暮らしかた冒険家が、暮らしを整えすぎて見失ったこと
暮らしかた冒険家を名乗って15年が経つ。
東京から、熊本、札幌、岡崎でそれぞれの暮らしかたをつくってきた。
暮らしの中の「どうしてこれが普通なんだろう?」「もっと選択肢はないの?」「こっちの方がいいんじゃない?」「これ幸せ還元度低くない?」という疑問が、わたしにとってのフロンティアだった。
暮らしの中に不満を見つける。
その背景を調べる。
解決策の仮説を立てる。
やってみる。
困る。
また直す。
そんなことを繰り返しながら、3軒の家をつくり、いろいろな暮らしかたをしてきた。
知れば知るほど、やればやるほど、自分の中に知識や技術が溜まっていく。その先に、自分がちゃんと幸せになれる暮らしかたがあるのだと信じていた。そして、最も考え抜いて、お金もかけた3軒目の家で、わたしは過去イチ幸せになる予定だった。
でも、暮らしかた冒険家史上、最も整った家で、わたしは幸せを見失った。
そこからはじまったのは、「幸せはどこで発生するのか」を探す、とても小さく地味な冒険だった。
仕事のことしか考えていなかった自分が
暮らしかたを考えるようになった
そもそも、わたしが「暮らしかた」に興味を持ったのは、東日本大震災のときだった。
福島で爆発した原子力発電所をテレビで見ながら、その電力を使っていたのは東京だったと知った。東京で暮らす自分の快適さが、遠く離れた場所の何かに支えられていたことに、大きな衝撃を受けた。
そして、自分の暮らしが、何によって成り立っているのかを知らない、ということを知った。
それは、きっと電力に限った話ではなかった。食べものも、住まいも、仕事も、家族の形も、わたしたちは知らないうちに、誰かが用意した“ふつう”の上で暮らしている。そんな気がした。
だからあのとき、自分が“ふつう”だと思っていた暮らしかたに、メスを入れたくなった。
「どうして東京一極集中していたんだ?インターネットがあれば働けるんだから、地方に行けばいいだろう?」
SNS黎明期にSNSをゴリゴリと活用した仕事をしまくっていた全盛期に、
そう思って、東京を離れてみるという冒険が始まった。
ローンは怖い。でも、自分にフィットしない家に住み続けるのか?という冒険
東京を離れたわたしは、いきなり明治時代の町屋を借りて、建築ド素人にもかかわらず、盛大なセルフリノベーションを始めた。
東日本大震災の直後、作家の坂口恭平さんが熊本で「ゼロセンター」という一時避難施設を始めた。そのとき初めて立ち寄った熊本が気に入り、わたしは旅の途中に家を借りていたのだ。今思っても、どうかしている。
そもそも「自分にフィットする家」は、賃貸市場には存在しないことはわかっていた。ならば、その原石ならどこかにあるのではないか。
そう思って、熊本市役所の正面玄関に聞きに行った。
「町屋みたいな古くていいから、リノベしてもいい家を借りる方法教えてもらえないですか?」
受付のお姉さんは、想定外の要件に困惑しながらも、「もしかしたら……」と開発景観課に通してくれた。担当者は、まちづくりに理解のある不動産屋さんを紹介してくれた。
そして、その不動産屋さんはこう言った。
「びっくりするくらい手付かずのところでも良いの?本当に汚いんだけど、明日なら見られるかも」と。
その家は、絶望的に荒れていた。



カレンダーは20年前の1991年で止まっていた。近所に住む大家さんが、元々の持ち主の方から買ったばかりの物件だった。使いみちもなく、骨董を買うくらいのノリで買ったばかりのその家を、「梁と柱は切らないでね。水回りはつけてあげる」という条件で、月3万円で借りた。新幹線の熊本駅から徒歩15分だった。
1ヶ月くらい毎日通ってセルフリノベーションしたら、住めるようになるだろう。
そう思って、マンスリーマンションを借りた。リノベーションといえば聞こえはいいが、始まりは解体と掃除である。20年間で積もった汚れはとんでもなかった。

