たバックパッカーたちが入れ代わり立ち代わりやって来た。

ピーク時には、一年で1,000人ほど泊めていた。
記録を見ると、最終的には3,000人ほどを泊めていた。泊数は平均で6日なので、18,000泊分の宿を提供したことになる。
こう書くと、数字が大きすぎて自分でも少し現実感がない。3,000人というのは、ちょっとした学校の全校生徒より多いかもしれない。小さな町の人口くらいあるかもしれない。
多い時には、同時に20人くらいいたと思う。
リビングに人が寝ている。
和室に人が寝ている。
キッチンにも人が寝ている。

・・・キッチンに人が寝ている、というのは、今考えるとかなり意味が分からない。
でも当時は、そういうものだった。
床に寝袋が並び、布団が足りなければ、何かしらの布をかけて寝る。

誰かのバックパックが壁際に積まれ、誰かの靴が玄関に増え、誰かの洗濯物が部屋のどこかに干されている。
朝になると、まだ寝ている人の横で、別の誰かが起きてコーヒーを飲む。
昼のことは良く分からない。
夜になると、仕事から帰ってきた私がそこに混ざる。


なぜか、自分の家なのに、帰宅した私が迎え入れられる側のようになっている。
感覚としては、家というより、ユースホステルであり、学生寮であり、避難所であり、小さな世界の交差点だった。
ただし、きれいな国際交流施設ではなく、もっと人間くさい場所だった。
知らない人同士が、勝手に仲良くなっていることもあった。
私が仕事に行っている間に、初対面だったはずのカウチサーファー同士が一緒に観光に行き、夜にはすっかり友達のようになって帰ってくる。
私の家で出会った人たちが、私の知らないところで関係性を作っていき、自分の知らない内輪ネタが飛び交うようになる。

今、当時の写真を見ると、自分でも少し笑ってしまう。
カオスだ。

よく分からない。

本当によく分からない。

でも、たしかにあれは、私の家だった。
そして同時に、私だけの家ではなかった。
あの頃の私の部屋には、世界が寝ていた。
そこには、感謝もカオスもあった
カウチサーフィンの人間関係は、少し特殊だった。
人間関係が、いきなり感謝から始まる。
“Thank you so much.”
泊めてくれてありがとう。
助かった。
あなたのおかげで東京にいられる。
本当にありがとう。
これは、ある意味でチートだったと思う。
普通、人間関係はゼロから始まる・・・というか、うっすらとした警戒心から始まる。
でもカウチサーフィンは違った。
相手は、最初から少し心を開いている。
それは私がどういう人物であるかは全く問われず、ただ単にそういう構造だったと言わざるをえない。
私はただ床と壁と屋根を提供していただけだったが、旅人にとっては、その一泊がとても大きい。
“Thank you so much, Yuji.”
その言葉を、私は本当にたくさん浴びた。
今思うと、私はその感謝のシャワーを浴び続けることが、自分の人格形成にポジティブな影響を与えているに違いない、という直感を持っていたのだと思う。
当時、そこまで言語化できていたわけではない。
でも、何か良いものを浴びている感覚はあった。
それは、会社でダメ社員だった私にとって、かなり大きな救いだったのかもしれない。
一方で、いわゆるマイナスなこともあった。
泥酔する人もいた。
エレベーターで吐いた人の汚物を私が掃除したこともあった。
9カ月、家に居座った人もいた。
旅人たちが置いていくカンパのお金を生活費のように使っていた人もいた。
ゲイの人に襲われそうになったこともあった。
今書いていても、「なんでそれを許していたんだ」と思わなくもない。
でも当時の私は、案外平気だった。
もちろん、多少は困ったが、強烈な怒りにはあまりならなかった。
お金についても
「まぁ、オレの金じゃないし、好きにしてくれ」
くらいの感覚だった気がする。

