「やらされている」意識から「自分で選ぶ感覚」を取り戻す。伝統芸能の世界に学ぶ、心と身体の整え方
忙しさのあまり、考えることをやめていたら、現実はどうなる?
みんな大なり小なり、いろんな体験をしています。良いこともあれば、ツイていないこともあり、どちらも永遠に続くわけではありません。
noteを書いている方々の記事を読んで、よりそのことを感じています。
私自身も26歳の障がい児の出産から45歳まで、途中で笑ってしまうくらい、様々な出来事に遭遇してきました。
今は、「人間だからあるあるだよね」と、フラットに受け止められるようになっています。
しかし、かつての自分を思い返すと、ある決定的な課題がありました。 それは、自分で選んでいるはずなのに、どこか「やらされている感」で生きていたことです。

外側の意識に強く引っ張られ、自分の人生なのに誰かのせいにしている状態。 考えているフリをして、実はその場の雰囲気で選択してきた結果が、当時の私の現実を作っていました。
今回は、この「やらされている感」の正体について、過酷な宿命を背負う伝統芸能の世界を例に深掘りしてみたいと思います。
「やらされている」感覚がもたらす3つのデメリット
「やらされている」という意識は、私たちの心身に静かに、しかし確実にダメージを与えます。
1.本来の力が発揮されにくいこと
アスリートを例に見ると、期待されながら本番で想定外の結果に終わる選手には、どこか「やらされている感」が漂っていることがあります。無意識の緊張が、パフォーマンスを縛ってしまうのです。
2.長く維持ができない(肉体が悲鳴を上げる)こと
過去を振り返ってみると、伝統芸能の世界では、50代で難病を患う方が少なくありません。(勘九郎さん、團十郎さん、八十助さん…)
現在の市川團十郎さん(当時は海老蔵)が、「3歳でやるかやらないかを決めなきゃいけなかった。そのとき『やらない』とは言えなかった」と語っていました。
パフォーマンスが高くても、心が「やらされている」状態であれば、肉体がついていかなくなる。続けること自体が、命を削る作業になっています。
3.簡単には抜けられない構造があること
「期待に応える」「役割を果たす」ことに適応しすぎた人ほど、自分の本心がわからなくなります。
「やめたい」という感覚さえ失い、どこまでも自分を追い込んでしまう危険があります。
狂言師の野村萬斎さんが、我が子に稽古をつける自分を「サイボーグを作ってしまった」と涙ながらに語った言葉には、その構造の残酷さと深さが凝縮されています。

「自分で選ぶ感覚」を少しずつ取り戻す方法
この「やらされている感」から抜け出すために、大事なのは「いきなり大きく変えようとしない」ことです。
仕事を辞めるとか、環境を一気に変えるといった極端なことではなく、日常の小さな選択を積み重ねていることから始まります。
今日はこれをやる/やらない
今は休む/続ける
本当はどうしたいか、一度立ち止まって考える
私自身、45歳まで違和感をスルーし続けてきましたが、その後10年かけて取り戻していったのは「今、何を食べたい?」という自分への問いかけからでした。 「それを食べた後の自分は満足しているか?」まで想像して選ぶ。
そんな些細な習慣を10年続けた結果、動悸は減り、浮腫(むく)みもほとんどなくなり、体力もつきました。更年期の不調もほとんど感じることなく過ごせています。
視点を「ズラす」という生存戦略
もうひとつ大切なのは、“選択肢がそれしかない状態”をつくらないことです。 ひとつのことに縛られすぎると視野が狭くなり、逃げ場がなくなります。
野村萬斎さんも、狂言の世界にいながらイギリス留学や現代劇、映像作品など、狂言以外の表現に積極的に関わっています。
“狂言以外の自分”を持つことで、心のバランスを保っている。
あえて「ズラす」場を持つことが、ストレスから心を守るクッションになります。

「やめること」は、選び直すためのプロセス
最後に、「やめること」への捉え方についても提案させてください。
「決めたことは最後まで」という価値観は立派ですが、一度やめることで初めて「それが本当に自分に必要なのか」が見えてくることがあります。
私の二女は、10代でやめたドラムを28歳で再開しました。誰に言われたわけでもなく、ただ「楽しいから」。
一度やめたら終わり、ではないのです。
F1の角田裕毅選手も、リザーブドライバー(控え)を経験したことで、改めて走ることへの想いや大切なことに気づいたといいます。
一度手放してみて、それでも自分に必要なものなら、また戻ってくればいい。
そのとき初めて、私たちは「やらされている」から「自分で選んだ」という実感へと、人生をアップデートできるのだと思います。
【関連記事】
いいなと思ったら応援しよう!
意識とパフォーマンスの関係を可視化しています!