『となりのトトロ』のまっくろくろすけは丸かったが、あの家では床一面に厚さ5cmくらいの黒い埃の層があった。
何かを動かしたり、解体したりするたびに、そのかたまりが自分に降りかかってくる。狭いマンスリーマンションの洗面所の鏡で、自分の顔を見たら、炭鉱にでも行ってきた?と笑えるほど、マスクやメガネを取ると、くっきりと跡が残るくらい顔が黒かった。
「冒険とでも思ってないと、やってられないな」
そのとき、そう思った。それが、「暮らしかた冒険家」と名乗るきっかけになった。



明治、大正、昭和のリフォームの地層を剥がし、なるべくオリジナルに戻す。そして、ひたすらに掃除をする。これでは全然間に合わない!と、リアルでもSNSでも「助けてください」と頻繁に言っていた。
不動産屋さんが見かねて近所の町屋が好きそうな方々に声をかけてくれて、大人数で大掃除をしたり、Twitter(現X)で見て手伝いに来てくれたり、テレビ取材が入ったり。
暮らしという、個人に閉じたものが、町屋再生という難易度の高すぎるものに手を出したばっかりに、他人に、パブリックに、強烈に開いていった。開かざるを得なかった。
あっという間に1ヶ月が経ってしまった。11月だった。
「オリジナルに戻した」と言えば聞こえはいいが、明治時代の建物に現代人が住むのは難易度が高すぎた。壁と屋根の間には8cm程度の隙間があった。
吉田兼好は「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と書いた。たしかに、風通しだけは良かった。問題は、冬だった。
迫り来る冬を前に、鎌倉時代の歴史上の人物に「おい、なんてこと言ってくれたんだ」と心の中で叫んだ。
そして、数百年分の日本の住宅環境の進化を、身をもって思い知った。
ビジュアルだけでは暮らしていけない、という冒険
それでも、1年に及ぶモーレツな掃除とセルフリノベーションの結果、家はジャパニーズモダンでおしゃれになった。後に、西海岸のアメリカ人がAirbnbで1泊数万円で借りてくれるほどだった。








でも、家の中は、外よりも夏は暑く、冬は寒かった。
そして、あまりにも当たり前に享受してきた「住宅性能」という壁に、建築ド素人はぶつかった。
現代では、多くの方が窓の結露に悩まされたことがあると思う。だけど、それは気密性能の賜物でもある。隙間風上等な家では、結露さえ起きないのだ。
建物の様々な穴をふさぎながら、ある日、風呂上がりに窓が結露した。
「結露したー!」
わたしたちは、それをグッドニュースとして喜んだ。結露を喜ぶ人生が来るとは思わなかった。
そんなとき、建築家の竹内昌義さんが、東北のエコハウスの東日本大震災のときの室温グラフをSNSで公開していたのが目に止まった。雪が降っていたのに、数日間でたしか2〜3度しか室温が下がっていなかった。
竹内さんとは以前お仕事でご一緒したご縁もあり、これは見に行くしかない、と2月の雪が降る山形を訪ねた。
山形で、3軒のエコハウスにお邪魔させていただいた。そのうちの1軒に、わが家と同じ薪ストーブのエコハウスがあった。