9カ月居座った人についても、なぜ追い出さなかったのかと聞かれると、正直、今でもよく分からない。
たぶん、これも同じだった。
追い出す理由がなかった。
いや、普通に考えればありすぎるぐらいだが、当時の私の中では、そこで強く線を引く必要性をあまり感じていなかった。
ただ、最初からそうだったわけではない。
それはある夜の出来事だった。
悟りを開いた夜
ある日、私は夜11時半ごろ、仕事で疲れ切って帰ってきた。
明日も早い。
もう寝たい。
でも家では、みんながパーティーをしている。
笑い声。
話し声。
音楽。
誰かが何かを飲んでいる。
誰かが旅の話をしている。
全体的によく分からないテンションになっている。

私はドアを遠慮がちにあけて、
「ごめん、オレ明日早いから静かにして」
・・・と頼む。すると数分は静かになるが、またうるさくなる。
もう一度注意する。
また数分後にうるさくなる。
普通に考えれば、ここで怒っていいのだと思う。
タダで泊めてもらっているのだから、ホストを慮るのは当然だ。
明日仕事がある人間が寝たいと言っているのだから、静かにするべきだ。
そう考えるのは、かなり自然だと思う。
でも、その時の私は、少し違うことを考えていた。
・・・旅してた時、スペインのユースホステルで寝た時も、周りはめちゃくちゃうるさかったな。でも、その時は普通に寝られた。
なぜ、あの時は寝られたのに、今は寝られないのか?
・・・たぶん、ここを「自分の家」だと思っているからだ。
コントロールできないことに腹が立つ。
だから、眠れない。
ならば、いっそのこと認識を変えればいいのではないか。
そう。例えば・・・
ここは、私の家ではなく、みんなの家だ。
すると、不思議なくらいあっさり眠れた。
その時、私は何か一つ悟ったような気がした。
もちろん、今考えれば、普通にルールを作ればよかったのかもしれないが、私は自分の認識を変える方向に行った。
それが良かったのか悪かったのかは今でも良く分からない。
いずれにしても、この件以来、私の中で「自分の家」という感覚は少し変わった。
これはみんなの家。
そう思えるようになると、いろいろなことが少し楽になった。
個別の人達は、悪意もないし、感謝していないわけでもない。
でも、場がそうなると、人はそうなる。数分前に注意されたことさえ忘れてしまう。
それを見て、私は怒りよりも先に、興味深さを感じていた。
人間って、こういうものなんだ。
たぶん私は、カウチサーフィンを通じて、人間のきれいな部分だけでなく、ある種の本質的な「だらしなさ」的なも見ていたのだと思う。
条件が整えば調子に乗り、場の空気に流され、自分の楽しさが前に出て、人の事情を忘れる。人間は、たぶんそういうものなのだ。
そして不思議なことに、私はそのことに関してあまりネガティブな感情にはならず、むしろ少し安心していたような気さえする。
ああ、人間ってこうだね。これで良いのかも。
言葉にすると、そんな感じだったかもしれない。
私は、世界を家に入れながら“頭”になっていた
当時の私は、そんな自覚はなかった。
でも今振り返ると、あの部屋で私は自分が"頭"、いわば「リーダーになる感覚」を育てていたのだと思う。
グループを引っ張っていくタイプのやつではない。
その場の空気、人間関係、ルール、トラブル、最後の判断を引き受ける人のことだ。
どこまで自由にさせるか、何を注意するか、何を受け流すか。
何を許して、何を許さないか。
そんなことを、毎日のように判断していた。
カウチサーフィンは、ただ人を泊めるだけではない。
人が来るということは、異なった生活リズムが来るということだ。
その人の食べ方、話し方、寝方、距離感、価値観、だらしなさ、優しさ、孤独、自由さまで。
私はかなり適当なホストだったと思う。
ルールも今考えればゆるかった。
よくそれで回っていたな、と思うこともある。
でも、その全ての責任を最終的に引き受けていたのは、やはり私だった。
何かが起きた時、最後に判断するのは私だった。
会社では、私はいつもどこかズレていたが、家では私は全責任を背負い、自分で判断を下していた。
自分の場を持つ感覚。人を迎え入れる感覚。その場で起きる面倒ごとまで含めて、自分が引き受ける感覚。
そして、何かあった時に、まず「自分が」どうするかを考える感覚。
それは、後の自分にかなり大きな影響を与えた気がする。
面白いのは、当時の私はそれを「リーダーシップ」的な何かだとはまったく思っていなかったことだ。
リーダーシップ研修やマネジメントを学んだわけでもない。
ただ、毎日、人が来て、毎日何かが起きた。
今思えば、それはかなり実践的なトレーニングだった。
世界中の価値観や文化が全く異なる人達が集まる。
その中で、場を壊さずに保つ。
そんなことを、私は2LDKの部屋でずっとやっていた。
たぶん私は、あの部屋で、自分の人生に必要な感覚を先に練習していたのだと思う。
私は3,000人を泊めながら、3,000回くらい、自分の場を持つ練習をしていたのかもしれない。
その後駐在時のマネージメントであったり、起業後の代表をやったりするのにも、何らかの良い影響を与えているかもしれない、と今なら思える。
自由な旅人たちは、過去の自分でもあり、失いかけた自分でもあった
カウチサーファーたちは、基本的に自由だった。

