見出し画像

絶望の境界線

絶望の境界線──僕にとってそれは、午前0時を過ぎることだった。

ブラック企業に勤めていたあの頃、毎月130時間を超える残業、毎日5時間残業、土曜も出勤。日曜日は、疲れて半日は寝ている。

家に帰り、ご飯を食べ、お風呂に入り、時計を見ればもう午前0時を過ぎている。

明日の出勤時間を考えると、睡眠は5時間どころか削れる一方だ。

慢性的な睡眠不足だったのに、それでも、寝るのが嫌で嫌でしょうがなかった。


寝たら、明日になってしまうから。


当時の僕にとって、寝る前のわずかな時間だけが唯一、自分らしくいられる時間だった。

その時間さえ、過剰な残業で削られていく。

食べて、寝て、働く──食べて、寝て、働く──その繰り返しに、自分が消えていく気がした。


残業の原因が監査で引っかかって出荷停止処分になった是正と、新人が全く定着しないことだった。


新人を一から育てる。右も左もわからない状態から、少しずつできることを増やして、ようやく基礎が固まってきた。

「ああ、少し楽になるかもしれない」──そう思った矢先に、その新人は別の忙しい部署に引き抜かれていく。


またゼロから、またド素人から。

積み上げた経験もノウハウも「レベルリセット」されてしまう。

この徒労感を、僕は悩みとして共有したかった。


飲み会の時、悩みはないかという話の流れになったので僕は正直に相談した。


でも返ってきたのは「ゲーム脳やな」という一言。例え話の、本筋とは関係ない部分を切り取って。

「最近の若者はゲームと現実を混同している」みたいな流れになった記憶がある。

絶望は「労働の仕組み」だけでなく、「悩みすら理解されないこと」にも潜んでいた。


僕はただ、誰かに一言辛かったね、大変だったねって言って欲しかっただけなのに。



朝出勤して、大声で悪口が聞こえてくる『あいつ使えないな』『あいつはラクしてる』とか、自分の待遇に対する不満を大声で垂れ流している。今日も気分が下がる。


よし、今日も1日頑張ろう、という気持ちで働けない。


正直に言うと、職場で大声で悪口を言う人たちのことを、僕は内心さげすんでいた。

「よくそんな態度を表に出せるな」と思っていた。


けれど、そこで思い出したのは高校時代の先生の言葉だった。芥川龍之介『羅生門』で、下人が老婆を蔑む態度をとった場面の解説で──


> 「人を愚かだと心の中で思うことはある。そこまではしょうがない。でも、それを態度に出すか出さないかで、人の価値は決まると俺は思ってる」

その言葉を聞いて、いたく感激したのを覚えている。僕も価値のある側の人間になりたい。そう思って社会に出た。


その言葉を胸に刻んでいたはずの僕は、程度の差はあれど、愚痴や不満を態度に出していた僕もまた、この人たちと何が違うのだろう。

「ひょっとしたら僕は価値のない側の人間なんじゃないか」──そう思ってしまったあの頃の自分を、僕はいまも忘れられない。

 

朝礼が始まった。上からのお達しで残業時間140時間が超えるなと言われたらしい。ただしゴールデンウィーク出勤しないと納期に間に合わないから平常出勤に切り替える。その代わりお盆休みが増える。と一方的に決定事項として伝えられた。


うちの会社は朝礼後残業時間を口頭で申請するみんな『5時間』と申請する中『3時間』と申請した同僚が『それで間に合うの?』と詰められていた。僕も体調が悪くて『3時間』と申請したら『用事あるの?』と言われた。


昼頃、同僚が過労で救急車搬送された。(後から知ったが副業でコンビニバイトしていたらしい)上役の人達は『えっもう!?』『まだ大丈夫なはずだ』と心配すらしていなかった。


ある日監査があった。仕事前にもしも監査中に失敗したらどう対処すればいいか確認したら『失敗するな!!お前が失敗したら会社が潰れて従業員全員路頭に迷うぞ。そういう意識で仕事しろ!!』と言われただけだった。


心が壊れる音がした。伝わるかわからないけどパトカーのサイレンが鳴ると何も悪いことしてないのにドキドキする。常にその感じだった。


もう限界だった。月のはじめに今月末で辞めると伝えたら班長に『こんなに前もって辞めるって言われたのはじめてだから混乱してる』って言われた。突然行方不明みたいに辞める人ばかりだったから。


辞めてから、1か月ほど食っちゃ寝生活を続けていたら、気づけば10kg太っていた。そして急に頭がクリアになった。

そのとき初めて、あの頃の自分が常にサイレンに怯えるような不安の中で生きていたのだとわかった。


今にして思えば、あの時仕事を辞めたこと自体が、僕にとっての人生のキャリアの分岐点だったと思う。


今はあの職場を離れているけれど、時々ふとした拍子に胸がざわつくことがある。


昔の嫌な記憶って、忘れたつもりでも体に残っていて、思い出すたびに苛立ちがこみ上げる。


あの頃の絶望は、もう過去のものだ。けれど──




僕の中では、今も完全には消えていない。






いいなと思ったら応援しよう!