わが家では、暖房中だけ背中が暖かいそのストーブが、その家では朝晩2回、薪6本くらいで1日中暖かいのだ。薪の使用量が桁違いだった。
こんなに快適なエコがあるのか、とこれまでの人生史上、激しく目から鱗が落ちた。
暮らしは、思想だけでも、センスだけでも続かない。
ちゃんと暖かいこと。
ちゃんと眠れること。
ちゃんと疲れが取れること。
そういう当たり前を軽んじると、暮らしは苦行になる。
お金がいらない自由と、お金で終われる自由?という冒険
自分の暮らしをSNSやメディアを通して開いていった結果、いろんな提案が舞い込んだ。
そのころ、東京と地方でのウェブ制作費の格差はゼロ1個は違うな、と感じていた。そんなとき、農家さんが「野菜一生分とウェブ制作、交換しない?」と声をかけてくれた。
無農薬で手間暇かけて育てた米や野菜を、農家さん自らが持ってきてくれる。東京では手に入らないエピソードとともに、受け取れるのだ。
そこから、工務店の社長とはタイルや照明を、産廃業者さんとは薪を、ウェブ制作と交換した。
貨幣経済の中で生きてきた自分にとって、これはワクワクする経験だった。お金という、生きていく上で最もプレッシャーだったものがいらないのだ。
一方で、多くのことが、お裾分けや物々交換ではなく、お金を介した交換に移行してきた意味も、よくわかった。
お金を払えば、そこで取引が終わる。
お金を介さない交換は、「必ず」もないけれど、「終わり」もないことが多かった。
それは、暮らしにサプライズをもたらし続ける。感情も良くも悪くも忙しい。ありがたい。うれしい。申し訳ない。期待する。がっかりする。
それもまた、冒険からの学びだった。
ローンせずに、おしゃれで性能の高い家に住めないのか?という冒険
ある日、SNSでつながっていた坂本龍一さんから、唐突なメッセージが届いた。
「札幌に住めたりする?」
彼がゲストディレクターを務める札幌国際芸術祭2014に、アーティストとして参加してほしい。熊本での暮らしかたの札幌版をやってほしい。そういう打診だった。
坂本さんは、わたしたちの暮らしをアートとして見てくれていた。
食べ物も家づくりも、人的ネットワークづくりもアーティスティックだ。だから、彼らの暮らしを、みんなで鑑賞するっていうのは、すごくアートだと思う、と。
それは、自分たちが埃まみれになりながらやっていたことに、思ってもみなかった意味が与えられた瞬間だった。
札幌では、おしゃれと住宅性能のハイブリッドの実現に胸を膨らませた。昭和が終わる頃に、うちの両親がハウスメーカーで建てた元実家を借りることにした。





芸術祭の会期中に、来場者とともに暮らしをつくっていくというアートプロジェクト。
フラっとアート作品を見に来た方が、突如として壁紙を剥がすことになったり、断熱材用の羊毛についた汚れを洗ったり、漆喰を塗ることになったり、3時に一緒におやつを食べたり。
トリエンナーレにアートを見に来た人が、気づいたらわたしたちの暮らしの一部になる、という不思議な風景だった。坂本さんが言っていたのは、アーティストは問いをつくる。デザイナーは解決策をつくる。誰かに響く、問いと解決策だったらいいな、と思う。
2014年に内装は壮大なDIWO(Do It With Others)でリノベーションした。2016年には、性能向上(断熱と耐震)リノベーションを地元の工務店さんと協業した。
当時、性能向上リノベーションができる工務店さんは全国に数社しかなく、とてもラッキーな出会いだった。外壁改修を含む工事費は680万円。内装は材料費や薪ストーブの工事費で200〜300万円くらいだった。段階を踏んで、大きな仕事が入ると発注して、という感じで、約2年半かけて、ローンせずに、おしゃれと住宅性能を達成した。