もちろん、人によって事情は違う。
長期旅行中の人もいれば、短い休暇で来ている人もいる。
学生もいた。
仕事を辞めて旅をしている人もいた。
次にどこへ行くか、あまり決めていない人もいた。
でも、彼らには共通した空気があった。
自分の心の自由に従って動いている感じ。
それは、会社員として毎日同じ場所で夜遅くまで働いていた当時の私にはとても眩しかった。
ただ、完全に外側から憧れていたわけではない。
私自身も、もともとは旅をしていた側の人間だった。
20歳の頃、私は40か国ほどを回った。
バックパックを背負い、知らない国に行き、知らない街を歩き、知らない人の家に泊まり、よく分からないバスに乗り、よく分からない国境を越えた。
自分でも、かなり自由に動いていたと思う。
だから、カウチサーファーたちは、まったく別世界の人間ではなかった。
むしろ、かつての自分に近い人たち。
予定より、直感を。
効率より、面白さを。
安全な道だけではなく、少し変な道を。
そういう基準で物事を選ぶ人たちだった。
でも当時の私は、もう「旅人」ではなかった。
自由に旅をしていたはずの自分は、今や誰かが作ったルールの中でうまく動けずに苦しんでいた。
彼らは、過去の自分でもあったと同時に、当時の自分が失いかけていたものだったのだ。
仕事では自分の輪郭が削られていく感じがあった。
でも家に帰ると、世界はまだ開いていた。
リビングには東欧の人が、
キッチンには明日アジアのどこかへ行く人がいて、
床には南米を旅してきた人が寝ている。
誰かが「次はインドに行く」と言い、
誰かが「フランスから香港まで自転車で旅をした。次はアラスカからチリの予定だ」と言い、
誰かが「日本の田舎に行きたい」と言う。
そういった会話の中にいると、会社で閉じていた世界がまた少し開いていく気がした。
自分が動けない時期でも、動いている人たちの空気を浴びることができる。
それは、当時の私にとってかなり大きかったのだと思う。
きっと私にとっては、自分の部屋にもう一度「世界」を入れることだった。
もし会社だけが自分の世界だったら、かなり苦しかったと思う。
彼らにとって、私はダメ社員ではなかった。
一つの世界でうまくいかない時、その世界しか持っていないと、自分そのものがダメになったように感じてしまう。
今思えば、私は彼らを通じて、自分の中の世界を広げていたのかもしれない。
一番覚えているのは、派手なパーティーではなく静かな食卓だった
もちろん、派手な思い出はたくさんある。
パーティーもした。

