第5話 『選択肢』
どのくらい、時間が経っただろうか。
窓のない事務所に差し込む光はなく、時計もない。
昼なのか夜なのかも、もう分からなかった、それをか感じる余裕がなかった。
ただ、耳に残るのは「助けて」「振り込み」「事故」という言葉のループ。
俺は今、“社員”と呼ばれている男の隣に座らされていた。
見た目は30代前半、髪は無造作、無精ひげにスウェット。
できれば近づきたくないタイプの人間だ。
目が合わないように視線をそらしていると、
その男は、印だらけの名簿を指でなぞり、受話器を掴んだまま、番号を押しはじめた。
「あ、おばあちゃん? 俺だよ、そうそう…」
見た目とは裏腹の「俺の同級生に居そうな声」に驚いた、さっきまでのイカつい顔が嘘のように、眉毛は下がり、今にも泣きそうな顔で話をする。
受話器の向こうの「おばあちゃん」が見えるようで、俺はそれが嘘であることすら忘れかけた程だった。
電話の向こうのおばあちゃんは、どうやら本当に“孫”と思っているらしい。
“社員”はわざとらしく咳をした。
「うん、風邪ひいちゃってさ…昨日から熱があって…」
淀むことなく流れる会話、電話を掛け、その瞬間「知らない誰か」になりきり騙す…
俺にそれが出来るのだろうか、出来なくちゃいけないんだよな、と無理矢理にでも納得するしかなかった…それが「ここの日常」なんだと理解した時、背筋が凍った。
電話越しに相手の“心”を掴み、信用させ、金を出させる。
それを、この男はまるで“接客業”のように、こなしていた。
「こんな感じよ」
と、「一仕事終えた」男が受話器を置きながら見た目通りの声で俺に言った。
「“慌てさせる”混乱させる“これがポイント、声が違うって言われりゃ、風邪ひいた、具合が悪いとか言えば大抵大丈夫だな、久しぶりに掛かってきた孫とか息子からの電話で喜んでさ、すぐ騙されんだよ、今回も俺の“勝ち”」
さっきまでの強面(こわもて)の顔がクシャッと崩れ、人懐っこい笑顔で俺にアドバイスする、俺は「案外いい人なのかもしれない」と安堵したが、「勝ち」という言葉の違和感を消すことが出来なかった。
そんな様子の俺を気かけることもなく顔を上げ、ニヤリとしながら立ち上がり、
「よし!完全に落ちたわ!300入りました!」
興奮した様子でそう言いながら、奥のデスクに座る“担当”――の方へ振り返って報告する。
“担当”は、伸ばした人差し指を唇に持っていき、面倒くさそうに少し笑いながら小さくうなずいた。
「次、段取り頼むね」
この場に不釣り合いな「優しい口調」で言った、やけにそれが事務所に響いていた。
人ひとりを騙した“成果”が、まるで日常の作業報告のように交わされる。
「完全に落ちた」という言葉が、耳の奥に残って離れなかった。
その言葉を聞いて、わずかに「すごい」と思ってしまった俺の「善意」が「堕ちた」と言われた気がしたのだ。
そんな中、事務所の人間は絶え間なく電話で「誰かを騙そうとしている」――
俺もそんな、許されない集団の一部なんだと、目の前に迫る「選択肢のない選択」を選ぼうとしていた。