ここでの暮らしかたは、自由で、感情のジェットコースターな毎日だった。だからこそ幸せを感じることは多かった。
でも、この暮らしは、同時に難易度も高かった。
子どもが生まれても、冒険は続けられるのか?
2014年、実はわたしは妊娠中だった。
引っ越しをして、家は工事現場で、ひっきりなしに人が来る。出産当日も、病院に行く前に電気工事の打ち合わせをしていたほどだった。
それでも出産前は、すべてがギリギリセーフだと思っていた。
子どもが生まれてからは、すべてがアウトになった感覚だった。
赤ちゃんはランダムなタイミングで泣く。
授乳と睡眠不足で体力は削られる。
仕事は待ってくれない。なのに終わらない。
収入は不安定。
家は完成していない。
家電は低スペック。
冬は寒い(リノベ前)。
冬は雪がものすごく積もる。
冒険は、自分のことだけ考えればいい時はよかった。
余白があればなんとかなる。
たとえDIY鬱でも、なんとかなった。
でも、余白がなくなると、大爆発した。
フリーランス夫婦の収入も厳しくなった。働きかたや暮らしかたをシフトする局面での摩擦は、あまりにも大きかった。わたしはもう少し、理想と現実の折り合いがつく、破綻しないくらい、の暮らしかたをしたかった。
理想の暮らしは、家族全員の体力と収入と機嫌が噛み合って、初めて続くものだった。
子どもを抱えながら、あの暮らしかたを続ける経済力や度量や技術力は、わたしにはなかった。
わたしは、離婚という選択をした。
ここで、「暮らしかたの難易度を下げる」ということが、わたしの大きな課題になった。
暮らしかたの難易度は、どこまで下げられるのか?という冒険
離婚の2年後、札幌にいながらマッチングアプリで知り合った愛知県のサラリーマンと再婚することになった。
「おもしろいから、菜衣子ちゃんは新築建てたら良いよ!」
彼がそう言った。
おもしろい、という理由で、彼はわたしが避け続けたローンをする気まんまんだった。あんなにもわたしが怯えていたのに、彼にはその心的ハードルが低そうだった。

大企業のサラリーマンというのは、それが“ふつう”なのか。
わたしが必死に冒険していたことは、もしかしたら多くの人にとって、そこまで関係のないことだったのかもしれない。ここでもまた、目から鱗が落ちた。
お言葉に甘えて、建築家の竹内昌義さんと、超絶おしゃれで、暮らしかたの難易度を下げる高断熱住宅をつくることにした。
それまでのリノベーションは、熊本は劇的なマイナスから、札幌もそこそこマイナスから始まった。手を加えれば、良くなるだけだった。1箇所ずつ、現場を見ながら、じっくり考えて、「これだ!」と思えば、工事をしていた。
でも、新築は違った。
ゼロから始まる。
しかも、必ずすごくプラスになると、なぜかわたしが信じきっていた。期待値が高いのだ。
そして、紙ペラの上で、数千万円の行方を判断していかなければならないという難易度も凄まじかった。
図面を見ても、実際のサイズ感はピンと来ない。リアリティのないまま、どんどん決まっていく。よくわからないから、おまかせしたくなる。でも、やっぱりわたしのイメージと違いそうだから口を出したい。けれど、そもそもちゃんと内容を把握できているのか、自信がない。
リノベーションの現場で、指示出ししていた時にはなかった感覚だった。
でも、他の誰かが便利と言った家ではなく、わたしはわたしの暮らしかたのための家が欲しかった。
「わたしは、わたしの暮らしかたのプロなので…」
そう前置きして、建築とは違う角度で、確認やオーダーをした。そうでも言っていなければ、わたしの家ではなく、誰かの家になってしまいそうだった。
そして、今ここで言わなければ家づくりが進んでしまう、というプレッシャーのせいなのか、はたまた夢のマイホームという高揚感のせいなのか、自分の中にこんなにも家への欲望があったのかというほど、欲望があふれ出た。
セルフリノベーションは、現場の制約に合わせて創意工夫する感覚。
新築は、白い紙の上で欲望と現実をこねくり回す感覚。
自分でも3度目の家づくりでこんな感情になるなんて、驚いた。
いろんな葛藤を、建築家チーム、工務店チームと協業しながら乗り越え、わたし史上最強に細部までこだわりがある、おしゃれで、住宅性能もとんでもない家ができた。