朝まで語った。

小旅行にも行った。

駅でふざけたこともあった。

なぜそうなったのか、今となってはよく分からない写真もたくさん残っている。

私自身も、当時はどこかで「Crazyなことをしている自分」を面白がっていたと思う。武勇伝として語れる嬉しさも、正直あった。
でも、不思議なことに、今でもはっきり覚えているのは、もっと静かな場面だったりする。
ある夜、私は仕事で遅くに帰ってきた。
たぶん、疲れていた。
会社では相変わらずうまくいっていない。
馬車馬のように働いて、夜遅くに家に帰る。
もう頭も体も重い。
その夜は、ほとんどのカウチサーファーはクラブにも出かけていたのだろう。2人ぐらいしかいなかった。
私は、自分の夕飯を用意して、ひとりで食べ始めた。
東京で働く会社員の、よくある夜。
その時、フィンランド人のカウチサーファーが、同じテーブルについてくれた。
彼女は、何かを食べるわけでもなく、会話をするわけでもなく、ただ、同じテーブルに座ってくれた。
それだけだった。
でも私は、そのことをよく覚えている。
たぶん、その瞬間、私は「大事に扱われている」と感じたのだと思う。
ただ、その時、誰かが自分の食卓に同席してくれた。
それだけで、こんなにも人は救われるのかと思った。
きっと彼女の家では、そのように振舞うのが当たり前だったのだろう。私は、彼女の家にそっと感謝した。
東京で働く多くのサラリーマンは、きっと一人で夕飯を食べている。
夜遅くに帰ってきて、コンビニで買ったものをスマホを見ながら食べる。
そういう夜は、たぶん東京中にいくらでもある。
私も会社だけで生きていたら、きっとそうだったと思う。
昨日まで、私の人生に存在していなかった人。明日か明後日には、また別の国や別の街へ行ってしまう人。
その人が、私の遅い夕飯の時間に、ただ同じテーブルについてくれた。
この大きな街の中で、私はそういう空間を持っていた。
それは、とても幸せなことだったのだと思う。
私は旅人たちに寝る場所を提供していた。
でも同時に、彼らも私に何かをくれていた。
人は、人に救われるんだな。
そんなことをぼんやりと考えた夜だった。
今、子どものためにもう一度やりたいと思っている
この生活は、ある時期を境に一度終わった。
理由は良くあるやつだ。
結婚。移住。コロナ。
そして何より、子どもが生まれた。
家はもう、自分だけの実験場ではなくなった。
世界中の旅人を好きなだけ迎え入れる場所ではなく、子どもが眠り、食べ、泣き、笑い、育っていく場所になった。
あの頃のように、リビングに何人も寝袋を並べるわけにはいかない。
キッチンに人が寝ている、などという状態はさすがに無理である。
2026年現在、私には妻と2歳と4歳の子どもがいる。
掃除も必要。
就寝時間も守りたい。
安全面もある。
知らない人を家に入れる以上、昔よりずっと慎重になる必要がある。
だから、もしもう一度やるとしても、昔と同じ形にはならない。
ルールはかなり厳格にするし、泊める人数は1~2人だ。
プロフィールもちゃんと見るし、こちらの事情も全て伝える。
夜は静かにしてもらう。掃除や片付けも、ある程度は明確にお願いする。
昔のように、リクエストにひたすらYESと答え続けることは、もうできない。
それは、少し寂しい気も・・・するのかしら?
不思議な話だが、今では「あまり想像がつかない」というのが正直な感覚だ。
あの頃のカウチサーフィンは、あの頃の自分だからできたものだった。
会社ではダメ社員で、でも家に世界を入れたくて、自由な旅人たちに過去の自分を見ていて、感謝のシャワーを浴びながら、自分の場を持つ感覚を育てていた。
あれは、あの時期の自分に必要なものだったのだと思う。
今度は、自分のためだけではなく、子どものために、もう一度やってもいいかもしれない。
「英語」というくくりではない。
どちらかと言えば、「世界には、いろいろな人がいるということ」。
国籍、言語、肌の色。
話し方、食べ方、笑い方。
距離感、旅の仕方、人生の選び方。
全て違うのに、同じテーブルでご飯を食べることができる。
それを体感として知ってほしい。
一般的に「国際感覚」なのかもしれないが、どちらかと言えばそれは国籍というよりも「異なる人との向き合い方」という枠になるのかもしれない。
自分と違う人が目の前にいても、過剰に緊張しないこと。
違いをすぐに怖がらず、無理に正そうとせず、興味を持てること。
そして、自分とは違う世界に生きている人とも、同じ人間として時間を共有できること。
そういう感覚を、子どもたちにも持っていてほしい。
・・・そんなことを、妻に伝えてみた。
ちなみに
妻はかなり理解を示してくれた。
普通に考えると、かなりぶっ飛んだ話だと思う。
2歳と4歳の子どもがいる家に、世界中から来た知らない旅人を泊める。
普通なら、
「いやいや。何言ってんの?」
で終わるところだ。
でも妻は、かなり理解を示してくれている。
・・・っていうか、
実は、私は妻とこのカウチサーフィンで出会ったのだ。
オーストラリアで人を泊めていた時のことだ。
「カウチサーフィンの結果、自分の人生に起こったこと」というオチとしては出来すぎていて逆につまらないが、現実なので仕方がない。
私はリクエストにYESと答え続け、ドアを開けていた。
すると、「世界」の中から今の妻が現れた。
彼女は笑顔が素敵な魅力的な人だった。