あれ、なんか幸せじゃないかもしれない?という想定外
ビジュよし。
性能よし。
家事の仕組み化よし。





わたしはこの家で、過去イチ幸せになれるはずだった。
最初は、新居のすべてが幸せだった。
ほどなくして、第二子を妊娠した。相変わらず家は最高だった。つわりに優しい住環境だった。残暑に生まれた新生児にも優しい家だった。
室温や明るさがコントロールされているからか、産後2ヶ月から、赤子が夜中に起きない奇跡の日々だった。
第一子であんなに苦戦したのは、あの暮らしかたのせいだったのか!ここでは大成功だ。そんな高揚感で幸せだった。
そして、望んだ通り、これまでの暮らしかたの中で、もっとも凪で穏やかなものになった。家だけではなく、家事まわりも最適化していた。
食洗機は大きい。
食器は全部見えるように収納されている。
洗濯はそれぞれのものを分け、家族全員が参加しやすい。
夫婦間の不平等も少ない。
食料品は届く。
ハウスキーパーさんも来てくれる。
暖かい。涼しい。
明るい。
片づけやすい。
揉めにくい。
完璧だった。
家が建って2年、子どもが生まれて1年くらい経ったある日、ふと気がついた。息子が保育園に行き、授乳も終わって、一息ついたころだった。
「あれ、最近、幸せじゃないかも」
何があったわけでもない。
むしろ、何も起こっていなかった。
家は快適だったし、整っていた。

でも、何かが足りなかった。
そして、不幸にならないことと、幸せになることは、地続きにないのでは?
そんな仮説が立った。
そして、「幸せ」ってなんだっけ?と棚卸しをした。
出張前に大量の梅が届いて、徹夜でヘタを取り、全部仕込んだとき。
ずっと「ここにかけるところがあったらいいのにな」と思っていた場所に、フックをつけたとき。
大掃除が終わったとき。
絶望的なありあわせでつくったごはんが美味しかったとき。
欲しかったものが手に入ったとき。
息子の笑い上戸のスイッチが入って、ケタケタ笑っているのを見ているとき。
庭のオリーブの実を見つけたとき。
麻婆豆腐を3日連続で作って上達したとき。
薪ストーブが1発でついたとき。
並べてみて、気がついた。
わたしにとって幸せは、整った状態そのものではなかった。
整った状態が少し乱れた瞬間だったり、ずっと乱れていたものがちょっと整う瞬間だった。
要するに、幸せは継続的な「状態」ではなく、変化だった。
凪ではなく、波だった。
暮らしの中の幸せとは?という観察
暮らしは毎日のことだ。
札幌時代、自給自足の真似事をしようと畑を借りたとき、ものすごくワクワクしたのを覚えている。
でも、その高揚感でさえ、だんだん毎日のことになっていく。種まきの多忙さは、子どもの入学前の準備のような雑務になる。雑草を抜く作業は、掃除機をかけるのと変わらなくなる。新鮮な発見はなくなり、どんどんルーティン化して、作業になってしまう。