ただ、この話を書くときに、少し面倒くさい部分がある。
私は当時、一応、自分の中で決めていたことがあった。
カウチサーフィンで出会った人は、カウチサーフィン内では口説かない。
・・・こう書くと、とっても紳士的に見えるだろう?
否!
そんな綺麗な話ではない。
もちろん、線引きとして大事にしていたのは本当だ。
ただ一方で、私は聖人君子ではない。
カウチサーフィンの世界には、ホスト側が泊まりに来た女性を口説く人もいた、というか当然のごとくそれは横行していた。
そういう話を聞いたり、そういう空気を見たりすると、正直、私の心の中は一枚岩ではなかった。
「いや、それは違うやろ。フェアじゃない」
と思いつつも
「でも正直、羨ましい・・・」
と思っている自分もいた。
魅力的な人がいて、話していて楽しくて距離が近くなることもある。
下心が芽生えなかったと言えば、それは嘘になる。
カウチサーフィンは、相手が自分の生活圏に入り、感謝から始まる人間関係だった。
そして、この特殊な関係性では、ホスト側が変な万能感を持つのはそこまでハードルが高くない。
・・・そんな感じの危険信号を、どこかで感知しながら日々を過ごしていた。
だから私は、たぶん自分のためにも線を引いていたのだと思う。
相手を守るため、というのもあるが、一度その線を越え始めたら、自分の中の何かがだいぶ面倒くさいことになる気がしていた。
ホストとして、男として、感謝されることに気持ちよくなっている自分。
自由な場を作っているようで、実は自分に都合のいい場にしている状態。
そういうものが、全部混ざってしまう気がした。
だから、カウチサーフィン内では口説かない。
そう決めていた。
まあ、偉そうに言っているが、要するに自分を信用しきっていなかったということだ。
これはちゃんとルールにしておかないと、オレは簡単にやらかす。
そんな感覚だった。
そんなわけで、妻に関しても、妻が自分の家に泊まっている間には口説かず、彼女に帰る場所がある状態の時でだった。
今思うと、何をそんなに律儀にやっているのかという気もする。
いや、律儀というより、ビビっていただけかもしれない。
でも当時の私は、その線をかなり大事にしていた。
そして、その人が今の妻になった。
オーストラリアに住み始めてから、私がカウチサーファーを受け入れる数は減っていき、最終的に日本に戻る頃には累計で3,000人程が私の家に泊まっていった。
カウチサーフィンは、私にいろいろなものをくれた。
世界との接点、自由な人たちの空気、感謝される経験、場を運営する感覚、人間のだらしなさを見る機会。
そして、自分の中の下心や危うさ、羨望、心のモヤモヤを見る機会。
そして、今の家族。
自分でもよく分からないまま続けていたことが、あとから人生の中心になった。
私にとって、カウチサーフィンはそういうものだった。
今、妻と一緒に、子どものためにもう一度ドアを開けるかもしれないと話している。
昔は、自分のために世界を家に入れていた。今度は、家族で世界を迎えることになるのかもしれない。
・・・もっとも、夜中に騒がれたら、今度は厳重注意だ。
そこはもう、「悟り」より家族の睡眠優先で。
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