それが暮らしの罠なのだ。
暮らしかたの冒険をする中で得た知識、常識、技術、人脈は、わたしを永遠に幸せにしてくれるものだと思っていた。
でも実際には、その都度、わたしを新しい高揚感で幸せにしてくれる。そして、その高揚感が過ぎ去るころ、「不幸にならない」ための保険のようにストックされていく。
高断熱の家も、大きな食洗機も、見える収納も、食料品のお届けも、ハウスキーパーさんも、わたしをちょっとの期間幸せにしてくれた。
でもいつしか、それらは、不幸を減らしてくれる担当にシフトする。
寒い、暑い、片づかない、動線が悪い、家事が偏る、揉める、疲れる、憂鬱になる。そういう日々のマイナスは、確実に減らしてくれる。そして暮らしの質は確実に上がる。
でも、不幸の発生を防ぐことと、幸せが発生することは、同じではない。
だからやっぱり「幸せ」を感じなくなる。
暮らしの中に幸せをつくるには?という試行錯誤
子どもがいる。
仕事がある。
家族がいる。
体力も時間も、予算配分も昔とは違う。
でも、冒険がなくていいわけではなかった。
もう、何も知らない無謀さゆえのドラマティックな暮らしかたはできない。明治時代の町屋を借りて、顔を真っ黒にしながら掃除をするような冒険を、今のわたしは絶対しない。
そして、言うまでもなく、
これを読んでいらっしゃる冒険家ではないみなさんも、
町屋を借りなくてもいい。
天井を壊さなくてもいい。
羊毛を洗わなくてもいい。
家を建てなくてもいい。
切実に思う。
ではどうすればいいのか?
暮らしかたに、豊かな波風を少し立てるイメージ。
最近は、整えた暮らしを、わざわざ少し乱す。
そして、また整える。
そんなことの繰り返しがベストバランスなんじゃないかと思っている。
忙しい毎日の中で、正気の沙汰ではない、かもしれない。
でも、わたしは効率のために生きているわけではない。
幸せになるために生きているのだ。
ぎゃー!、とか、ひー!、とか言いながらでも、幸せを感じていたいのだ。
具体的には、
暮らしの中で「これが"ふつう"だから」と飲み込んでいる小さな不満を、
ひとつだけ引っ張り出してみる。
「どうしてこれが普通なんだろう?」
「もっと選択肢はないの?」
「こっちの方がいいんじゃない?」
「これ幸せ還元度低くない?」
仕事や社会の尺度では測れないことを、暮らしという別の場所で自分に聞きながら、整った毎日に小さな冒険を混ぜるイメージだ。
暮らしかたの面白さは、尺度がなんでもいいところにある。
わたしはわたしのモノサシをつくっていいんだ。
手軽なことでいい。たとえば、
フックをつける。
そうすると、床が綺麗になったり、家事導線がちょっと良くなる。
どんなフックをつけようかな、ってリサーチしてる時からワクワクするんだ。
梅を仕込む。
SNSで舞い込む「誰かいりませんか?」というお誘いに、手を上げてみる。
氷砂糖を入れてシロップに。塩を入れて梅干しに。
変化する瓶の中を、1日2度くらい眺めて、傾けたりする。
カビが生えないかとハラハラする。
ハウスキーパーさんが掃除してくれた家をさらに掃除する。
実質大掃除だ。
マイナスをゼロにするよりも、ゼロからプラスにしていくような優越感があるのだ。
やらなくていいのに、やる。
そこにはいつもの家事と違って、自分のやりたい気持ちと、短時間で発生する超達成感が。
家に人を呼ぶ。
ちょっと片付けて、ごはんを妄想して、ちょっといい器を出して。
いつもの暮らしの可動域がちょっと広がる感じがなんか良い。
一つの料理を短期間に頻繁につくる。
今は春巻きにハマっている。
同じものを短い期間につくりまくって、試行錯誤して上達していく感じ、が好き。
家族であぁだ、こうだ、言いながら、ワイワイする。
ちなみにこの探究文化は、息子たちの遊び方にも良い影響してる気がしてて、それにもアガる。
作り慣れていれば、友達がきた時にすぐつくれる。いつもより濃い時間を過ごせる。
小さな農家さんから2週間に1回 野菜を直接買う。
案外、野菜の旬は短い。物によっては、1年に1回しか買えないこともある。
去年おいしかったレア野菜が、今年も届くとニヤリ、としたりする。
実はこの小さな不安定は、わたしにとっては気持ちが盛り上がるところだったりする。
食品の宅配だと、全国のいくつかの農家さんと契約していることが多いので旬がわかりにくかったりする。
わたしの幸せは、案外、こんなもので回復した。
暮らしかた冒険家が、暮らしを整えすぎたら、幸せを見失った。
だから、幸せに向き合った。
暮らしの中に「いつも気になる弱点」「季節的なできごと」「小さくて過剰な探究」がちょっとあるとちょうどいい。目につくたび妄想が膨らんで、自動的に感情に波風が立つから。
だから今、わたしは、自覚的に、暮らしの中に冒険を取り込んでいる。
豊かな波風を立てるようにしている。
時間があってもなくても。
お金があってもなくても。
技術があってもなくても。
どんな状況からでも。
どうしてこれが普通なんだろう?
もっと選択肢はないの?
こっちの方がいいんじゃない?
これ幸せ還元度低くない?
なんていう、ちょっと心に引っかかるモヤモヤも解消しながら
暮らしかたを冒険してみる。
そんな小さなたくさんの冒険心が、
ひとりひとりの人生を、
みんなの社会を、
ちょっと明るく豊かにしていくんじゃないか、
そんなことを大袈裟に思っている。
